ふたりビュオオ…と山の木々を揺らす風の音とガタガタと窓のガラスが揺さぶられる音に豊前は薄く瞼を開けた。今夜は注意報が出るくらい風が強いと言っていたが、予報はあながち間違いでもなかったみてーだ。
というよりも、天気予報より何より桑名が、俺の横でイビキをかいているジジイがそう言っていたのだから間違いないことはわかりきっていた。
それより意外だったのは。
桑名が鼾をかくようになるなんてな。桑名の鼾は昨日今日始まったことじゃねーけど、それでも意外だったんだよなぁ、と俺は隣で寝ているジジイの顔をまじまじと眺める。まぁ俺も自分の鼾がうるさくて起きることもあるし、人のこと言えねーんだけど。
俺達がまだ若かった頃には欠片も浮かばなかったようなことが今では俺達の当たり前になっている。若かりし頃の桑名は寝ているのか死んでいるのかわからないくらい静かで、口元に満面の笑みを浮かべて布団にぴしっと直立のまま胸の上で手を重ねていたから本当に人形みたいで何度も鼻を抓んだりキスしたりしてちゃんと生きてっか確かめたりしていたのに、それが今じゃこれなんだもんなぁ。
今薄く口を開けつつも鼻で寝息を立てている男はあの頃の桑名とは似ても似つかない。
ぬいぐるみみたいにかわいかった顔は精悍さを増して今じゃシビれるほどの深みがあって、桑名のじーちゃんに似てるっちゃ似てるけど、でもやっぱり全然違う。若い頃にはこんなハリウッドの老練な俳優みたいになるなんて想像もつかなかった。
でもそりゃそーだよな。
あの頃はもっと。
なんつーか。
お互い瑞々しかった。
肌はもちろんだけど、気持ちがそもそも若かったし、一皮剥けば果汁の滴るような生命が迸っていた。
それが今じゃ手なんかこんなに筋張ってっし、身体のどこもかしこもがシミだらけだし、肌だってあの頃みたいに水を弾くような張りを失って久しい。それに皺だって。今じゃ彫刻刀で削ったかのような皺が目尻にくっきりと刻まれている。生命力はっつーと、あの時みたいな勢いはなくなったけど、むしろ大地に大きく根を張っているような盤石なかんじ。そう、桑名はある時から老化を止めた。見た目も俺ほど劣化しなくなって、足腰は強ぇしそこらの学生よりよっぽどスタミナあると思う。農業とか林業とか漁業とかしてる人ってすげーな。俺も桑名の作業を手伝っちゃいるけど桑名ほどのスタミナはない。俺達どうしてこんなに差がついちまったんだろ。やっぱり自然と真っ向勝負してる桑名とは覚悟が違うんだって思い知らされる。それとも他になんかあんのか?俺が苦手でお前だけ食ってるもんとか。もうそういうのもなくなったはずなんだけどな。
「どーなんだよ。その若さの秘密、教えろよ」
しゃがれた声は風の音にすぐにかき消される。びゅうびゅうと吹き荒れる音に裏山の杉を思う。倒木や土砂崩れで山道が通れなくなってないといいけど。俺と桑名しか使わない道ではあるけど、封鎖されちまったら復旧が大変だかんな。ここ何年かは台風が来ても被害が少なく済んだけど、5年位前に山道がことごとくやられちまった時は本当に大変だった。倒木を運べる大きさになるまで切り刻んで、トラックに載せて運んで。落ちてきた岩もてこの原理と台車を使って移動させて。そんな時でも桑名は根気よく着実にひとつひとつの作業を終わらせていく。
そうやって俺達は月日を重ねてきた。
その積み重ねの上にあんのが今の俺達の生活。
若ぇ頃は、血圧とコレステロールを下げる薬を毎日飲むとか、深夜2時に毎日小便のために目が醒めちまうとか、桑名と同じ時間に朝起きれるようになるとか全く思いもつかなかった。
それだけじゃない。桑名のチン毛の半分くらいが斑に白い毛になるとか、乾いた草みたいなにおいが桑名からする時があるとか、肉厚な唇がカサカサになるとか、耳毛が信じられないくらい生えてきたとか。そのどれもが付き合い出した頃の、20代の俺達には想像できなかったことだ。
それでも。
「こんなにも…好きだ。」
ポツリと溢れた言葉からじわじわと実感が込み上げて来る。
好きの意味が家族としての好きの色合いを増しても、運命共同体としての好きが増えても、恋人同士だった頃の好きの気持ちは全然消えない。桑名の人間性が好きだって思いながら、恋愛対象として惹かれているって思いが常にある。
笑えんだろ?
こんな80手前のジジイがだぜ?同じだけ一緒に年を重ねてきたジジイのことこんなにも好きで、同じ布団で寝てて、一緒に生きてる喜びに震えてるなんてよ。
もう俺のは全然勃たねーけど、それでも俺の桑名を好きな気持ちはちっとも減っていかない。
むしろ今でもどんどん好きになってる。
あんなにはち切れるくらい好きで好きで好きで、これ以上桑名の存在がでっかくなっちまったら破裂しちまうんじゃねーかって思ってた若ぇ頃からどれだけも歳月が経ったってのに。それでも。いや、それもなんか違ぇな。昔は自分って人格がある上で桑名を好きって気持ちが単独で肥大してたけど、今は自分の人格の中に桑名が溶け込んで来てる気がするっつーか。
俺の人生も俺自身も俺だけのものじゃなくなったっつーか。
俺のどの思い出にも桑名がいて、俺の性格だって桑名との生活でだいぶ変わったし、これからだって桑名のいない人生は考えられない。
なぁ、俺より先に死ぬなよ。
なんて。
農業と健康的な食生活で身体ができてる桑名はこの年になってもアホみたいに元気で、先に死ぬなら俺の方ってわかりきってんのにな。
でもそれは俺にとっては救いだ。
俺は、多分桑名が先に逝っちまったら駄目んなっちまう。きっと抜け殻になってすぐにぽっくり後を追っちまうんじゃねーかな。自ら命をどーこーするとかそんなんじゃなくて、ロウソクの火がふっと消えるようなそんなかんじで。
でも桑名は俺が逝ってもきっとでーじょーぶだ。この世界は循環してるからって笑って遺影の前で手ぇ合わせてくれんだろ。いってきますとか、ただいまとか言ってさ。
いってきますとただいま、か。
何をするにも一緒の俺達があんまり言わなくなった言葉を一人になったら言うんだな。昔二人で暮らし始めた頃には、一緒に暮らしてんだなって言うたびに実感してた言葉を、ずっと一緒にいたら言わなくなって、今度は離れ離れになってまた言うのか。
「おい。一人で寝んな。桑名」
しんみりしちまった俺は堪らなくなって桑名の腕をぐっと自分の方に引き寄せる。その力でごろんと転がってきた桑名が俺にのしっと体重を預けると桑名の重みを感じられて安心する。
好きだ。好きだ。好きだ。
この重みをずっと感じていたい。
愛する人が生きている重み。
俺のかけがえのない大事な人。
「んふふ、ぶぜん…だいすきだよ」
ぎゅう、っと抱き締められると外の世界の風の音が少しやわらいだ気がした。気のせいかもしれないけど、あながち気のせいでもないのかもしれない。
桑名がいるから。
桑名がいるから守られてる。
俺の胸ん中の一番やらかいところとか。
大切な思い出とか。
チョッチョッ
風の音の合間に聞こえてくるのは雉の鳴き声。二人で山奥に引っ込んで来なけりゃ知ることのなかった鳥の鳴き声だ。
「雉のメスは乱婚性でね」
急にはっきりした声で喋りだした桑名に起きてんのか?と聞き返すも返事はなくて。ただむにゃむにゃと満足そうな桑名を起こす気にもならず、ただ桑名の方に向き直る。
「豊前は雉になっちゃダメだよ!」
またも大きい寝言。
一体どんな夢見てんだか。
桑名があまりにもいつも通りの桑名で、思わずくつくつと笑いが込み上げる。あぁ、お前はそれでいいよ。頼むからピンピンコロリで逝くその日までお前のままでいてほしい。
きっと叶うであろう願いを胸にそっとしまって、豊前は桑名の胸に頬を擦り寄せた。