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    1o1_ss

    @1o1_ss

    出勝

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    はる酸さんが、過去に描いたくそやろーから始まる出勝の続き(正しくはOFF/ONで書き下ろした漫画)を書いてくれました。
    ありがとう〜〜〜!!!!

    Sandwich and Romance郵便受けを開けたら中に見知らぬ荷物が置かれていた。クラフト紙の紙袋の中にラップと食器洗い洗剤が入っていて、〝先日はお世話になりました〟という女性らしい丁寧な文字でメモが貼り付けられている。差出人には心当たりがあった。ちょうど出久の上の階に住んでいる女の人だ。先日、鍵をどこかに落として困っている所に遭遇し、出久が浮遊でベランダまで送り届けたのだ。お世話になりました、というのはきっとその時のことだろう。別にお礼を言われるほどの事じゃないのに律儀な人だなと思っていると、エントランスに誰かが入ってきた。目が合うなり不機嫌そうに眉を寄せたのは、現在なぜか出久の隣に住んでいる幼馴染の勝己だ。ちょうど今仕事帰りなのだろうか。出久を見ても特に何か言うでもなく、淡々と隣の郵便受けのダイヤル錠を回した。それからふと出久の手元に視線を移して、「何だそれ」と口にする。
    「え?」
    「その紙袋」
    「ああ、なんか上の階の人からのお礼みたい。ここに入っててさ……ラップとか洗剤って地味に使うからありがたいよね」
     出久の言葉に彼は同意するどころか、うわぁとあからさまに顔をしかめた。
    「……てめェ、それダイヤルの暗証番号変えた方がいいぞ」
    「へ?」
     言われている意味が分からなくて首を傾げる。彼は自分の郵便受けからいくつかのダイレクトメールや封筒を取り出しながら「そのサイズの袋は郵便受けから入んねぇだろ」と、呟いた。
    「えっ、うわ……本当だ」
    「ダイヤル開けられてんな。中のもの取ってかれてっかもしんねぇし、危ねぇ女だわ」
    「えぇ……やだな、何か」
     こういう暗証番号って分かるもんなのかなぁ? と独り言のように呟いたら、「回し方が甘ェと結構簡単に開けられる」とかっちゃんが教えてくれた。閉める時は二周くらいぐるぐる回しとけとアドバイスまでしてくれて、珍しく優しいなと思った。
     仕事帰りにスーパーにでも寄ってきたのか、彼は片腕にエコバッグをぶら下げていた。コットン素材のマルシェバッグにはサンドイッチのイラストがプリントされていて、つい先日のことを思い出した。彼が出久の家にサンドイッチを持ってきてくれた時に着ていたパーカーにも同じようなイラストがついていた気がする。〝Route 66〟と小さく書かれているのは店名だろうか。確か、ダイナマイト事務所の近くにあるカフェの名前だ。サンドイッチがおいしいと評判で、事務員さんにもオススメですよと教えてもらったことがあった。
    「それ、お気に入りなんだね」
    「あ?」
    「サンドイッチのグッズ? よく持ってるよね。この前はパーカーも着てたし」
     エレベーターの方に向かう彼の後ろを出久も追いかけつつ尋ねてみる。どうせ行先は同じ階だ。この前、ベランダから逃亡を図るかっちゃんに遭遇するまで、まさか隣に住んでいるのが彼だとは思いもしなかった。こうやってエントランスでばったり会うことも全然なかったし、案外隣人の顔って分かんないもんだなと思う。
    「ああ……なんか調子に乗って自社グッズ作りすぎたんだってよ。すげぇ余ってるらしいから買ってやった」
    「そ、そうなんだ。じゃあ他にも色々あるの?」
    「そー。ベーグルサンドとかマフィンとか」
    「へぇ……」
     エレベーターに乗り込んで、行き先ボタンを押す。意外だ。恋人の作った売れないグッズを買い取って使ってあげるなんて。全然そんな風には見えないのに、かっちゃんって彼氏に対してはそうなんだと、謎の寂しさみたいなものを覚える。あんな激しい喧嘩をしていた割には、別れる訳でもないし。好きなんだなぁとしみじみ思った。べつにショックとか受けてないけどさ。サンドイッチも美味しかったし。全然、出久には関係のない話だ。
    「どこが好きなの?」
    「あ?」
    「だからその、同居人さん、の」
    「あー……」
     心底面倒臭そうにポキポキと首を鳴らしながら、彼は「顔」と言った。
    「顔……まじまじと見たことないけど、確かにイケメンだったような……?」
    「顔が好みだと、大抵の事はまぁ許せんだわ」
    「君ってそんな面食いだったんだね」
     知らなかった。でも四六時中一緒にいるなら、そりゃ好みの顔の方がいいのかもしれない。そういうもんなのか? 出久は恋愛においてそこまで外見を気にしないから、顔がいいから付き合うという感覚はあまり理解できなかった。
    「それだけで付き合ったの?」
    「それだけじゃねぇよ」
    「じゃあ他のどこに――」
     チンと小さな音がしてエレベーターが停止する。いつの間にか目的の階に到着していて、扉が開くなり彼はさっさと先に降りていってしまった。もうてめェなんかと話すことはねぇという態度だ。お父さんと一緒にいたくない思春期の娘かなって感じ。何気なくその背中を見つめていたら、数歩歩いたところで彼は一度だけこちらを振り返った。

    「セックスが上手いところ」

     いつもと同じトーンでそんな事を言うものだから、驚いて声が出なかった。「じゃあな、いずく」と彼が言うなり扉が閉まって、〝下へまいります〟という機械音声が聞こえてくる。
    「えっ、あれ……?」
     なぜか一階のボタンが点灯している。あれ、何でボタンが、なんて考える間もなくエレベーターはみるみる下降して、出久が呆然としているうちに、目の前には再びエントランスの光景が広がった。恐らく、彼が出る間際にさりげなく一階のボタンを押したらしい。嫌がらせのレベルが小学生かよ。みみっちいな。エレベーターと共に下降していく出久の間抜け面を見て、きっと笑っていたであろうかっちゃんを思い浮かべて「なんだよもぉ……」と出久は一人文句を言った。



     セックスが上手いところ、だって。何か、かっちゃんからは聞きたくなかったセリフだなぁと思う。他の誰かから聞くならまぁそうですかで終わる話だけど、かっちゃんから聞くのだけは嫌だ。何となく。
     風呂から出てきたら、ギシギシと部屋の壁が不自然なほどに揺れていた。時刻は十一時を過ぎたあたりで、今日も今日とて元気だなと出久は小さくため息を吐く。もしかして隣室は壁にベッドをピッタリとくっつけてでもいるのだろうか。だとしたら早急にレイアウトを変えてほしい。ちょっと壁から離すだけでこの音はかなり改善される気がするんだけど。これ僕じゃなかったら速攻苦情が入るからなと、出久は冷蔵庫を開けながら一人悪態をついた。冷えた缶ビールを取り出して、少しでも気が紛れるようにBluetoothイヤホンをはめる。何が悲しくてかっちゃんとその彼氏がセックスしている空気を感じながら生活しなくてはいけないのか。スマホでオールマイトの動画を流しながら、プシュッとプルタブを持ち上げた。まじまじ聞いてるのも気まずいし、何かこう、ついうっかり想像してしまいそうで嫌なのだ。かっちゃんはどんな顔で彼氏に抱かれてるんだろうとか、色々。本当に、あまり考えたくない。



     動画を流しながら、そのまま熟睡してしまったらしい。イヤホンをつけたままソファーで寝落ちして、ハッと気づいた時には時計の針は明け方の五時過ぎを指していた。部屋の暖房も電気も付けっぱなしだし、布団をかけずに寝てしまったせいで寒い。イヤホンは充電切れで、いつの間にか音も止まっていた。今からベッドで寝直そうと思っても、時間的にちょっと微妙だ。二時間後には出勤しなきゃいけないことを考えると、ベッドで爆睡してしまうのは危険だった。
     窓を開けると、冷たい風が吹き込んでくる。東の空が薄ぼんやりと明るくなってきて、そろそろ日が昇りはじめる時間だ。隣室は静かで、ギシギシとベッドが軋む音ももう聞こえてこなかった。こんなに寒い中よくパンツ一丁で逃走しようと思ったなと、数日前のかっちゃんを思い出して苦笑した。あの日は出久のスウェットを貸してあげたことで事なきを得たが、きっと彼氏とそういうことをする直前だったのだろう。「何が原因で喧嘩したの」って聞いてもかっちゃんは教えてくれなかったけれど、あまり上手くいっていないだろうことは、彼の静かな横顔から何となく推測できた。出久の部屋のソファーを占領して、つまらなさそうにテレビを見続けていた彼は、そのうちに「帰るわ」とだけ言い残して隣室へと戻って行った。出久が貸したスウェットは次の次の日には綺麗に洗濯された状態でドアノブにかかっていた。

    「……やめておけばいいのにさぁ」

     あんな人、きっとかっちゃんには合わないよ。なんて、言えるわけないけど。ベランダに置きっぱなしになっていた灰皿を手繰り寄せて、タバコを咥える。そこら辺に転がっていた百円ライターで火をつけて、深く息を吸いこんだ。モヤモヤした思考を追い出すべくふーっと肺の空気を全て吐き出したけれど、あまり意味はなさそうだ。早朝の冷えた空気の中に溶けていく煙を眺めながら、これ以上は踏み込みたくないなぁとぼんやり考えた。例えば僕が、ついうっかりかっちゃんを好きになってしまったりなんかしたら、それこそ最悪だ。泥沼でしかないので、何としてもそれだけは回避しなくてはいけない。まぁこんな思考をゴチャゴチャと展開させている時点で、色々と手遅れのような気がしないでもないけど。

    「――何がだよ」

     突如聞こえてきた自分以外の声に、出久は驚いてポロッとタバコを落としてしまった。地面をころころと転がったタバコから一筋の紫煙がくゆる。まだほとんど吸っていなかったのに勿体ない。ベランダの仕切りを一枚隔てたすぐ向こうから、「デケェ独り言だな」とよく知っている声が聞こえてきた。
    「か、かっちゃん? 何で」
    「なんでじゃねぇよ。俺の方が先にいたわ」
    「そ、そうだったんだ……ていうか、早起きだね。まだ日の出前だよ」
    「てめーもだろが」
     よく分からないけれど、出久が来るよりも先にかっちゃんはベランダにいたらしい。少し身を乗り出して隣を覗くと、彼は柵にもたれかかったまま湯気の立ちのぼるマグカップに口をつけていた。なんでわざわざこんな寒いベランダで飲んでいるんだろうと、不思議に思う。
    「寒くない? ここ」
    「別に」
    「なんでわざわざ……」
     出久の問いかけに、彼はじっと部屋の中を見つめながら「物音で起こしたくねぇ」とだけ言った。
    「……な、なるほど?」
     そっか。朝からバタバタしてたら彼氏を起こしちゃうのか。結構繊細なんだな、その人。同居人がいるとそういう気も遣わなきゃいけないのか。ふぅん。生まれてこの方、一度も同棲なんてしたことがない出久には分からない感覚だな――と、自分を納得させようと頭を回してみたけれど、無理だ。内心で、嘘だろかっちゃんと、かなりびっくりしている。あの暴君の塊のかっちゃんが同居人を起こしたくないからという理由で極寒のベランダにいるとか、そんなことある? どんだけ彼氏のこと好きなんだよ。そんなの、絶対に顔とセックスだけじゃないじゃん。
     いつからここにいたのだろうか。スウェットの上に大きめのブルゾンまで着込んで、彼ははぁと白い息を吐く。袖から指先だけをちょこんと出して両手でマグカップを包み込む姿に、不思議な切なさが込み上げた。寒さで鼻の頭とほっぺたが赤くなっている。温めてあげたいなと思ったけれど、仕切り板があるから彼の肌に直接触れることは難しい。いやいや例えこの仕切りがなかったとしても触っちゃダメなんだけどさ。ていうか何だこの思考回路は。相手はかっちゃんだぞ? しっかりしろ緑谷出久。
    「――てめェ、いつからここ住んでる」
    「へ?」
    「このマンション、築二年だろ。新築の時からいんの」
     コーヒーに口をつけながら、勝己がぽつりと呟く。その問いに一呼吸置いてから、「あ……うん、そうだよ」と返した。事務所から近くて、リビングが広くて、綺麗だからこのマンションに決めた。新築で駅近なのもあって家賃は結構高かったけれど、出久からしたら払えないほどの額ではない。一応プロヒーローだし。
    「前、あいつ女と住んでただろ」
    「えっ」
    「それ、どんな女だったか覚えてっか?」
     ちらりとこちらに視線を向ける。今日初めてまともに目が合って、どうしてか心臓が小さく跳ねた。その瞳にじっと見つめられると、途端に落ち着かない気分になる。話題の内容が内容だからだろうか。前に付き合っていた相手がどんな人だったのかを、かっちゃんは気にしている。君ってそんな事をいちいち気にする人だったんだね。好きな相手ができると人は変わるって言うけれど、それにしてはかっちゃんのイメージとかけ離れすぎていて、戸惑いの方が大きかった。
    「……えーっと、ごめん。分かんないよ……部屋が隣だからって顔を合わす訳でもないし」
    「ふぅん」
    「ただ、喧嘩はよくしてたよ。女の人の叫び声も聞こえてきたし……君の彼氏? も結構怒鳴ってた。激しいカップルだなって印象はあったかな……」
    「だろうなぁ」
     ふっと小さく笑った彼が何を考えているのか、出久には分からない。勝己はベランダの折りたたみテーブルの上にマグカップを置くと、唐突に「タバコ一本寄越せや」と出久に向かって手を差し出してきた。
    「え、かっちゃんって吸う人なの?」
    「吸わねぇよ。普段は」
    「じゃあ何で」
    「何となく吸いてぇ気分だから」
    「かっちゃんにもそんな気分の時があるんだね。健康第一って感じなのに」
     そう言いつつも彼に一本手渡して、ついでに百円ライターも貸そうとすると、すかさず「いらねぇわ」と言われた。彼は薄い唇にタバコを咥えると、手のひらでぱちぱちと火花を起こして、器用に先端に火をつける。あまり吸わないと言う割には手馴れているなと思った。オレンジから濃紺へ、グラデーションを描く空をバックにタバコを吸うかっちゃんは妙に様になっていて、ついじっと見つめてしまう。ふーっと白い息を吐き出す横顔からは、少しの疲れが見て取れた。昨日何時までセックスしてたのかは分からないけれど、睡眠も足りていなさそうだ。

    「なに」

     赤い瞳にじっと見つめられる。思いがけずガン見していたことに気付いて、少し動揺した。悟られないように出久もタバコを咥えて火をつける。カチカチとライターを鳴らしたけれど、こんな時に限ってなかなか火がつかなくて、よく見たらオイル切れを起こしていた。さっきはちゃんとついたのに。きっとあれが最後の残り火だったのだろう。
    「ン、貸してやる」
    「へ?」
    「手」
     タバコを咥えた出久の顔に、彼の手が伸びてくる。火を貸してくれるということなのか。さすが便利な個性だな、なんて思った矢先にボンッと目の前で小爆発を起こされて、びっくりして、尻もちをついてしまった。いやいや、さっきと火力が全然違うんですけど。タバコが灰になったし、前髪までちょっと焦げてしまった。
    「あっづい! 何すんの⁉」
    「わり、調節ミスったわ」
    「わざとじゃん! 絶対わざと!」
     くくく、と笑い声が聞こえてくる。出久のオーバーリアクションが面白かったのか、かっちゃんはこちらを覗き込んで、「だっせぇ」とバカにしたように笑った。完全にいじめっ子の顔をしている。この前のエレベーターといい、君の嫌がらせレベルどうなってるんだよ。小二じゃん、なんて思いつつも、普段の調子を取り戻した彼に内心でほっとした。かっちゃんは静かな顔よりも笑ってる顔の方がいいよ、と言いかけて、それはあまりにも気持ち悪いので、ギリギリのところでぐっと堪えた。


     ◇


     財布に無造作に突っ込まれたクリーニング屋の引換券を見る度にげんなりする。会議だったか潜入捜査だったかで着たスーツをクリーニングに出したのはもう二ヶ月も前だった。さすがにクリーニング屋のおばちゃんもいい加減にして下さいと怒っていることだろう。またですか緑谷さんって。次から預かりませんよって。出禁になったらどうしよう、なんて考えながら出久は玄関に鍵を差し込んだ。ぐるぐると悩むくらいならさっさと取りに行ってしまえばいいのに、最近の出久は忙しくて、クリーニング屋の営業時間に全然間に合わないのだ。
     のろのろと鍵を開けていると、突然隣室のドアが開いて驚いた。喋り声が聞こえてきて、すぐにかっちゃんとその彼氏だなと分かる。鉢合わせをするのは気まずいので、向こうが出久の存在に気付く前にさっと体をドアの隙間から滑り込ませた。コンビニ弁当が入ったビニール袋が引っかかりそうになって焦ったけれど、何とか目が合う前に内側から鍵をかけることに成功した。
     ドアスコープからそっと外を覗く。これからコンビニにでも行くのだろうか。ダウンを着ているかっちゃんは前とはまた違うベーグルサンド柄のエコバッグをぶら下げて、彼氏とぽつぽつ話をしていた。すぐにエレベーターホールの方に消えて見えなくなってしまったけれど、仲良さげな雰囲気は伝わってきた。確かに彼氏の方はイケメンだと思う。スウェット姿だし、無精ひげも生えていてちょっとだらしない感じがするのに、整った顔立ちがそれをカバーしている。雰囲気だけで言えば相澤先生系の渋めなイケメンだ。ああいう隙がある人の方がかっちゃんは好きなのかもしれない。しょうがねぇなって言いながら色々と世話を焼いてあげる姿が、何となくだけど想像できた。

    〝かっちゃんの彼氏って、大丈夫なん? あれ〟

     今日、たまたま現場で一緒になった上鳴くんの言葉を思い出す。ヴィランを警察に引き渡した後、少し時間が空いたからお昼ごはんを一緒に食べたのだ。出久と勝己が現在同じマンションの隣同士なことをぽろっと話すと、途端に彼は表情を曇らせた。大丈夫って何が? と思ったのが顔に出ていたらしい。きょろきょろと辺りを見回してから、上鳴くんは控えめな声で続きを話した。
    〝いや、俺もたまたま知っただけだけど。この前ジムのロッカールームで偶然一緒になってよ。爆豪、普通に着替えてたんだけど、手首にくっきりと手の形の痣が出来てたんだよ。ホラーみたいなやつ。それどうしたん? って聞いても無視されたけど、あれぜってー彼氏だって〟
     ――他にも肩とか、背中にも。歯形とかキスマもすごかったし、あいつDV彼氏とでも付き合ってんのかね。
     緑谷は何か知らねぇの? と聞かれたけれど、全くの初耳だった。第一、痣って。おかしな話だ。あのかっちゃんが一般人相手に怪我をするなんて、そんなことあるはずがない。殴られたって余裕で避けられるだろうし、手首を掴まれた所で、逆に掴み返してマウントを取り返すことも容易いだろう。わざと、甘んじて殴られている以外の理由が考えられない。でも一体何で? って感じだ。実はめちゃくちゃマゾだった、的な。いや、いくら何でもそれは無理があるぞ。
     ベランダに出ると、ちょうどマンションの前の道をかっちゃんとその彼氏が歩いて行くのが見えた。街頭のない暗い道だから油断したのか、やたらと距離が近い。ここからじゃよく見えないけれど、多分手とか繋いでいる。本当にどうしちゃったんだよかっちゃん。殴られたり傷つけられたりしても、それでもその彼氏が好きなの? 全然意味が分からない。昔からヒーローとしてのかっちゃんのことはよく知っているつもりだけど、プライベートのことまではあまり知らない。それこそ上鳴くんとか切島くんとかの方が詳しいだろう。だから、かっちゃんが好きな相手に対してどんな接し方をするのか、出久には想像もつかなかった。

    「分かんないな……」

     でも、傷つけられているのだとしたら、それは嫌だ。というかめちゃくちゃ嫌だ。かっちゃんは僕の憧れで、誰よりも身近なすごい人で、誰であろうと彼を傷つけるのは許せなかった。ましてや恋人という立場を利用してかっちゃんに暴力をふるっているのだとしたら、最低だと思う。かっちゃんはプロヒーローだから、相手が一般人だったら殴り返すことができない。一般市民への暴力は、最悪の場合ヒーロー免許剥奪などの重いペナルティを科せられてしまうからだ。
    「……はやく別れればいいのに」
     そう呟いて、でも出久にはどうすることもできない話だなとも思った。かっちゃんが好きであの人と一緒にいるのだとしたら、出久が口を出すことではない。この場合部外者は出久の方で、「てめェには関係ねぇだろ」と言われてしまえばそれで終わりだ。あまり考えたくないけれど、そういうプレイを合意の上で楽しんでいるパターンだってありうる。お互いが幸せなら、それでいいのかもしれない。
     ――本当に?

    「あー……もう、何で僕がこんなに悩んでるんだ……」

     とりあえず買ってきた弁当を食べようと、出久はサンダルを脱いで室内に戻った。部屋の中は外と変わらないくらい冷えきっていたので、エアコンの電源を入れてから、憂鬱な気分で袋からコンビニ弁当を取り出した。


     ◇


     かっちゃんはDVを受けているのかもしれない。
     ひとたびその妄想に囚われると、それ以外のことが考えられなくなって困った。ギシギシと鳴る壁を見つめながら、今頃隣室では彼が痛い思いをしているんじゃないかと思うと、正直気が気ではない。
     既に二十三時を過ぎているというのに、隣からは激しい口論が聞こえてきて、また今日も喧嘩しているのかと、出久は何とも言えない気持ちで壁を見つめていた。そのうちにセックスになだれ込んだのか行為の音がしはじめたけれど、いつもより乱暴な気がして心配になる。喧嘩の延長ではじまった行為なのだとしたら、苛立って、彼氏がかっちゃんに酷いことをする可能性も十分にあった。少しでも状況を探ろうと、ベランダに出てこっそりと聞き耳を立てていたら、ガシャンとガラスが割れる鋭利な音が響いた。間違いなくセックス中に聞こえてくる音ではない。男の人の怒鳴り声も耳に届いて、出久はもう居ても立ってもいられなかった。別にこれくらいの事、彼ひとりで対処できることは分かっていたけれど、出久も頭に血が上って、どうにも止められなかった。耐えきれず隣室のベランダに飛び込んだら、ベッドに押し倒されているかっちゃんの姿が見えて、その首を両手で絞める男の姿を目視した瞬間、プツンと脳の血管が切れてしまった。

    「何してんだよ‼」

     衝動的に拳でガラスを粉砕して、掃き出し窓を吹き飛ばさん勢いでぶち破る。今まさに男に首を絞められているかっちゃんは、出久の姿を見るなり驚いたように目を見開いた。
    「かっちゃんを離せ‼」
     怒りが脳天をぶち抜いてコントロールが利かない。そのまま男の横面をぶん殴ろうとすると、「まて、いずく!」と切羽詰まった声がした。男の手からするりと抜け出したかっちゃんが、寸での所で出久の渾身の拳を受け止める。何が何だか分からないけれど、かっちゃんはピンピンしていて、無事みたいだった。
    「何で止めるんだよ⁉」
    「止めるわ! てめー殴ったらライセンス剥奪になんぞ!」
    「だって、この男が……こいつが! かっちゃんのことを!」
     首を絞めていたのだ。かっちゃんの首を。間接照明だけの薄暗い室内でも、彼の首に指の跡がくっきりと残っているのが分かる。今までセックスしていたのか二人とも裸で、室内には生々しい湿った空気が充満していた。ベッド脇には割れた花瓶の破片が散らばっていて、寝室は泥棒でも入ったみたいにぐちゃぐちゃだ。何やってんだよ。こんな状態にも関わらずセックスまでして、首を絞められてもなお彼氏を庇うなんてどうかしている。おかしいよ、かっちゃん。

    「君はそんなんじゃないだろ⁉ こんなことまでされて黙ってるのかよ! こんな、君の、首に――」

     指の跡が残っているのが悲しくて、涙が滲んでしまう。かっちゃんの体に傷がつくのがいやだ。一瞬、かっちゃんが死んでしまうんじゃないかって思って、怖かったのだ。すごく。息を荒げる出久の背中をぽんぽんと叩きながら、「いいから落ち着け。大丈夫だから」と、かっちゃんがあやすように言った。異常事態にも関わらず、誰よりも彼が一番落ち着いている。彼氏の方はなぜかベッドの上に崩れ落ちて、うつ伏せのまま気を失っていた。
    「あれ、何で……」
    「俺が意識落とした。あー……クソ面倒くせぇ。もうちょっとで思い出しそうだったのに。てめー急に乱入してくんなよ」
    「ど、どういうこと……?」
     よく事態が飲み込めていない出久を見て、彼は呆れたようにため息を吐く。説明するのもダリィわ、という顔のままかっちゃんはベッドから降りて、床に脱ぎ捨てられたままのスウェットに足を通した。


     ◇


    「え、仕事だったの? 全部?」
    「だからそう言ってんだろ」
     翌日、かっちゃんに飯食いに行くぞと誘われて、駅前の居酒屋で飲むことになった。こんな風に一緒にご飯に行くのも初めてで、嬉しいけれど、一体どういう風の吹き回しなんだとちょっとだけビビってしまう。向かい側でビールを煽っているかっちゃんは、今日はグレーの無地のパーカーを着ていて、あの趣味の悪いサンドイッチはどこにも見当たらなかった。
    「仕事って……何の仕事なの?」
    「コイビトのフリする仕事」
    「な、何それ。全然意味分かんないよ」
     彼は唐揚げを口に運んで、もぐもぐと咀嚼する。ごくんと飲み込んでから、「あの男、恋人を目の前でヴィランに殺されたショックで、その前後の記憶が抜け落ちてんだよ」と説明してくれた。
     どうやら、勝己が担当する事件の犯人を起訴できるかどうかが、例の彼氏の証言にかかっていたらしい。ただ肝心のその男が精神的ショックによる記憶喪失で事件は膠(こう)着(ちやく)状態となり、どうにかして思い出させようと、苦肉の策でヒーローが恋人役として一緒にいることになったんだとか。元々気性の荒い人物ではあったが、事件以降さらに不安定になって物に当り散らし、女性では危険だからと、かっちゃんが直々にその任務を請け負うことになったらしい。
    「てめーがガラス破って特攻してきた顔が、あの夜のヴィランと重なったんだってよ。それであの後、無事に記憶を取り戻して、ついでに犯人も逮捕できたわ」
    「そ、そうなんだ……それは良かったね」
    「ブチギレてる時のてめー、すげぇヴィラン顔だもんな。重ねちまうの分かるわ」
    「いやどの口が言うんだよ……」
     生ビールをごくごくと飲むかっちゃんは、いつもよりもだいぶ機嫌がいい。ようやくお役御免となった解放感からか、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。「飲まねぇなら寄越せ」と頼んだばかりの出久のビールまで勝手に飲んでくる。
    「でもさ、いくら仕事とは言え、よくそんなの引き受けたね……僕だったらできないよ、多分」
    「ま、あいつの面がもう少し悪けりゃ断っただろうな」
    「えぇ……」
    「セックスも悪くなかったし」
     彼は平然とそんなことを言って海老とアボカドのサラダに箸を伸ばす。いくら恋人役とはいえ、別に夜のアレコレまで付き合わなくてもいいだろうに。そこまでしろって事務所の方も求めてないのにそうしたってことは、かっちゃんの方にも、少しくらいはその気があったのかもしれない。

    「それ、実は満更でもなかったんじゃないの? かっちゃんも」

     出久の質問は聞こえただろうに、どうしてか彼は小さく笑っただけで、何も答えてはくれなかった。
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