第11回お題「指輪」 赤井と指輪交換をして一年が経った。
自分たちにとっては、指輪を交換した日が結婚記念日であり、同居をはじめた日でもある。
この一年。命を落としかねない、危険な任務に就くこともあった。ふたり揃ってこの日を迎えられたことは、ある意味、奇跡でもある。
記念日の今日。ささやかなお祝いをしようとふたりで夕食の準備をしていると、赤井がふと口を開いた。
「零君。半年前だったか……俺が記憶喪失になったときのことで、聞きたいことがある」
突然のことで降谷は驚いた。
「……聞きたいこと?」
赤井が記憶を失くした日々のことは、今でも鮮明に覚えている。それは降谷にとって、あまり思い出したくない出来事でもあった。
おおよそ半年前。
組織の残党のアジトに潜入した際、毒ガスを吸い込んだ赤井が記憶喪失になったことがあった。毒ガスの成分がわからない以上、このまま記憶が戻らない可能性もある。赤井が逆行性健忘であることを診断した医師は、そう言った。
赤井の記憶がこのまま戻らなかった場合、赤井はすべての人間関係をリセットしたような状態で、新しい人生を歩むことになる。
職場でもプライベートでも、一から人間関係を構築してゆくことになるだろう。自分ではない他の誰かに、恋をすることもあるかもしれない。
降谷は赤井の未来を想像した。
自分たちが籍を入れることのできない関係であったことが、結果的に赤井の人生の選択肢を広げることになるに違いない。
運命のいたずらか。
いや、これこそがきっと運命だったのだろう。
自分は、赤井が幸せになれるよう、陰で支えるくらいがちょうど良いのかもしれない。降谷はそう自分に言い聞かせた。
雨の音が騒がしい夜。病室で眠る赤井の左手の薬指から、降谷はそっと指輪を抜き取った。静かな涙が溢れ、嗚咽は雨音に掻き消された。
翌朝。赤井の様子を見に病室を訪れると、赤井は鬱々とした表情を浮かべていた。
雨はなお、降り続いている。
『君、俺の指輪を知らないか?』
『指輪、ですか?』
『ああ、左手の薬指に嵌っていた指輪だよ。確かに昨晩まではこの指に嵌っていたんだが……』
動揺を悟られないよう、普段通りの声音を意識して降谷はこたえた。
『あなたの左手に指輪が嵌っていたことを僕は知りませんし、あなたの配偶者の存在も確認できていません。あなたの職場にも確認しましたが、あなたは未婚で、恋人もいません』
『……そうか』
法の下では、赤井も自分も独身のまま。お揃いの指輪だけが、対外的に示せる自分たちの結婚の証となっている。
それに、自分たちの関係を知っているのは極一部だ。その限られた人達には、いずれ自分たちの関係を赤井に漏らさないよう話をしに行く。約束を守ってくれる人達だ。赤井に漏らすことはけっしてしないだろう。
赤井が真実に辿り着くための道は、すべて自分が塞ぐ。赤井の指輪を外す決断を下したとき、降谷はそう心に決めていた。
『それに、もしあなたが既婚者だとしたら、あなたのパートナーが血相変えて病院に来ていますよ。……もしかすると、記憶が混乱して、本来存在しないはずのものが見えていたのかも……』
そう続けると、赤井は少し考えるような素振りをみせて、静かに頷いた。
『……そうだな。そうかもしれん』
それ以上、赤井が問い詰めてくることはなかった。
そして、一ヶ月後。
毒ガスの成分が、一時的な記憶喪失を引き起こすものであることが判明した。
赤井の記憶も元に戻り、後遺症もなくすぐに退院となったが、退院する日、赤井は自分にこう言った。
『零君、俺の指輪はどこにある?』
降谷はどきりとした。あの日。自分が指輪を外したことに、赤井は気づいているのかもしれない。
『……家に、あります』
降谷は正直にこたえて、赤井と一緒に自宅へと戻った。
赤井の指輪は、赤色のベルベットのケースの中におさまっている。
赤井の大きな右手の掌に、降谷は震える手で指輪を置いた。赤井は愛おしそうに指輪を撫でて、自身の指に嵌めた。赤井はそれ以上、何も言わなかった。
そして、その日からおおよそ半年が経った今日。赤井はあのときの答え合わせをするかのように、降谷に問いかけてきた。
「なぜ、入院している間に俺の指輪を外したんだ?」
降谷は目を伏せた。赤井の目を見ることができなかった。
「……やっぱり、僕が外したことに気づいていたんですね」
「確信を持ったのは、記憶が戻る直前だよ。あの夜の訪問者を看護師に確認した」
病院の関係者に口止めをしていなかったことに、今更のように降谷は気がついた。
普段の自分ならば、こんなミスはしない。片割れの指輪を奪う瞬間を前にして、平常心を保てなかったのだろう。
「……訪問者は、僕一人だった――そう言われたんですね」
「ああ、そうだ。……零君、本当のことを話してくれないか?」
赤井は静かな声で言った。優しい声だった。
降谷は大きく息をついた。唇が震えているのがわかった。
「……あなたには、僕のいない人生を歩む権利があると思ったんです」
「君のいない人生?」
「僕といる限り、あなたは幸せな家庭を築くことはできません。僕は仕事を何よりも優先するし、いつ命を落としてもおかしくない人間です。……ふとしたときに、考えてしまうんですよ。僕がいなかったら、あなたはどんな人生を歩んでいたのかと」
「それで君は、俺と別れることを選んだのか」
「……はい。あなたが幸せになることが、僕の願いです」
静寂が訪れた。しばらく経つと、ご飯の炊ける音が鳴り、その音に降谷は肩を震わせた。
赤井は微笑んで、突然こう問いかけてきた。
「君は俺の病室にいるとき、左手の薬指に指輪を嵌めたままにしていただろう?」
まさか赤井が、自分の左手の薬指に意識を向けていたとは知らなかった。
「……あれは、僕の未練です。あなたが退院して別の住まいを見つけたら、あなたの指輪と一緒にどこかへ隠そうと思っていました」
物理的な別離が訪れるまで、せめて自分の指輪はそのままにしておきたいと思っていた。本音を綴ると、赤井の口から意外な言葉が飛び出した。
「君が既婚者だと知って、俺がショックを受けたことには気づいていなかったのかな?」
「……へ?」
降谷の口から、ひどく間抜けな声が出た。
「記憶を失くした俺が、再び君に恋をする可能性は考えていなかったのかな」
「ま、まさか、そんなことが……」
降谷は自分の顔が熱くなってゆくのを感じた。
同性である自分を、赤井が再び好きになる確率はいったいどれほどのものなのだろう。
まるで奇跡のような巡合だ。
「俺は“運命の人”を見誤ったりなどしない。記憶を失くそうが転生しようが何度でも君に恋をするし、君のいない人生では幸せになれないと俺自身が一番よくわかっている」
「……」
一言でも喋ると泣いてしまいそうで、降谷は何も言えなかった。
赤井はウインクをひとつして言った。
「この指輪は、あの世にも来世にも持ち込んで、君と一緒に嵌めるつもりなんだ。二度と奪わないでくれ」