ピィィ―――
高い鳴き声が響き、銀色の髪の女は木々の隙間から空を見上げた。視線の先から舞い降りる一つの影を認め、ほんの少しだけ目元を弛める。
「ん……アイツか」
差し伸べた腕に、橙色の丸々とした鳥が愛らしい見た目にそぐわない鋭い爪と握力で掴みかかる。小手の上なので痛みは無い。ククウ、と喉を鳴らして、アヤメの頬に頭を擦り付けることで、フクズクは親愛と恭順を示した。
「連れてきていいよ」
賢い猛禽は、掛けられた言葉を理解した。首を伸び縮みさせながら主人のいる方角を見つめ、足踏みして身体をぐっと沈める。アヤメがタイミングを合わせて腕を跳ね上げた、その力も利用して力強く飛び立ち、一度も羽音を立てないままあっという間に見えなくなった。
「なんだありゃ」
額に手を翳して飛ぶ影を見送り、大剣使いの男が怪訝そうに呟いた。その隣に立つ彼の妻も夫と同じ顔をしていたが、ふとアヤメの方を顧みて、意外そうに眉を上げた。銀髪の軽弩使いは、これまでに見た事がないほど柔らかい表情をしていたのだ。
「知り合いのペットだよ。合流するから、先に帰ってて」
「あらあ、もしかして、恋人ですか?」
「そんなんじゃない。後輩」
「こんな僻地までわざわざ?熱烈だな?」
「馬鹿」
「ハハ。お疲れ」
「お疲れ」
「またご一緒しましょ」
「うん」
軽く手を振り合って別れる。人口密度が低くハンターの数も少ないこの地でしばらく過ごせば、否応無く同業の殆どと顔見知りになる。さらに絶対数が少ない以上、相対的に上位以上のハンターの人数も絞られる。自然、組む相手は限られるというもので、夫婦がアヤメと同行するのはもうこれで五度目だ。気心も随分知れていて、多少の軽口も叩ける仲だった。
「さて、待つか」
一人になったアヤメは手頃な岩陰に武器を下ろし、ハンターノートに書き込みをしたり、装備の点検をしたりして時間を潰し始めた。やることが無くなるまでには来るだろう。あの子のフクズクは優秀だ。
年若い娘が、年長の同性に強い憧れを抱くのは良くあることだ。アヤメはその外見と面倒見の良さ故に、2、3度似たようなことを経験していた。故郷で出会った後輩が自分に向ける憧憬も、それに類するものだと思ったから、もう二度と会わない自分のことなどさっさと思い出に変えてしまって、あの里で幸せに暮らすだろうと考えていた。
だから『アタシがアンタに同じ気持ちを返すことはないよ』と告げて故郷を出たのだが、……今となっては、その選択が正しかったのか疑問に思う。秘めた想いがアヤメ本人にバレていた事を知り、離別を経て開き直ったらしい後輩は、オトモ達やフクズクの協力を得てアヤメの居場所を突き止め、会いにくるようになってしまった。
アヤメは初めのうち、彼女を諦めさせようと試みた。危険な道中を無理やり駆け抜けてくる彼女自身の身も心配であるし、恐らくは英雄の開けた穴を埋めるために里の面々にも負担がかかっているだろう。
しかしながら後輩は「1日だけでいいの、明日には戻るから」と殊勝に懇願するし、また強行軍で疲れ果てた彼女をすぐさま送り出すのも忍びない。しかも初回などはアヤメの姿を認めるなり安心してしまい、その場でポメ化してノビてしまったのだ。それ以来もポメ化したりしなかったり、勝率は五分五分と言ったところ。流石に仔犬姿の後輩を送り返すわけにもいかず、つい世話を焼いてしまう。そうこうしているうちにいつの間にか、ズルズルと年に1日だけの邂逅を受け入れてしまっていた。
そうやって、アヤメの側から絶ったつもりの繋がりを、意思と体力でもって強引に結び直した恋する後輩は、いつ会っても終始嬉し気に尻尾を振りたくるので、ならばそれで良いかとアヤメはいつしか諦めた。
職業柄、お互い明日をも知れぬ命。いつか訪れる永別の時に、強引で一途で、少しだけ甘え上手になった後輩が後悔しないのならば、少しくらいは付き合ってやろうと。
里の皆に対しては少々申し訳ないが、里に戻ることは考えなかった。この身が動く限りは、ハンターとして自由に生きたい。己の腕一本でどこでも身を立てていけるという自信と矜持は、己の根幹を成すもののひとつだった。
恐らくは、後輩もそうだろう。こうして会う度に晴れやかに、彼女らしい表情をするようになっていった。
その時々のアヤメの居所まで最短距離で移動しようとすれば、ある時は灼熱と極寒の砂漠を突っ切り、ある時は切り立った崖を飛び越え、そして大型モンスターの生息域を駆け抜けなければならない。たったひとり、自身の技術と才覚を限界まで行使して敢行する旅は、彼女を肉体的にも精神的にも大きく成長させたのだ。自信に溢れ揺るぎなく立つ姿は、アヤメからしても好ましいものだった。
あの穏やかな里から他に移る気はないと彼女は言う。育てられた恩を返したい、皆の期待に応えたいと。恩など風神・雷神龍を倒した時点でとうに返し終わっているのではとアヤメは思うのだが、後輩の生き方、他人の人生に口出しする気はない。
しかし、少しばかり勿体無いとも思うのだ。あのこまっしゃくれた英雄には、広い世界の風が似合う。自分に会うという理由の元に彼女がそれを感じられるなら。そういう考えもあるから、突き放し切れないのかもしれない。
アヤメの言に従って先に山を降り始めたハンターの夫婦は、やがて木々を透かした先に走り抜ける蒼い影を見る。こちらには見向きもせず、何やら光る糸を使って一心不乱に駆ける影を。
「あら、女の子でしたね」
「じゃあ恋人ってのはないか」
「そう?ただの後輩に向ける表情じゃあなかったように思いますけど」
「そうか?」
「こういうことには、女の方が鋭いものです」
「そうか。ならそうかもな」
連れ合いが得意気に笑うので、男もつられて微笑んだ。それで、妻もますます笑みを深める。
「ええ。それに、先程のお嬢さんも、とっても嬉しそうに笑ってらして。……それにしてもすごい速さでしたね。まるで――」
『主人を見つけた忠犬のように』、彼女は勢いよくすっ飛んできた。……この比喩も、前半はともかく後半部分はあながち間違いではない、というのが実に愉快である。
「アヤメさーーーん!!」
翔蟲による翔駆けを織り交ぜて木々の間をすり抜け、みるみる近づいてくる後輩。満面の笑みを浮かべている。
「来たな」
アヤメも微笑んで立ち上がる。
会わない間の物理的・時間的・精神的距離を全て踏み越えて、後輩はアヤメに手を伸ばし、アヤメはそれを受け止めた。
「アハハ!久しぶりアヤメさん、髪切ったの?似合う!」
「うっかり焦がしてね。今回は耐えたんだ?」
「なんとかね!」
誇らしげにポメ化を免れたことに胸を張るが、アヤメが見る限り、今回も危なそうだ。
翔蟲での空中移動と持ち前の健脚と、気合と根性でもって強行軍を乗り越えてきただろう後輩は、控えめに言ってもボロ雑巾といって差し支えない有様だった。さっさと休ませないと、またいつかのように彼女の装備を抱えて歩いた後、荷物を取りに往復する羽目になるだろう。狩猟が終わったその直後にそんなのはごめんだ。
「宿は?」
「まだ。アヤメさんはどこに泊まってるの?」
「空き家を借りてるよ。泊まる?」
軽く言うと、後輩は複雑な笑い方をした。眉尻は困ったように下げている癖に、唇は挑戦的に歪めて見せたのだ。
「……泊めて、私に何かされるかもとか思わないの?アヤメさん」
「思わない。アタシに嫌われる勇気ないだろ」
「ないけど。……ずるいんだから」
精一杯の挑発を鼻で笑われ、仔犬は尾をしなだれた。お互い半分本気・半分冗談の掛け合いだ。
里にいる間はあれほど遠慮していた癖に、正面から振られて逆に居直ったらしい後輩は、一歩踏み込んだ物言いをするようになった。全て跳ねつけられては不貞腐れているのだが。今のように。
「何よもう。ふんだ、アヤメさんの美人。上位ハンター。凄腕ライトボウガン使い」
「何か欲しいものある?」
「お腹すいたわ」
「先輩が奢ってやろう」
「やった」
連れ立って坂道を下る。後輩が聞かせる故郷の話題にアヤメがつい笑うと、泣き黒子の上に細かな皺が寄った。それを指摘して「貫禄出てきたわね」と笑う後輩もまた、到底少女とは形容出来ない年齢となった。初めて会った時にはまだ幼さすらその顔に残っていたというのに、存外に長い付き合いとなったものだ。
「ねえアヤメさん」
「ん?」
「また会えて嬉しい。大好きよ」
「そう」
「明日、頭撫でてくれる?」
「いいよ」
その思いに正面から応えてやることはまだ出来ないが、たまに頭を撫でてやるくらいなら。それくらいはしてやってもいいかと、先輩ハンターはまた微笑んだ。