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    灰ちゃん

    @sleepingnemean

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    灰ちゃん

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    コートヤードの仔馬時空

    「スレイプニル、どこにいる」
     二十四時間を主君のために使う権利を得たのはいいが、当のバルナバスがその多忙さで家を空けがちなのが従者のもっぱらの不満ではあった。朝は早く夜は遅く、誰よりも偉いのだからもう少し融通を効かせたらいいのにと思うのだが、そもそも肥大化した企業系列のほとんどが社長の才覚で保っているので会議のひとつも間引けない。一国の王であった頃からそうだったのだから、全てを自分だけの腕で抱え込もうとする性格はもはや悪癖と言ってもよかった。
     もちろんスレイプニルはそれが悪だなんて一欠片も思わずに彼の度量の広さにめろめろと瞳を溶かしているのだが、それでも男の膝を独占できる時間が短いことは不愉快である。この身がぬいぐるみであれば仕事中もぴったりとくっついていられたのだろうが、まったく人間とはままならない。
     だから、ある日帰ってきた主人が明日からは出勤しないと宣言するのを聞いてスレイプニルは飛び上がって喜んだ。一生を食うのに困らない財産を得たから――というのではなく自宅からリモートワークする体制を整えたかららしいのだが、ふたりきりで過ごせる時間の前では些細なことである。運ばれてきた機材の配線をいそいそと手伝い、インカメラに映り込まない位置へ置くソファの吟味と手配も整えた。手脚が短いだけで事務作業などはちゃあんとできるのだ。
     それからは毎日会議に出席する主人の顎の動きを眺めたり、隙を見てその膝に乗っかったりと充実した毎日を過ごした。昼食を一緒に摂れるようになったのも喜ばしいし、眠たい昼下がりはソファでブランケットに包まった。バルナバスが集中しているときは邪魔にならないよう別室へ移動することだって厭わない。ほんとは厭っているがそんなことおくびにも出さないのが内助の功である。
     だから階上から従者を呼ばう声が聞こえたとき、スレイプニルは一階のキッチンで苺をつまみながらいくつか主人の手元へ持っていこうか思案しているところだった。はあいと返事をしながらホールへ出ると、バルナバスがちょうど階段を降りてくるところだった。たとえ出社の必要がなくなっても男は素晴らしく折り目のついたシャツとスラックスを纏っていて、その片腕が無言で近くのリビングルームを指し示す。もう片手にはなにやら小さな段ボール箱を抱えていた。
     ちまちまと歩いて毛足の長いカバーのかけられたソファによじ登ると、ついで隣に座った主君の重みで座面が沈む。自然にころんと膝の上に転がりながら、幼児は間近で大きな手がガムテープを破り開いているのを眺めた。どれだけの高額納税者でも通信販売の品物は段ボールで届くのだ。
     それでも取り出された化粧箱は黒にエンボス加工と箔押しの入った端正なもので、そのエンブレムは主人が普段持っている革製品のブランドであることが読み取れる。それすら無感動に開いた無骨な手が小さな輪を取り出した。
     細かいシュリンク加工の帯にベルトの金具が取り付けられて、持ち上げられた際にちりんと涼やかな音が鳴る。一目見た限りでは首輪のように見えた。しかもこの華奢さからするに犬猫用の。バングルなどの装飾具かもしれないがそれにしては輪が大きすぎるし、そもそも主人の趣味ではない。しかし、子どもの細い首筋にはこれでも小さすぎるだろう。
     首を傾げる子どもの姿勢を起こし、バルナバスは無言で小さな片足を持ち上げさせた。膝丈のツイードのズボンにハイソックスを履いた足首にくるりと革を回すと金色の鈴がまた転がって囀った。
    「――どうなさいました?」
     大きな指先が小さな金具を探っているのがなんだかおかしくて、スレイプニルはそう囁いてかがみ込んだ背中に甘える。王の審美眼にかなった工房製のそれは今でこそ新品の艶々した風合いでいるが、数十年でも使い込める逸品であることは明白だった。
    「かつてはお前が世界のどこにいようと把握できたものだが、今生ではそうもいかぬようだ。静かに部屋を出られては家の中でさえ見失うありさまだ」
     たしかに男が昼間も在宅するようになって数日、その低い声が従者を呼び求める機会が増えた。夜しかいないのならべったりくっついて過ごせたのだが、仕事中などは自然離れる機会も増える。それこそ猫に鈴をつけるように、実用品として買い与えたのだろうが。
     スレイプニルは思わずうずうずと背筋を震わせた。それはつまり、王が従者の存在を求めた結実がこの華奢な首輪ということだ。ここにいろ、という積極的な願いの顕在。騎馬ばかりが主人に存在を依存しているのでなく、主君も控えに臣下を必要としている。だから見失っては困る。
    「……ああ、バルナバスさま。望外の喜びです」
     身じろぐたびにちりちりと奏でられる音すら唯一の方に求められている事実を如実に物語る。厭われているなんて一度も思ったことはないが、それでもこれは。
     柔らかな座面に膝をついて厚い胸に抱きつき全身で好意を表現するしかスレイプニルにできることはなかった。大好き、お慕いしています、世界で私だけのあなた、とどれだけ唇にのせて囀ってもまるで足りなくて、薄い肌を擦り付けて足しにする。
     バルナバスとしては必要なものをいつものように買い与えただけなのだが、それでも懐いてくる幼い四肢を無碍にすることはしなかった。今度はなにがその琴線に触れたのだろうと考えながら、細い銀髪を指の腹で撫でる。華奢な手脚が絡みついてくるのをいなしながら男はさりげなく腕時計に視線を落とした。次の会議まで幾許もない。本当に、まさかここまで派手に喜ばれるとは思っていなかったものだから。
    「――スレイプニル、果実のボウルを運んでこい。私はグラスを持っていく」
     ころころと膝を転がっていた幼子も仕事を与えられた瞬間しゃんとして、いそいそとキッチンから氷を持ってきて軽いプラスチックのボウルに継ぎ足した。炭酸水の瓶とグラスをふたつ掴んだ主人の後ろを慎重に続きながら、前髪の下から蒼い瞳が窺うようにその表情を仰ぎ見る。
    「……あの、バルナバスさま。おそばのソファに侍っていても構いませんか。けしてお邪魔は致しませんので」
     歩く度にちりん、と音がついてきて、子どもがすぐ傍らにいることを否応なしに知らしめる。これからは仔馬がどこまで駆けていっても耳を澄ませるだけでいいのだと実感することはあたたかな安堵をもたらした。柵で囲って鈴をつけてしまえば、小さな箱庭は手のひらの上と同じこと。
    「構わぬが、それではそれをくれてやった意味がないのではないか。――――いや、返せと言っているわけではない」
     わかりやすく呆然とした従者を宥め、王が自ら扉を引いてやる。モニターの横に慎重に果物を設置したスレイプニルがついで小さなソファで膝を抱えた。普段はロールカーテンを降ろしている書斎もそこだけは陽射しの入るようにしていて、硬い風合いで纏められた室内にクッションと膝掛けの用意されたそのスペースはいかにも不釣り合いに見えた。
    「眠いのなら暖かくしていろ。それにしても――どこにいてもいいようにしてやった途端にこれとは、つくづくお前は私を飽きさせぬのがうまいのだな」
     片手で通話の画面を立ち上げながらまろい頭を撫でてやる。空気を含んでふわふわと癖のついた子どもの髪は柔らかく、擦りつく頬は眠たい幼児特有の熱さで硬い指先を慰めた。
    「明日からはこれを使って探しにきてほしいのです。が、……今日はどうかおそばにおいてください」
     柔らかなソファの上で身じろぐ度にちりちりと音を立てるそれは眠るときには不都合なのではと思うのだが、本人はむしろ自分の指先で転がしては心底嬉しそうにくすくすと笑っているのだからまったく度し難い。そのうち轡や手綱も欲しがるかもしれない。
     とにかくこれ以上は構ってやれないので最後にごしごしと強く撫でてやってから手のひらを離すと、子どももそれ以上を欲しがらずに頭を肘掛けの上に乗せた。眠いのだか陶酔しているのだか判然としない視線で主人の横顔を追っているが、それは常のことなので今さら気にもならない。
     傾いた午後の陽が和やかにブランケットで包まれた膝を温めている。この会議が終わった頃に揺り起こせばちょうどいい時間だろうと考えながら、バルナバスは運ばせた苺を一粒口へ運んだ。愛馬が自分で食べるだろうと思って命じたのだがこちらも当てが外れるとは。かつての人馬一体の意思疎通はできなくなったが、それはそれで愉快なことも多くある。むらなく赤く染まった果実は砂糖菓子のように甘く、男の舌にはいささか過剰で、それがおかしかったのかバルナバスは傍らの子どもを起こさないよう喉奥でくつくつと笑った。
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