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    kinokoellinnoko

    @kinokoellinnoko

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    kinokoellinnoko

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    ギルテオのちょっとしたやつ。
    kcdmさんへのデビューお祝いのつもりだったけど、あまりにギルテオ色が薄かったので、また出直すことにしました。
    ド健全です。
    EXプリムロゼのシナリオより。

    grto閑古鳥の鳴く酒場。砂漠の歓楽街と呼ばれるサンシェイドで、この光景は滅多に拝めるものではない。内乱中にも踊り子だけは酒場で踊り続けていたという実しやかな伝説が残るこの地で、酒場が空っぽになる原因はたった一つしかなかった。

    流行病だ。



    【君はこの病の名を知らない】



    シェイド熱の患者で溢れ返った宿屋から、薬師テオとプリムロゼが解放されたのは、夜半も過ぎた頃合いだった。熱が高く魘されていた患者たちもようやく寝静まり、少し目を離す余裕ができてきた。
    「お疲れ様、プリムロゼ。驚いたよ、初めてなのに、あんなに手際よく診察できるなんて」
    療養施設に指定されている宿から、自分たちの宿泊する宿の方へ帰りながら、テオは心底驚いた様子で言う。テオより少し後ろを上品な仕草で歩いているのは、この街で一番人気の踊り子だ。まさか薬師の才能もあるとは思わなかった、とテオが唸ると、彼女は「ふふっ」と妖艶に笑って言った。
    「顔見知りの患者さんも多かったからね。診察にも治療にも協力的で助かったわ」
    あくまで踊り子としての顔の広さのお陰であると謙遜する彼女に、テオはあっけらかんと笑う。
    「またまた、謙遜しちゃって。本職が無ければ、直ぐにでも薬師にスカウトしたいくらいだよ」
    「あら、気持ちだけ受け取っておくわね。ありがと」
    嫌味のない口調で言うプリムロゼに、テオは「本当なんだけどなあ」と嘯く。
    とはいえ、テオも薬師以外の道へ従事することはまるで考えられない性分だ。彼女にとっては、踊り子こそが天職なのであろう。
    宿へ着き、テオは背後のプリムロゼを振り返る。慣れぬ仕事で疲れているだろうに、彼女はそんなところをおくびにも出さず、美しい姿勢で立っていた。
    「もし良ければ、明日も手伝いをお願いして良いかな。まだまだ、新しい感染者が増えてもおかしくない時期だから」
    彼女が静かに頷くと、清楚に結われた鹿毛色の三つ編みがふわりと揺れる。
    「私で良ければ、喜んで」
    ありがとう、と宿の扉に手を掛けた時、テオが何かを思い出したようにふと首を擡げた。
    「あ、そういえば……」
    アプローチを上がったプリムロゼが、テオの隣に並ぶ。彼女の手に視線を遣り、テオは珍しく少し気遣うようなトーンの声で言った。
    「診察中気になってたんだけど、爪、伸ばしてるよね? 危険だし、衛生的にも良くないから、本当は短く切った方が良いんだけど」
    踊り子にとっては、爪も一つの商売道具だ。指先まで美しく魅せる必要がある彼女たちにとって、短く切った爪では格好がつかないことも多々ある。
    逆に、薬師は衛生の観点から爪を伸ばすことはまず無い。テオも例外ではなく、旅の合間にも頻回に爪の手入れをしていた。
    「ああ……」
    プリムロゼが、桜色をした綺麗な爪に視線を落とす。
    「一度切ってしまうと同じ状態に戻るまで多少時間が掛かるし、プリムロゼは踊り子だから、無理に切れとも言えないんだ」
    「別にいいわよ」
    「……えっ?」
    思わぬ即答に、テオの方が若干狼狽した。
    「爪は飾ればどうにでもなるもの。構わないわ。あなたが切ってくれるの?」
    「え、えっと、良いけど……。プリムロゼこそ、僕でいいの?」
    自分のような薬のことしか考えずに生きてきた人間より、もっと美容に造詣の深い人間に任せた方が良いのでは。首を傾げた青年に、彼女は真顔で頷く。そして、その白魚のようなしなやかな手で、そっとテオの手を掬い上げた。
    「それに、あなたの手はとても綺麗だから。頼むなら、あなたが良いわ」
    うーん、と耳の上を掻いたテオが、吸い込まれそうな星空へ視線を上げる。並の男が何リーフ積んだところで、普通は触れることさえ叶わない。誰もが焦がれる砂漠の薔薇に手を握られているこの状況で尚、目の前の青年は顔色ひとつ変えることが無かった。
    「じゃあ、中のテーブルで待っててよ。すぐ、道具を取ってくるから」
    「……」
    さり気なく手を放し、にっこりと笑って扉を開けた彼に、プリムロゼはじっと澄んだ眼差しを向けていた。


    流石に異性である彼の部屋の中までついて行くことはできず、プリムロゼは宿へ入ってすぐ、カウンターの右手にあるテーブルの前に一人で腰掛けていた。目の前には暖炉があるが、今日は夜になっても蒸し暑く、いつから放置されているか分からない灰が冷たく固まっているだけだった。
    「おまたせ、プリムロゼ」
    暫くして、小さな革製のポーチを持ったテオが、階段から顔を覗かせた。プリムロゼが首を横に振ると、いつもの人好きのする笑顔を浮かべる。
    そのままプリムロゼが座るテーブルまで歩み寄った彼は、慣れた手付きでポーチの中から道具を並べていった。大小の小刀と、鑢が二種類入っていた。
    「最近あまり手入れが出来ていなかったから。小刀を研いでたら少し時間が掛かっちゃった」
    そう言って目を伏せた彼が、小さい方の小刀を鞘から抜く。手入れを出来ていなかったと言うが、錆の一つも無く丁寧に扱われていることが分かる代物だった。
    椅子を引き、プリムロゼの向かいに腰掛けた彼は、女性より二回りほど大きな手を差し出して言う。
    「さあ、手を出して」
    斧を握る時に付いたのかもしれない、豆のできた手のひらに、プリムロゼはそっと自分の手を重ねた。指を軽く握られ、反射的に背筋が伸びる。異性からのスキンシップには慣れている筈なのだが。あまりに無邪気な接触に、油断していたとしか思えなかった。
    「本当に綺麗に伸ばしてるんだね。切っちゃうの、勿体無いなあ」
    そんなことを呑気な口調で言いながら、テオは躊躇いなくプリムロゼの親指の爪に小刀を滑らせた。音も衝撃も殆ど無く、白く伸びていた爪先が切り落とされる。熟練の職人が木を削るような、鮮やかな手付きだった。
    薄い三日月の形をした爪がテーブルに落ちていくのを見ながら、プリムロゼは素直に感嘆した。
    「見事なものね」
    下手な髪結いより、余程上手い。正直な感想を漏らすと、テオは手を止めること無く苦笑を浮かべた。
    「物心ついた頃から、祖母に仕込まれていたからね。爪に泥でも溜めようものなら、厳しく叱られていたし」
    そういえば、テオの祖母というのは高名な薬師だったのだと思い出した。そもそも、今回プリムロゼが彼に薬師としてスカウトされたのも、衛生に対する意識の高さを評価されたのが主だった理由だ。
    酒場の踊り子というのは、裏で娼婦の真似事をしている者も多く、殆どがそういった概念に希薄だった。そんな中、プリムロゼだけが感染を免れたというのは、ひとえに彼女がノーブルコートの大貴族の生まれで、物心つく前より教養を与えられていたからに他ならない。
    テオも同じように、生まれた時から家族にそういった「教養」を身に付けさせられていたのだろう。今でこそ全く違う世界に生きているものの、同じフラットランドの貴族出身であるテオの持つ雰囲気は、プリムロゼにとって心地の良いものであった。
    静寂の落ちる宿のロビーで、時折り風が窓を軋ませる。暫しの穏やかな沈黙を破ったのは、テオの方だった。
    「僕も、シェイド熱の症例はそこそこ見てきたつもりなんだけど」
    真剣な眼差しで爪の先を落としながら、唐突に語り出す。これが昼間の治療の話だと理解するのに、一瞬を要した。
    「今回、これまでと少し違う兆候をいくらか見かけたんだ。本来シェイド熱は、高熱の割に脈が上がりにくいのが特徴でね。まして、胸痛や動悸なんて伴うことはまず無いんだけど……」
    真面目くさった顔で言う青年に、プリムロゼは大きな目をぱちくりと瞬かせる。そんな彼女の反応に、視線を下へ向け続けているテオは気付かない。
    「もしかしたら、少し病気が変異してきているのかもしれない。今のところ、薬は効いていそうだけれど、そのうち耐性株が出るかも。君も、感染には充分気を付けーー」
    「……っ、ふふっ……」
    思わず、息が漏れた。そこで漸く、テオが目線を彼女へ向ける。プリムロゼは、まだ手付かずの左手を口元に当て、肩を震わせて笑っていた。
    「……どうしたの?」
    目の前の女性が何を笑っているのか分からず、テオが困惑している。プリムロゼは慌てて取り繕おうと何度か咳払いをしたが、口元が緩んでいるのはどうにも隠しようがなかった。
    「ご、ごめんなさい。療養施設に居た時から気にはなっていたのだけれど。貴方のような聡明な人が……ふふふっ」
    「???」
    テオの顔が、ますます困惑に歪む。至って真面目に話をしていたつもりであるのに、笑われたのだから当然だ。
    漸く震えが落ち着いたプリムロゼは、笑いすぎて潤んだ瞳を上目遣いでテオに向けた。
    「そうね、ある程度の年齢を過ぎれば、誰しも経験する病だわ。逆にあなたは、罹ったことがないのね」
    ある程度の年齢を過ぎれば、誰しもが罹る病。
    その言葉に、テオの頭の中で知識の波が渦を巻く。赤紋熱、クレスト病、三月風邪やウェルシュ痘、あるいは掌蹠水疱熱。いずれも、動悸や頻脈を伴う病ではない。
    幼い頃より人の二倍も三倍も勉強してきたつもりであったが、まさか自分が触れたこともないような病が当たり前に存在していようとは。あるいは、サンランド地方で流行しやすい特殊な風土病であるのか。
    何れにせよ、それはテオの脳のストックには収まっていない知識であった。
    「降参だよ。この地に僕の知らない病気があるのなら、是非教えてもらえないかな」
    薬師として、知らないことをそのままにしておくわけにはいかない。目の前の駆け出し薬師に、素直に教えを乞う彼があまりにも純粋な目をしていて。プリムロゼは不意に、ちょっとした悪戯を思い付いてしまった。
    「……実はね、私もその病に感染しているのよ」
    「えっ?」
    「今は……そうね、ちょうど、症状が出ない時期なだけ」
    冗談のような、本気のような言葉をすらすらと吐きながら、脳裏にはあの男の顔が浮かぶ。ノーブルコートの月のように艶やかなな銀髪を三つに編み、「プリムロゼ」と庭で摘んだ花を渡す声が耳に優しく蘇った。もう離れて何年も経つのに、思い出すとやはり胸の奥が熱くなるのが分かった。
    「プリム……」
    「感染(うつ)してあげるわ、あなたにも」
    白い指先がテオの頬に伸び、輪郭の線を辿り、細い頤を持ち上げる。立ち上がり、身を乗り出したプリムロゼは、呆然としている彼の柔らかそうな薄紅の唇、ーーの横に、そっと自身の唇を触れさせた。
    時間にして、ほんの数秒程度。甘い花の香りと共に離れていく瑞々しい薄皮の感触に、これまで引き止めて来ない男は居なかった。
    「……どう? 心拍数、上がった?」
    まつ毛の先が触れ合いそうな、至近距離で問う。長いカーテンのようなそれを見上げながら、テオの瞳はガラス玉のように澄んだままだ。
    「いや、特に何も変わらないけど……」
    カタン、と音を立てて、プリムロゼが椅子に腰を落とす。その表情は、どこか清々しく楽しげだった。
    「駄目ね、抗体価が高すぎるわ」
    「え? ……えっ?」
    今の彼の頭にあるのは薬のこと、病のこと、患者のこと、学問のこと。そればかりで、余計なものが入り込む余地など無いのかもしれない。今の自分が、カラスの入れ墨の男たちに対する復讐のことしか、考えられないように。
    (だから安心するのかしらね、こんなにも)
    切り掛けの爪をテオの眼前に差し出し、プリムロゼは艶然と微笑んだ。
    「続きをお願いできるかしら? 鈍感薬師さん」
    「わ、分かった……」
    何だか揶揄われているような気がして、テオはおずおずと彼女の指に触れた。結局、その病とやらが何なのかは聞くことができなかったが、既にプリムロゼはそんなことはどうでも良さそうな顔をしている。
    「ま、自分で調べればいいや」
    終わった話を蒸し返すのも野暮だろう。小さく肩を竦めたテオは、再び小刀を握り、プリムロゼの薄い爪に刃先を滑らせた。


    さり、さり、と鑢で爪を削る音がする。手のひらから伝わる温もりと、一定のリズムは、聞いているだけでウトウトとまどろみそうになる。いや、実際にまどろんでいたのかもしれない。
    「終わったよ、プリムロゼ」
    声を掛けられて、ハッとした。いつしか手はテーブルの上に置かれており、テオは使い終わった道具をポーチの中へしまい直していた。
    「いけない、私寝ていたかしら?」
    「何だかんだ、疲れてたんだね。今日はもう、ゆっくり休もう」
    自分の方がよほど働き回っていたのに。にっこりと笑ったテオは穏やかな声で言う。
    プリムロゼの爪は、驚くほど綺麗に整えられていた。形も艶も申し分ない。これなら、少し伸ばすだけでまた問題なくステージに立てそうだ。
    「ありがとう、想像以上の出来だわ」
    特に蜜蝋やクリームを使っていた様子は無いのに、舞台前に磨いた後のようだ。プリムロゼが上機嫌で自分の爪を眺めていると、不意に背後のドアが開いた。
    「はー、今日も大漁だったぜ」
    そう言いながら、入り口に長身を潜らせ入ってきた男。左手には、商売道具の箱を大事そうに抱えている。
    「あ、おかえり、ギル」
    慣れた様子で、テオは彼に声を掛ける。テオの存在に気付いた彼の方も、気安い動作で片手を挙げた。
    「よぉ、テオ。こんな所で何してるんだ?」
    「んー、爪切り」
    二人の座るテーブルに歩み寄ったギルデロイが、プリムロゼの顔をしげしげと覗き込む。遠慮のない視線に、彼女は軽く背をのけ反らせた。
    「んー? んんっ?」
    「な……何……?」
    顔に何か付いていただろうか。そんなことを思ったプリムロゼが頬を擦ろうとすると、何やら合点がいった様子でギルデロイは手を打った。
    「おぉ、プリムロゼか!」
    誰かと思ったぜ、と白い歯を見せて笑っている。プリムロゼの肩から、一気に力が抜けた。ポーチの蓋を閉めたテオが、眉根を寄せて胡乱な目をする。
    「まさか、気付いて無かったの?」
    「だってよ、普段と全然雰囲気が違うじゃないか。清楚系っていうか」
    「薬師として、シェイド熱の治療を手伝ってもらってたんだよ。彼女、筋が良いんだ」
    比較的最近旅団に入ったばかりのプリムロゼと違い、テオとギルデロイは旅団結成当初からの古株だ。「何処の別嬪さんかと思った」と、豪快に笑うギルデロイの脇を、テオは呆れたように肘で突いていた。二人でいた時とはまた少し違う、温かく和やかな雰囲気にプリムロゼの口元も自然に綻ぶ。
    「こいつ、爪切るの上手いのか?」
    「ふふ、見てみる?」
    興味深そうに顎へ手を当てたギルデロイに、プリムロゼは切ってもらったばかりの爪を並べて見せる。彼は「こりゃ凄い」と感嘆した様子で言った。
    「なあ、テオ。この後時間があるなら、是非俺の爪も切ってくれないかね」
    「はあ? いつも自分で切ってるじゃない」
    「ここまで綺麗に切れんよ。特に、肝心の利き手の方がボロボロだ」
    自分で爪の処理をする場合、利き手は当然、利き手でない方の手で切る。なので、どうしても不揃いになりがちであることは否めなかった。
    だが、ギルデロイは仕事上、繊細な宝石などを扱う時は厚手の手袋を使う。別に殊更爪を綺麗にしておく必要など無いのでは、とテオが素朴な疑問を口にすると、手袋の繊維が引っ掛かったり内側を傷付けたりして使い勝手が悪いのだと言われた。
    「おじさんが唇尖らせても可愛くないよ。……仕方ないなあ。じゃあ、その大荷物置いたら僕の部屋へおいで」
    本気半分、好奇心半分といった様子のギルデロイに嘆息したテオは、道具の入ったポーチを片手に立ち上がった。
    「それじゃあ、プリムロゼ。また明日もよろしくね」
    慣れない仕事の疲れも吹き飛びそうな柔らかい顔でくしゃりと笑ったテオに、プリムロゼは小さく手を振った。
    「私は、ここで少しお茶でも飲んでいくわ。また明日ね、薬師さん」
    彼女は、手の振り方一つにも気品がある。軽口を叩き合いながら階段を上っていく二人を見送り、プリムロゼはカウンターの店主に熱いローズティーを一杯注文した。



    古びた木製のドアをノックする音が聞こえ、テオは「どうぞ」と短く応えた。
    「悪いな、こんな時間に」
    「全然思ってないくせに」
    窓際に置かれた小さなテーブルに腰掛けたテオが、冷めた口調で言った。彼が夜型の人間で、朝に弱い分、宵っ張りであることを承知で声を掛けてくるのだ。罪悪感などあろう筈もない。案の定、ギルデロイはへらへらと笑いながらテオの向かいの椅子に腰を落とした。
    日干しレンガで出来た室内は暗く、砂漠の住居は明かり取りの窓も小さい。室内に拵えられた燭台を全て灯してなお、ランプまで置かなければ手元が覚束なかった。温かな橙の光が、下からぼんやりと二人の顔を照らしている。
    「じゃあ、切ってあげるから手を出して」
    「はいよ」
    机に頬杖をついたギルデロイが、差し出されたテオの掌に自分の手を重ねる。「利き手の方がボロボロ」との自己申告通り、彼の右手は無骨で、爪の長さも不揃いに歪んでいた。
    「……想像してたより酷いね」
    ぽつりと漏らしたテオに、ギルデロイは大袈裟に顔を顰めてみせた。
    「だろぉ? だから、さっきみたく綺麗にしてくれよ、テオ先生」
    まるで重みのない「先生」の呼称を軽く受け流し、テオは左手で器用に小刀を鞘から抜いた。まずは親指の爪に刃先を滑らせてみて、その感触が先刻プリムロゼの爪を切った時とはまるで違うことに少し驚いた。
    (そういえば、自分以外の爪を切るのって初めてだったから……)
    指先に乗った重み、切った瞬間の音、落ちた破片の大きさ。彼女とも、自分とも、全然違う。
    (こんな風にギルの手を真剣に見るのも初めて、かも)
    付き合いだけは長いのに、こうしてまじまじと手を見たのは初めてだ。切られた背中を縫ったり、傷に薬を付けたことは数あれど、その時は「患部」とばかり向き合っていて、彼の身体に触れているという実感は無かった。
    (……知ってたけど、大きいなあ)
    成人男性としてもあまり大柄な方ではないテオと比べると、大人と子供の手のようだ。いつも手袋をしているところだけ、日に焼けていない。指の付け根に胼胝ができているのは、槍を握るせいだろう。骨張っていて無骨なのに、指は長くて綺麗な形をしていた。
    (なんか、変な感じ)
    プリムロゼのことは異性であると認識していたし、仲間になって日も浅いので、適切な距離を置けていたと思う。女性患者を診るときは、不快感を持たせぬよういつも気を遣う。
    だが、ギルデロイはテオにとって、遠慮の要らない気の置けぬ仲間だ。ランプと燭台の僅かな灯りに照らされた彫りの深い顔が、じっと自分の手元を見ていることで、何故こんなに緊張しているのか分からなかった。
    「おかしいな……。ギルなら、多少指を切り落としたとしても、笑って済ませてくれそうなのに」
    「おい。何物騒なこと言ってんだ、お前さん」
    思わず声に出してボヤくと、すかさずツッコミが入ってきた。いつもの、心地よい会話のテンポだ。少しだけ肩の力が抜けて、テオは小さく笑った。
    その後、ギルデロイは今日の商売相手の貴族がどんな男だっただの、仕入れに行った先で会った子供が人懐こくて可愛かっただの、他愛もない話題をテオに振り続けた。テオは時々相槌を打ちながら、間断なく刃先を動かし続けている。
    ギルデロイの爪は、硬くて大きくて、切りづらかった。自分で切る時とは随分勝手が違い苦戦したが、何とか綺麗な曲線に揃えることができた。
    「うん、こんなものかな」
    握っていた大きめの小刀を机に置き、今度は目の荒い鑢を手に取る。ギルデロイの爪を磨いたところで誰が見るのかという話であるが、プリムロゼの爪を丁寧に磨いた以上、彼には手を抜くという不公平は許されなかった。
    「じゃあ、軽く手を握って貰っていいかな」
    鑢についた細かな埃を払いながら、テオが言う。普段通りの彼の、普段通りの会話の温度に、正直油断していた。
    「はいよ」
    ぎゅっ、と。
    机の上に置かれていたテオの左手を、大きな手が掴み、握り込んだ。
    一瞬、何が起きたか分からずポカンとしていた顔が、みるみるうちに紅潮していく。
    「な、な、何してるの……?!」
    咄嗟に振り払おうとしたが、軽く握っているように見えてびくともしない。大きな体格からもお察しの通り、馬鹿力なのだ、この男は。
    「え、お前さんが握れって言ったんだろ」
    「違うよ、僕の手じゃなくて。鑢を掛ける前に、握った時の状態を見ておきたいんだ!」
    鑢を持ったままの利き手で「グー」を作ってみせたテオに、漸くギルデロイは合点が行った様子で手を放した。
    「ああ、そういうことか!」
    ギルデロイは、槍を使う。手を握った時に、爪が皮膚へ食い込むようでは良くないと、テオが気を利かせたのだ。試しに拳を作ってみると、これまでとは違い、皮膚に全く爪が干渉してこないことに気付いた。
    「へー、こりゃ凄いわ」
    さすが薬師、細かいことまで考えてんだなあ、とギルデロイが感心した様子で嘯く。何度も手を握ったり開いたりしている彼を尻目に、テオは深く息を吐いていた。
    「もうーー」
    そして、気付いてしまった。

    脈が速い。
    顔が火照る。
    胸に、何かがつかえたような重みがある。

    全て、聞き覚えのある症状ばかりだった。
    「えぇ……?」と口元に手を当てながら、テオは困惑する。
    彼の様子がおかしいことに気付いたギルデロイが、何気ない視線をこちらへ寄越した。
    「ん、なんかお前さん、顔が赤くないか?」
    口元を覆った指の隙間から、ほんのりと紅潮した頬が見える。熱に潤んだ目を恨めしげに向けた青年は、信じられない様子で言った。
    「……シェイド熱、感染(うつ)されたかも」
    うつしてあげるわ、あなたにも。
    そう言って、悪戯っぽく笑った彼女の艶のある瞳を思い出す。まさか本当に、感染させられるとは思っていなかった。
    「マジかよ」
    仕事の時は人一倍感染対策に気を遣っているテオからの、突然のカミングアウト。彼の目に、確かにかの青年は具合が悪そうに見えた。
    このタイミングで、テオがシェイド熱を発症するというのは非常に不味い。
    自身の落ち度を未だ信じられぬ様子のテオに、ギルデロイは慌てて他の薬師を呼びに走ったのだった。




    仲間の薬師、ソレイユの診察の結果、当然テオがシェイド熱に感染しているということは無く。「何でしょうね?」と彼女も首を傾げていた。
    生真面目な彼女もまた、優秀な薬師であるテオが自らの「病」を誤診する可能性など、考えてもいなかったのだろう。


    翌日、昨日と同じ療養施設に現れたテオは、寝不足でげっそりとした顔をしていた。
    「疲れているみたいだけど、大丈夫?」
    それが自分のせいだとはつゆ程も知らないプリムロゼが、訝しげな表情で首を傾げる。隣の椅子に腰掛けた彼は、視線を宙に向けたまま、重そうに唇を開いて呟いた。
    「発熱、頻脈、動悸、胸痛……」
    「えっ?」
    「昨日、ギルの爪切りしてる最中に、発症したんだ。同じサンランド所属のソレイユさんには、病気じゃないって言われたけど……」
    世の中には未知の病も沢山あるからなあ、と、テオは何処となく掠れた声で嘆く。
    一瞬事情が飲み込めなかったプリムロゼであるが、じわじわとその意味を理解すると、口元に笑みが浮かんでいくのを抑えられなかった。悲壮感すら感じる様子のテオには悪いが、彼は今の発言で自らの胸中を全て暴露してしまっている。
    「うそ、笑ってる?」
    「笑ってなんて、……っふふ、やだ」
    可愛い、という言葉を、すんでのところで飲み込んだ。
    相手は年上で、薬師としては師匠にもあたる男性だ。そんな言葉で形容しては申し訳ない。
    何とか笑いを噛み殺したプリムロゼを、テオは怪訝な顔で見ていた。彼女の頬が、うっすらと薔薇色に色付いて見えるのは、決して気のせいなどでは無かっただろう。
    (そう、そういうことなのね。私の誘惑では、微動だにしない筈だわ)
    昨夜はこの美貌にも衰えが来たものかと若干落ち込んでいたのだが、どうやらそうではないらしい。むしろ、あの男を想う自分と同族のような匂いも感じてしまい、プリムロゼの気持ちは高揚した。
    「悪いもので無いのは確かよ、信じて」
    「でもーー」
    まだ何か言いたげに開かれたテオの口に、白い指先が伸びる。
    その唇の奥に、手元にあった丸薬を一つ含ませたプリムロゼは、目を細めて微笑んだ。ゆっくりの口の中で融解させ、白い喉が鳴る。
    「これ、……解熱剤?」
    さすが師匠と言うべきか。味と匂いだけで何の薬かを言い当てたテオに、彼女は一つ頷いた。
    「さあ今日も治療を頑張りましょう、先生?」
    答えを教えてあげるつもりは毛頭無い。それはあまりにも無粋で、野暮な行為だからだ。
    プライベートから仕事へスイッチが切り替わったテオは、それ以上何も追及することなく目の前の患者へと向き合った。その横顔を見て、プリムロゼは胸の奥に暖かいものが広がっていくのを感じる。
    まだ何も知らない、貴族の娘だった頃の自分に芽生えたものと重なった。
    (頑張って育ててね、薬師さん)
    今はまだ芽吹いたばかりで何の種かも分からなくとも。それはいつかきっと、鮮やかな大輪の花を咲かせる。
    その花を摘み取るかどうかは、全てあの男次第なのだ。


    生殺与奪の権を握られている。
    君はまだ、その病の名を知らない。






    余談

    因みに、その後もたまにテオ君に爪を切ってもらったり、自分で切ったりしていたギルだけど、テオくんと付き合うようになってからは100%テオ君が爪の処理をするようになるよ。
    理由はお察し。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💘💘💘💘💘🙏🙏💴💴💒❤❤❤❤❤💖💒💒💘💘💘💎💖🌱💒💒
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