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    takami180

    @takami180
    ご覧いただきありがとうございます。
    曦澄のみです。

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    takami180

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    澄くんと先生、まとめました。
    ついったのツリーから移植しただけなので、字下げもしてないし、誤字脱字等の修正もしていません。
    そのうち、清書したら支部にあげます。

    眠れない夜に、塾の曦先生宛に送れないメッセージをひたすら打っている高校生の澄くん。おやおや、打ちながら寝てしまいました。その拍子に親指が送信ボタンに触れました。

    ——ここから、いなくなりたい。先生、どこかに連れて行ってくれませんか。

    明日は土曜日、午前中から塾があります。
    目が覚めて、澄くんは真っ青になりました。昨日は両親が言い争いをしてげんなりしていたとはいえ、塾の先生に送る内容ではありません。そもそもが緊急事態用の連絡先です。
    どうしましょう。10時から授業もあります。震える手の内でスマホがメッセージの着信を伝えます。先生からでした。
    ——いいよ、どこに行きたい?
    まさかの返事です。やさしい先生なので叱られることはないと思っていましたが、受け入れられるとは思っていませんでした。
    澄くんは慌てて「ごめんなさい」と送りました。もう受験生になるのです。遊びに行く時間はありませんし、そんなことをしたら誰が批判されるか知っています。
    先生からは「気にしないで」と返ってきました。澄くんはほっとして朝の支度をはじめます。
    とりあえず、今日の講義は数学と先生の英語です。

    夕方、講義が終わってからも澄くんは自習室に居残ります。なるべく家にはいたくありません。19時、閉室の時間になると先生が「帰りなさい」と様子を見に来てくれます。このちょっとした時間が澄くんの楽しみです。
    「ところで」
    澄くんがリュックにテキストを詰めていると、先生が思い出したように言いました。
    「行きたい場所はあるの?」
    それは朝のメッセージのことでした。澄くんがびっくりして先生を見ると、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていて、澄くんをとがめているわけではないようです。
    「えっと……」
    「決まってない?」
    澄くんはうなずきました。先生は考えておくね、と言って澄くんの頭をなでました。
    これにあせったのは澄くんのほうです。そんなことをしたら先生の立場が悪くなります。下手をしたら、犯罪者です。
    「ごめんなさい、あの、間違えたんです。忘れてください」
    「そうなの? だれか連れていってくれる人がいるの?」
    「……いません、けど」
    「それなら、私にしておきなさい」
    先生が澄くんの手をぎゅっと握ります。澄くんはうつむいて、奥歯を噛みしめました。これはきっと誤解されているのでしょう。自分が自棄になって、危ない目に合わないように心配されているのです。
    「大丈夫です。帰ります」
    澄くんは先生の手を払って、自習室を出ました。早足で駅までの道を歩きます。
    悲しいのに、それはそれとして、先生の手に触れられたことに、ドキドキしてしまう自分が嫌でした。



    両親と姉と姉の婚約者家族とで、お花見を予定していたその日はあいにくの雨でした。どうしてそのようなことに決まったのかはわかりませんが、澄くんが気がついたときには澄くんの家でのホームパーティに変更されていました。
    とりあえずパーティーに顔を出し、ジュースとおにぎりだけ確保して自室に引っ込んだ澄くんでしたが、家中がそわそわしていて勉強どころではありません。同じ思いをしているはずの義兄は、早々に外出したようで姿が見えません。
    澄くんも結局耐えきれずに家を出ました。行き場所はありません。とりあえず、雨をしのぐためにファストフード店に入ろうと、駅前までやってきました。
    ふと、塾の入っているビルを見上げると、照明がついています。日曜日はお休みのはずですが、誰かいるのでしょうか。
    澄くんは期待半分で塾のフロアまで上がります。
    エレベーターを降りたところで、ちょうど扉から先生が出てきました。
    澄くんはしまったと思いましたが、隠れるような場所はありません。先生は驚きながらも穏やかな声で「どうしたの」と尋ねました。
    「今日はお休みだよ」
    「知ってます。でも、電気が……ついてたから……」
    先生に会えるかもしれないと思って、というのは心の中で付け加えました。
    「少し、仕事が残っていてね。もう、終わったから帰るところだよ」
    「そうなんですね」
    「君は? どこかへ行くの? それとも、帰るところかな?」
    澄くんは返事に困って、首を振りました。
    「ちょっと、家だと、集中できなくて」
    先生は「そうなの」と言っただけで、詳しくは聞きません。手際よく警備システムのスイッチを入れて、扉に施錠し、エレベーターのボタンを押します。
    「ところで、勉強でわからないところはない?」
    「え?」
    「数学でも英語でも構わないよ。そうだね、教室は使えないからどこかに行こうか。少し歩くのだけど、公園の前にある喫茶店はどうかな。窓から桜が見えて、とてもすてきなお店だよ」
    ポーン、と音が鳴ってエレベーターの扉が開きます。先生は先に乗り込むと、開のボタンを押しながら、澄くんの顔を見ました。
    「そうそう、勉強のついでに私のおやつにも付き合ってもらえるとうれしいのだけど、どうかな」
    「……はい」
    澄くんが乗るとすぐに扉が閉まってエレベーターは降下します。あいにくビルの外では先ほどよりも雨が強くなっていました。
    澄くんは先生の背中と揺れる傘を見つめながら歩きます。
    件の喫茶店までは十五分ほどあります。靴はびしょびしょになりました。うっかり水たまりを歩いたせいで靴下まで濡れてしまいましたが、澄くんは構いませんでした。
    「もう散ってしまうね」
    途中、公園の脇を通りながら、先生が桜を見上げて言いました。
    満開を迎えたばかりの桜は、その根本にたくさんの薄紅色を散らしていました。

    澄くんが知っているようなカフェとは違い、ゆるやかに流れる音楽と、コーヒー豆を焙煎する音が響く喫茶店は異次元でした。気後れする澄くんに先生は優しくほほえんで、窓際のソファ席へとうながします。
    澄くんはチーズケーキとコーヒーを、先生はミルフィーユとカフェオレを頼みました。
    形式的には勉強を教わるための時間なので、澄くんは英語についていくつか質問をしました。先生は澄くんにテキストを出すように言い、しっかりと解説してくれました。
    いつもより近い距離で話す先生は、いつもと同じように穏やかでした。長い指がテキストの文章を指し示す度に、澄くんは落ち着かない気分になりましたが、なんとか表には出さずに、特殊構文に取り組みました。
    そして、気がつけば日が落ちていました。
    「こんな時間まですみません……」
    「私のほうこそ、時計を見ていなくて申し訳ない」
    二人はいそいそと片付けをして喫茶店を出ました。まだ雨は降り続いていましたが、澄くんはそれに気づいてびっくりしました。雨だったなんて、すっかり頭の中から消え去っていました。
    先生とは駅前で別れました。澄くんの家は公園からのほうが近いのですが、それは秘密でした。少しでも長く先生との時間を続けていたくて、それはきっと家に帰りたくないからだと思っていました。
    帰り道、澄くんは「また、明日ね」と言った先生の声をくり返し思い出しながら歩きました。



    澄くんは今夜も眠れません。もっと早くに寝てしまえばよかったと後悔しましたが、階下から聞こえて来る両親のいさかいの中に割って入る勇気はありません。
    姉はとっくに寝たでしょう。義兄は起きているかもしれませんが、彼が両親を止めに入ることはありません。
    澄くんはベッドの上で膝に顔をうめました。
    こんな夜に一人でいると、ひどく苦しくなります。だれかがそばにいてくれると違うのかもしれませんが、あいにくとそんな相手はいません。
    それなのに頭は勝手に先生の顔を浮かび上がらせます。
    澄くんはスマホを手に取りました。
    本当に先生は「いなくなりたい」という澄くんの希望を叶えてくれるのでしょうか。
    期待してはいけないことだと分かっていながら、指は先生のIDを呼び出します。
    「先生……」
    一生徒にすぎない澄くんが迷惑をかけて、先生は澄くんをうっとうしく思わないでしょうか。
    澄くんはスマホを放り出しました。
    先生にうとまれたら、今度こそ、澄くんは居場所を失います。今はがまんするべきときです。
    窓ガラスに雨粒が吹きつけます。
    春の嵐でした。



    もうすぐ大型連休がはじまりますが、澄くんは気分が晴れません。塾の自習室でだらだらと問題を解きながら、澄くんはため息をつきました。
    連休中、塾は休みです。先生に会えません。
    ずっと家にいなければならない状況ですが、幸いなことに両親は姉と、姉の婚約者家族と旅行に行って留守にします。義兄と二人だけなら、家の中で窮屈な思いをすることはないでしょう。
    食事は母が作り置いてくれた料理と、宅配弁当の予定です。
    ともかく、澄くんにとってはなにひとつ楽しみがない日々になるはずでした。
    「今日も遅くまでがんばっているね」
    閉室時間間際に先生が自習室へとやってきました。澄くんはいたずら書きばかりのノートを慌てて閉じて、リュックにしまいました。
    「来週からお休みだけど、遊びに行く予定はあるの?」
    「……ないです。受験生だし」
    「受験生だからこそ、夏も冬も遊べないんだから、今のうちに遊んでおいたほうないいんだよ」
    「そうなんですか」
    「ずっと勉強ばかりだとつらくなってしまうからね」
    とはいえ、澄くんが遊んでいたら、きっと母が怒り出します。不在の間にちょっと息抜きをするくらいならともかく、誰かと遊びに行くのは無理でしょう。
    澄くんが返事をできないでいると、先生はとんでもないことを言い出しました。
    「それなら、私が個別で講義をしようか」
    「え?」
    「場所はここで。たとえば一緒に映画を見るのはどうだろう。字幕なしで見ればリスニングの訓練になる。もちろん、舞台演劇でもいいし……、興味があれば古典芸能の動画でもいいかもしれない。古文の理解を深めるにはうってつけだから」
    「ま、待ってください。なんでそんな」
    「君はいつもがんばっているだろう。がんばりすぎなくらいだ」
    先生が澄くんの両肩に手を置いて、顔をのぞきこみました。
    澄くんは息ができなくなりました。深い色の瞳は澄くんの事情を見透かしているかのようです。
    「相手が私で申し訳ないけれど」
    澄くんは慌てて首を振りました。一緒にいられてこれほどうれしい人は他にいません。
    「いつがいいかな?」
    「えっと、じゃあ、火曜日に……」
    両親は日曜日から不在ですが、月曜日は学校があります。
    「一日だけ?」
    澄くんはびっくりしましたが、先生はなんでもないふうに続けます。
    「水曜日と木曜日も空いているよ」
    「いや、そんな毎日じゃ……」
    「私は毎日でも大丈夫だよ」
    先生の目がじっと澄くんを見ています。じわじわと顔が熱くなってきて、澄くんは視線をそらしました。
    「い、一日だけでいいです……」
    「わかった」
    先生の声が落ち込んだように聞こえたのは気のせいだと、澄くんは自分に言い聞かせながら塾を出ました。勘違いしたくなるようなことは言わないでほしいと思いました。


    大型連休がはじまりました。姉と母が階下で楽しそうに旅行の予定を話し合っています。
    澄くんは自室で勉強をしていました。しかし、なにげなくスマホを見てしまい集中できません。
    澄くんにも楽しみはあります。先生との個別授業です。
    「なあなあ」
    突然、部屋に義兄が入ってきました。
    「お前、先に声かけろよ」
    「悪い。あのさ、俺、火曜から友だちの家に泊まりに行くから」
    「は」
    「おじさんにはさっき許可もらった。一人にしちゃってごめんな」
    まったく悪いと思っていなさそうな謝罪に、江澄は顔をしかめます。
    「知るか、好きにしたらいいだろ」
    「だから、お前も好きに遊びに行けよ」
    「……行かない」
    「誰にもばれないぞ」
    「そういうことじゃない。勉強しないと」
    「息抜きも大事だと思うけどな」
    「お前は息抜きしかしてないじゃないか」
    「俺はいーの」
    そうだろうな、お前は成績も、模試の結果もいいし、わざわざ勉強の必要はないだろうな。
    澄くんはぐっと言葉を飲み込んで、義兄を部屋から追い出しました。
    こういうとき、ものすごく先生に会いたくなります。
    もし、澄くんが大学生だったら、気にすることなく先生に会いに行けたでしょうか。でも、高校生でなければ会うための理由がありません。
    澄くんはまたスマホを手に取りました。
    明日は土曜なので塾があります。今日がまんをすればいいだけです。
    「先生……」
    会いたいです。
    澄くんは目をつぶりました。
    それは言ってはいけない言葉でした。



    約束の火曜日になりました。澄くんが時間通りに塾を訪れると、本当に先生が待っていました。
    いつもの小教室は机が寄せられて、長机にはプロジェクターが用意されています。
    先生は澄くんに気づくと、「いらっしゃい」と手招きました。
    「初めは昼食を取りながら映画を見ようと思うのだけど」
    そう言って先生は白い箱を開けました。サンドイッチがぎっしりと詰まっています。
    「ポップコーンもあるよ。ジュースはなにがいい?」
    「じゃあ、サイダーで」
    紙コップに注がれたサイダーがシュワシュワと音を立てます。
    映画がはじまりました。古い洋画です。これは字幕で見ました。
    サンドイッチは三種類ありました。
    たまごサンド、ポテトサラダサンド、それから葉物野菜とハムのサンドイッチです。ハムサンドはマスタードがきいていて、澄くんは一番気に入りました。
    その後、子ども向けのアニメを原語で、字幕なしで見ました。聞き取るのに必死でポップコーンを食べる余裕はありませんでした。
    「疲れたよね。休憩にしようか」
    気がつけば3時間も経っていました。
    澄くんはぼーっとしながら、ポップコーンを口に運びます。先生はサンドイッチの箱をたたんで、ゴミ袋に入れていました。
    「先生は」
    「うん?」
    「一人暮らしですか?」
    「そうだね」
    澄くんははっとしました。自分はなにを聞いているのでしょう。
    「どうしたの?」
    「あ、えっと……」
    澄くんは一所懸命考えました。なにか言わなければなりません。
    「実は兄が」
    友だちの家に遊びに行ってしまって、今日から三日間は一人で食事をすることになったのだと、しどろもどろになりながら話しました。
    「だから、先生は、どうなのかなって思ってその……」
    なにも理由になっていない気がしますがもうこれ以上は頭が回りません。
    ごまかすためにサイダーを飲みました。
    「基本的に食事は一人だね。たまに弟と食べることがあるけれど」
    「そうなんですね」
    「一人はさみしい?」
    澄くんは首を振りました。誰もいない家の中はしんとしていて、たしかに少しだけそわそわしますが、それはきっと慣れていないだけです。さみしいわけではありません。
    「そう? 私はさみしいなと思うときがあるよ」
    先生は自分のコップにお茶を注ぎました。
    「だから、今日は君と一緒にお昼を食べられて、楽しかったな」
    澄くんは赤くなって目をそらしました。先生の笑顔は直視できません。
    「夕食も一緒に食べる?」
    「え?」
    「オンライン通話だったら、できるでしょう?」
    思いがけない提案でした。
    たしかにそれなら自宅にいても先生と一緒にいられます。
    澄くんがうなずくと、先生は「よかった」とまた笑いました。
    「19時開始にしようかな。君と一緒なら、ちゃんと作らないといけないね」
    「いつもはちゃんと作らないんですか」
    「一人だからね。億劫なときは冷凍食品に頼っているよ」
    澄くんは驚きました。なんでも完璧にこなしていそうな先生でもそういうときがあるなんて。
    「うちはお弁当なので、大丈夫です」
    「それでもね」
    大人だから見栄を張りたいんだと、先生は言いました。

    19時ちょうどに先生から通信が入りました。
    応答すると画面に先生が映ります。
    「こんばんは」
    「こ、こんばんは」
    澄くんはどきりとしました。
    先生の背後には薄青のカーテンが見えます。キッチンも映っています。そこはたしかに先生の部屋でした。
    「君のお弁当はなに?」
    「チキンステーキです」
    「おいしそうだね」
    「先生はなんですか?」
    「私はね……」
    画面が揺れて、食卓が映されました。グレーのランチョンマットの上にはごはんとスープとおかずのプレートがのっています。
    「サーモンのムニエルと、パプリカのマリネと、ポテトサラダ」
    そのポテトサラダには見覚えがありました。ハムではなくカリカリのベーコンが入っています。それは昼間に食べたサンドイッチのポテトサラダと同じでした。
    もしかして、あのサンドイッチは先生の手作りだったのでしょうか。
    二人で一緒に「いただきます」と言って箸を取ります。
    先生の食事する姿はきれいでした。そこではたと気がつきました。先生からは澄くんが見えているのです。急に緊張して、なにを話していいかわからなくなりました。
    しばらくの間は無言でした。
    「明日はどこかへ行くの?」
    「……いえ、うちにいます」
    急に話しかけられて、取り繕うことができませんでした。
    「なにかするの?」
    「……勉強、です」
    「がんばりすぎないようにね」
    「はい」
    「ああ、画面越しだと」
    先生が眉尻を下げます。
    「頭をなでてあげられないね」
    澄くんは真っ赤になりました。そんなことを言われたら、手の感触を思い出してしまいます。
    「先生は、どこか行くんですか……」
    「明日は家の掃除と洗濯かな。晴れるみたいだし」
    「そうなんですね」
    「明日のお弁当はなに?」
    「しょうが焼きです」
    「そうなの。それなら、私も同じものにしようかな」
    「え?」
    「同じ献立のほうが、一緒に食べてる感じがするでしょう?」
    澄くんはびっくりしました。
    これは今日だけのことではないのでしょうか。
    「明日も19時でいいかな?」
    「は、い……」
    心臓がばくばくと鳴っています。
    澄くんは画面越しでよかったと思いました。先生がここにいたら、きっと気づかれてしまったでしょう。
    指が震えて、つけあわせのお新香がうまくつまめませんでした。

    翌日の昼ごろのことでした。
    澄くんが数学の問題集に一区切りつけたとき、突然チャイムが鳴りました。
    澄くんは急いで階段を下り、インターホンのモニターを見ました。
    ワイシャツを着て、片つばの帽子をかぶった男性が、ダンボール箱を持って立っています。
    宅配便でしょうか。
    澄くんは首をひねりました。両親も姉も、自分たちが不在のときに荷物が到着するような手配はしません。もし、旅行先からなにかを送ってきたとしたら、先に連絡があるはずです。
    澄くんが迷っていると、モニターの向こうで男性が動きました。
    不在票でも書くのかと思いきや、ガチャリとドアから音が聞こえました。
    ガチャガチャガチャ、と続けて乱暴な音が響きます。それから、ガン! と派手な音がして、急に静かになりました。
    澄くんは唾を飲みました。今のはなんだったのでしょう。
    玄関を開けて外の様子を確認したほうがいいでしょうか。
    しかし、まだあの男が去っていなかったら、鉢合わせになってしまいます。
    澄くんは音を立てないようにして階段を上がり、自室に戻りました。
    家族に確認したほうがいいでしょうか。しかし、父親にはそんなことで、と言われそうです。姉と母が楽しんでいるところに水を差すのも気が引けます。
    澄くんはスマホを手に取ると、先生に音声通話をかけていました。
    「もしもし?」
    「せ、先生……」
    声が震えます。
    「あの……、っ……!」
    そこで言葉が詰まりました。
    先生も澄くんの異変に気づいたようで、声の雰囲気が変わりました。
    「なにかあった?」
    澄くんはうなずきましたが、それで伝わるわけがありません。
    「ビデオに切りかえるよ」
    音声が一度途切れて、画面が変わります。澄くんが応答すると、先生の顔が映りました。珍しく笑顔ではありません。
    「そこは自分の部屋だね? 危険な状況ではないね?」
    確認するように尋ねられて、澄くんは「はい」と答えました。今度は声が出ました。
    「なにがあったか、教えてくれる?」
    先生の声はゆっくりと澄くんに届きます。
    「さっき、インターホンが鳴って」
    澄くんは起きたことを話しました。先生の眉間にしわが寄ります。こんなに険しい顔を見たことはありません。
    「それは恐かったね」
    やさしい声でした。
    澄くんは首を振りました。
    「すみません、こんなことで連絡して……」
    「こんなことではないよ。十分に不審な出来事だ」
    「そう、ですか」
    「ご家族に連絡はした?」
    「まだです」
    「警察にも通報したほうがいい」
    「えっ」
    「今から家に行くね」
    澄くんは驚きましたが、画面に映っている先生の顔は大真面目です。
    「一人でいるのは恐いでしょう?」
    恐い、と言っていいのでしょうか。実害があったわけではありません。それなのに、頼っていいのでしょうか。
    「大丈夫だよ、すぐに行くから」
    先生がにこりと笑います。
    澄くんは口を引き結んでうなずきました。目の奥が熱くなって、返事ができませんでした。

    先生との通話を終えた後、澄くんは言われたとおりに警察に通報しました。警察は10分ほどで家にやってきてくれました。
    どうやら似たような通報が近隣で相次いでいるようです。駆けつけてくれた警察官は未成年が一人で留守番中だと知ると、渋い顔をしました。
    「ご家族か、ご親族で、様子を見に来てくれる人はいませんか」
    澄くんは返事に困って、「もうすぐ、兄が帰ってくるので」とごまかしました。
    義兄は同じ学年ですが、年齢は一歳上で成人済です。
    警察を待つ間に、澄くんは義兄に事の経緯をメッセージで送っていました。両親には連絡しないようにとも書きました。既読はついていませんでした。

    警察が帰ってほどなく先生から着信がありました。
    「今、家の前に着きました。出かける準備をして出てこられますか」
    澄くんは慌ててリュックをつかんで、玄関から飛び出しました。
    門の向こうに、グレーのジャケットを着た先生が立っていました。
    「先生!」
    「江澄」
    澄くんが走って門の外に出ると、先生はほっとしたように笑いました。
    「鍵はかけた?」
    「オートロックなので」
    「セキュリティは?」
    「今、かけます」
    澄くんはスマホで警備会社のセキュリティモードを外出に変更しました。
    それを確認して、先生は澄くんの背中に手を添えました。
    「行こうか」
    先生が連れて行ってくれたのは、以前、一緒に入った喫茶店でした。
    澄くんと先生は同じカフェラテを頼みました。
    あたたかい飲み物がお腹に入ると、やっと肩から力が抜けました。
    落ち着いてみると、先生を呼び出してしまったことが申し訳なくなってきます。
    「あの、先生」
    澄くんは頭を下げました。
    「ありがとうございます。わざわざ来てくれて……」
    「君になにもなくてよかった」
    先生の手が伸びてきて、テーブルの上で澄くんの手を握りました。
    大人の男の人の手です。
    澄くんは自分でも顔が熱くなっていくのがわかりました。
    「ご家族とは連絡はついた?」
    「あ」
    すっかり忘れていました。澄くんがスマホを取り出すと、義兄からの着信が5件も表示されていて、またすぐに着信が通知されました。
    「江澄!」
    通話に応答すると、義兄のあせった声が飛び込んできました。
    「無事か 大丈夫か」
    「だ、大丈夫……」
    「ごめん、本当に悪かった。お前を一人にして」
    「いや……」
    「すぐ帰るからな! 今、どこだ? 家か」
    澄くんは返答に困りました。先生を見ると、手をぎゅっと握ってくれました。
    「今は、塾の先生が来てくれて……」
    「は」
    「近所の喫茶店にいる」
    「……わかった。地図送れるか?」
    「うん」
    「すみません、行き先変更してください」
    義兄が誰かに話しかけています。どうやらタクシーに乗っているようです。
    「あと5分くらいで着くからな。動くなよ」
    「わかった」
    通話を切ると、先生からメッセージで喫茶店の住所と地図が届いていました。澄くんはそれを転送して、ほっと息をつきました。
    そして、改めて、先生が手を握ったままだと気がつきました。
    これはどうしたらよいのでしょう。
    結局、喫茶店の前にタクシーが停まるまで、先生は手を離しませんでした。

    義兄は喫茶店に入るや否や、澄くんの腕をつかんで立たせました。
    「先生、すみません。ご迷惑をおかけしました」
    まったく気持ちのこもっていない口調に澄くんは驚いて、腹を立てました。
    「お前、そんな言い方ないだろ。先生は心配して……」
    「なんで塾の先生が、それで来るんだよ。おかしいだろ」
    「それは! 俺が連絡したから……」
    「だから! お前が連絡したからってふつうは来ない! そもそも塾の先生に連絡する必要はないだろ!」
    「二人とも、落ち着いて」
    言い争いをはじめた二人の間に、先生の声がはさまりました。
    澄くんは我に返りました。ここは喫茶店です。申し訳ないことをしました。
    「私に疑いがあるなら、日を改めて話し合いましょう。名刺をお渡しします。タクシーを待たせているのでしょう?」
    義兄も口をつぐみました。先生から名刺を引ったくると、澄くんを引っ張って出ていきます。
    先生は澄くんに笑顔でうなずいてみせました。

    タクシーに乗り込むと、義兄は運転手にどこかのホテルの名前を伝えました。15分ほどで着くとのことでした。
    タクシーが走り出すと、義兄は背もたれに体を預けて、大きく息を吐きました。
    「おじさんが、帰るまでホテルにいろって」
    「言うなって言ったのに、父さんに連絡したのか」
    「するだろ」
    ぴしゃりと言われて、澄くんは唇を噛みました。
    もうすぐ成人という年齢で、一人で留守番もできないとは情けない限りです。
    しかし、義兄の意見は違いました。
    「おじさんだけ先に帰ってくるってさ。もともと、おじさんは自分は行かないっておばさんとけんかしてたんだよ」
    できるだけ、両親の言い争いを聞かないようにしていた澄くんは知らないことでした。
    「高校生二人だけ残していくなんて心配だって、行く前から言ってた」
    「それでなんでお前まで出かけたんだよ」
    「うん、本当にごめん。こんなことになるなんて思わなかった」
    澄くんは黙り込んで、窓の外に視線を移しました。
    ビルの向こうに青空が見えます。よく晴れていて、気持ちよさそうな陽気です。
    そんな日にどうしてこんな目に合わなければならないのでしょう。

    着いたのは有名なホテルでした。
    義兄によると、父親は出張のたびに前後の一日をこのホテルで過ごすそうです。そんなに家にいたくないのでしょうか。そして、義兄はどうしてそんなことを知っているのでしょうか。
    通されたのはツインルームでしたが、ベッドがとても大きくて、澄くんは驚きました。
    「すげえ、転がれるぞ、これ」
    義兄がはしゃいでいます。
    「昼飯は食べたか? なんでも食っていいって。寿司とステーキ、どっちがいい?」
    「なんでその二択なんだ。まだ、昼だぞ」
    「じゃあ、中華!」
    「まあ、それなら」
    「あーっ、その前におじさんに連絡しなきゃな」
    澄くんはぎくりと義兄を見ました。先生のことも伝えるつもりでしょうか。父親だけならともかく、母親に知られたら絶対に大事になります。
    「待て」
    澄くんは義兄の腕をつかみました。
    「先生のことは言うなよ」
    「……お前なあ」
    「絶対に! 言うな!」
    呆れ顔になった義兄は、澄くんの剣幕に目を見張ります。
    「先生には俺が連絡したんだ。俺が迷惑をかけたんだ」
    「まさか、あの先生となんかあったのか」
    「なにもない……、先生は本当に心配してくれただけなんだ」
    義兄がため息をつきました。ぺしりと額を叩かれます。
    「ほんっとうになんにもないんだな」
    「そう言ってるだろ」
    「難儀だな、お前」
    「なにが」
    なにかしらを察したらしいその笑顔にはものすごく腹が立ちましたが、義兄は「わかったよ」と言ってくれました。
    「おじさんには言わない。けどさ、自重したほうがいいぞ。少なくとも、高校生のうちは」
    「わかってる」
    澄くんが腕を離すと、義兄は今度こそ父親に電話をします。澄くんもスマホを取り出しました。先生にお詫びのメッセージを送ります。
    ——今日はすみませんでした。兄と二人で、ホテルに泊まることになりました。
    返事はすぐに来ました。
    ——ご家族がいらして安心しました。また、金曜日に塾で会いましょう。
    その返事を見てから、澄くんは先生とのメッセージログを消しました。そして、IDをブロックしました。
    義兄の言う通りです。澄くんは高校生で、先生は大人です。澄くんがしたことでも、疑いの目は先生へと向かいます。
    先生に迷惑をかけるようなことは二度としたくありません。
    「おじさん、飛行機取れなかったみたい。こっちに着くのは明日の夜だって」
    「わかった」
    「えーと、中華レストランは……、お、ビュッフェだ。楽しみだな〜」
    「あんまり食うと夕飯が入らなくなるぞ」
    澄くんは義兄と一緒に部屋を出ました。
    勉強道具を持ってくればよかったと、今さら思いました。



     期末試験が終わり、夏休みがはじまりました。澄くんにとっては毎日が憂うつです。
     家にいれば母親から小言をもらい、塾に行けば先生に会うことになります。澄くんは遅くまで自習室に残るのをやめました。先生に会うのは授業のときだけです。あいさつはしますが、おしゃべりはしません。
     しかし、家にも塾にもいたくないとなると、どこにも居場所がありません。高校が開放されている日は図書室に行っていましたが、今日はあいにく閉まっています。
     蝉の声を聞きながら、澄くんは公園のベンチに座りました。木の陰になっていて、刺すような日差しは遮られましたが、暑さはほんの少しもやわらぎません。
     コンビニで買ったスポーツドリンクを飲み干して、澄くんはぼんやりと地面を見つめました。
     なんだかひどく疲れました。
     手足が重くて、どこかに移動する気力もわきません。
    「おい」
     突然、大人の男の人に声をかけられました。背が高い人です。
    「大丈夫か?」
     なにがでしょう。澄くんは首をかしげました。その男の人は眉間にしわを寄せて、「立てるか」と尋ねます。
     妙なことを言うものです。もちろん、立って歩けます。
     澄くんは立ちあがろうとして、体を傾け、そのまま地面にくずれ落ちそうになりました。倒れずに済んだのは男の人の腕が支えてくれたおかげです。
    「だめそうだな……」
     ぐいっと腕を引っ張られて、肩に腕を回されて、澄くんは半ば引きずられるように歩き出しました。
     公園の出口から、一本向こうの通りは商店街です。そして、そこにはお肉屋さんがありました。



    お肉屋さんの二階に着くと、まずシャツとジーパンを脱ぐように言われました。代わりに与えられたのはぶかぶかの半ズボンと保冷剤です。わきの下と首の後ろと、それから股間も冷やすようにと指示をして、男の人はいなくなりました。澄くんは畳の上に寝転がって言われたとおりに保冷剤を仕込みました。
    しばらくすると、男の人はジョッキを片手に戻ってきました。
    「レモン水だ、飲め」
    氷がたくさん入ったレモン水は異様においしくて、澄くんは一気に飲み干しました。少ししょっぱかった気がしますが、同時にはちみつのやさしい甘さも感じました。
    「寝てろ」
    そう言って男の人はまたいなくなりました。
    澄くんはあっという間に眠りに落ちました。家族に連絡することも、時間を確認することも、なにも思いつきませんでした。

    「……がとうございます、大哥」
    ふと、人の話し声がしました。続けて、額に誰かの手のひらが触れます。
    「熱はありませんね。もうしばらくしたら、起こすので……、忙しい時間にすみません」
    「気にするな」
    あの男の人の声です。もう一人の声は、澄くんもよく知っています。目を開けると、澄くんのすぐ隣に先生が座っていました。
    「先生……?」
    先生がぱっと澄くんを見ました。午前中に授業で会ったばかりのはずですが、ものすごく久しぶりに先生と一緒にいる気がします。
    「具合は? 気持ち悪くはない?」
    澄くんが体を起こそうとすると、先生が手を貸してくれました。背中を支えてくれる手のひらの感触にほっとしました。
    「大丈夫です」
    「のどは渇いていない?」
    「……渇きました」
    澄くんは正直に答えました。嘘をついたところで、こんな状況ではすぐにばれてしまいます。
    先生は立ち上がると、部屋の隅の小さな冷蔵庫を開けました。取り出したのは経口補水液です。
    澄くんはお礼を言って、ペットボトルに口を付けました。寝る前にも水分は取ったはずですが、またしても半分ほどを一気飲みしてしまいました。
    「また、欲しくなったら言うんだよ」
    先生がペットボトルを冷蔵庫にしまっている間に、澄くんはスマホを見ました。まだ、18時前でした。
    「ご家族に連絡できそう?」
    「えっと……」
    こんなことが知られたら、母親には叱られて、父親には呆れられるでしょう。しかし、他人に迷惑をかけてしまった以上、きちんとお礼もしなくてはなりません。
    そこで澄くんははっとしました。先生はどうしてここにいるのでしょうか。澄くんは誰にも連絡していないのです。
    「あの、先生は、なんでここがわかったんですか……」
    先生はきょとんとしています。少しの沈黙があって、ようやく先生は「ああ」と気がついたようでした。
    「大哥の……、ここの店主の弟さんが桑なんだよ」
    澄くんは驚きました。桑、というのは塾で事務仕事をしているアルバイトの大学生です。
    「大哥が桑に塾の生徒じゃないかって聞いてくれて、それで私は桑から教えてもらって……」
    そういうこともあるものでしょうか。実際に澄くんはそれで助かったのですから、感謝するべきでしょう。
    「わざわざ、ありがとうございました」
    澄くんは先生に頭を下げました。時間からして、先生が仕事の途中で来てくれたことは明白です。
    「すぐに来られなくてごめんね」
    授業があったのでしょう。しかたがないことです。
    むしろ、終わってからでも来てくれたことが澄くんはとてもうれしくて、自分が特別であるかのような心地になりました。
    「もし、ご両親にご連絡できそうにないなら、お兄さんにでも……」
    そうでした。もともとはその話の途中でした。澄くんはスマホを見つめて、もう一度先生を見ました。
    一人で帰ると言っても許してもらえそうにありません。
    「先生……」
    少しだけなら、わがままを言っても大丈夫でしょうか。本当は家まで一緒に帰れたらどんなにうれしいでしょう。でも、それはできません。だから。
    「あと、10分だけ」
    「10分?」
    「横になっていても、いいですか」
    「え? もしかして、まだ具合……」
    澄くんは首を振りました。そして、先生が差し出そうとして中途半端になってしまった手を握りました。
    「10分だけでいいから……」
    「澄……」
    先生の目が澄くんを見つめています。こんなに近くに先生がいるのは久しぶりです。
    ぐっと手を握り返されて、澄くんの心臓は跳ね上がりました。
    先生の、もう片方の手が伸びてきて、頭をなでます。それから、人差し指の背が頬に触れた気がしました。
    「いいよ」
    のぞきこんでくる顔にほほえみはありません。
    先生から視線をそらせません。
    「10分したら、起こしてあげる」
    先生の手にやわらかく肩を押されて、澄くんはたたみに仰向けで寝転がりました。まだ、手はつないだままです。
    先生のしっとりとした手の感触に、否応なく心臓の脈打つ速度が上がっていきます。
    ふと、先生の体が傾きました。腰の辺りで丸まっていたタオルケットを澄くんの肩まで引き上げてくれます。
    そのとき、思ったよりも先生の顔が近づきました。澄くんは耐えきれずに横を向き、目をつぶります。
    「……おやすみ」
    低い声が、とんでもない近さで聞こえました。吐息が耳にかかるほどの距離です。
    それだけです。間違いなく、それだけだったはずです。
    耳にはかすかな吐息だけが触れたのです。
    澄くんはさらに強くまぶたを閉じて、口を引き結びました。
    そうでもしなければ、心臓が飛び出してしまいそうでした。



    澄くんが目を覚ますと、まだ先生は手を握ってくれていました。
    「おはよう」とほほえむ先生の顔はどうしてだかいつもと違います。なんでそんなふうに思ったのかはわかりません。でも、なにかが変わったようでした。
    先生はすぐに冷蔵庫から経口補水液を取ってきてくれました。澄くんは水分補給を済ませて、ふと窓の外が暗いことに気がつきました。スマホを見ると、なんと20時すぎです。
    「ごめんね、よく寝ていたから……、あと、お母様にご連絡したよ」
    澄くんは呆然としました。しかし、先生はさらに驚くようなことを言いました。
    「私が家まで送るよ」
    「えっ」
    「お母様にはそれでご納得いただいたから」
    先生は、塾からの帰宅途中に具合を悪くして休んでいる、と母親に説明してくれたようです。たしかに間違ってはいません。しかし、先生がそんなことをしてくれるなんて、本当に大丈夫なのでしょうか。
    「すみません……」
    澄くんが頭を下げると、先生は「謝る必要はないよ」と言います。
    「私の都合だからね」
    先生の手が頭をなでます。澄くんはよくわからないまま、うなずきました。

    澄くんはお肉屋さんの店主に何度もお礼を言って、先生と一緒に店を出ました。借りた服は洗って返しますと言ったのに、ひょいと奪われて取り返せませんでした。
    夜の道は静かです。風は吹いていますが、まだ日中の熱気がよどんでいるかのような暑さの中、澄くんと先生は並んで歩きました。
    会話はありません。
    澄くんは先生の横顔をちらと見ました。それに気づいて、先生も澄くんを見ます。
    また、先生はまじめな顔をしています。ほほえんでいない先生はいつもと雰囲気が違って、澄くんはそわそわしてしまいます。
    ふと、先生の手が澄くんの手に触れました。ただ、手を握られたのではありません。指が、ゆるくからまります。
    なにが起きているのでしょう。今日はとんでもないことばかり起きます。
    「早く帰ろうね」
    いつのまにか、足が止まっていました。先生の手はさっと離れて、澄くんの背中を軽く押します。
    澄くんはうつむいて歩き出しました。きっと今の顔はみっともないくらい真っ赤です。
    ほどなくして、澄くんの家に着きました。
    出迎えてくれた母親は先生にお礼を言い、そのあとで成績の話に変わりました。驚くことに澄くんへの叱責はなく、早くシャワーを浴びなさいと言われただけでした。
    澄くんはシャワーでさっぱりとした後、冷やした素麺を軽く食べて、すぐに自室へと引っ込みました。
    今夜は勉強も取りやめです。このまま寝てしまいましょう。
    ベッドに寝転がった澄くんは、目をつぶる前にスマホを取り出しました。
    呼び出したのはメッセージアプリの、ブロック一覧です。
    先生のアドレスが載っています。
    あの日から、澄くんはがんばって先生と関わらないように暮らしてきました。どうせ、受験が終われば、塾に行かなくなれば、先生とは会えなくなるのです。そうやって自分に言い聞かせてきたのに。
    今日の先生は今までと違いました。少しは自分にも可能性があると思ってもいいのでしょうか。
    澄くんは祈るような気持ちで先生のアドレスをタップします。ブロックを解除すると、スマホが震えました。
    10件以上のメッセージが届きました。

    ——連休明けですが、体調はどうですか。
    ——こんにちは。今日は雨がひどくなると予報が出ています。気をつけて来てください。
    ——急に暑くなりましたね。熱中症に気をつけてきてくださいね。

    澄くんは思わず口元を手で覆いました。
    何件か、送信が取消されているメッセージもありましたが、そんなことは問題ではありません。
    既読にならないのは気づかれていたに違いないのに、先生はずっと澄くんを気にかけてくれていたのです。
    澄くんはどう返事をしたものかと考えあぐねて、結局、それまでのメッセージには触れずにお礼だけを送りました。
    ——今日はありがとうございました。
    すぐに既読済になりました。そして、返信がありました。
    ——体をしっかり休めてください。明日は無理に来なくてもいいからね。おやすみなさい。
    先生の声が聞こえた気がしました。やさしいあの声が、今日は長い時間ひとりじめできたのです。
    そこで澄くんは思い出してしまいました。
    耳を手で押さえて、体を丸めます。
    先生がどういうつもりだったにせよ、今日のことは澄くんにとっては大事件で、とても大切なことでした。からめられた指の感触と、少しばかりの希望は、この長い夏休みを乗り越える支えになるでしょう。さっそく塾に行って先生に会えるのが楽しみになっているのですから、効果ははかりしれません。
    澄くんはため息をついてスマホを充電器につなげました。
    それはそれとして、どうしようもなくドキドキしています。しばらくは眠れそうにありませんでした。



    それは夏休みも終わりに近づいたある日のことでした。
    澄くんは模試を受けた後に塾に向かいました。もう遅い時間でしたが、先生から寄ってほしいと連絡が来ていました。
    塾に着くと、他の先生と生徒は一人もいませんでした。考えてみれば日曜日の授業は夕方までなので、20時過ぎの今、塾が開いている方がふつうではないのです。
    「こんばんは」
    澄くんが緊張しながら扉を開けると、先生はにこやかに迎え入れてくれました。
    「お疲れ様。出来はどう?」
    「まあまあです」
    澄くんはそう言いましたが、今までで一番手応えがありました。夏休み中、勉強をがんばった成果でしょう。
    「結果が楽しみだね」という先生の言葉も素直に受け入れられました。
    「そうしたら、少しだけ息抜きをしようか」
    先生は澄くんを小教室にうながします。なにかと思えば、5月のときのようにほとんどの机がどけられて、床にビニールの敷物が広げられ、プロジェクターが用意されていました。
    しかも、瓶のラムネまで置いてあります。
    澄くんが敷物の上に座ると、照明が落とされました。
    あの日とは違って今日は夜です。本当に真っ暗になりました。
    「先生……?」
    「ちょっと待ってね」
    先生がパソコンを操作すると、スクリーンに夜空の映像が映し出されました。ざわざわとした環境音も流れてきます。
    「すぐにはじまるから」
    先生がすぐ隣に座りました。肩が触れそうな距離です。澄くんはスクリーンを見つめつづけました。
    「本当は連れていってあげられたらよかったんだけど」
    そう言っている間にずいぶんと割れた音声が流れ出しました。
    ——本日は……の花火大会に……ありがとうございます……
    澄くんは目を丸くしました。どん、と音が響いてスクリーンに赤い花火が広がります。
    「短いけれど、楽しんで」
    どんどんどん、と今度はオレンジと白の花火です。
    澄くんは呆然としたままラムネに手を伸ばし、「あっ」と指で突いて倒してしまいました。幸いふたは開いていませんでしたが、ごつんと鈍い音がしました。
    「大丈夫?」
    「はい……、っ!」
    瓶を戻そうと伸ばしかけた手に、同じように伸ばされた先生の手がぶつかります。
    澄くんは反射的に手を引っ込めました。
    「すみません……」
    ところが、先生は瓶を起こすと、床についた澄くんの手に手を重ねました。しかも、長い指が澄くんの指の間に入り込んで、親指が手の側面をなではじめます。腕もぴったりとくっついて、先生の体温がじかに伝わってきました。
    「先生……?」
    澄くんはどうしたらいいかわからなくて、隣の先生を見ました。先生はまた笑顔がありません。心臓がやたらとうるさく音を立てます。
    「江澄」
    肩がぶつかります。先生の顔が近づいてきます。
    澄くんはとっさに目をつぶりました。
    「花火を、見ようね」
    耳のすぐそばで声がしました。それから、先生の気配が遠ざかります。
    澄くんはどうにか目を開けて、スクリーンを見ました。
    お花や、キャラクターらしき形を模した花火が咲いています。
    先生のこういうふるまいをどうとらえたらよいのでしょう。肩もくっついたままですし、手も離れていきません。
    もし、澄くんが気持ちを伝えたら、先生は応えてくれるでしょうか。
    澄くんはまだ未成年です。でも、11月には成人します。
    そうしたら、告白をしてみてもいいかもしれません。悪い結果にはならない気がしました。
    花火は30分で終わりました。帰りには先生が家まで送ってくれました。
    別れ際に一瞬だけ握られた手が、家に入ってもずっと熱くて、澄くんは自分の手を握りしめながら眠りにつきました。
    まるで夢のような夜でした。



    夏休みが終わると、すぐに文化祭があります。澄くんのクラスは縁日をやることになっていますが、下級生のように何日も前から準備にいそしむようなことはありません。
    澄くんも前日の力仕事には積極的に参加をしましたが、それも塾の時間に合わせて帰りました。
    三年生は受験勉強のほうが大切なのです。
    当日も、朝一で店番をこなした後、澄くんは図書室にこもるつもりでした。ところが、図書室へと向かって歩いている最中に、先生からメッセージが来たのです。
    ——中学生の引率で君の高校に来ています。どこにいますか?
    澄くんはスマホを片手にかたまりました。
    その背後で女子が騒がしく話しています。
    「今の人、めちゃくちゃかっこよかったよね!」
    「一緒にいたのって中学生でしょ? 学校見学なんじゃない?」
    澄くんは慌てて来た道を引き返します。三年生の教室前の廊下には人だかりができていました。
    「先生!」
    「江澄」
    先生がぱっと笑いました。
    一斉に周囲の視線が自分に集まるのを感じながら、澄くんは先生の元に駆け寄ります。先生の背後にいる女の子二人は、たしかに隣の地区にある中学校の制服を着ていました。
    澄くんは二人にも会釈をしたあと、とりあえず、と言って特別教室棟へと向かいます。
    文化祭とはいえ、澄くんにとってはいつもの学校のはずでした。でも、先生がいるというだけで、いきなり特別な場所に変わりました。
    澄くんは歩きながら、やかましくなった胸の音をごまかしたくて口を開きました。
    「三年は飲食系しかないから、そんなにおもしろくないですよ」
    「受験生だものね」
    「そのかわり、特別教室棟は部活の出し物が多いから……」
    「君たちはなにが見たい?」
    先生が尋ねると、中学生の二人は顔を見合わせてからおずおずと「天文部」と言いました。天文部は毎年、自作のプラネタリウムで上映会をしています。
    「三階ですね」
    フロアを上がって右に曲がると、そこが上映会場でした。二回目の上映がもうすぐはじまるそうで、人が集まっています。
    「すみません、入れるのがあと二人なんです」
    澄くんたちを見て、慌てて寄って来た生徒が申し訳なさそうに言いました。
    「二人で見ておいで。私は外で待っているから」
    先生は迷わず中学生二人を中に入れました。まあ、そうなるよな、と澄くんも先生と一緒に、後輩になるかもしれない女の子二人を見送りました。
    さて、どうしましょう。上映時間は20分もあります。
    澄くんが先生を見ると、先生も澄くんを見ました。
    「なんか、見たいもの、あります?」
    「そうだね……」
    先生はパンフレットを広げようとして、ふと、隣の教室に目をとめました。
    「あれは、写真部かな?」
    「え? ああ、そうですね。展示と……、プリント体験?」
    澄くんは首をかしげました。
    教室の前に貼り出されたポスターにはたしかに「暗室にて写真プリント体験実施中」と書かれていますが、プリント体験とはいったいどういうことでしょう。
    「おもしろそうだね。暗室は……、隣かな?」
    先生が指差したのは廊下の奥です。
    「……たぶん」
    澄くんはうなずきましたが、自信はありません。この学校に暗室という部屋があることを今知りました。
    澄くんと先生が暗室の扉をノックすると、すぐに中から生徒が出てきました。二年生と思われる彼は、体験希望者に喜んで、暗室に招き入れてくれました。
    体験時間も15分ほどだというのでちょうど良い時間です。
    暗室の中には流し台がありました。シンクにはバットが三つ並んでいて、妙なにおいもします。しかも、ものすごく狭くて、三人入るともういっぱいでした。
    「フィルム写真なんです。今日は白黒で……」
    写真部の生徒はシンクの空いているスペースにスリーブに入ったフィルムを並べました。
    澄くんはモノクロフィルムを見たのはこれが初めてです。
    「蓮の花、山の風景、野球部……」
    澄くんは蓮の花を、先生は風景を選びました。
    プリントにはさまざまな道具を使います。生徒に引伸機の使い方を教えてもらって、いよいよ、実践です。
    パチリ、と暗室の照明が落とされました。頼りになるのは赤いランプの光だけです。
    澄くんと先生は交代で引伸機を使いました。印画紙はふつうの写真の倍くらいの大きさです。
    それに照射して、すぐにバットの中の液体に浸します。すると、みるみるうちに蓮の花が浮かび上がってきました。
    先生も同じようにして写真を作りました。
    三種類の液体につけたあとは、水洗いをして、ヒーターで乾かします。
    それを待っている間、ふと先生の手が澄くんの手に触れました。ぎゅ、と握られて、澄くんはものすごくびっくりしました。
    暗い中とはいえ、ここは学校です。しかも、写真部の生徒が一緒にいるのに。
    突然、その生徒が「あ」と言って照明をつけました。
    「すみません、電気、つけ忘れていました」
    「もう大丈夫なんですか?」
    「本当は、定着液……、三番目の液体につけたところで大丈夫なんです。でも、いつも連続して写真を焼くのでつい……」
    先生の手はさりげなく離れていきます。幸い生徒はできあがりつつある写真を注視していて気づいてはいませんでしたが、こんなに心臓に悪いことがあるでしょうか。
    「はい、できあがりました」
    手渡された写真は見慣れないモノクロということもあってか、目を引く出来栄えでした。
    フィルムは写真部が用意してくれたものなので、元々の画がよかったのでしょう。
    「すてきだね」
    ささやくように言われて、澄くんはびくりと震えました。けれど、先生はにこにこと笑っていて、今の言葉には本当に他意はなかったのでしょう。
    「そうですね……」
    澄くんは意識をしすぎている自分が恥ずかしくなりながら、でも、先生があんなことをしたせいだと思い直しました。
    まだ、手には握られた感触が残っています。
    暗室から外に出て間もなく、天文部の上映も終わりました。中学生二人にはとても楽しいイベントになったようで、彼女たちは先生にまとわりつきながら、たくさんおしゃべりをしていました。
    澄くんは彼女たちが落ち着いて話せるように、と三年生の教室に引き返します。隣のクラスは飲み物と市販のお菓子だけの喫茶店なので、ちょっとした休憩にもなるでしょう。
    「先輩は、どうしてこの高校にしたんですか?」
    四人で紅茶を飲んでいると、中学生の一人から思いがけない質問が飛んできました。どうして、と尋ねられると困ります。正直、選択基準は偏差値のみです。
    「えーっと、俺は大学に行きたくて、受験に強い学校に行きたかったから、ここにした」
    どうにか取り繕って答えると彼女は真剣な顔でうなずきました。
    彼女たちもまた、受験生なのです。
    「さて、そろそろ帰ろうか。もう、お昼だしね」
    先生が席を立ちました。中学生たちも不満はないようです。
    澄くんは三人を校門まで出て見送ります。ところが、別れ際に中学生たちが澄くんの連絡先を教えてほしいと言い出しました。
    「先輩、お願いします」
    「いや、でも、俺、三年だし」
    君たちが入学するときにはもういないから、という意味でしたが、だからこそだと二人は言います。
    「先輩にまた会いたいんです」
    そこでようやく澄くんは二人の気持ちに気がつきました。なにが気に入ったのだかわかりませんが、たまにこういうことがあります。去年、卒業生に連絡先を交換させてほしいとしつこく言われたことを思い出しました。
    「ええと……」
    「はい、そこまで」
    澄くんが困っていることに気がついてくれたのでしょう。先生が中学生にストップをかけてくれました。
    「そういうことは受験が終わってからね」
    えー、と不満の声を上げる二人に、先生はきっぱりと首を振ります。
    「受験が終わって落ち着いたら、手紙を書きなさい。先生が取り次いであげるから」
    えっ、と三人の声が合いました。いいんですか、やったー、と無邪気な中学生と、呆然とする澄くんです。
    「江澄がいやだと言わなかったらね」
    先生はそう付け加えましたが、澄くんはどう返事をするのが正解なのかわかりませんでした。

    澄くんはコンビニでおにぎりを買って、中庭の植え込みの縁に腰かけて、お昼を済ませました。それから、当初の目的だった図書室へと向かい、そこで同じクラスの女子生徒数人につかまりました。
    「一緒にいた人って、澄くんのご親戚?」
    「もしかして、お兄さんとか?」
    「あの中学生は澄くんの妹さん?」
    彼女たちはそれぞれの口でいろんなことをまくしたてましたが、つまるところ、先生の正体を突き止めたいということでした。
    澄くんは呆れかえって、口を引き結びました。
    どうして自分が先生の素性を彼女たちに教えなければいけないのでしょう。先生は澄くんの先生です。それだけではありません。澄くんの特別な人でもあります。
    敵に塩を送ってたまるかと澄くんが質問責めに沈黙を貫いていると、見かねた司書の先生が女子生徒たちを追い出してくれました。
    「文化祭なので多少は大目にみますが、騒ぎすぎです。見学の方もいらっしゃっているのだから、よく考えて行動しなさい」
    ぴしゃりと叱られて、さすがに反省したのでしょう。彼女たちはすぐに廊下からいなくなりました。
    澄くんは司書の先生にお礼を言って、図書室の隅の席に座りました。
    参考書を広げてみても集中できません。ため息ばかりが積み重なります。
    どうして先生は、あの中学生たちに「取り次ぐ」などと言ったのでしょう。場をおさめるためでしょうか。
    澄くんの気持ちは沈んでいきます。
    自分は、どれだけ問い詰められても先生のことを教えたくないと思いました。でも、先生はそうではないようです。つまり、先生にとって、澄くんはその程度の相手なのでしょう。
    (……でも)
    澄くんはペンを握る手を見つめます。
    先生は澄くんの手を握りました。一度ではありません。何度も、です。
    もっといえば、お肉屋さんの二階でのことも、誰もいない塾で花火を見たことも、先生と澄くんだけの出来事です。
    先生はなにも言ってくれませんが、それは澄くんが子どもだからでしょう。誕生日が来れば、この状況も変わるはずです。
    澄くんは頭を振って、参考書へと視線を戻しました。
    また、来月も模試があります。成績を落とさないようにしなければなりません。
    今、澄くんができることは勉強だけでした。



    その日、澄くんは18歳になりました。
    0時ちょうどに「おめでとう!」と部屋に突入きてきた義兄を蹴り出して、澄くんはベッドに戻ります。
    スマホが何度か震えて、お祝いのメッセージの到着を知らせましたが、間もなく静かになりました。
    翌朝、澄くんは起き抜けにスマホを確認しました。当然のことながら、先生からのメッセージはありませんでした。
    リビングに下りていくと、母と姉からお祝いをもらいました。義兄は昨夜のことを根に持って、ずっと澄くんを無視した挙句、姉から静かに諭されていました。
    今日は土曜日、午前中から塾の授業があります。
    澄くんは開室時間に合わせて家を出て、授業の時間までは自習室で過ごしました。
    アルバイトの桑は澄くんを見つけるなり、「成人、おめでとう」と言って栄養補助食品をくれました。まったく成人に関係なくて、澄くんは笑いながら受け取りました。
    そのあと、先生の授業を受けて、駅前のハンバーガー屋さんで昼食を取り、また授業を受けます。今度は別の先生です。
    「誕生日だって? おめでとう」
    「ありがとうございます」
    その先生も澄くんの成人を祝ってくれました。授業をすべて受け終えて、澄くんは自習室へと戻ります。午前の授業以降、先生とは会えていません。けれど、自習室にいれば来てくれるかもしれません。
    11月に入って、日が落ちるのが一段と早くなりました。
    窓の外はすっかり暗くなり、時折、風の音が聞こえます。
    「あれ? まだ、残っていたの?」
    澄くんははっと顔を上げました。自習室の入口に立っているのは桑です。
    時刻は18時を過ぎました。土曜日の塾はもう閉室です。
    「すみません、帰ります……」
    澄くんは慌てて荷物をまとめました。廊下に出て、先生たちの事務机があるパーティションの向こうをちらっと見ましたが、誰もいませんでした。
    「今日はねえ、私が戸締まりするんですよ」
    澄くんはびくりとして、背後の桑を振り返りました。
    「塾長は用事があるって早く帰っちゃったし、他の先生方も自分の仕事が終わったらいなくなっちゃうし」
    「そう、なんですね」
    澄くんはうつむいて、「さようなら」と小声で言いました。
    桑の言う塾長というのは先生のことでした。

    澄くんは冷たい風が吹く中を家まで歩きます。
    一学期は学年で上から5番目という好成績でした。8月の模試も、10月の模試も、結果は上々でした。第一志望校の判定だって、初めてAを取れました。
    こんなにがんばれたのは先生がいてくれたからです。
    先生は澄くんを特別に扱ってくれました。家の中でも、学校でも、誰かの一番になったことはありません。そんな自分を先生はほめてくれて、手を握ってくれました。
    うぬぼれではなかったと思います。だって、先生は……
    澄くんは袖口で目の下をぬぐいました。
    今日がくれば、なにかが変わるはずでした。
    先生がなにも言わないのは未成年だからだと思っていました。でも、そうではなかったのかもしれません。
    思い出したことがあります。
    文化祭の日のことです。先生は中学生の女の子に「手紙を取り次いであげる」と言っていました。あのときは無理やり納得しましたが、やはり、先生にとって澄くんはその程度だったのです。
    しかし、そうしたら、5月のときのことや、花火はどうなるのでしょう。あれも特別ではなかった、とはどうしても思えません。
    月曜日に聞いてみましょうか。
    澄くんはスマホを取り出しました。母親からメッセージが入っています。今日の夕飯はビーフシチューだそうです。きっと、デザートにはケーキが用意されているのでしょう。そして、そのケーキは澄くんが好きな四角いチョコレートケーキのはずです。
    でも、少しもうれしくありません。
    澄くんは先生のIDを呼び出しました。
    (先生、俺、18歳になりました)
    もう、都合のいいことは望んでいません。ただ、ひと言、お祝いだけでいいのです。
    そうしたら今日が特別に変わるのに。
    澄くんはスマホをポケットに戻しました。先生にどんなメッセージを送ればいいのか、わかりませんでした。

    澄くんは家族に誕生日を祝ってもらい、いつも通りに勉強をして、寝支度をして、ベッドに入りました。
    もうすぐ日付が変わります。こんな時間ですから、先生からのメッセージは期待できないでしょう。
    澄くんはそれでも諦めきれず、暗闇の中で先生とのメッセージ画面をながめていました。
    そのときでした。
    ——お誕生日おめでとう。成人、おめでとう。ずっと、この日を迎えることを……
    一瞬のことでした。メッセージはすぐに取り消され、澄くんは全文を読むことができませんでした。
    でも、見間違いではありません。
    今、たしかに、この目で見ました。
    先生は忘れていたわけでも、無視したわけでもなかったのです。
    ——深夜に申し訳ございません。誤送信をいたしました。
    簡潔な謝罪文の後に、もう一度「お誕生日おめでとう」とメッセージがありました。
    先生は誤送信と言いますが、お祝いの言葉は誤りではなかったようです。
    手が震えました。
    先生の事情はわかりません。澄くんでは考えの及ばないなにかがあるのでしょう。
    澄くんは「ありがとうございます」と「おやすみなさい」のスタンプを返しました。あのメッセージのことは触れないほうがいいのです。
    先生からは「おやすみなさい」とメッセージがありました。
    耳元で、先生の声がよみがえります。澄くんは赤くなりました。また、お肉屋さんでのときのように、あんなふうに言ってもらいたいと思いました。



    12月も半分を過ぎて、冬本番という寒さになりました。澄くんはダッフルコートの首元を押さえて、白い息を吐きました。
    世間はクリスマスと年末年始を控えて浮き足立っていますが、澄くんたち受験生はそれどころではありません。年が明けたら、共通テストが待っているのです。
    塾のビルの前まで来たところで、澄くんは首を傾げました。エントランスに女子高生が三人、固まって立っています。
    そのうちの一人は手で顔を覆っていて、どうやら泣いているようでした。
    澄くんはものすごく気まずい思いをしながら、ビルに入りました。エレベーターを待っていると、彼女たちの声が聞こえてきました。
    「先生、結婚してたってことなの?」
    「……わかんない。でも、パートナーがいるって言ってたの」
    「指輪もしてないのに!」
    「そんなの、わかんないよね」
    なにやらトラブルがあったようです。澄くんは関わりたくなくて、エレベーターに飛び乗りました。
    塾のあるフロアに着くと、入口の前に桑が立っていました。ほとんど事務机から離れない彼が、どうしたというのでしょう。
    桑は澄くんを見るなり、大股で近寄ってきました。
    「いいところに来てくれましたね」
    いやな予感がします。澄くんは「こんにちは」と言って顔を背けましたが、腕をつかまれてしまいました。
    「下に女の子たち、いませんでした?」
    「……いましたけど」
    「ああ〜、やっぱり……」
    桑はがっくりと肩を落として、おおげさにため息をつきました。
    いったいなにがあったというのでしょう。でも、ここで聞いたらやぶへびになります。
    「塾長が行くわけにもいかないし……、やっぱり、私が行かなきゃいけないんでしょうね……」
    「……あの」
    「なんでこんなことになったんだか……、聞いてくれます?」
    「えっ……」
    「実はさっき」
    桑は澄くんの返事を待ちません。彼が話すところによると、塾生の女の子が塾長に好意を告白したというのです。
    「告白……?」
    「本当に、参っちゃいますね」
    彼女は高校三年生ですが、8月に成人しているそうです。さらには指定校推薦を利用して、すでに大学に合格したとのことでした。
    「でもねえ、ほかの子はまだこれからだってわかるでしょうに……」
    桑のぼやきは止まりません。澄くんはそれにいちいちうなずきながら、(あれ?)と気がつきました。
    女の子はパートナーがどうのと言っていなかったでしょうか。
    「これで塾の評判が落ちたらどうしてくれるんだか。まだ、いますかね……、いるんでしょうねえ。早く帰るように言わないと……」
    エレベーターが到着しました。桑はまるでおじいさんのような足取りでエレベーターに乗り込みます。
    澄くんは塾に入って、まっすぐに自習室へと向かいました。
    ——パートナーがいるって。
    告白の返事として伝えられたのですから、パートナーというのは恋人ということでしょう。それも生涯を共にする、という意味を含んだ「恋人」です。
    澄くんはよろめきつつ、椅子に座りました。
    目の前が真っ暗になるというのを初めて体験したかもしれません。
    どのくらいそうしていたでしょうか。
    「どうしたの? もう授業の時間だよ?」
    先生が自習室の扉を上げました。澄くんは慌てて立ち上がり、その拍子にカバンをひっくり返してしまいました。
    「大丈夫?」
    「あ……」
    大丈夫です、のひと言が出ません。先生はカバンを拾い上げてくれましたが、お礼も言えません。
    「具合が悪いの?」
    澄くんはようやくのことで首を振りました。先生からカバンを受け取って、頭を下げます。
    「無理しないでね」
    先生がぽんと肩をたたきました。いつもならうれしいはずの手の感触は、今は心臓にダメージを与えるだけです。
    澄くんは先生と一緒に自習室を出て、教室に入り、席に着きました。ところが、テキストを広げても、先生の言葉が頭に入ってきません。
    ぼんやりとしたまま時間を過ごして、授業後はさっさと帰宅しました。
    こういう感覚をなんと呼べばいいのか、澄くんは知りません。心の中がからっぽになってしまったような気がします。
    これまでにない大きな衝撃でした。先生は澄くんをどう思っているのでしょう。なんども思い直してきましたが、今度こそ、だめかもしれません。
    特別に思ってくれている、と信じるのは限界でした。気持ちを伝えてもらえない理由がわかりません。澄くんは成人しています。たしかに受験勉強の真っ最中ですが、本当にそんなことが理由でしょうか。
    考えても、考えても、答えは出ません。問題集の解答のように、わかりやすい解説つきで、先生の気持ちを見ることができたらどんなに楽でしょう。
    澄くんは部屋に閉じこもりました。夕食は食べませんでした。

    翌日も塾がありました。こんなに行きたくないのは初めてです。
    駅前のクリスマス商戦が、ものすごく鬱陶しいと感じます。
    澄くんは授業開始の直前に入り、終わるとすぐに塾を出ました。
    お腹が減りました。
    朝はヨーグルトを食べました。昼食は食べていません。でも、食事をする気になれません。
    澄くんは家に帰るのをやめて、駅前に引き返すとカフェに入りました。あたたかなカフェラテは体を温めてくれましたが、からっぽのお腹にコーヒーはよくなかったかもしれません。しだいに気持ちが悪くなってきました。
    スマホが鳴っています。母親からの着信です。時間を見ると21時です。いつの間に、そんなに時間が経ったのでしょう。
    義兄からも着信がありました。姉からもありました。
    澄くんは家族のグループに「もうすぐ帰ります」とメッセージを送って、スマホの電源を落としました。
    どうしてそんなことをしたのか、自分でもわかりません。ただ、家にも帰りたくなくて、一人でいたくて、どこにも行き場所がなかったのです。
    「江澄!」
    突然、名前を呼ばれて肩をつかまれました。
    周囲の人の視線が集まります。
    先生でした。
    「よかった、見つけた……」
    先生は澄くんの肩に手を置いたまま、ほほえみます。
    その瞬間、澄くんはこらえきれなくなりました。
    涙が膜を張っていきます。
    「お母様からご連絡をいただいたんだよ。帰ろうか」
    差し出されたハンカチを目元に当てると、とてもいい匂いがしました。

    先生は澄くんになにも尋ねませんでした。
    ただ、週末……、まさしくクリスマスでしたが、その日曜日に出かける約束をしました。
    「私と一緒に合格祈願に行ってくれないかな。お正月は混むから、今のうちにね」
    指定されたのはずいぶんと遠くの、山の上にある神社です。たぶん電車で一時間以上かかります。
    なんでそんなに遠くなんだろう、と疑問に思いながらも澄くんはうなずきました。
    家に着いても、先生はすぐには帰りませんでした。しばらく母親と玄関先で話し込んでいましたが、澄くんは「部屋に行っていなさい」と言われて内容はわかりませんでした。
    日曜日の待ち合わせは、ターミナル駅に午前8時と決まりました。やけに早い時間ですが、登山をすると考えたらそんなものなのかもしれません。



    日曜日の朝にもかかわらず、駅の改札前には登山の装備を背負った人がちらほらと見かけられました。
    澄くんはその中で、ダウンパーカにジーパンといういつも通りのかっこうです。
    待ち合わせ時間の5分前に「おはよう」と現れた先生は、澄くんと同じようなダウンジャケットと、トレッキングパンツでした。
    「さあ、行こうか」
    澄くんと先生は連れ立って電車に乗り込みます。隣同士で座るのは初めてです。
    「あの……」
    電車が動き出してしばらくしてから、澄くんは切り出しました。
    「先生、この間はありがとうございました」
    先生は目を瞬いて、「いいんだよ」とほほえみます。思わず、澄くんは目をそらしました。先生の笑顔を久しぶりに見た気がします。
    「ご家族とは、お話しできた?」
    「はい、まあ……」
    あれから塾には行っていません。母親も勉強について小言を言わなくなりました。姉と義兄はやけにやさしくて、実は少しばかり居心地が悪いのです。
    「ずっと、勉強詰めだったからね。息抜きも必要だよ」
    それは5月にも言われたことでした。二日ほど夜更かしして勉強をするのをやめて、睡眠をたっぷりとっただけで、食欲が戻ってきました。しかし、勉強をしなければ、という強い気持ちも薄れています。
    「君の成績なら、年明けのテストも目標点には届くだろうし、模試でも第二希望が合格確実を取れているんだから、そんなに焦らなくて大丈夫だよ」
    澄くんはうつむきました。どうやら、先生はあの日のことを、そういうことにしておきたい、ようです。でも、本当は違います。先生だって、気づいているはずです。
    「お参りしたら、少し、話そうか」
    澄くんはうなずきました。
    特急電車は次々と駅を飛ばして走っていきます。暖房の効いた車内では、ダウンパーカは少しばかり暑く感じました。

    電車から降りると、キンとした空気が顔を打ちます。
    澄くんはぱっと目を見開き、大きく深呼吸をしました。
    「ああ、やっぱり、ここはいいな」
    隣で先生がつぶやきます。
    「身が引き締まるね」
    電車の中でぼんやりとしてしまっていた頭の中が、急速に冷えていきます。
    「ここには来たことがあるんですか?」
    「数年前にね。さあ、次はケーブルカーに乗るよ」
    先生が澄くんの手を取りました。
    こういうところです。先生のこういうところがよくありません。
    たったこれだけのことで、澄くんの心臓は息を吹き返します。ここのところ、まったく意識していなかった鼓動が、いきなりばくばくと鳴りだしました。
    まだ、シャッターの下りているおみやげ屋さんばかりの道を、人の流れに乗って進みます。
    ケーブルカー乗り場には長蛇の列ができていました。
    「こんなに混んでいるなんてね」
    「そうですね」
    遊園地のアトラクションのようです。
    先生が切符を買ってくれて、二人で列の最後尾に並びました。また、先生の手が澄くんの手を握ります。
    「毎年、お正月には湯島の神社にお参りに行って御守りをいただくのだけど」
    「そうなんですか」
    「そうだよ。受験生全員に渡す合格祈願の御守りだよ」
    澄くんは「へえ」と口の中でつぶやきます。それならどうして、今日はここなのでしょう。いつもの神社でもよかったのではないでしょうか。
    澄くんが不思議そうな顔をしているのに気づいたのでしょうか。先生はくすくすと笑いながら、なぜかつないでいる手に力を込めました。
    「今日はほかにもお願い事があるからね」
    「そうなんですね」
    「そうだよ」
    先生は笑顔ですが、目がじっと澄くんを見ています。
    「大事なことをね、お願いしなければいけなくて」
    澄くんは口を引き結んで、足元を見ました。そして、先生の手を握り返しました。
    先生のお願いごととはなんでしょう。厄除けとか、健康とか、そういうものではなさそうです。
    そういえば、自分はなにをお願いするつもりなのでしょう。ここまできて、澄くんはそのことをまったく考えていなかったと気がつきました。
    とりあえず、合格祈願、でいいでしょう。そもそも、先生にはそのように言われているのですから。
    30分ほど待って、ようやくケーブルカーに乗れました。
    中は人でぎゅうぎゅう詰めで、澄くんは奥の窓際で小さくなります。
    そこに先生の腕が伸びてきました。
    「大丈夫?」
    「……はい」
    澄くんはなんとか返事をしましたが、頭は大混乱です。まるで、横から抱きしめられているようです。
    ケーブルカーが動き出しました。床に傾斜がついていて、立っていてもそれほどつらくない、と思っていたのは初めだけでした。
    急にケーブルカーの角度が変わりました。アナウンスでなにかを言っています。でも、澄くんは息をするのもやっとです。
    傾いた体を先生が支えてくれています。もはや、完全に澄くんは先生の腕の中でした。
    「すみません」
    澄くんは慌てて体勢を立て直しました。
    いくら混んでいる車内とはいえ、傾斜がついているせいで周囲からは丸見えです。
    「気にしないで」
    それでも、先生の声はすぐそばで聞こえます。そして、先生の腕も、離れていきません。
    ケーブルカーはぐんぐんと山を登っていきます。

    山腹の駅に到着すると、目の前が広場になっていました。
    澄くんは逃げるようにして手すりまで行きました。山すそに広がる町から、その先の都心までよく見えます。とてもいいながめです。
    「暑かった……!」
    「そうだね」
    先生は笑いながら歩いてきます。あまりにいつも通りで、澄くんはくやしくなりました。動揺するのは自分ばかりです。
    「少し、休もうか?」
    「大丈夫です」
    澄くんは首を振りました。疲れたわけではありません。
    二人はほかの人と同じように、売店の脇の道へと入りました。それほど広くない道を、登山客が並んで歩いている光景は異様なものがありました。
    そこからそれほどいかないうちに、さる園という看板を見かけました。開園前なので入口に人はいません。
    「帰りに寄ってみる? エサをあげられるんだよ」
    先生は楽しそうでしたが、澄くんは首を振りました。子どもっぽいことはできるだけしたくありません。
    その先には人だかりがありました。なにやら大木の周囲で撮影会がはじまっています。澄くんはそれを横目に歩き続けました。先生も立ち止まろうとはしません。
    不思議なことに、気が急いています。
    道の片側は山肌で、ところどころに石灯籠のようなものが建っています。反対側は崖で、どちらも樹木が茂り、静かなものです。澄くんを追い立てるものはなにもありません。
    それなのになぜでしょう。
    「江澄」と突然手をつかまれました。澄くんがびっくりして先生を見ると、先生は息を切らして言いました。
    「もうちょっと、ゆっくり、歩かない?」
    全然気づいていませんでしたが、自分も息がはずんでいました。いつのまにか、早歩きになっていたようです。
    そこからは意識をして先生に合わせて歩くようにしました。先生の足取りはゆったりと見えて、それほど遅いわけではありません。
    道は途中で、階段と坂道とに分かれました。階段を行く人はほとんどいません。
    「どうする?」と聞かれて、澄くんは坂道を選びました。先生と一緒でなければ階段を行っていたかもしれません。
    とはいえ、坂道もそれなりの勾配がありました。二人とも無言で進みます。
    澄くんはその間、ここに連れてこられた意味を考えていました。話すだけならどこでもいいのに、どうしてこんなに遠くに来たのでしょう。
    ふと、澄くんは前を行く老齢の男女、二人連れに気がつきました。ご夫婦でしょうか。
    気になって背後を振り返ってみると、ツアー客らしき団体がかたまって歩いています。
    ここは澄くんの知らない場所です。そして、澄くんを知っている人もいません。
    先生だけが、澄くんが頼りにできる唯一の人でした。
    「先生……」
    「どうしたの?」
    小さな声にも先生は振り返ってくれます。澄くんはうれしくなって、先生の手の、指先のところを握りました。
    「あと、どのくらいですか」
    「……あと少しだよ」
    大きな手がしっかりと握りかえしてくれました。

    坂道が終わると、小さな広場がありました。だんご、とのぼりを立てた店もあります。
    澄くんと先生はそこで一休みをして、持ってきたお茶を飲みました。
    その先は杉並木です。
    そして、門が見えてきました。
    「まずは御本堂でお参りをしよう。神社と言ったけれど、お寺でもあるから」
    門をくぐると、御守りや正月飾りが売っていました。そこを通りすぎると先生の言ったとおりに仁王門があります。
    人の列はそこからはじまっていました。意外と混んでいるようです。
    「寒くない?」
    「大丈夫です」
    体はぽかぽかしています。それ以上に手が熱くて、汗をかいてきました。
    「お正月のお参りは行くの?」
    「いつもは行きますけど……」
    今年はどうしましょう。受験前に風邪を引くのもいやなので行かないかもしれません。
    そう言うと、先生は「それなら、しっかりお参りしないとね」と笑います。
    話しているうちに、人の列はどんどん進みます。澄くんと先生の番になりました。
    澄くんはまずこの一年のお礼をしました。振り返ってみればいろんなことがありましたが、ともかく健康に過ごせたことはたしかです。それから、来年の祈願をしました。自分と家族と先生の健康、そして大学受験の合格です。
    先生の恋人になりたい、と頭の端にひっかかったものは振り払いました。今日はそんなことのために来たわけではない、と思ったのです。
    「さて、次は御守りをいただきに行こうか」
    澄くんと先生は来た道を戻りました。授与所も大変な混雑です。
    先生は「合格祈願はいただかないでね」と言いました。
    「受験生には私が渡すからね」
    澄くんは言われたとおりに、家族の分だけ御守りをいただきました。ひとつだけいただいた合格祈願は義兄のためです。
    先生はたくさんの御守りをいただいていました。手提げ袋の中はほとんどが合格祈願のようですが、いくつか違う御守りも入っているようです。
    「そうしたら、行こうか」
    先生は澄くんの手を取って、また御本堂のほうへと歩き出しました。
    どういうことでしょう。てっきり山頂へ向かうものだと思っていたのに。
    とまどう澄くんを連れて、御本堂を回り込み、先生はまた別の列に並びました。今度は女の人はがりです。
    「お堂の前に柵があるから、そこにこれを結ぶんだよ」
    手渡されたのは小さな御守りと、赤いひものついた五円玉でした。台紙には良縁成就と書かれています。
    「えっ」
    よく見ると、真っ赤なお堂のわきには「えんむすび」と書かれたのぼりがたっています。
    「受験生にすすめるものではないかもしれないけれど、来年のことだからね」
    もう、目の前に五円玉が鈴なりになった柵があります。澄くんは先生にならって、五円玉のひもを結びつけました。それから、お堂にお参りをしました。
    とはいえ、なにを願ったらよいのでしょう。良縁、とはなにを指すのでしょう。
    澄くんは迷った末に、良縁の相手は先生にしてください、とお願いしました。
    さっき取りやめたばかりの願いごとをそのまま引っ張り出すのは気が引けたのでした。

    「どういうことですか、先生」
    人混みを抜けて、杉並木まで戻ってきたところで、ようやく澄くんは尋ねることができました。先生は道の端に寄って立ち止まりました。
    「なんで、あんな……」
    あんなところ、とは言いたくありませんが、不意打ちをくらった身としては文句のひとつくらい言いたくなります。この御守りにはどういう意味があるのか、はっきりとした言葉がほしいのです。
    先生は澄くんの顔をまっすぐに見ました。
    「君の不安を取り除きたくて」
    澄くんは眉間にしわを寄せました。意味がわかりません。不安とは、先日のことでしょうか。
    先生にパートナーがいる、という話のことでしょうか。
    「本当は春まで待つつもりだったんだ。君はまだ高校生だし、受験生だからね」
    「はい……」
    「だから、これは、春まで預かっていてほしい私の気持ちだよ」
    先生の目はやさしく澄くんを見つめます。
    握りしめた小さな御守りが、とんでもなく大切なものに変わった瞬間でした。
    「せ、先生、それって……」
    声が震えました。信じられないことが起きています。
    この静かな山の中で、いきなり天狗が法螺貝を吹いたようなものです。
    「春までに縁が切れないように、お祈りしたから」
    先生の手が、御守りを握りしめる澄くんの手を包みました。
    縁が切れるわけがありません。でも、今は言うことができません。
    澄くんはうなずいて、御守りを財布の中にしまいました。先生も自分の分をリュックに入れました。
    気がかりはあとひとつだけです。
    「先生、あの……」
    澄くんは思い切って尋ねました。もうこわいことはありません。なんといっても、澄くんは御守りをもらえたのですから。
    「先生にパートナーがいるって、聞いたんですけど……」
    先生は目を丸くして、それからようやく納得したかのように、深くため息をつきました。
    「そういうこと……」
    額に手を当てて、眉間にしわを寄せた先生は、いつもの先生ではありませんでした。なにやら打ちひしがれているようにも見えます。
    澄くんはじっと返事を待ちました。
    ちらほらと、杉並木を歩く人の視線を感じます。
    しばらくして、先生は「ごめんね」と澄くんの背を押して、歩き出しました。どうやら御本堂のほうへと戻るようです。
    「あのときは、私も困ってしまって」
    「はい」
    「パートナーになる人はもう決まっているから、とそう言ったんだよ」
    決まっている、とはまた大胆な言いようです。澄くんがびっくりしていると、先生はくすりと笑いました。
    「これで安心できた?」
    安心どころか、法螺貝の追加ではありませんか。目の前で思い切り吹かれたみたいに頭がくらくらとしてきました。
    澄くんと先生はそのまま人の流れに乗って、石の階段へと向かいます。二つ階段を越えて境内を出ると、本格的な山道になりました。今までと違って舗装されていませんし、格段に道が狭くなっています。
    「山頂までは30分もかからないから」と先生は言いますが、ぼんやりとしたまま歩ける道ではありません。
    澄くんはしっかりと前を向いて、足を踏み出しました。

    山頂は広場になっていました。大勢の人が休憩しています。
    澄くんはタオルで汗をぬぐいました。
    展望台はとても見晴らしがよく、雪をかぶった遠くの山まで見えました。反対側に行くと都会まで続く街並みが広がっています。
    澄くんの隣には先生が立っています。「来てよかったね」と言うので、「そうですね」と返事をしました。
    澄くんと先生はたくさん話をしました。大学で勉強したいことや、やってみたいアルバイトのこと。家族のことも話しました。先生の弟さんの話も聞きました。
    30分ほどするとお腹が減ってきました。もう12時になる頃です。周囲ではお弁当を広げている人もいます。
    「お腹が減ったね。お茶屋さんでお昼にしようか」
    お茶屋さんにはもう人が並んでいました。澄くんと先生はまた列に並びます。登山客の多い観光名所ならではでしょう。
    「ここはね、とろろそばが有名なんだよ」
    しばらく待って案内されたのは運良く座敷の席でした。
    澄くんはとろろそばとおにぎりのセット、先生は山菜とろろそばを頼みました。
    「お昼をいただいたら、やっぱりさる園に行ってもいいかな」
    「はい?」
    先生がなにやら言っています。店内はがやがやとしていて、先生の声がうまく聞き取れません。
    澄くんが身を乗り出すと、先生も顔を近づけます。
    「さる園に行ってもいい?」
    「えっ」
    「まだ、君と一緒にいたい」
    耳打ちされた内容に澄くんは返事ができません。そこにおそばがやってきました。
    あつあつのおつゆと、とろとろのとろろと、香りのいいそばとが、口の中ではおいしいと感じているのに、頭のほうがついていけていません。でも、もったいなくて、澄くんはそばを食べ続けます。
    向かいでは先生がにこにこと山菜そばをすすっていました。
    さる園には思っていたよりも多くの猿がいました。エサやりもしました。先生が投げ入れたエサ玉を猿たちが取り合います。すばしっこい猿と、体の大きな猿が有利なようです。
    澄くんは、端のほうで様子をうかがっていた小さな猿に向けて、エサを放り投げました。
    いくつかは他の猿が取って行きましたが、口を動かしている様子が見えました。どうやら無事に食べられたようです。
    ケーブルカーの駅まで下った後はおみやげを買いました。天狗焼きは焼きたてでしたので、おやつに食べました。
    さて、もうそろそろ、帰らなければいけません。
    ケーブルカーの駅には、また行列ができています。
    先生はそれをながめて、なにやら思案顔です。
    唐突に「高いところは平気?」と尋ねられました。澄くんは「大丈夫です」と答えると、意外な提案がありました。
    「下りはリフトにしようか」
    「リフト……」
    そういえば、登りのケーブルカー乗り場の隣にリフトと書いてあった気がします。
    「少し歩くけれどいいかな?」
    「はい」
    下りの道に入って、本当に少しの距離でした。リフト乗り場が見えてきます。そこにも数人が並んでいましたが、ケーブルカーほどではありませんでした。
    ところで、リフトとはどうやって乗るのでしょう。澄くんは乗ったことがありません。
    「あの……」
    「どうしたの?」
    「乗り方って、わかりますか」
    先生は一瞬きょとんとして、「もちろん」とほほえみます。
    「言葉で説明するより……」
    こちらのほうがわかりやすい、と先生が見せてくれたのは動画でした。
    ホームページで乗り方の動画が公開されています。ゲートの向こうには、自動で動くベルトが地面に設置されていて、そこに乗ってリフトが来るまで立っていればいいようです。
    「リュックを前にして、荷物を落とさないようにね」
    澄くんは言われたとおりにリュックを抱えて、おみやげの紙袋の持ち手をしっかりと握りました。
    いよいよ、澄くんと先生の番です。
    澄くんは先生と一緒にベルトの上に乗りました。背後からやってくるリフトに、タイミングを合わせて座ります。
    地面から足が浮きました。
    「え? あれ?」
    「どうかした?」
    澄くんは片手でバーにつかまって、きょろきょろと自分の両脇を見ました。
    「これって、ベルトとか、ないんですか」
    「……そういえば、ないね」
    リフトはゆっくりと斜面を下っていきます。身を乗り出したら、この急斜面に落下するということです。
    澄くんが思わずリュックを抱きしめると、先生が肩を抱いてくれました。
    「こわい?」
    「……少し」
    澄くんは素直に返事をしました。もはや虚勢を張る余裕もありません。
    心臓がやけに早く鼓動を刻んでいます。恐怖のせいでしょうか。それとも、緊張のせいでしょうか。
    「視線を上げて」
    耳元で先生の声がします。澄くんは一度ぎゅっと目をつぶってから、顔を上げました。
    空が見えます。
    重なり合う木の枝も見えます。
    不思議なことに、それだけで肩から力が抜けました。
    「下を見なければ、それほどこわくないと思うよ」
    先生の言うとおりです。あのおそろしさはなんだったのでしょう。
    「ありがとうございます」
    澄くんは小さな声でお礼を言いました。
    恐怖が遠のくと、今度は先生との距離が気になりました。左の肩には先生の手があって、右には先生がいて、体がぴったりとくっついています。
    今までなら、とまどいながらもうれしいだけだったでしょう。でも、今日は。
    澄くんが思い浮かべたのはリュックの中の御守りでした。
    先生の手が、ただの親切でないことを知ってしまいました。照れくさくて、とびきりしあわせで、落ち着きません。
    でも、こんなに近くにいられるのはリフトの上だからです。澄くんはそれもわかっていました。高校を卒業するまではがまんしなければいけません。
    「気が早いかもしれないけれど」と前置きをして、先生が言いました。
    「4/1の夜、君に会いたい」
    澄くんは「はい」と答えました。



    お正月はなにごともなく過ぎていきました。
    例年どおりでなかったといえば、澄くんが初詣に行かなかったことくらいでしょうか。
    小さな変化はいくつもありました。義兄の鞄に合格祈願の御守りがぶら下がるようになったこと、あの母が「勉強」の二文字を口に出さなくなったこと……
    しかし、澄くんと先生に変化はありません。冬休み明けに塾で顔を合わせるまで、新年のあいさつさえしていませんでした。
    塾の入口で「明けましておめでとうございます」と言葉を交わして、澄くんは自習室へ向かいます。途中で会った桑にも同じようにあいさつをしたところ、しみじみと言われました。
    「もうすぐ終わりだねえ。君たちには今年もよろしくとは言えないからさみしいよ」
    桑の言うとおりでした。今週末には共通テストがあります。1月いっぱいは自習室を使えるようですが、授業はもうありません。
    先生には会えなくなります。
    「合格報告にまた来ますよ」
    「待ってるからね!」
    澄くんは自習室に入りました。がらんとしています。
    この部屋にはたくさん助けてもらいました。
    初めは「家に帰りたくないから」と過ごしていただけでしたが、だんだんと「先生に会いたいから」に変わりました。
    授業がない日もここへ来て、勉強をしました。
    澄くんはいつもの席に座りました。テスト目前の今、やるべきことは多くありません。過去問題集を取り出してせっせと解いていきます。
    しばらくして、自習室の扉が開きました。
    「江澄、いるかな?」
    「先生……」
    「少しだけ、日程の確認をさせてくれる?」
    澄くんはスマホを取り出しました。
    試験を受けるのは4校です。そのすべての試験日と合否発表の日程を確認しました。
    「ありがとう」
    先生はスマホをポケットにしまうと、澄くんの肩に手を乗せました。
    「……応援してるよ」
    おだやかな、いつもの先生のほほえみでした。でも、先生が本当に言いたいことはきっと別のことです。でなければ、こんなにじっと澄くんを見つめるはずがありません。
    澄くんは「はい」と答えましたが、声が震えました。先生の手のひらがやけに熱くて、胸の奥が痛くなりました。



    それからはひたすら試験と勉強をくり返す日々です。
    澄くんは必死でした。
    ともかく大学に受からなければ話ははじまりません。
    共通テストは目標点に届きませんでした。澄くんはその分を取り返すように、がむしゃらに私立大学の試験を受けました。
    そして、2月中旬。
    澄くんはベッドの上で正座をしていました。
    今日は第二志望の私立大学の合格発表です。ここに受かっていれば第一志望に落ちたとしても、大学生になれるのです。
    時間になりました。澄くんは緊張の面持ちで、スマホのアプリにログインします。
    合格発表のページが読み込まれていきます。
    「合格した……」
    澄くんは呆然とつぶやいて、あわててスクリーンショットを撮りました。
    まずは家族にメッセージアプリで報告します。
    それから、先生にも。
    ——第二志望、受かりました!
    あとは学校にも報告しなければいけません。澄くんが高校に行く支度をしていると、階下からバタバタと足音が聞こえてきました。
    「やったな!」と部屋に飛び込んできたのは義兄です。
    「だから、ノックをしろって言ってるだろ!」
    「おめでとう、江澄!」
    「人の話を聞け!」
    義兄にぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、しかし、澄くんは無理に引きはがそうとはしません。
    スマホのロック画面には、何通ものメッセージが表示されています。
    「あとは第一志望だけだな」
    「そうだな」
    澄くんも、義兄も、公立大学が第一志望です。その個別試験は目前まで迫っています。
    高校では担任にひとまずの祝福をもらいました。そして、「どうするんだ?」と聞かれました。
    入学手続きの締め切りは第一志望の試験日の翌日です。この段階で、第二志望に決めてしまう生徒もいます。
    でも、澄くんは第一志望をあきらめる気はありません。
    「自己採点してから決めます」
    「そうか、がんばれよ」
    担任の先生に励まされて、澄くんは高校を出ました。スマホを見ると、先生からお祝いのメッセージが来ています。
    ——おめでとうございます。来週の試験、応援しています。
    澄くんは塾へ向かおうとしていた足を止めました。
    先生に会いたい気持ちはありますが、今はまだ会わないほうがよいのでしょう。
    気持ちが切れてしまいそうです。
    澄くんは「がんばります」と返事をして、再び歩き出しました。

    第一志望の個別試験は、巻き返せた、と思える出来でした。
    帰宅後の自己採点でも、合格圏内には入っています。
    澄くんは自室で、文字どおり、頭を抱えて悩みました。
    第一志望の結果を待つか、第二志望の大学に決めてしまうか。
    第二志望の入学金を払ったあとで入学辞退をすることもできますが、入学金は返ってきません。父親はそれでもいいと言ってくれています。しかし、一方の義兄は第一志望一本で行くと宣言しています。
    自分だけが甘えていいものでしょうか。
    澄くんは志望大学のホームページを見比べました。
    たしかに偏差値で比べれば第一志望のほうがよいのでしょう。けれど、やってみたいと思う学問は第二志望の大学です。
    私立大学です。お金もかかります。大学のネームバリューも劣ります。
    母親は不満に思うかもしれません。
    そこで、澄くんの悩みはさらに深くなりました。
    卒業後の進路……、学問を続けることまで含めて考えると、第一志望でも悪くないことに気がついたのです。
    それに、第一志望の大学に進学した場合、親からの、先生への印象はよくなるでしょう。先生との将来を視野に入れれば、そうしておいたほうがいいに決まっています。
    この日、初めて、澄くんは自分の将来について真剣に考えました。
    自分が絶対に譲れないこととはなんでしょう。
    大学生活でしょうか。学びたい分野でしょうか。先生との未来でしょうか。
    全部を叶える道は本当にないのでしょうか。
    あらゆる可能性をシミュレートして、できることを選択していきます。
    本来なら、志望校を決める段階でやっておくべきことだったのかもしれません。しかし、あのときは、母親からのプレッシャーに勝てませんでした。
    とはいえ、今なら遅くはないはずです。
    23時を回っていましたが、入学手続きは明日までです。猶予はありません。
    澄くんは部屋を出て、書斎の扉をたたきました。
    「父さん、今、時間いい?」
    「入りなさい」
    澄くんが中に入ると、父親は書斎机のノートパソコンを閉じました。椅子が回って、父親の視線が澄くんをとらえます。
    こうして父親と二人きりで話すのは初めてかもしれません。進路については母親の言うとおりにしてきただけで、お願いしたいことなんてなかったのです。
    「入学手続きのことなんだけど」
    澄くんは拳をにぎりしめました。試験よりも緊張しています。
    義兄のように思い切った決断ができないのかと、父親に失望されるかもしれないのです。
    それでも、澄くんは。
    「無駄になったときには、必ず返します。だから、入学金を出してください」
    父親に頭を下げました。
    学問も、仕事も、先生も、すべてを手に入れるためには、今年、大学に受からなければいけません。浪人だけは避けなければならないのです。
    明日の入学手続きは必須です。
    父親がため息をついた気配がしました。
    「振込用紙を持ってきなさい」
    「はい!」
    澄くんは慌てて自室に引き返し、入学手続き書類の束から振込用紙を引き抜きました。父親に渡すと、明日中に振込手続きをすると約束してくれました。
    それから、「入学金のことは忘れなさい」とも言われました。
    「アルバイトよりも、学生の本分を全うしなさい」
    澄くんは歯を食いしばって、「はい」と返事をしました。
    父親が言い切った以上、澄くんがなにをしても、受け取ってもらえることはないのでしょう。
    でも、澄くんはお金は貯めるつもりでした。父親が拒否をするなら、母親に渡すという手があるのです。
    澄くんは自室に戻って、入学手続きの情報入力を済ませました。
    やれることはすべて終わりました。どこの大学に行くことになるかは置いておいて、これで晴れて、澄くんは大学生になれるのです。
    澄くんはぐったりとベッドに倒れ伏しました。
    時計を見ると日付が変わっていました。



    運命の日はあっけなく終わりました。
    時間どおりにホームページにアクセスして、合格の確認を取ります。それから、学校に向かい担任の先生に報告を済ませました。
    塾には帰りに寄りました。
    先生たちに祝福されて、桑にも「よかったねえ」と声をかけてもらって、澄くんはビルを出ました。
    先生と言葉を交わせるタイミングはありませんでした。
    ところが、帰宅後に上着のポケットからメッセージアプリのIDと、「4/1になってから」と書かれたメモが出てきました。
    名前は書いてありませんでしたが、間違いなく先生です。
    澄くんはメモを握りしめました。
    月の後半は慌ただしくすぎていきました。部活での卒業生を送る会、それから卒業式、日帰りでしたがクラスメートとテーマパークに卒業旅行にも行きました。入学準備も進めなければいけません。澄くんは初めてスーツをあつらえて、革靴を買いました。
    通学鞄も新調してリュックにしました。
    4/1は土曜日です。土曜日であれば、塾は夕方には終わります。先生は夜と言っていましたが、何時から何時まででしょう。
    とりあえず、夕食は先生と一緒に食べることになるでしょうし、母親には言っておかなければいけません。
    「あっ、江澄」
    「なんだ」
    ところが、階下に行こうと部屋を出たところで義兄につかまりました。
    「4/1さあ、泊まりで遊びにいかないか」
    「無理だ」
    「大学生になるし、無理ってことはないだろ」
    「予定がある」
    「……え?」
    義兄が目を丸くしています。澄くんはそろりと視線をそらしました。
    「誰と?」
    「……友だち」
    「……泊まりで?」
    「まさか!」
    澄くんは大声で否定して、しまったと気づきました。案の定、義兄は目を細めて、にやりと笑いました。
    「ふーん、そっかー、友だちかあ」
    「なんだよ」
    「で? いつからできたんだ? その友だち」
    澄くんは言葉に詰まりました。いつからもなにも、まだはじまっていないことです。
    「思い違いだ。そんなんじゃ……」
    「あー、そういうことか。1日にお友だちになるんだ?」
    義兄は口がうまいのです。澄くんは否定するどころか、赤くなってしまいました。これでは答えてしまったのと同じです。
    義兄は三度ほどうなずいて、なぜか澄くんの肩に腕を回しました。
    「よし、そういうことなら兄ちゃんにまかせろ」
    「は?」
    「泊まってきちゃえよ。おばさんには一緒に出かけるって言っておいてやるから」
    まさに悪魔のささやきです。
    澄くんは義兄の腕を振り払って「余計なことはするな!」と釘を刺しました。
    「そんなことになるものか!」
    「わかんないぞ。相手は大人だろ?」
    「おっ、大人だからって……、ちょっと待て」
    「ん?」
    「なんで知ってるんだ?」
    「やっぱりそっかー」
    またしても、澄くんは墓穴を掘りました。笑顔の義兄に勝てる気がしません。
    「それなら、なおさらだな。おばさーん!」
    「おい!」
    義兄は身をひるがえして、階段を駆け下りていきます。澄くんの静止は聞いてもらえません。
    母親もだめとは言わないはずです。澄くんが第一志望に合格してから、母親はなんでも許してくれるようになりました。
    「じゃんちょーん! いいってさー!」
    階下から義兄の声が響きます。
    どうしましょう。決定してしまいました。澄くんは4/1に家に帰れなくなってしまったのです。

    澄くんがその場にしゃがみこんで頭を抱えていると、鼻歌を歌いながら義兄が戻ってきました。
    彼は澄くんの向かいにしゃがみこんで、無遠慮に頭をなでました。
    「そんな、思いつめんなって。先生が泊まらせてくれなかったときは、俺が迎えにいってやるから」
    「お前、先生がきらいなんじゃないのか」
    「きらいだよ。弟に手を出そうとしてくるやつなんか、好きになれるわけないだろ」
    それならなんで、と澄くんが顔を上げると、義兄はまたにやりと笑いました。
    「でも、兄ちゃんだからな。弟のしあわせは願ってんだよ」
    だからってやりすぎです。でも、澄くんはそれ以上文句は言えません。
    「帰りは待ち合わせしような」
    「わかった」
    共犯は成立しました。澄くんは義兄と視線を合わせて、こぶし同士を軽くぶつけ合いました。

    4/1の0時ちょうどに澄くんは先生のIDをフレンドに登録しました。
    その1分後には先生からメッセージが来ました。
    ——19時に私の家まで来てください。
    住所が添えられています。
    澄くんは両手でスマホを握りしめて、呆然としました。
    いきなりマンションに行くことになるとは思っていませんでした。もしかすると、本当に義兄の言っていたとおりになるかもしれません。
    澄くんは緊張で、寝たり起きたりをくり返しました。日の出る頃にやっと眠ることができましたが、9時には義兄に起こされました。
    そういえば、二人で出かけることにしてあったのです。
    「先生との待ち合わせって何時にどこ?」
    ファストフードのモーニングセットを食べながら、義兄が尋ねました。澄くんはぼうっとした頭のまま、「19時に先生の家」と答えてしまいました。
    義兄がびっくりしてプライドポテトを落っことしています。
    「……本気か?」
    「知るか」
    そもそも、お膳立てをしたのは義兄なのに、なんでそんなに眉間にしわをよせているのでしょう。
    「22時くらいに迎えに行くつもりだったんだよ。ホテルも取ったのに」
    「別に、泊まりって決まったわけじゃ……」
    「いや、もう決まりだろこれ」
    この問題を解決するかんたんな方法がありました。先生に聞いてしまえばいいのです。でも、なんといって尋ねたらよいのでしょう。
    「泊まらせてって言えば?」という義兄の提案は即座に却下しました。澄くんは泊まりたいわけではありません。義兄は納得しかねるようで、ずずずとコーラを飲みながら、顔をしかめています。
    「でもさー、はいつきあいましょうじゃあ今日はこれでって別れんの? せっかくつきあうことになって、相手の家にいるっていうのに?」
    「その、つもりだったけど……」
    「そんなわけにはいかないだろ」
    話は堂々巡りです。
    でも、澄くんはどうしても先生が宿泊前提でいるとは思えません。だから、むりやりに義兄からホテルの名前を聞き出しました。それは電車で15分ほどの距離にあるターミナル駅直結のホテルでした。
    「俺はたぶん21時くらいまで遊んでるから、来るなら22時くらいにホテルのロビーで落ち合うか」
    「わかった」
    「これからバーベキューなんだよ。友だちの兄さんが車出してくれてさ。そのあとはカラオケか、ボーリングに行く予定」
    「あんまり迷惑かけんなよ」
    「へーきへーき。まだ酒も出してもらえない健全なバーベキューだからさ!」
    澄くんも義兄も、成人したとはいえ20歳にはなっていません。澄くんは「そんなの当然だ」と言いましたが、義兄は笑うだけでした。
    朝食を食べ終えて、そこで二人は別れました。時刻は10:30です。これから夜まで、澄くんは一人で時間をつぶさなければいけません。
    澄くんは電車に乗って数駅先にあるインターネットカフェに向かいました。お腹がふくれたとたんに、おそろしいほどの眠気に襲われています。
    インターネットカフェの受付ではリクライニングシートを希望して、6時間のパックを選択しました。
    念のために退出時間の30分前に最小音でアラームをセットします。
    そして、澄くんはぐっすりと眠りました。

    澄くんが目を覚ましたのは、あと5分でアラームが鳴り出す、という頃でした。どうやら昼食もおやつもすっとばして、ずっと眠っていたようです。
    澄くんは立ち上がって、体を伸ばしました。少々肩はこっていますが、思っていたよりも体は痛くありません。とても優秀なリクライニングシートです。
    澄くんはドリンクバーでコーラを取って、軽食の自動販売機でカップラーメンを買いました。先生の家に行くまでは2時間あるので、夕食に支障は出ないでしょう。
    お腹を満たして一息ついて、澄くんは義兄からメッセージが届いていることに気がつきました。しかも画像付きです。
    ——お前の先生の弟だって!
    写真には義兄と一緒に、先生にそっくりな男の人がむっつりとした表情で写っていました。バーベキューをしている最中のようで、義兄は片手に肉の乗った紙皿を持っています。
    澄くんは目を見張りました。
    二人の背後に写り込んでいるのは、去年の夏に助けてくれたお肉屋さんの店主ではありませんか。
    澄くんが「驚いた」とスタンプを返すと、すぐに「やったぜ!」というスタンプが送られてきました。
    ——これから藍湛と二人でボーリング!
    藍湛、というのは先生の弟さんでしょうか。お肉屋さんとはもう別れたのでしょうか。
    今は気にしてもしかたありません。
    ——はめを外しすぎるなよ。
    ——OK!
    澄くんは義兄とのやりとりを切り上げて、インターネットカフェを出ました。
    空はだいぶ暗くなっていましたが、まだ街は混んでいます。
    澄くんは坂道を下った先の百貨店に入りました。
    先生の家にお邪魔するのに、手ぶらというわけにはいきません。手みやげを調達しようと思いついたのです。
    しかし、夕方の食品売り場はものすごく混雑していました。澄くんは下りのエスカレーターを降りたところでひるみ、そのまま階上に逆戻りしました。
    そもそも、買うものを決めていないのです。
    友だちの家に行くなら、みんなで食べられるお菓子が定石ですが、この場合、ふさわしい手みやげはどんなものなのでしょう。果物でしょうか。それとも、洋菓子でしょうか。そういえば、先生の好物も知りません。
    澄くんは途方に暮れました。

    そのときでした。
    「阿澄?」
    澄くんはぎくりと立ち止まります。それは絶対に会ってはいけない人の声でした。
    「姉さん……」
    「どうしたの? こんなところで」
    姉は百貨店の紙袋を提げています。その背後にいるのは姉の婚約者です。どうやら一緒に買い物に来ていたようです。
    「阿羨は? 一緒じゃないの?」
    姉は澄くんと義兄が一緒に出かけたことを知っているようでした。
    「あー、このあと、待ち合わせてて……」
    まったくのうそではありません。けれど、目が泳いでいる自覚はあります。
    姉は「そうなの」とほほえんで、さらに尋ねます。
    「阿羨とは何時に? 一緒にごはんをどうかしら?」
    これはごまかしようがありません。澄くんは「ごめんなさい」と頭を下げました。
    「あいつとは22時くらいに待ち合わせで……」
    「阿羨は今どこ?」
    「友だちとボーリング……」
    「阿澄はなにをしているの?」
    「俺は、その……」
    姉にうそはつけません。けれど、先生に迷惑をかけたくありません。
    「知り合いと夕飯……」
    「お友だち?」
    澄くんは返事ができません。姉の婚約者は気を利かせてくれたのか、少し離れたところで立っています。
    「阿澄」と姉が澄くんの手を両手で握りました。
    「うそはいけないわ。あとでよくないことになるもの」
    澄くんははっとしました。この事態が両親に露見したら、先生への心象は間違いなく悪くなるでしょう。
    澄くんは自分が浮かれていたことに気がつきました。義兄の企みは阻止しなければいけなかったのです。
    「姉さん、あのさ……、まだ、父さんと母さんには言わないでほしいんだけど……」
    姉はあっさり「いいわよ」とうなずきます。澄くんが驚いていると、「だって、もう大人でしょう?」と言われました。
    「私はあなたを信頼しているわ」
    「姉さん……」
    だからこそ、うそをついてはいけないのです。
    澄くんは足元を見つめます。
    「これから、その、先生の家に行くんだ」
    「先生?」
    「塾の……、もう先生じゃないけど……」
    でも、と澄くんは顔を上げて続けました。
    「無羨とは本当に待ち合わせしてるし、ホテルも取ってあるから」
    「わかったわ」
    姉はなぜか楽しそうにふふふと笑いました。そして、とんでもないことを言い出しました。
    「今度、私にも紹介してね」
    「えっ」
    「あら、そんなにおどろくこと? 阿澄がおつきあいしている方なら、私も……」
    「待って、姉さん、まだだから、つきあってないから」
    「そうなの? でも、おつきあいするんでしょう?」
    姉というものはどうしてこうも鋭いのでしょう。澄くんはしどろもどろに否定しましたが、姉は「大丈夫よ」と自信たっぷりに言い切ります。
    澄くんはもう否定ができません。真っ赤になってうつむきました。
    そのあと、澄くんは姉とその婚約者と一緒に、食品売り場に再チャレンジしました。姉曰く、お呼ばれしたときに無難なのは賞味期限まで期間が長いもの。特に相手が一人暮らしだと、消費するのに急がなければいけないものは避けたほうがよいとのこと。
    「あとはね、季節品がおすすめよ」
    澄くんはアドバイスを受けて、ゼリーの詰め合わせに決めました。いちごとびわと甘夏が季節限定です。
    手みやげを買った後、二人とは百貨店の一階で別れました。さて、そろそろ先生の家に向かう時間です。
    電車に乗りこんだあと、澄くんはリュックから巾着袋を取り出しました。中には御守りが入っています。
    もう隠しておく必要はありません。
    澄くんはそれを財布に取りつけました。

    目的の駅にはすぐに到着しました。澄くんは人の流れに乗って改札へと向かいます。
    澄くんの家の最寄駅からは少し離れていますが、同じ路線です。とはいえ、降りたことのない駅なので初めに地図アプリを確認しました。
    先生のマンションまでは徒歩で5分ほどです。
    澄くんは道順を確認したあと、思いついて義兄にメッセージを送ります。姉に企みがバレたことをかんたんに説明して、今日は必ずホテルに行くと打ちました。
    さて、マンションに着きました。時間も約束の5分前なのでちょうどいいでしょう。
    澄くんはエントランスホールのインターホンパネルの前に立って、深呼吸をしました。心臓がどきどきとうるさく鳴っています。
    数字を一つずつ慎重に押して、最後に呼出ボタンをタップすると、「はい」と先生の声が聞こえました。
    「こんばんは、あの、先生……」
    「いらっしゃい」
    自動ドアが開きます。
    澄くんはごくりとつばを飲み込んで、足を踏み出しました。
    ラウンジを通り抜け、エレベーターに乗って、8階まで上がります。内廊下を突き当たりまで進むと、そこが先生の家でした。
    インターホンを押すと扉が開いて先生が顔を出します。
    「こんばんは」
    「こんばんは、どうぞ」
    招き入れてもらった部屋はとてもきれいです。白い壁紙も汚れひとつありません。
    リビングダイニングに入ると、すばらしくいい匂いがしました。
    「すぐに夕食にするから、座って待っていてくれるかな」
    「あ、先生……」
    「どうしたの?」
    「これ、おみやげです」
    澄くんは紙袋を差し出しました。先生は「ありがとう」と受け取ってくれました。
    澄くんはうながされるままダイニングテーブルにつきました。テーブルの上にはごちそうが並んでいます。
    エビとそら豆とパプリカの、それはそれは色鮮やかなサラダと、輪切りの新玉ねぎが入ったコンソメスープ、テーブル中央の大きな耐熱皿には菜の花とゆでたまごのグラタンがみっちりとつまっています。
    さらに、澄くんの目の前に出されたスパゲッティにはミートボールがごろごろっと入っていて、バゲットのガーリックトーストまでついているのだから、豪勢といっていいディナーです。
    澄くんはダイニングテーブルの椅子に座って、冷蔵庫にゼリーを入れる先生の後ろ姿を見つめます。とうとう、先生の家に来たのです。
    先生は最後にグラスを持ってきて、席につきました。炭酸水がしゅわしゅわと音を立てています。
    二人で「いただきます」と言いました。先生がグラタンを取り分けてくれました。
    澄くんはお礼を言ってグラタンを食べました。菜の花は少し苦いですが、ホワイトソースはとろりとしていて、とてもおいしいです。
    スパゲッティはボリュームがありました。ミートボールはお肉がぎゅっと詰まっています。
    「これ、先生が作ったんですか?」
    「そうだよ。どうかな?」
    「すごくおいしいです!」
    澄くんはぱくぱくと食べ進めました。実は先生のお皿のほうがちょっと量が少ないとか、バゲットがついていないとか、そういうことには気づいていません。
    「喜んでくれてよかったよ」
    先生はにこにこと澄くんが食べる様子を見ています。
    澄くんは急に恥ずかしくなりました。今日はただ食事をしに来たわけではありません。
    たぶん、そのはずです。
    先生がちらりと壁掛けの時計を見ました。
    「初めに聞くべきだったね。今日は何時まで大丈夫?」
    「えっと……」
    澄くんは22時に義兄と待ち合わせていることを伝えました。もちろん、こんなことになった経緯は言えませんが、幸いにも先生は深く尋ねてくることはありませんでした。そのかわりに少しだけ思案顔になりました。
    「そんなに夜遅くに?」
    「だって、先生。俺、もう、大学生だし」
    「……そうだね」
    先生がふっと息をつきました。澄くんは思わずスパゲッティを口に運ぼうとしていた手を止めました。
    「今日は、家まで来てくれてありがとう」
    「いえ……」
    「君が好きだよ」
    まったく突然のことでした。澄くんはびっくりしてまばたきをくり返しました。
    しかし、先生に笑顔はありません。
    先生は「でもね」と話を続けました。
    「私は塾の先生で、君は生徒だったでしょう?」
    「はい」
    「だから、しばらくは、一緒に出かけることができないし……、今日もわざわざ家に来てもらったのは、そういう事情があって」
    澄くんは首をかしげました。先生が言いたいことがいまいち理解できません。
    先生はそのほかにも、仕事終わりの時間が遅いこと、土曜日にも仕事があること、長期休みがないこと、などを挙げて、「不自由することが多い」と言います。
    「慎重に考えてほしいから、返事は今日じゃなくていいよ。それでも、私の恋人になってくれる気になったら……」
    澄くんは腰を浮かせて、身を乗り出しました。
    「なります! 俺、先生が好きです!」
    先生が並べた「不自由」なんて、ひとつも問題にはなりません。だって、澄くんはずっと今日を待っていたのです。
    先生は眉尻を下げて笑いました。そして、なにか言おうとして口を開き、一度閉じました。
    澄くんは口を引き結んで先生の言葉を待ちます。不安が胸に押し寄せてきます。やっと高校生から抜け出したのに、まだ自分は先生と同じところには立てないのでしょうか。
    すると、澄くんの手に先生の手が重なりました。
    「ありがとう、江澄」
    先生がほほえみます。澄くんの好きなやわらかな笑顔です。
    「私の恋人になってください」
    「はいっ……!」
    澄くんの目から涙が落ちました。テーブルの上には食べかけのスパゲッティがあります。
    澄くんは慌てて椅子に戻りました。
    先生がくすくすと笑っています。
    「食事を続けようか」
    「はい……」
    澄くんは黙々とスパゲッティを食べます。先生も黙ったまま食事をしています。
    澄くんはなにを話したらいいのかわからなくなっていました。恋人になった後のことはまったく考えていなかったのです。
    食事を終えて、食器を片付けて、今は20時を回ったところです。
    澄くんは先生に言われて、ソファに座りました。先生がローテーブルにコーヒーと、澄くんが持ってきたゼリーを出してくれました。
    「びわと甘夏と、どちらがいい?」
    澄くんは困りました。どちらも特別に好きというわけではありません。
    「先生はどっちがいいですか?」
    尋ね返すと、先生は澄くんの隣に座って、笑顔で「江澄」と名前を呼びました。
    「名前で呼んでほしい」
    澄くんは「あ」と口を開けました。先生の言うとおり、もう澄くんの先生ではないのです。
    先生の名前は藍渙といいます。
    それは知っていますが、なかなか声が出せません。先生は……、藍渙は、黙って澄くんの目をじっと見ています。
    澄くんはうつむきました。耳がカーッと熱くなって、心臓が壊れるのではないかという勢いで鳴っています。
    「ら、らん……」
    言葉がのどにつかえます。でも、藍渙の期待もわかります。澄くんはぎゅっと目をつぶりました。
    「藍渙はどっちが……」
    「江澄……」
    横から肩を引き寄せられました。それだけでなく、反対側からも腕が伸びてきて背中に回ります。
    一瞬の後、抱きしめられているのだと気づいた澄くんは硬直しました。
    「ようやく……」
    耳元で藍渙がなにかつぶやきました。しかし、澄くんはちょうど混乱のうずのまんなかに落っこちたところで、それを気にすることもできません。
    どのくらいそうしていたかはわかりませんが、ふと、藍渙の腕がゆるみました。
    澄くんはなにもできないまま、藍渙の顔がぼやけない距離まで離れて、また近づいてくるのを見ていました。
    唇になにかが当たります。
    頭の中に生まれたうずは、ここに至っていよいよ激しく回り出します。
    澄くんは耐えきれずに目をつぶりました。やわらかな感触が離れていくまで、息ができませんでした。
    そのあと、澄くんが帰らなければいけない時間になるまで、藍渙は澄くんを離しませんでした。おかげでゼリーは食べられませんでしたが、「今度来たときにね」と次の約束になりました。
    キスも、何度もしました。その度にかたまってしまう澄くんに、藍渙はうれしそうに笑っていました。



    都心のホテルとはいえ22時にもなると、ロビーは閑散としていました。澄くんはソファに座ったまま、歩いてくる義兄に向かって手を上げます。
    「遅い」
    「時間どおりだって」
    義兄はへらへらと笑っています。澄くんはため息をついて、椅子から立ち上がりました。
    二人はチェックインを済ませて、予約した部屋へと向かいます。
    「なあ、本当によかったのか。こっちに来て」
    エレベーターの中で唐突に義兄が言いました。
    澄くんは「しかたないだろ」と答えます。
    たしかに、藍渙と離れがたい気持ちにはなりました。義兄が言っていたのはこのことかと納得もしました。
    しかし、姉との約束を反故にすることはできません。
    「ふーん?」
    「なんだよ」
    義兄が予約していた部屋はスタンダードツインでした。部屋に入って、上着を脱いで、二人はひとまず各々のベッドに腰かけました。
    「で? キスくらいはしたんだろ?」
    「なっ……! は、恥知らず!」
    「おおー! ってことはうまくいったんだな!」
    「俺はなにも言ってない!」
    義兄は満足そうにうなずいて、そのあと、「実はさ」と声をひそめました。
    「俺も今日初ちゅーしてきた」
    「……はあ」
    なんという告白でしょう。知りたくもない情報ですが、聞き捨てなりません。いつの間に義兄に恋人ができたのでしょう。
    「いやあ、藍湛がさ、離れたくないってかわいいのなんの……」
    「それって、今日、初めて会った人じゃないのか?」
    「そうだけど?」
    義兄はきょとんとしています。澄くんは呆れましたが、義兄のことです。そういうこともあるのでしょう。
    「来週も会う約束したんだ。お前は?」
    澄くんはぎくりとしました。顔がだんだんと熱くなっていくのが自分でもわかりました。
    「……明日」
    「あしたぁ」
    澄くんは両手で顔をおおいます。
    だって、藍渙は澄くんを抱きしめながら、「明日も会いたい」などとささやいたのです。しかも、少しかすれた低い声で。
    「なんだよ、ラブラブじゃん」
    「ううううるさい!」
    「いーなー、俺も藍湛に会いたいなあ。明日、空いてるかな?」
    義兄はスマホを取り出して、なにやら打ち込みはじめました。澄くんは今のうちにとバスルームに退避します。
    ポケットからスマホを出すと、藍渙からメッセージが入っていました。
    ——無事にホテルに着いたかな? 今日は本当にありがとう。愛しているよ。
    澄くんはその場にしゃがみ込みました。
    誰もいないのに、顔が上げられません。
    返事をしなければいけないのに、もう一度あの文面を見たら、恥ずかしくて爆発してしまいそうです。
    「やったー! らんじゃん! あいしてるー!」
    義兄の喜びに満ちた声が聞こえてきます。どうやらあちらも明日会うことになったようです。
    澄くんは震える指で文字を打ちます。視線はキーボード部分だけを見つめます。
    ——さっき、部屋に入りました。こちらこそ、ありがとうございました。
    これで返事としては十分です。不足はありません。
    澄くんは送信をタップしてから、眉間にしわを寄せました。
    ばくばくと心臓が暴れています。もう少しおとなしくなってくれ、と深呼吸をします。
    それから、澄くんは追加でメッセージを入力しました。
    ——俺もです。
    なにも言えなかった期間は終わったのです。はっきりと言葉にしなくてはもったいないというものです。
    澄くんはバックスペースで文字を消しました。
    そして、改めてメッセージを打ち込み、えいっと送信しました。
    ——俺も好きです。
    それは澄くんだけが伝えられる特別な言葉でした。
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    DONEアニ祖師13話の心の目で読み取った行間埋め曦澄。
    人間らしい感情への羨望。
     夷陵の町ですれ違った時に、藍曦臣はその青年が知己であることに最初気が付くことができなかった。
     それほどまでに自分の記憶の中の彼と、頭から深くかぶった外套の隙間から見えた彼とは違った。だがそれも無理もないことだろう。
     蓮花塢が温氏によって焼き討ちにあい、江宗主と虞夫人、蓮花塢にいた江氏の師弟は皆殺しにあった、という話は身を隠しながら姑蘇へと向かっている藍曦臣の耳にも入っていた。江公子と、その師兄である魏無羨はいまだ行方知れずだとも。故に、魏無羨が共におらず江澄が一人で歩いていることに、藍曦臣は少しばかり驚きながらも、人気のなくなったところで声をかけた。驚き振り向いた彼の瞳に光があることに安心する。
     自分の姿を見て驚く江澄と会話し、藍曦臣は当然のように彼を姑蘇に連れて行くことにした。
     当初、江澄は魏無羨が自分を待っているはずだ、探さなければと、藍曦臣との同行を拒否した。
     一人では危険だ。
     これから自分たちは姑蘇へと戻り他の世家と共に温氏討伐のために決起するつもりだ。そうすれば江澄がどこにいるか魏無羨にも聞こえ、あちらから連絡が来ることだろう。闇雲に探すよりも確実ではないか。
    2629

    takami180

    PROGRESS長編曦澄10
    兄上やらかす
     夜明けの気配がした。
     藍曦臣はいつもと同じように起き上がり、ぼんやりとした薄闇を見つめた。違和感がある。自分を見下ろしてみれば、深衣を脱いだだけの格好である。夜着に着替えるのを忘れたのだろうか。
    「うーん」
     ぱたり、と藍曦臣の膝に何かが落ちた。手だ。五指をかるく握り込んだ手である。白い袖を視線でたどると、安らかな寝顔があった。
    「晩吟……」
     藍曦臣は額に手のひらを当てた。
     昨夜、なにがあったのか。
     夕食は藍忘機と魏無羨も一緒だった。白い装束の江澄を、魏無羨がからかっていたから間違いない。
     それから、江澄を客坊に送ろうとしたら、「碁はいいのか?」と誘われた。嬉しくなって、碁盤と碁石と、それから天子笑も出してしまった。
     江澄は驚いた様子だったが、すぐににやりと笑って酒を飲みはじめた。かつて遊学中に居室で酒盛りをした人物はさすがである。
     その後、二人で笑いながら碁を打った。
     碁は藍曦臣が勝った。その頃には亥の刻を迎えていた。
    「もう寝るだけだろう? ひとくち、飲んでみるか? 金丹で消すなよ」
     江澄が差し出した盃を受け取ったところまでは記憶がある。だが、天子笑の味は覚えて 1652