雨は夜の内に上がっていた。
ぽたり、ぽたり、と屋根から落ちるしずくが地面に水たまりを作っている。
「じゃんちょーん」
小道を歩く江澄に呼びかけたのは、脇の草むらにしゃがみ込む魏無羨だった。彼は立ち上がると衣についた細かい水滴を振り払って、江澄の肩に腕を回した。
「まーた寒室に泊まったのか」
「悪いか」
江澄は魏無羨の腕を振りほどいて再び歩き出した。厄介な奴に見つかった。朝にもかかわらず、魏無羨が待ち構えていたことを考えると、嫌な予感しかしなかった。
「兄ちゃんは悲しいな。たまには静室にも遊びに来いよ」
「誰が兄ちゃんだ」
江澄は鼻を鳴らした。だいたい、静室には藍忘機がいる。江澄が姿を現そうものなら恐ろしいほど不機嫌になるだろう。それがわかっていて、誰が行くものか。
しかし、魏無羨はあきらめなかった。そのあともしつこく江澄の周りをついて歩いて、とうとう山門までやってきた。
「なんなんだ、なにか用があるのか」
江澄がしびれを切らすと、魏無羨はにんまりと笑った。
「いやー、兄ちゃんはうれしいんだよ。お前にも好きな人ができて」
「は?」
「さっさと道侶になればいいのに」
「は?」
「で、いつ祠堂にあいさつに行くんだ? もう行ったのか?」
江澄は大げさにため息をついた。やれやれと首を振ってみせると、魏無羨は口をへの字に曲げた。
「なにを誤解しているのかは知らんが、そんな予定はないぞ」
「相手は沢蕪君だろ? だったら……」
「なんの相手だ」
魏無羨の表情が変わった。曲げていた口元をむにむにと動かして、「いや」とか「その」とか言うものだから、江澄はもう一度ため息をついた。
「さっきからなんの話をしているんだ、魏無羨」
「なんのって、お前と、沢蕪君の、そのー……」
「俺と藍曦臣は友人だ」
ことさらにきっぱりと、江澄は言った。
続けて「お前には関係のないことだ」とも付け加えた。魏無羨に付け入る余地を与えておくと、ろくなことにならない。
「嘘だろ。だって、ここに来たら絶対寒室に泊まるだろ」
「おかげさまでな。親しくさせてもらっている」
「一晩中なにやってるんだよ」
「あれこれと話しているとすぐ亥の刻になるんだ」
「それだけか?」
「それだけだ」
魏無羨は首をかしげているが、彼にはきっちり「友人」だと納得してもらわないといけない。
江澄と藍曦臣は言い表すことのできない間柄に陥ってしまっているものの、無理に名前を付けるならば友人のほかにないのである。
「もう用は済んだか」
「いや、えー……、まあ、お前がそう言うならそうなんだろうけどさ」
「なんだ、文句でもあるのか」
「文句じゃなくて、もし、お前が沢蕪君と……」
「ありもしないことを言うな、魏無羨」
声がわずかに震えた。江澄は眉間にしわを寄せて、まなじりをつりあげた。腹の底から声をしぼり出した。
「迷惑だ」
本心だった。まったく、ありもしないことなのだ。これから先にも、あるはずがないことだ。
そんなことを持ち出して、いたずらにかき乱す魏無羨に腹が立った。
しかし、魏無羨も負けてはいなかった。彼は江澄をにらみ返して、念を押すように尋ねた。
「じゃあ、お前は沢蕪君を好きでも何でもないんだな?」
江澄は「当たり前だ」と言い放って、三毒を抜いた。
胸の奥が焼けるようだった。
「もう、行くぞ」
「本当だな?」
「しつこい!」
「大事なことだろ!」
「意味が分からん! ああ、もう、うるさい!」
本当は三毒に飛び乗って空に上がってしまいたかった。しかし、逃げるように去ってしまえば魏無羨は疑い続けるだろう。
「藍曦臣はただの友だ!」
しばし、魏無羨とにらみ合った。彼が江澄の言い分を信じない理由がわからない。寒室で起きていることなんて、知れないはずなのに。
険悪となった二人の間に割って入ったのは、魏無羨よりはるかに不機嫌そうな低い声だった。
「魏嬰」
江澄がゆっくりと視線を移すと、坂を下ってくる藍忘機の姿があった。
魏無羨は飛び跳ねるようにして男の元へと駆け寄っていき、江澄は片手に握りっぱなしだった剣を浮かべた。藍忘機には拱手をして、言葉も交わさずに三毒に乗った。
朝まで雨を降らせた黒雲はどこに消えたのか。
浮かび上がった空には、薄雲がたなびいているだけだった。