それは、幸福の一つの(日光一文字と一文字一家①) 則宗
スッと消えようとしている則宗の背中が、日光の右の瞳に映った。
一文字則宗とは、一文字一家の先代の長で、日光一文字は「御前」と呼んでいる。さいしょの頃こそ、現家長である山鳥毛を真似て「ご隠居」と呼んでいたのだが「辛気臭い」と胸に頭突きを受けてからは、「御前」で通している。
「お休みになられますか?」
時計は午後九時を回り、本丸のみなが布団にもぐりこむ時間にはまだ一時間ほどある。則宗の就寝する時間は更に三時間ほど遅いため、それは一家としても悩みの種であるだけに、日光は声をかけるに至った。
「……ちっ」
不穏な舌打ちとともに、胸に則宗の頭突きをくらった日光であるが、その行為はいつも通りであるため日光にダメージはなかった。
「お疲れなのではありませんか、御前」
その――頭突きの力があまりに弱く、日光は首を落として、則宗の肩を支えた。
「お前さんはあの任務に不参加だったからなぁ~」
「任務? 先日のですか? 歌仙と、大俱利伽羅と……たしか源氏物語の世界に巻き込まれて」
「巻き込まれたんじゃなぁあああい! 僕たちは巻き込まれることによって解決したんだ。こともあろうに光源氏(仮)がちっとだけっちっとだけいいかちっとだけだぞ強くてな」
「疲労がいまになってきたとでも? ……人間の老人の筋肉痛のもののようなも」
――人間の老人の筋肉痛のもののようなもですね。
そう言おうとした日光の顎に、ガクン! とふたたび則宗の頭突きが入る。
「――ッ」
「僕の布団は温めてあるだろうな」
「まだ、ご用意していませんので……俺の布団を使って下さ、湯たんぽも」
「――⁉」
「湯たんぽもすでに入っていますので、どうぞ……」
日光が噛み噛みになって言い終える頃には、則宗の白い背中が遠のいて行く。キュッキュッ。則宗の足音は独特で一文字部屋まで続く板の目の廊下は鳥の声のように響いた。
「くず湯も!」
「……」
「くず湯も用意しますので寝間着にお着替えになられたら、飲んで下されば……」
日光の声が届いたか判断は出来なかったけれど――。
「くず湯はまだか? 坊主」
寝間着に着替えた則宗が、一家共有の居間の掘り炬燵に座って待つ姿を見て、ふっと笑みをこぼした日光の手元には二杯のくず湯が熱い湯気を立てていた。