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正体を無くしかけた猪に、のしかかられている。その猪の口からは尋常ではない濃さの酒気が漂っている。
「ふぇりくす」
酒でガサついた声に、舌足らずな口調というのが非常にアンバランスで滑稽だ。だがそれを揶揄う余裕はあまり無い。
「……なんだ」
「なぜここに?」
「……お前が俺を呼んだと聞いたが」
「よべばきてくれるのか」
「……シルヴァン。こいつはどれだけ飲んだんだ」
まともに会話が出来ると思えない。これでは、ほとんど獣に等しいような狂戦士の如く振る舞っていた頃の方がまだ人語を喋っていたようにさえ思う。
「おい。むしするなふぇりくす」
重い。体重が遠慮なくかけられる。何がしたいんだこいつは。
修道院の食堂で夕食を取っていたらシルヴァンに連行された。何やら騒いでいることは視界の端に捉えていたが、さして興味もない。しかし、ディミトリが自分を呼んでいるらしい。奴に何かあったのであれば話は別だ。そう思って渋々従うと、先生の静止も聞かずにふらふらと立ち上がったディミトリが覆いかぶさってきた。
「いや、量はそんなに飲んでないはずだけどな?」
「ごめん、フェリクス。俺が持ってきた酒が悪かったらしい」
そう言って先生が小ぶりの酒瓶を持ち上げた。中には何も入っていない。
「なんだ、それは」
「スピリタスだ」
「スピリタス?」
「まあ、飲んでみれば分かるよ」
そう言って透明の液体が注がれたショットグラスを手渡される。
「……おい。飲むまでもないだろう。なんだこの匂いは」
鼻を近づけるとほとんどアルコールの刺激臭しかなかった。聞けば、以前にスレン方面へ魔獣退治に赴いた時に、たまたま助けた商人から譲り受けたのだとか。シルヴァンはこの酒の存在を知っていたらしく口を付けなかったが、ディミトリはこの味も何もない酒を何故か気に入り、気づけば瓶を空にしていたという。
「おいふぇりくす!」
相変わらず舌足らずで呼ばれ意味もなく揺さぶられる。雑に押し除けようと手のひらを突き出してもビクともしない。酔っ払っても馬鹿力は健在のようだ。なんなんだ。お前のような大男に幼ない様子で呼ばれても断じて可愛いなどと思わんぞ。……思って、いない。絶対に。
「フェリクスを呼んでたみたいだから」
なんだか君を離したくないみたいだ。任せられないだろうか?
そう、申し訳なさそうに先生が言うのはいい。無益な攻防を続ける自分たちを面白そうに眺めるシルヴァンには後で文句を言わねば気が済まん。しかし、今はともかく自分に鬱陶しくひっつく猪をどうにかせねばなるまい。
「……こいつを風に当たらせてくる。誰か水を持ってきてくれ。すぐそこの腰掛けに座らせる」
「えいっ」
酔っ払いにレストは効くのだろうか。
グラスに満たされた水を持ってきたのはフレンだった。手のつけられん酔っ払いを半ば無理矢理に座らせ、ディミトリを真ん中で挟んで三人で腰掛けている。気休め程度にフレンにレストをかけてもらうと、ぐらぐらしていたディミトリの身体が少し安定した気がする。
「なんでこんなもの飲んだんだお前は」
先ほどのやりとりを思い返してみても意味不明だった。何故このような酒を気に入り、正体をなくす直前まで飲み続けたのか。
「刺激があるのが心地よくて」
「心地よいわけあるか」
やはり酔っ払いとまともに会話することは不可能だろうか。さっぱり理解できない。匂いだけでもその酒が舌と喉を灼くことなど明白だった。自分も辛いものを好むが、あれほどまで刺激が強ければ旨味を味覚で感じるよりも痛覚が勝ちそうだ。
「そうだフレン、今度お前の料理にあの酒を使ってみないか」
「ま!斬新ですわね!でも、駄目ですわ。こんなにフェリクスさんを心配させて」
楽しげにクスクスと笑われている。笑い事では無いのだが、どうにも気が抜ける女だ。
「別に心配などしておらん。大体、料理とは何のことだ」
フレンの料理の腕は壊滅的だと聞いたことがある。だが、最近訓練場で俺の元へ野菜を持ち込んで訪れる頻度が増え、ドゥドゥーと食堂で共に料理をしている姿を見かけた。少しは食べられるものになったということだろうか。そう思って何気ない問いかけをしたつもりだった。
「フレンが時々作ってくれるんだ、俺でも味が感じ――あ」
なんだ、今の"あ"は。
「……ディミトリさん」
フレンが心無しか固い声を出す。俺とディミトリを見比べて、信じられないというように目を見開いている。
「それは、どういう意味だ」
「……何のことだ」
唸るようにディミトリが言う。酒で荒れていつもよりドスの効いた声は並の者であれば恐れをなすであろう。だが生憎、再会した直後と比べれば駄々をこねる幼子も同然に聞こえる。
「お前"でも"、とは。なんだ?」
そうだ。そも、こいつは刺激的な味を好まなかったはず。今日のことはそこからしておかしい。幼い頃は乾酪や薄甘い菓子が好物であった。士官学校時代に共に食事を摂らされた時はまるで何を食べても我慢するような不快な表情をしていたが。……まさかこいつ本当に。
「違う、何でもない。少し鈍いだけで」
「お前の少しという範囲があの酒程度か。あのような劇物が好みだとは、初めて知ったな」
「……フェリクスさんには言ってなかったんですのね」
ぽつりと小さい声で言ったフレンの言葉が決定的だった。往生際悪くはっきり言おうとしないが、こいつの味覚が常軌を逸しておかしいということは明白だ。誤魔化しが効かないことに気付いたディミトリは不快そうに表情を険しくさせて居直った。
「別に大したことではないだろう。フレン、お前には嘘をついて悪かったと謝ったのだし。フェリクスにだって食事中に不快な思いをさせたことは詫びたじゃないか」
「お前は馬鹿なのか。俺が不快だとかそういう問題ではない」
「馬鹿で結構だ」
それきりディミトリは押し黙って背を向けた。不貞腐れているとも突き放しているとも取れる。
「……あら、グラスが空っぽですわね。お水を汲んで参りますわ」
険悪なやりとりに何事か察したのか、フレンが取ってつけたように明るい声と共に立ち上がる。そして、ディミトリからは死角の位置で振り返り、拳を作って鼓舞するように振られた。……なにか、余計な世話を焼かれている気がする。
腹立たしいことこの上ない。気に食わん。何もかも気に食わん。ディミトリが隠し事をしていたことも、悪足掻きのように誤魔化そうとしたことも、開き直って何でもないことのように流そうとするのも。
それに、俺はまだ納得していないのだ。血に飢えた残虐な獣は未だその腹の内に飼っているのか、そのように幼い頃と同じく邪気の無い様子が本来のお前か、結局どちらが本当なのかと。俺はどちらのお前に相対しどのように受け入れ支えていかねばならぬのかと。
加えて、フレンと自分に同じく謝ったと言うくせに、俺には核心にあたる部分を隠していたということも不快だった。幼い独占欲じみた感情であることは分かっている。このことだけでは無く、多くのことを心の底から共感してやれず打ち明けてもらえずこの手で真に救うことも出来ない己の不甲斐なさも分かっている。
――誰でもいい、どうにかしてくれ。
――だが、俺がどうにかしてやれたら。
――いいや、こいつをどうにか出来るのならば形振り構っていられるか。
飽くほどに繰り返した逡巡と葛藤の末、妥協に妥協を重ねていると言うのに。求めてやまないのは、親友の心の安寧。ただそれだけだ。本来であれば当然のように簡単に叶えられねばならぬものである筈なのだ。
たったそれだけの心情をちっとも分かってもらえずにあまつさえ故意に隠され、こんなことが無ければきっと話してもくれなかった。文句を言う権利ぐらい主張したい。
「何故隠した」
「隠したつもりはない。だが聞かれなかったからな」
酒で赤みを帯びながら妙に緩んだ表情筋は珍しくもブスッとした様子を顕にしている。
「不味そうな顔と言った時にお前はそのつもりは無かったと言ったな。ろくに味も分からんくせに」
嘘をついたのだから隠したも同然ではないか。そう詰るがディミトリはなおもふてぶてしく反論する。
「嘘ではない。お前の気を煩わせることが無いように努力したつもりだった」
そういうところだ。そういうところなのだ、この男は。聞かねば答えぬなど詭弁だ。聞いても核心に触れず、論点をすり替えこいつ自身の感情を巧妙に隠すのだ。
「……チッ」
こちらはかれこれ七年、九年。いいやむしろ生まれてこの方、お前のことばかりで思考が占められているというのに。割に合わない。絶対に問い詰めて、……それだけでは生温いな。こいつのことであるから、味覚以外にも何かしら言っていないことが絶対ある。率直に聞いて白状してくれるわけが無い。
こいつの方から自ら進んで来なければ仕留められない。これは狩だ。手の付けられない暴れ猪を周到に追い詰め、その上で手懐けてやらねばなるまい。
首を洗って待っていろ。何年かかろうと必ずお前から言わせてやる。その居場所を勝ち取ってやる。
そう思いながら八つ当たり気味にドンっと背中合わせに凭れ掛かれば、未だ酔いが回っているのか「うぐっ」と呻く声が聞こえた。
フン。いい気味だ。そんなもの、この俺が幾年にも渡って抱え積み重ねてきた不快感と比べれば、それこそ大したことではないはずなのだから。