チワワ尿意を催し目が覚め、ベッドから這い出て立ちあがろうとしたところで、背後から左腕を引かれて後ろ向きに倒れ込んだ。
「どこに行くの」
勝手に購入、搬入された、女のワンルームにはそぐわないオーダーメイドのでっかいベッドに頭まで布団をかぶって丸まりながら、私の左腕を引き倒した大男の喉から地を這うような唸り声が出る。
その太く形のいい眉は目一杯眉間に皺を作り、眉尻をこれでもかと吊り上げていたし、怒りを感じると長兄と目元が似るので非常に目つきが悪くなっていた。
少し、涙を浮かべている。
「トイレだ、トイレ!あと、よく見ろ、ここは私の部屋、お前と私が乗っているのはお前が勝手に買ったベッドの上!」
言われて、男は、オウケンはかぶっていた布団から這い出て、私の腕を掴んだまま部屋中をぐるりと見渡し、最後に私の目を見て、腕を離した。
「早く済まして」
「勝手だなー」
「君ほどじゃないよ…」
「責任取ってアレ以来ラブホには行ってないじゃないか」
「…うん」
はぁ、とため息をついて、漏れそうだったのでことが終わった後ブラトップとパンツだけ履いた状態の、そのままの格好でトイレへ急ぐ。
オウケンの方は素っ裸だ。朝勃ちがすごいからパンツ履いてほしいんだけどな。目のやり場に困る上に、あわよくば一発に持ち込もうとするので厄介である。
用を足し、ジャーっと水を流してベッドに戻ると、ベッドの上でいい子に待っていたオウケンは私のために布団を持ち上げ、自分の横をポンポンと叩いていた。
ベッド横のテーブルに置いてあるデジタル時計を見ると、午前四時。例のネットミームが頭をよぎって少し笑えた。
まだもう少し眠れそうだな、とベッドに乗り上げコイコイをしている男の隣に素直に横になり、その胸板に背中を寄せた。
こいつの胸板は、好きだ。
満足したように鼻息を一つついたオウケンは、私を抱き抱えてあの日の恨み言を吐く。根に持つ男なのだ。
「あの時僕がどんな気持ちでいたかわかる?」
「まーた始まった。寝かせろ」
「君に捨てられたんだと思って食事も喉を通らなかったし夜も眠れなかった」
「そうは言うがな、私は何度もお前を起こしたぞ。爆睡してて起きなかったのはお前だ。仕事に遅れそうだったから置いてった。スマホにメッセージだって入れたのに気づかないで泣き喚いてたのはお前だろ」
「置いていったことに問題がある」
私を抱く腕がかすかに震え、同じく震える吐息がワナワナと首筋にかかり始め、男が泣き始めたことを知る。泣き虫なんだなぁ。
「仕事遅れた分の時給と信頼の責任取ってくれるのか?まああの時の相手はお前の次兄だったから言い訳はきいただろうがな」
「時給ならいくらでもなんとかできる」
「ブルジョワ!」
「ラブホに置き去りにされるなんて…初めてのラブホで僕すごく楽しかったし気持ち良くて幸せだったのに…」
「泣きながら女抱いて幸せになれるのか…」
「泣かせてるのは君だよ!」
そう、私はオウケンを一晩過ごしたラブホに置き去りにした。なんかすっごい部屋だった。
天井は鏡ばり、ミラーボールがいくつも周り、お風呂もガラス張りでレインボーライトがジャグジーの隣で輝いていた。オウケンははしゃぎ切って泡風呂の素を全部注いだので、風呂場が大惨事になった。
そして例に漏れず「僕を見て!」「僕だけを見て!」「好きだよぉ」「愛してるんだ!」「僕を見てぇ、お願いだぁ」と煩く泣きながら私を抱いて(抜かずの5発)疲れ切った男は朝になり頼んでいたモーニングコールにも起きなかった。
聞いたところによると、コイツは毎朝兄たちに起こされているようで、それがなかったのも災いしたのかも知れない。
とにかく、起きなかった。
先も説明したが、仕事があったので置いていった。
その男前の顔面を思い切り張り飛ばしても、鼻を摘んでも、まつ毛をこしょこしょしてみても起きなかった。
だから諦めて置いていった。スマホにメッセージを入れるのを忘れずに。
そして仕事がひと段落してスマホを確認した私は、しっかり延長料を払う羽目になったその男からの着信履歴に驚いた。4時間で200件。こわ。ストーカーじゃん。
もう面倒なのがわかっていたので、その場にいたコイツの次兄に、電話をかけた瞬間スマホを渡すと大きな声がそれから出てきた。
「ミランジョぉぉぉぉ!!!オェッ、オェッ、う゛ぇっ、どごにいるの!なんで置いていくの!捨てないでよぉぉぉぉぉぉぉっぉ!なんで電話に出ないの!」
「オウケン、うるさいですよ」
「デスパー兄さん?!なんでミランジョのスマホに出るの?!さてはまた?!」
「違います、仕事です。それで一緒にいます。ていうかなんで泣いてるんです?あと、兄者が貴方と連絡がつかないって心配してましたよ」
「それについてはさっきしこたま怒られたからもう聞かないで!」
どうやら仕事に出てこないオウケンを心配したデスハーが連絡を試みたが繋がらなかったことと、無断欠勤したことをしこたま咎められたようで、それが原因で二重の意味で泣いていたようだ。
そして、デスパー越しにスマホに話しかける。
「ようやく起きたか。メッセージ入れてあるぞ。私のメッセージにはすぐ気づくんじゃなかったのか。嘘つきめ」
「え」
スマホ越しに驚きの声が聞こえ、ゴソゴソと何かしらの音が聞こえる。しばらく無言だったそれから、「あ…」と一言聞こえてきたと思うと、ブッツリと通話が切れた。
「お前の弟、割と間抜けだな」
「夢中になると周りが見えなくなるだけです」
二人して顔を見合わせて、笑った。
だがそれ以来オウケンは夜中に私がベッドから抜け出す気配に敏感になってしまい、更には置き去りにされてことがトラウマになってラブホを見るだけでもガタガタ震えるようになってしまった。
面倒な男に好かれたものだ。
「はいはい、悪かった悪かった。無断欠勤したから一度も殴られたことのないデスハー兄者にも殴られちゃったもんな」
「大事な会議があった…」
「それ私のせいじゃ無いじゃないか。自業自得だ。何度も言うが私は起こした」
「ううう…」
恥ずかしくなったのか、オウケンは私を抱きかかえ縮こまり丸まる。完全に抱き込まれて、私は脱出が不可能になった。
だが、男に求められるのは、女として悪い気はしない。
このまま、朝まで眠ってしまおう。仮初の恋人よ。
「もう寝よう、また明日…」
言って、目を閉じるとすぐに眠気に襲われ夢の世界に旅立った。
男の目がグルグルしているということにも気付かずに。
*****
確かにトラウマになりはしたが、ギャン泣きしたしデスハー兄者にもガッツリ殴られコッテリ絞られたが、会議はなんとかなったし商談もうまくいった。
私ではなく長兄の腕によるものだが。
だが30も超えた大の男がラブホを見ただけで震えるわけがないだろう、チワワか。
大体仕事で車や電車を使って移動する際にどれだけラブホを見かけると思ってる。駅の裏、線路の途中、少し地方に行くと高速の両脇に軒を連ねているそれらを見るたびに震えてたら身が保たない。ていうかラブホ恐怖症なぞ聞いたことがない。
君が申し訳なさそうに私を見るから。
君が震える私の指先をとりきゅっと握るから。
申し訳なさそうにしつつ、私を見上げる君の顔がおかしそうに、楽しそうな笑顔を浮かべているから。
ピエロになっているだけだ。
君が私を間抜けな男だと言っているのは知っている。
実際間抜けだ、いつ現れるかもわからぬかつてのボッス王国の二代目国王の妻に再びなることを夢見ている女に惚れているし、っていうかもうアチラから見つけられて既に喧嘩を売られた後だし(君は知らないだろうけど、デスパー兄さんの教え子と連んでたよ)、ミランジョは必ず私の元へ来る、と16になったばかりのクソガキのたかーーーい鼻っ柱の憎ったらしいこと!
でも、君も間抜けだと思う。
私をチワワだと思い込んでるその様、非常に間抜けだと思う。
いいかい、賢い女は馬鹿な女を演じられるけど、逆に馬鹿な女はどうやったって賢い女を演じられないのと同じように、ドーベルマンはチワワを演じられるんだよ。チワワはドーベルマンにもピットブルにもなれないけどね。
君が私にチワワを望むなら、演じてみせるよ。
だけど私を猛犬だということ、忘れない方がいい。君の元旦那は賢いからその辺よくわかってて舐めてはかかってこなかったよ。
「ハハハ…愛してるよ…」
腕の中、すやすやと寝息を立てている私のお姫様の額に口づけを落とす。
むにゅ、と口をモゴモゴさせて身じろいだ君は、私の物だ。
おわり