【シャリシャア】エンドロールのそのあとに01 職場のビルを出ると、聞き慣れたクラクションの音に呼び止められた。
「乗っていくかね?」
やたらと派手な真っ赤なスポーツカーから、これまた派手な金髪男が顔を出し、シャリアは苦笑を滲ませながら「ぜひ」と車に乗り込んだ。
「今日の講義は六限までだったのでは?」
「教授が学会で休講になった。まったくこちらは学費を払っているというのに……」
車内でネクタイを緩めながら尋ねれば、隣でハンドルを握るシャアが渋面を作った。
その横顔は大きなサングラスで隠されているというのに、彼が持つ美しさはいささかも損なわれてはいない。
額から鼻先を通り、ほんのりと淡く色づく薄い唇と形の良い顎までをつなぐ白い稜線をうっとりと眺めていると「……見過ぎだ」と、サングラスをちらりと持ち上げたシャアに睨まれてしまった。
「……これは失礼を」
分厚い前髪の隙間から覗く、サファイアブルーの瞳がさわやかだ。
それもまた美しいなと考えていると「飽きないな、君も」とため息をつかれてしまう。
「はて……大佐は読心はお得意ではなかったはずでは?」
「このくらい、心を読まずとも分かる。まったく……飽きもせずに人の顔をジロジロと……」
「美人は三日で飽きる、などとはよく言われますが、大佐のお顔はいくら眺めても飽きませんので」
にこり、と満面の笑みでそう答えてやれば、シャアはもう一度ため息をつくと、ドリンクホルダーに手を伸ばした。
最近気に入っていると言っていた、コーヒーチェーンのアイスコーヒーだ。
シャアは水滴が付いたそれを手に取ると、ストローをかじるようにしてごくりと一口コーヒーを飲み込んだ。
「うん、美味い」
どこにでもある安さが売りのチェーンだったが、シャアの口には合っているらしい。
こうしていると、シャアもどこにでもいる学生のように見えるから不思議だった。
黒のカットソーに深緑のジャケットとスラックス。
さらさらの金髪は襟足を短く切りそろえていて、いかにも若者らしくさわやかだ。
頭の先から爪先までを眺めてみてもかつてのトレードマークであった赤色はどこにも存在しない。
いや、この真っ赤なスポーツカーは、中古車店の店頭で一目惚れして即金で購入したものだったけれど。
「君の分もある」
アイスコーヒーのプラカップをホルダーに戻しながら、シャアが隣のホルダーを指差した。
車の話かと思ったが、もちろんそんなはずはない。
そちらに目をやれば、もう一方のドリンクホルダーにもコーヒーのカップが刺さっていた。
シャリアの分はホットだ。
先ほどまでクーラーがガンガンに効いたオフィスにいたのでこれはありがたかった。
「ありがとうございます。いただきます」
シャリアはそれを両手で推し戴くと、ふうふうと少し冷ましてからカップに口をつけた。
深煎りコーヒーの良い香りが鼻の奥を通り抜けていく。
なるほど、これは美味い。
「だろう? 安い大衆チェーンだからと、あなどるものではない」
「まったくですね……勉強になりました」
シャリアがもう一口コーヒーを啜れば、シャアは得意げになってふふんと鼻を鳴らした。
「これも、学校のお友達に?」
「ああ。これまで触れてこなかった世界だ。見るものすべてが興味深い」
ちら、と後ろのシートを覗き込めば、教科書やらタブレットやらが雑多に詰め込まれているシャアのリュックが転がっていた。
ゼクノヴァから帰還したシャアは、その後ジオンや世の中を大いに騒がせたのち野に下った。
その後始末にしばらくの間奔走させられる羽目になったシャリアだったが、こちらも同じく一通りの仕事が片付いたところであっさりと軍を退役した。
「よかったのか? 私に付き合うような真似をして」
「元々軍には食うために入ったに過ぎませんから……私ができることも一通り済ませましたし、後身も育っております。心配はないかと」
内乱によってザビ家のギレンとキシリアが倒れ、ジオンのトップにはダイクンの血を引く娘が新たな公王として立つことになった。
アルテイシア・ソム・ダイクン。
シャア・アズナブルこと、キャルバル・レム・ダイクンの実の妹君である。
「昨夜も電話があったが、やることが多くて手が回らんと大層腹を立てていたぞ?」
「アルテイシア様のお側にはコモリ少尉がおります。ランバ・ラル殿も、ハモン殿もおられる。私を連れ戻そうとするポーズですよ」
「やれやれ、手厳しいな」
「古来より、可愛い子には旅をせよと申します」
「これ以上アルテイシアが強くなったらどうしてくれる?」
「よろしいではありませんか。元より、単騎で敵将の首を獲りに行くほどの女傑です。いまさら武勇伝のひとつやふたつ増えたところでどうということもありますまい」
「やめてくれ……アルテイシアにしては強すぎる……」
ズゴゴ、とアイスコーヒーを啜りながら、シャアがストローをかじる。
「お行儀が悪いですよ」
「ここはズムシティの公王庁ではない。市井に暮らす学生など、皆こんなものだ」
そう。シャアの今の身分は学生だった。
幼い頃には慣れ親しんだ土地を追われ、逃れた先からハイスクールを卒業してすぐに士官学校へと入学したシャアは、いわゆる人並みの学生生活を送った経験がほとんどなかった。
十代で軍に入り、二十歳の声を聞く前に大佐の地位を手に入れた若き天才は、しかしその後ゼクノヴァなる超常現象に巻き込まれ、表舞台から姿を消した。
シャリアと再会するまでにかかった時間は五年。
その間、シャアは身分を隠してエンジニアとしての経歴を積み、その道で食べていけるだけの技術を修めていた。
「今更大学で学ぶようなこともないのでは?」
シャリアは改めて工科大学への入学を望んだシャアを不思議に思っていたけれど。
「大学で学ぶのは何も学業ばかりではない。新しい友人もできたし、論文を売れば金になる。そういえば、また新しく特許を取得したぞ」
とんでもないことをさらりと言われ、シャリアは笑顔を引きつらせた。
「……できればあなたには市井の学生らしく、ハンバーガーショップでアルバイトでもして頂きたかったのですが」
「マクダニエルか? あそこのバーガーは美味いな」
からからと笑うシャアの横顔に悪気はない。
「そういう君の方はどうなんだ? 新しい勤め先は順調かね?」
ハンドルを右に切りながら、視線をこちらに投げてくる。
あからさまに興味をぶつけられ、シャリアはこれにも苦笑した。
「そうですね、順調ですよ。古い馴染みもおりますし、やっていることは以前と重なる部分も多いです」
シャアと同じように、シャリアも退役した新たな身分を手に入れていた。
とはいえ完全に軍と縁が切れたわけではない。
シャリアの新たな就職先は、民間のセキュリティサービスだった。
そこはいわゆる退役したジオン軍人の天下り先の一つで、シャリアの同僚にはかつて同じ艦に乗っていたドレンやエグザベといった懐かしい顔ぶれが揃っていた。
「まさか君にサイド6への伝手があったとはな」
「私が、というより軍が、ですね。サイド6は表向き中立ですが、裏ではジオンと繋がっています」
「やれやれ、世知辛い世の中だ」
シャアはまたコーヒーをひと口啜り。
「司令部勤務だったか?」
「ええ。おかげで随分と楽をさせていただいておりますよ」
シャリアの主な仕事は、現場で警備や警護を行うスタッフたちに本部から指示を飛ばすことだった。
シャリアとてまだ若く、現場仕事も十分にまだこなせるだけの技量を備えていたけれど、それだけは勘弁して欲しいと頑なに固辞をした。
「どうして?」
「私が背中をお護りするのはあなただけと決めているからですよ」
セキュリティサービスの仕事に関わる以上、常に誰かの身の安全を図ることが求められる。
本部司令所詰めとはいえそれに変わりはなかったけれど、対象と直に接する現場のスタッフとは違ってモニター越しに指示を飛ばすだけの仕事は『誰かを守る』という実感が希薄でシャリアの性に合っていた。
「やれやれ……クライアントにはとても聞かせられんセリフだな」
「ドレン所長にも同じことを言われました」
ちなみにシャリアが所属する支所の所長がかつてのドレン大尉で、現場の指揮官たる司令長を務めるのがシャリアだった。
「楽しそうだな」
「遊びではありませんよ?」
サングラスの奥で懐かしそうに目を細めながら、シャアが静かに微笑む。
「ギャンの彼は?」
「エグザベ君ですか? 彼はもちろん現場のエースですよ」
かつてシャリアの部下であったエグザベ少尉は、シャリアが退役すると知って、共に軍を離れた。
彼はまだ若く、才能に溢れていた。
軍にいれば昇進も思いのまま、史上最年少の将官も夢ではないと将来を嘱望されていたのに。
「誰かを護る仕事って素敵だなって思って」
一点の曇りもない笑顔でそう宣言されてしまっては、さしものシャリアも苦笑いを浮かべながら退職願いを受理するしかなかった。
エグザベの腕に必死にしがみつき、彼を引き留めるコモリの姿はまだ記憶に新しい。
お前のせいだぞと。
退役の日に笑顔で花束を渡しながら剣呑な思念を飛ばしてきた彼女は、元気でやっているだろうか。
「……まあ、遊びではありませんが、それなりに楽しくやっておりますよ」
退役にあたり、ふたりはその功績に相応しい退職金と軍人年金を与えられていた。
正直なところ、世間一般の平均的な暮らしを営めばそれだけで一生食うには困らないだけの額が保証されていた。
「とはいえ、ただ毎日だらだらと過ごすのもつまらんからな」
「私はともかく、あなたはまだリタイアするには早過ぎますよ」
「だからこうして学生をしている。……でもそうだな。君のところに就職するのも悪くはなさそうだ」
「ご冗談を」
シャリアが務めるセキュリティサービスには、モビルスーツを専門に扱う部署もある。
現にエグザベはそこの所属で、軍から払い下げられた非武装のザクを操って、護衛対象に近づく不届き者をばったばったと薙ぎ払っている。
「ザクか……懐かしいな」
「愛機を辺境コロニーに乗り捨ててきたひとが何を言いますか。いけませんよ、絶対に。たとえ応募なさっても、書類審査で落とします」
「職権濫用ではないか?」
「あなたがモビルスーツに乗るとろくなことになりません」
「だったら」
「乗らなくても、ろくなことにはなりません」
「ぬう……」
姿を隠していた五年の間、自身が何をしていたかを忘れたとは言わせない。
「しばらくは、自由気ままな学生生活を謳歌してください。ご友人もできたのでしょう? 就職しては、彼らと離れることになりますよ?」
「む……それは、惜しいな。彼らからはまだ学びたいことがたくさんあるのだ」
「そうでしょう」
シャリアは満足げに微笑むと、シャアの頭をくしゃりと撫でてやる。
「あなたはもっと、世界に目を向けるべきです。それはもちろん綺麗なことばかりではないでしょうけれど……様々なことを見聞きし、様々な考え方に触れることは、きっとあなたの心を豊かにします」
「……うん。そうだな」
シャアもまた素直に頷くと、くすぐったそうに微笑んだ。
「君と話をしているとあっという間だな」
シャアがサングラスを額に上げる。
家が近い証拠だった。
退役した二人は、ひとつ屋根の下で暮らしている。
サイド6の郊外に庭付きの小さな一軒家を購入して、慎ましい暮らしを送っていた。
シャリアの勤め先のことを考えれば、街中でアパートメントなりマンションなりを借りた方が効率が良い。
しかし、退役したとはいえシャアもシャリアも名の知れた軍人だったので、集合住宅では色々障りがあるだろうと検討したゆえの選択だった。
「車をガレージに入れてくる。君は先に降りていてくれ」
シャアに促され、シャリアはふたりぶんの荷物を抱えて車を降りる。
現金一括で購入した我が家は、一階にリビング、ダイニング、キッチンと水回り。二階に寝室とゲストルーム、そしてシャリアの書斎がある一般的なファミリータイプの3LDKだった。
果たして、それを男二人の所帯が買い求めることが一般的なのかは分からない。
シャアにしろシャリアにしろ、人生のほとんどを軍で過ごしていたので、いわゆる民間の一般家庭のことがまだよく分かっていないのだ。
「あら、シャリアさん。おかえりなさい。お仕事帰りかしら?」
ぼんやりと我が家を見上げていると、朗らかな女性の声がシャリアの肩を叩いた。
「おや……こんにちは。ミライ夫人。お騒がせしてすみません」
「いいえ。いつも仲が良くてうらやましいわ」
そう言って、つぶらな瞳のご婦人が微笑む。
シャリアが頭を下げたのは、隣家に住むノア一家の奥方だった。
名前はミライ・ノア。
一年戦争当時に学徒動員された連邦の元軍人で、彼女の夫は現役の連邦軍人ということだったが真偽のほどは分からない。
シャリアの能力をもってすれば調べることなど造作もなかったけれど、シャリアもシャアも隣人との健全な付き合いを望んだ。
「そちらは……ああ、お子さんたちのお迎えですか?」
「ええ。習い事から帰ってきたところで……ほらあなたたち、ご挨拶は?」
「こんにちわあ!」
「はい、こんにちは。今日も元気があって大変よろしいですね」
ミライに促され、彼女の二人の子供たちが元気よく挨拶をしてくれる。
それはまさに絵に描いたような理想の家族で、シャリアはまなじりが下がるのを止められなかった。
「まるで孫を見る祖父のような顔をしているぞ?」
「たいっ……シロウズ。私はまだ孫を持つような歳ではありませんよ」
そこに、車をガレージに収めたシャアがのこのことやってくる。
「あら、シロウズさんもこんにちは」
「こんにちは、ミズ・ミライ」
「もう……ミセスで構わないわよ、と言っているのに」
「学会なんかに出るときの癖なんです。かえって気になるなら改めますが……」
シャアは――ここではシロウズと名乗っている――そつなく挨拶を返すと、
「そういえば先日分けて頂いた煮物、とても美味しかったです。ぜひ今度作り方を教えて頂けませんか?」
なんて流暢に世間話まで繰り出す始末だった。
「あんなの、なんでもないただの煮物よ?」
「そういう普通のがいいんですよ。僕らはどちらも料理が苦手なので」
「う……」
「少しでも美味いものを食べたいという願いは切実なんです」
「まあ」
ミライとシャアはさほど歳が変わらないはずだったが、さすが二人の子供を持っているだけあって、その物腰は落ち着いていて穏やかだ。
あるいは彼女自身の生来の気質でもあるのかもしれない。
得体の知れない男所帯であるシャリアたちにも分け隔てなく接してくれ、そのあたたかさをこそばゆくを感じながらも、助けられる場面も多かった。
「なんだ、今日は随分と賑やかだな? 私の出迎えではなさそうだが」
「ブライト」
庭先で世間話に花を咲かせていると、ミライの夫が帰ってきた。
仕立てのよいグレーのスーツに身を包んだ彼はブライト。
こちらもシャアと大して歳が離れていないはずだが、シャアよりもずっと大人びて見えた。
「こんにちは、いや、こんばんわでしょうか?」
「どちらでも構いませんよ、シャリアさん。どうも、うちのがお世話になったようで」
ブライトもまた、シャリアたちにとって良き隣人だった。
ただ、ミライと決定的に違うのは、どうやらシャリアたちを元軍人だと見抜いているらしいというところだろうか。
面と向かって言ったことも、言われたこともなかったけれど、見る者が見ればどれだけ隠そうとしてもそうと気づかれてしまうものだ。
しかしブライトはそれに気づかないふりをして、こうして隣人付き合いを続けてくれている。
その信頼を、裏切りたくはない。
だから、シャリアもまた彼らの身辺を探ることをしないのだ。
「いえ、お世話になったのはこちらのほうで。今度うちのシロウズが、奥方に料理を習わせて頂く約束を」
「ほう?」
「先日分けて頂いた煮物が美味しくて」
「ああ……確かにあれは美味かったな」
ブライトが手放しで褒めれば、それまで快活に笑っていたミライが困ったように下を向いた。
仲睦まじいことだ、と、シャリアはそれを羨ましそうに目を細める。
「それならうちのキッチンを使ってください。ついでと言ってはなんだがシロウズ、君に頼みがあるんだが……」
「キッチンを貸すと言って、そちらが本命なんでしょう? 用件は?」
「おもちゃの修理を頼みたいんだ。ハサウェイの、ペットロボットなんだが」
そう言ってブライトが、ミライの足にまとわりついていた少年の背を押した。
彼は丸いボールのような体に小さな目を貼り付けた緑色のペットロボットを抱えて、シャアをじっと見上げた。
「……ハロ、なおる?」
「ハロ、というのか。君の友達は」
シロウズはハサウェイの前に膝をつくと、おそらく壊れて動かなくなってしまったのだろうペットロボットを優しく撫でた。
「中を開けてみなければ分からんが……また君と楽しくおしゃべりができるよう、最大限の努力をしよう」
「さい……どりょ……?」
「一生懸命頑張る、という意味だ」
「……うん!」
シャアの言葉を聞いて、それまで暗い顔をしていたハサウェイがぱっと満開の笑みの花を咲かせる。
「シロウズ、がんばるって!」
「ええ、よかったわね」
早速ミライに報告に行くハサウェイを見つめながら、
「あのタイプのペットロボットは最近流行っているからな。部品も手に入りやすいし……まあ、なんとかなるだろう」
「助かる」
「なに、こちらも料理を教えてもらうんだ。ギブアンドテイクだよ」
男同士、すっかり打ち解けた風にブライトと会話を交わすシャアを眺めながら、シャリアは改めて良い買い物をした、と、我が家を見上げた。
「ふう……思わぬ出来事もあったが、なんとか帰ってきたな」
「お互い会話が弾んで、ずいぶんと話し込んでしまいましたからね。良いことですが」
ジャケットを脱ぎ、ソファに深く沈み込んだシャアを見てシャリアが微笑む。
「すぐに夕食を用意します。あいにくと、今日のメニューは煮物ではなくカレーですが」
「ふふっ……軍人らしくていいじゃないか。そういえば今日は金曜だったか?」
「いえ、残念ながら木曜日です。大佐」
食事を終えて、シャワーを浴びる。
眠る前にデカフェの紅茶を楽しみながらゆったりとした時間を過ごすのが、このところの二人のルーティンだった。
時刻は午後十時。
眠るにはまだ早いが、映画を見るにはやや遅い微妙な時間を、シャリアとシャアは並んでソファに腰掛けまどろんでいる。
「今日のカレーはなかなかだったな」
「お褒め頂き光栄です。実はミライ夫人に少々コツを教わりまして」
「ほう? 興味深いな」
「大佐に料理の腕前の先を越されてしまっては困るので、これは企業秘密ですよ」
「なんだと?」
シャリアがシィィと口元に人差し指を立てて笑ってやれば、むきになったシャアが膝の上に飛び乗ってきた。
「ずるいぞ」
「ずるくて構いません。これでもあなたの胃袋を掴もうと必死なんです」
シャリアは料理の手際こそ悪くはなかったが、味付けに関してはたいへん大雑把だった。
若い時代のほとんどを木星船団と軍艦で過ごしたことが仇になっていた。
食事は腹が膨れて栄養が取れればそれでよく、味は二の次。
そんな生活が当たり前だったので、美食に対するこだわりが人一倍希薄だったのだ。
「だから私に教えろと言っているのに」
対するシャアは、恐ろしく手際が悪いが味付けに関する才能はあるようだった。
本やテレビで新しいレシピを仕入れては試すそのチャレンジ精神は見習いたいところだし、実際シャアの作る料理はシャリアの鈍い舌でもわかるほどに美味かった。
ただ、シャアが料理を終えた後の台所は木星に吹く風に煽られたごとく壊滅的な惨状となる。
それを片付けるのは当然シャリアの役目だったので、それさえなければ完璧なのになと嘆く気持ちもないではなかったが、完璧な彼の意外な一面を目の当たりにしてそれを微笑ましく思ったりもしていた。
「私が目の前にいるのに考え事か?」
膝に乗ったままのシャアが、むうと唇を尖らせる。
軍にいた頃と違い、シャアの髪はサラサラのストレートだった。
シャリアとしては以前の巻き毛も好ましかったが、これはこれでさわやかな学生らしくてかわいらしいとも思っていた。
「この方が、今時だからな」
おそらく友人たちから言われたのだろう。
「シャリア」
またよそごとに気を取られてしまったシャリアを、シャアが叱りつける。
厚い前髪の隙間から、シャアのサファイアブルーの瞳がのぞいていた。
しっとりと潤んだそれに見つめられて、シャアが求めていることに気づいたシャリアはしかしゆるりと首を振った。
「いけません。あなた、明日は一限からでしょう?」
「多少の夜更かしくらいわけはない。私はまだ若いからな」
「いけません。授業料を払っているのですから、きちんと元は取って頂かなければ」
ぐずるシャアを宥めてやりながら、シャリアが触れるだけのキスをする。
「おやすみのキスですよ」
「……こんなのでは、足りない」
「あっ、こら」
我慢させるつもりが却って煽る結果になってしまったようだ。
シャアはシャリアの寝巻きの襟をむんずと掴むと、強引に口付けてきた。
歯列を割り、シャアの舌が滑り込んでくる。
侵入を許してしまっては抵抗に意味はなく、シャリアは逆にシャアの舌を絡め取ると、その甘さをたっぷりと味わってやった。
「ん、んんっ……」
ぴくぴくとまつげを震わせながら、シャアがシャリアの肩を押す。
目元を真っ赤に腫らせて口元を手の甲で隠すシャアの姿は、ひどく煽情的だった。
「……こんなのは、寝る前のキスじゃないぞ」
「仕掛けてきたのはそちらでは?」
「その気になったか?」
「……なりましたが、いけません」
シャリアの答えを聞いて、シャアが口をへの字に曲げる。
「むう……せっかく一緒に暮らしてるのに、つまらん」
「なにもセックスするだけが同居ではありませんよ」
昨夜も散々したでしょうに、と付け加えてやれば、それを思い出したのかシャアの腰がひくりと揺れた。
「我慢なさい。その代わり、週末になったらまたたっぷり抱いて差し上げますから」
「あ……」
そのことを想像したのか、シャアの口から期待するような色っぽい吐息が漏れる。
正直それにかなりグッときたシャリアは、鋼の精神でそれを堪えると膝の上からシャアを極めて紳士的に下ろしてやった。
「ですから、今日のところはいい子でおやすみください」
そう言って額に口づけてやり、おもむろに立ち上がる。
「シャリア? どこへ?」
「少々所用を用事を思い出しましたので」
涼しい顔でそう答え、リビングを出たシャリアが一目散に目指したのはバスルームだった。
すでにシャワーを終えたシャリアがそこに用があるはずもなく、それに気づいたシャアがひらりとソファから飛び降りてその後を追いかける。
「おい、シャリア? 貴様何をしている?」
「…………別に。なにも」
説得力のまるでない言い訳に「嘘をつけ!」とシャアの怒声が飛んだ。
「ええい、ここを開けろ!」
「……いくら大佐の頼みでも、それは聞けません」
ドンドンと激しくドアを叩く音を聞きながら、シャリアはそろりと下半身に手を伸ばした。
この家の寝室に、ベッドはひとつしかない。
このままシャアと共にベッドに入ってなにもせずに朝を迎えられるほど、シャリアは聖人君子ではなかった。
「大佐は先にお休みください」
そう言ってシャリアは寝巻きのズボンに手をかける。
「ええい! ならば私もここでひとりでするぞ!」
――バタン!
とんでもない一言が耳に飛び込んできて、シャリアは慌ててバスルームを飛び出した。
同じくパジャマのズボンに手を掛けようとしていたシャアを見て、シャリアの頭に血が上る。
「……それは、だめです」
シャリアは押し殺した声でそう言うと、シャアの手を引いて寝室への階段を駆け上っていった。
結局ふたりが眠りについたのは、空が白み始める頃だった。
翌日ふたりは揃って寝坊して、シャリアはドレンに、シャアは学校の友人たちに、それぞれこっぴどく叱られた。