杯になみなみと酒をそそぐ。
初め、唇を少し濡らして、そこから一気に口の中に流し込む。
むせた。
江澄は周囲を見回したが、夕刻の酒楼はにぎわっていて誰も気に掛ける者はいない。
菜をつまむ。ろくに噛まず酒で流し込む。壺の中身がなくなるまで同じことをくり返した。
「お客さん、おかわりいるかい」
江澄が立ち上がろうとすると、すかさず主人が酒壺を持って寄ってきた。卓上に出した貨幣に少し足して、一壺だけ受け取り宿へと戻る。
その道すがら、江澄はふと空を仰いだ。
月はない。
雲の切れ間、星がちらついている。
「こちらにいらっしゃいましたか」
思いがけない声に、江澄は飛び上がるほど驚いた。振り返ってみれば白い装束の、藍宗主が立っていた。
日中、姑蘇の外れにある小さな世家で会合があった。宗主からは宿泊を勧められたが、江澄は断って別の町に宿を取った。だというのに、なぜ藍宗主と出くわすのか。
藍曦臣は静かな足取りで近寄ってくると、唖然としている江澄の手から壺をさらった。
「なんでこんなところに」
「あなたを探していたのですよ。宿は見つけましたが……、戻っていらっしゃらないので」
「なんの用だ」
「それは宿でお話ししましょう」
白い指先が、江澄の手を引いた。軽く振り払えるほどの力だが、逆らえなかった。
江澄はふらふらと藍曦臣について歩く。闇に浮かぶ白い後姿が次第ににじんでいく。
会合のあった世家で、藍曦臣はそこの宗主と話していた。
「では、このまま縁談を進めてよろしいので」
「お願いします。良き縁になりますようにお取り計らいください」
「ええ、ええ、もちろんです。いや、これは嬉しいですな。うちの娘も喜びます」
その瞬間、ぐらりと世界が傾いた。
いつからか、藍宗主は自分と同じで、妻を迎えないと安心していた。勝手な思い込みが破られて、倒れそうになるくらいの衝撃を受けた。
藍宗主とは少しばかり親しくしているが、友といえるほどの間柄ではない。
それなのに手の震えがおさまらないほどに動揺するとは。
「結婚するのか」
宿の手前でついに言葉がこぼれ出た。
黒髪と抹額が翻り、藍曦臣がこちらを見た。驚きに見開かれた瞳には、ひどく醜い顔が映っただろう。
江澄は笑いながら酒壺を奪い返して、栓を抜いた。
自分の愚かさが、おかしくてしかたない。
直接、壺から酒を流し込むとまたむせた。
「江宗主、大丈夫ですか」
「やめろ」
背中をさすろうとする藍曦臣から逃げようとして、江澄はたたらを踏んだ。
力強い腕が肩を抱く。
心臓が跳ねた。
「危ないですよ」
耳元で声がして、手から力が抜けた。
壺が地面に落ちる。
酒が、流れ出ていく。
「江宗主、ともかく宿へ」
顔が近い。
それこそ息のかかるほどの近さに、藍曦臣の美しい顔がある。
江澄は藍曦臣の襟首をつかむと、思い切り引き寄せた。
唇がぶつかる。
「俺に構うな」
それだけ言い捨てて、江澄は藍曦臣を突き飛ばそうとした。しかし彼はびくともしない。それどころか、江澄のほうが抱きしめられてしまった。
「な、なにを」
「結婚しません」
聞き返す間もなく、唇が押し付けられた。
江澄のかかとが壺にぶつかって、まだ残っていた酒が足にかかった。