マイハン♀が母親の夢を見る話 夢を見ている。
知らない場所だけれど、妙に居心地が良い。花と、柳と、綺麗なせせらぎ。水は透き通って、影をよく映す。
「ああ、……私の――。立派になったねぇ。会いたかった」
都合の良い、夢を見ている。
川面に映る女の人は、背を向けて笑う。長い黒髪が柔らかな風に靡く。
会うのは初めてだ。ずっと会いたかった。
「でも、今はお帰り。また会えるから」
風が強まる。柳が暴れる。花が散って花弁が舞う。その狭間から、一瞬だけ見えた、振り返って笑んだその瞳の色――
「……ああ、起きたかニャ」
「せんせい」
水車小屋の、奥で布団に寝かされている。喉がカラカラだ。
私の意識が戻ったのに気付いた先生が吸口を当ててくれたので、半ば無意識でそれを吸った。甘く、香り高い。桃の果汁の薄めたものだ。
「お前さん、狩りから帰ってきてぶっ倒れたのニャ。覚えとるニャ?」
「……うん。膿んでる?」
身体が嫌な熱を持っていた。腕の傷の手当てが甘かったかと、ぼんやり記憶を辿る。水没林での狩りは、これがあるから嫌いなのだ。濁った水から良くないものが傷口に入り込みやすいのだ。
「それもあるが、プケプケの毒を分解しきれとらん。発熱の原因は主にそっちニャ」
「あちゃ」
毒にも種類がある、種類があれば相性もある。傷から侵入されるか、吸い込んで呼吸器や消化器官に作用するかでも違う。私の身体はリオレイア達の尾毒には強いが、プケプケの毒は苦手としていた。狩猟が終わってから胃を洗って解毒剤を飲んだのだが、洗浄が足りなかったのかそれとも遅かったのか。
意識が戻ったならこっち、と丸薬を渡され、顔を顰める。水薬である解毒薬よりも味が悪いから嫌いなのだが、消耗した体力を補充しなければならないのは分かっているので、大人しく受け取った。急いで摂取する必要のある狩場と違い、それほど噛み砕かず水で流し込める分、少しだけマシだ。
「少しでも早く胃の腑の中で溶けるように、良く噛んで飲むのニャぞ」
「……やだあー」
じたばた抗議する(本気ではない)と、身体のあちこちが痛んだ。その上、やわかい肉球でもって頭をはたかれる。やれやれと見下ろす大きな瞳は、いつもより少し翳っていた。
ゼンチ先生の態度からするに、どうやら私はちょっと危うかったらしい。妙に楽しいのはそれでか。
「ねえ、私やばかった?」
「やばかったニャ。大人しく薬を飲んで寝とれ」
ふと脳裏に、美しい光景が蘇った。
「やっぱり? お母さんの夢見てたのよね」
「……」
下ろした簾をくぐりかけていた先生が、踵を返して寄ってきて、ぽむ、と肉球が額に乗った。熱を測られ脈を取られ、無言で瞳を覗き込まれて口を開けさせられ喉を診られる。
「アハハ、そんなことしなくてもあるわよ熱。結構高い」
「分かっとるニャ」
「心配しないでよ。ここまできたら治るわ、ちゃんとお薬も噛んで飲むわよ」
「ワシが心配しとるのは頭の方ニャ。高熱に浮かされて、中身が駄目になる例もある。お前さんは元々が浮かれ気味であることニャし」
意識レベルを確かめるためか、いくつか質問されるのに答えていく。最後の質問には「お前さんの真名は」ときた。私を産むと同時にお母さんは亡くなったので、私の名付け親は出産に立ち会った産婆さんとゼンチ先生だった。その二人と里長、そして私自身しか知らない名前を答えることで、ようやく先生は安心したようだった。
「肝が冷えるニャア」
「大丈夫だったら。……ねえゼンチ先生、お母さんの瞳の色って、私より濃かったんでしょう」
お母さんの生前を知る人々から話を聞くことはあったが、私には、それを確かめることができなかった。照れ屋で引っ込み思案だったという彼女は写真機を怖がったらしくて、写った写真は本当に少ない。私の手元にすら一枚しかない。その上、その頃の写真機は色を写しとることができなかったので、瞳の色など実際に見たことはなかった。あの夢までは。
「……確かに、ミズホの瞳はお前さんより強い橙色だった。弱気で恥ずかしがりのあの子が、たまに自己主張する時にはいつもあの眼が、辺りに火を点けるかと思うほど強く光ってニャア。お前さんを産むと決めた時もそうだった」
「うん」
バリボリと漢方薬を噛み砕きながら相槌を打つ。口の中が苦味とえぐみで一杯になったところで、ふわふわの手によって吸口が差し出された。吸い込んだ液体のほのかな甘味で、心も少し軽くなる。
「見たのかニャ」
「たぶんね。ちょっとだけ。……『また会えるから今はお帰り』って言われて、帰ってきたの」
「はあ……。口調も似とるニャア」
また肉球が額に当てられる。それは熱を測るのではなく、私の頭をぽふぽふと優しく撫でる。
「……なんでもいいの、夢でも幻でも。いつか胸張って会いに行くわ。それまで、ちゃんとやるから」
自分の中の脆い部分が崩れそうで、私は意識して口角を上げてみせた。でもたぶん、ゼンチ先生にはお見通しだろう。長い付き合いだ。
「うむ。……まずは、とっとと寝て身体を治すことニャ」
先生はとっとと立ち上がって、くるりと背を向ける。熱い塊が私の胸を塞ぐのも、それがせり上がって目蓋の隙間をすり抜けるのも、全部見なかったことにして。
「うん……。ありがと、先生」
ゼンチ先生は、ひらんと尾で挨拶して出て行った。
「……」
水車のからくりは全て外してあって、小屋の中はしんと静かだった。外では鳥の声がする。もうすぐ夜明けだ。じきに、お茶屋の誰かが粉袋を運び出しに来るだろう。
それまでの短い間、私は存分に、布団に籠って泣くことにした。熱は身体も心も弱っていけない、なんて、誰かに向けた言い訳をしながら。