江澄くんは税関の検査台からスーツケースを下ろすと、到着ロビーへと向かいました。人の声がざわざわと聞こえてきます。四ヶ月ぶりの帰国です。
出国したのは二月、まだダウンコートが必要な寒さでした。今はもう梅雨です。
江澄くんはスマホを片手で操作して、メッセージアプリを呼び出しました。
——お姉ちゃんがかぜ引いちゃったって! 阿凌のめんどう見に行くから、家にはいません。
——阿澄、帰国する日にごめんなさい。
空の上で受信した二通は母親と姉からでした。阿凌というのは姉の息子です。今は一歳半くらいだったはずです。
ちなみに父親は出張中です。息子の帰国には興味がないようです。
つまり、今日は家に誰もいないというわけです。
江澄くんは家族のメッセージグループに、「着いた」とだけ送りました。すぐに義兄からスタンプが返ってきます。思わずため息がもれます。
義兄は何年も帰ってきていません。大学二年生の夏に、突如として「留学するから」と出て行ってしまいました。数年はアメリカの大学院にいたようですが、一昨年はどういうわけだかバングラデシュにいましたし、去年はタジキスタンでした。今、どこにいるかは分かりません。
さて、時刻は17時です。
江澄くんは両替所をちらりと見ました。数人が列を作っています。財布の中のカナダドルは大した金額ではありません。両替は今度にして、とりあえず家に帰りましょう。
江澄くんは地下へのエスカレーターへと向かいながら、スマホの画面を切り替えました。藍渙からメッセージが来ています。
——おかえりなさい。
なぜか画像がついています。藍渙の笑顔です。
江澄くんはいきおいよく顔を上げました。彼の背後に写っているのは飛行機の到着を知らせる掲示モニターでした。
「江澄!」
数歩先で男性が手を振っています。淡い水色のサマーニットがよく似合っています。そして、通りがかった人が片端から振り返るほどに美人です。
江澄くんがぼうぜんとしていると、藍渙のほうから近寄ってきてくれました。
「来ちゃった」
たしかに江澄くんは帰りの便と到着予定時刻を、念のためにと藍渙に教えました。でも、まさか、空港に来るとは思っていませんでした。
だって今日は金曜日です。
藍渙は二年前に経営に専念するといって、塾の先生をやめました。以前よりはずいぶんと自由がきくようになったとはいえ、わざわざこのために休むなんて。
「明日会うのに……」
「待ちきれなくてね」
藍渙の笑顔はきらきらと輝いています。江澄くんは奥歯をかみしめました。
会いたくてしかたなかった人です。それなのに、こんなに人が多い場所では抱きつくことができません。
藍渙が江澄くんの背中をぽんとたたきました。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
江澄くんはそっと手を伸ばして、藍渙の指先を握りしめました。
藍渙の車は高速道路に乗りました。そこそこ道が混んでいます。
規則正しい揺れが続いて、江澄くんはだんだんと眠くなってきました。
「そういえば、聞くのを忘れてしまったけれど」
「……なに?」
「とりあえず、おうちに向かって大丈夫? 買い物とか、食事とか、寄りたい場所はある?」
江澄くんはぼんやりした頭で考えます。
家には誰もいません。食事の用意もないでしょう。だから、食事は外で済ませたいところです。
でも、食事を終えたら帰宅しなければなりません。せっかく藍渙に会ったのに、キスのひとつもできないのは寂しいことです。
「江澄?」
そもそも、誰もいない家に帰る必要はあるのでしょうか。幸い着替えはスーツケースに入っています。
「帰りたくない」ぽろりと心の内がこぼれました。「今日、誰もいないって……」
藍渙が息を飲んだような気配がしました。
カナダへインターンシップに行くと決めたのは自分です。短い留学生活も大変楽しく過ごしました。けれど、さびしくなかったわけではありません。
「まだ、一緒にいたい」
ざーっという走行音がだんだんと遠くなっていきます。しばらくするとカチカチと音が聞こえて、静かになりました。
江澄くんはうっすらと目を開けました。ガラスの向こうにテールランプが見えます。どうやら渋滞のようです。
「もう少し行ってから下に降りるね」
「……うん」
江澄くんはかろうじて返事をしましたが、もう目は閉じていました。そして、そのまま眠ってしまいました。
藍渙に揺り起こされたのはどこかの駐車場でした。コンクリートの壁を見てぽかんとしている江澄くんに、藍渙は「ホテルだよ」と言います。
「渋滞がひどかったから、途中で高速道路を下りたんだ。家でもよかったんだけど、時間がかかりそうだったから」
海浜地区にあるホテルというだけあって、エントランスロビーは豪華でした。ゴールドのシャンデリアと、白い壁とが、リゾートのような雰囲気をかもしだしています。
案内された客室も広々としていて、ダブルベッドの向かい側にはリビングスペースまであります。ソファのそばの大きな窓からは夕焼けの海が見えました。
「相談しなくてごめんね」
藍渙が背中から江澄くんを抱きしめました。久しぶりの恋人の体温です。
江澄くんはお腹に回った腕をなでて、おおげさにため息をつきます。
「しかたないだろ。俺、寝てたし」
行き先がホテルになるとは思っていませんでしたが、藍渙は江澄くんの希望をかなえてくれたのです。だから、文句が言いたいわけではありません。
ちゅ、と頬に唇が触れました。
「江澄」と耳元で呼ぶ声が甘ったるいのは絶対にわざとです。
「こっちを向いて」
江澄くんは返事をしません。素直に従えないのは、相手が藍渙だからです。
藍渙がまたささやきます。
「キスがしたいよ、江澄」
江澄くんは藍渙の腕を引きはがすと、くるりと振り返って、唇を押しつけました。がまんくらべは藍渙の勝ちです。
口を開けて、舌を差し出し、相手の舌と絡め合います。
一度離れた両腕が、いつのまにか江澄くんの腰をしっかりと抱いています。
「会いたかった」
「らん……、ん……っ」
俺も、とは言わせてもらえません。
キスは長く続きました。江澄くんは立っていられなくなり、しまいには二人してベッドに倒れ込みました。
「本当は」
藍渙はすばやく江澄くんの体の上に乗ると、首すじに顔を近づけます。
「あっ、おい、待てっ」
「レストランで和食でもと思ってたんだけど」
「んっ……、耳、やめ……!」
「がまんできそうにない」
「だっ、め……、風呂……!」
江澄くんはそれなりの力で藍渙の胸を押し返します。昨日は飛行機の中で眠ったので、シャワーも浴びていません。
藍渙の気持ちはものすごくよくわかりますし、江澄くんも望んでいることではあるのですが、このままもつれこむのはいやでした。
江澄くんは息を大きく吸い込んで、真横にある藍渙の耳に向かって怒鳴りました。
「風呂が先!!」
江澄くんは目をこすりました。腰は重たいし、足はだるいし、のどはがらがらです。この不快感がいやではないのだから始末に負えません。
ふと、話し声が聞こえました。藍渙の声です。
江澄くんは上半身を起こしました。肩にひやりと冷房の風が当たります。あわててタオルケットを引き上げて、ヘッドボードに置きっぱなしだったスマホを手に取りました。
21時を過ぎています。
すると、扉の閉まる音がして、藍渙が戻ってきました。手に弁当包を持っています。
「江澄」
彼はすぐに江澄くんが起きていることに気がつきました。さっと弁当をテーブルに置いて、江澄くんのところにやってきます。
「気分はどう? お水はいる?」
「飲む」
差し出されたペットボトルは常温でした。とはいえ冷房の効いた室内なのでぬるくはありません。江澄くんはごくりごくりと水を飲み込みます。
「レストランには間に合わなさそうだったから、お弁当を頼んでみたよ。お腹減ったでしょう?」
江澄くんがうなずきながらペットボトルを返すと、今度はきれいにたたまれたパジャマを手渡されました。ご丁寧に未開封のパンツがちょこんと乗っています。
江澄くんは無言でパジャマとパンツを見つめて、やや経ってから「ありがと」と言いました。
お弁当は豪華でした。さすがホテルの和食レストランです。
すきやき風に煮たお肉は冷めていてもやわらかく、えびと野菜の炊き合わせはやさしいお出汁の味がしました。枝豆としょうがの炊き込みご飯はさっぱりといただくことができました。
江澄くんが一番に気に入ったのは、うなぎの蒲焼きを巻いたたまご焼きでした。鰻巻きというそうです。
食事を終えてから、江澄くんは家族のグループにメッセージを送りました。
——疲れたからホテルに泊まることにした。明日は昼めしを食べたら帰る。
こうして先回りをしておけば詮索されずに済みます。
それから、大学の担当教授と、インターンシップの担当教授にも、無事に帰国したことをメールしました。
「終わった?」
江澄くんがスマホをテーブルに置くと、藍渙があたたかいほうじ茶を入れてくれました。まったく至れり尽くせりです。
留学前もこんなかんじだったっけ、と江澄くんは首をかしげて、出発前日のことを思い出しました。
藍渙は「二月だからせっかくだし」と言って、江澄くんのためにガトーショコラを作ってくれたのです。
ずっしりと重いチョコレートは、意外にも口に入れるととろりと溶けて、まるでショコラティエの作品のようでした。そしてこのときも、「チョコレートに合うんだよ」と藍渙はお茶を入れてくれました。江澄くんはプーアール茶というお茶を、このとき初めて飲んだのでした。
振り返ってみれば、藍渙のふるまいは変わっていないと思い出せました。違和感が強いのは、一人でなにもかもをやらなければいけない状況だったこの四ヶ月間のせいでしょう。
「なんだか、びっくりしてしまうね」
「なにが?」
「私が英語も教えていたのに、そのきみが英語ですらすらとメールを作っていたから」
江澄くんはきょとんと藍渙を見ました。
大学の学士課程が四年、修士課程も一年半が過ぎました。さすがに高校生のころよりはできるようになっています。そうでなければ論文も書けないし、留学だってできません。藍渙だってわかっているでしょう。
江澄くんが理解できずにいると、藍渙は「そういうものなんだよ」と笑いました。
「ところで、どなたにメールをしたの?」
「あれは担当教授に……」と言いかけて、江澄くんははっとしました。もう一人、メールをしたほうがよさそうな人物がいました。
江澄くんは藍渙に断って、再びスマホを手に取ります。インターンシップの担当教授とは別に、仲良くなった教授がいたのです。
ヴィヴィエ博士、彼はまだ40代ですが教授として環境デザイン学の研究室を持っています。学部は違いましたが、江澄くんの担当教授がリーダーをつとめる研究チームの一員でもありました。
カナダを発つ前には「きみが私の研究室にいてくれたらなあ」とまで言ってもらえたほどでした。
「その方にはフランス語なの?」
江澄くんのスマホをちらりと見て、藍渙は驚いたようでした。
「どっちでも通じるけど、なんとなく」
「そうなの」
「雑談のときはフランス語が多かったから、こっちのほうがいいかなって」
「仲良しなんだね」
江澄くんはメールの送信マークをタップして、それから藍渙を見ました。笑顔なのに、どことなくぎこちない雰囲気です。
まさか、と今度は江澄くんが目を丸くしました。
藍渙は江澄くんよりもずいぶん年上です。ですが、これはまちがいなく義兄がむくれたときに身にまとっていた雰囲気と同種です。
「藍渙」
「うん?」
江澄くんはスマホをテーブルに置くと、両手で藍渙のほおを包みました。それから、そっとキスをしました。
「江澄?」
「なあ、今日はもう寝るのか?」
「そうだね。きみもだいぶ疲れただろうし……」
藍渙の歯切れがよくないのは、きっと疲れさせたと反省しているからでしょう。江澄くんは笑いたくなるのをこらえて、今度はもう少し長く唇を合わせました。
「疲れてないから、まだ寝たくない」
まるきりの嘘だというのは、絶対にばれています。でも、藍渙はキスを返してくれました。両手が江澄くんの腰に添えられます。
「ふっ……」
深いキスを受け入れて、江澄くんは藍渙の首に腕を回しました。もはや、パジャマ越しに伝わってくる手のひらの熱ではもの足りません。
「早く」
藍渙の目が剣呑に光ります。
江澄くんはソファの上で、声をからして泣くはめになりました。
月曜日の昼すぎ、江澄くんは大学に向かいました。担当教授におみやげを渡して、後期の受講と就職活動の相談をするためでした。
おみやげは学生たちにはメープルクッキーを、担当教授にはアイスワインを選びました。かの男性教授は昨年古希を迎えたはずですが、おみやげの希望を聞くと即座に「酒」と言いました。
江澄くんは学部棟のエレベーターに乗り込むと、5階でエレベーターホールに降りました。廊下には研究室の扉がずらりと並んでいます。
廊下はしんとしています。留学期間はたったの三ヶ月だったというのに、なつかしくてたまりません。
江澄くんは手前から2番目の扉を開けました。
「失礼します。ごあいさつに……」
ところが、江澄くんが用意していた台詞を言い終える前に、教授が席からすっ飛んできました。そして、江澄くんの両肩をがしっとつかむと、大きな声で
「おめでとう!」と言ったのです。
江澄くんはぽかんと教授を見返しました。いつもはきっちり整えられているシルバーグレイヘアがわずかに乱れています。
「……はあ」
「ああ、まだメールを見ていないんだね。さっき来たばかりのメールだから……、そう、メールが来ているんだよ、君宛に……」
教授はせかせかと机に戻ると、ノートパソコンを開いたまま持ってきて、江澄くんの目の前にディスプレイを突き出しました。
差出人はヴィヴィエ博士、宛先は江澄くん、ccに教授の名前があります。それから「Letter」というファイルが添付されています。
「……えっ」
江澄くんは息を飲みました。メール本文は簡潔で、「いつからモントリオールで勤務可能か」という質問だけです。
たしかにこれは一大事でした。つまるところ、江澄くんはかの大学院への就学と就職が決まったのです。
江澄くんが呆然としていると、教授はノートパソコンを閉じて、江澄くんの背中をたたきました。
「いやあ、きみにはぜひとも博士に進んでもらいたいと思っていたのだけども! まずは学長に報告して……」
教授は慌ただしく机に戻り、スマホで通話をはじめました。
江澄くんはふらふらとパイプ椅子に座りました。ヴィヴィエ博士はたしかに「私の研究室に」と言っていましたが、まさか本気だったとは。
海外での就職は想定外ですが、江澄くん自身は光栄だと思っています。これからも研究者として生きていけるというのはうれしいことです。家族もきっと応援してくれるでしょう。
教授は電話を終えると、江澄くんに「卒業する気はあるかい」と尋ねました。カナダの大学は9月から新年度です。大学院の修士課程を修了してから留学する場合は来年になってしまうということです。
江澄くんは反射的に「卒業したいです」と答えていました。卒業論文のテーマも決めていますし、あちらの大学に行ったときにも修士号は役に立つでしょう。
教授は水曜日の夕方に、学長との三者面談を設定してくれました。ヴィヴィエ博士には木曜日まで回答を待ってほしいと返信しました。
江澄くんはまだ明るい空を見上げながら帰途につきます。
歩きながら思い浮かぶのは、藍渙の顔でした。
短期留学とは話が違います。何年間もカナダで暮らすことになるのです。しかも帰ってくる見込みは立っていません。果たして藍渙は恋人でいてくれるでしょうか。
江澄くんはため息をつきました。
そして、眉間にぎゅっとしわを寄せて、スマホを取り出します。悔しいことですが、こういうときに頼れる先はひとつしか思いつかないのです。
江澄くんが義兄のアイコンをタップすると、10秒も待たずに応答がありました。
「はいはい、江澄、どうした?」
江澄くんはぐっと奥歯をかみしめました。義兄の声はまるで一緒の家に住んでいた頃と変わりません。
しかし、彼の背後から聞こえてくるのは耳慣れない言葉です。
江澄くんは小さく首を振って、口を開けました。
「カナダの、大学院に行くかもしれない」
「まじで! え? また留学?」
「いや、たぶん、就職になると思う」
「わー! おめでとう! いつから? まだうちにいる?」
「決まったわけじゃない! 時期もまだ……」
江澄くんは事情をかんたんに説明しました。義兄はあいづちをうちながら話を聞いてくれました。
「へえー、よかったじゃん。もう、おじさんたちには言ったのか?」
「いや……」
「俺が一番なの?」
義兄の声がはずんでいます。江澄くんはむかっとして、「聞きたいことがあったんだ」と声を荒げました。
「え? なに?」
しかし、いざ聞かれると、自分の思いつきがばかげていたことに気がつきました。
たしかに義兄には恋人がいて、それにもかかわらず彼は世界を飛び回っています。しかし、だからといって、江澄くんの将来について、義兄が正解を知っているはずがないのです。
江澄くんはため息をつきながら、「もういい」と言いました。
「お前に聞くようなことじゃなかった。大丈夫だ」
「そんなこと言うなよ。困ってんだろ? 言ってみろって」
「大丈夫だ! 急に電話して悪かったな」
「本当か?」
「ああ、それよりも」
江澄くんは話をそらそうとして、つい「お前、どこにいるんだ」と尋ねていました。
「俺? あー、今はナイロビに来てるけど」
なにやらはっきりしない答えです。江澄くんの眉間にしわが寄ります。
「今は、ってなんだよ。いつもはどこにいるんだ」
「えーっと……」
しばしの間がありました。江澄くんが辛抱強く待っていると、義兄は観念したかのように「ジュネーブ」とつぶやくような声で言いました。
「実は俺、結婚してさ」
「はあ」
江澄くんは思わず大声を上げました。前を歩いていた女性が、びくっと江澄くんを振り返ります。江澄くんは「すみません」と謝って、道の端に寄って立ち止まりました。
「結婚って誰とだ」
「藍湛に決まってんだろ」
「は……?」
「でも、先月のことだし。お前、留学中だったし。帰ってきたら、ちゃんと話そうって思ってたんだよ」
江澄くんは二の句が継げません。結婚式は二人だけで挙げたとか、それが地中海でのクルーズウェディングだったとか、そのまま新婚旅行に突入して地中海を一周したとか、義兄はそんなことを話していましたが江澄くんはほとんど聞いていませんでした。
「だからさ、俺も仕事に戻ったのは先週で……」
「父さんには言ったのか?」
江澄くんの声は震えていました。いつも勝手ばかりする義兄ですが、それでも江澄くんにとっては家族でした。
「……おじさんには先週メールした」
「姉さんには?」
「いや……、まだ……」
「なにやってんだよ! こっちは今夕方だから、姉さんにすぐ電話しろ! すぐだぞ! いいな!」
江澄くんは怒鳴りつけると、そのまま通話を切りました。「くそっ」と吐き捨てた悪態は、ただ地面にぶつかっただけでした。
その二日後、朝起きると義兄からメッセージが入っていました。結婚式の写真画像もついています。
青い空を背景にして、黒いタキシードの義兄と、白いタキシードの男性が腕を組んで立っています。甲板の上のようで、風に晴れ着がはためいています。義兄は笑顔全開です。
——昨日はごめんな。姉さんにも写真送った。困ったときには連絡しろよ。
江澄くんは「OK」とスタンプを返しました。いつまでもあの二人にかかずらっているわけにはいきません。今日は学長との面談なのです。
江澄くんはしばらくクローゼットの前で悩み、ボタンダウンの半袖シャツと綿のパンツを選びました。スーツを着るほどではありませんが、さすがにいつも通りのTシャツとジーパンでは気が引けます。
ところが、家を出る前に母から「今日はなにかあるの?」と聞かれました。江澄くんはまだ家族の誰にも、推薦状をもらったことを伝えられていません。
「進路のことで面談があるだけだから」
「そうなの?」
母の目が疑いをもって江澄くんを見つめます。江澄くんはそろりと目をそらしました。
「帰ったら話すよ」
「いい話でしょうね」
「たぶん」
江澄くんは逃げるようにして家を出ました。まだ朝だというのにアスファルトには強い日差しが照りつけます。
公園のわきを通り、駅へと向かいます。出勤には少し遅い時間のせいか、人通りは多くありません。
この道は数えられないくらい何度も歩きました。駅も、子どものときから使っています。
江澄くんは駅の前で、塾の入っているビルを振り返りました。もう藍渙は塾長ではありません。それでも、あの塾は江澄くんにとって特別な場所です。
高校三年間という、自分の将来と向き合わなければいけない時期に、あの場所にいられたことは幸福でした。もし先生に出会っていなければ、今の自分はありません。もしかしたら、父親に認められたい一心で、浪人という道を選んでいたかもしれません。偏差値の高い大学に行かなければならないと、思い込んでいた可能性は高いのです。
江澄くんは電車に乗り込みながら、(無理だな)と思いました。もし浪人なんてしていたら、プレッシャーに耐えられず、大学進学をあきらめる事態になっていたことでしょう。
学部生の四年間、そして、大学院での一年ちょっと。その間に江澄くんは、自分はそれほどストレスに耐性がないのだ、と学んでいました。卒論発表の日は朝から腹を下しましたし、院試の前日に発熱したときには泣きたくなったものです。
それをどうにか乗り越えてこられたのは、藍渙のおかげでした。彼に「大丈夫だよ」と言ってもらえるだけで、江澄くんは自分の状況を受け入れることができました。
脳裏を、かの地のキャンパスがよぎっていきます。モントリオールの青い空に向かってそびえる塔、周囲には緑の葉を揺らす木々、公園には人々がつどっていました。
せっかくの誘いです。もう一度カナダに渡って、研究を続けたいと強く思っています。
同時に、これからの人生も藍渙と一緒に生きていきたいのです。
どうしたらよいのでしょう。江澄くんの口からため息がこぼれ落ちます。
——実は俺、結婚してさ。
そのとき、義兄の声がよみがえりました。彼の決断はいつも思いきりのよいものですが、それは彼が自分の心に忠実だからでしょう。
江澄くんはスマホを取り出して、藍渙からのメッセージ画面を開きました。今週の土曜日も、お昼から会う約束をしています。「久しぶりに遠出をしようか」と言われていました。
——やっぱり、藍渙の家でいいか?
江澄くんは親指を三回画面から離しました。もうすぐ、乗り換えの駅です。
——大事な話がある。
送信をタップして、すぐにドアが開きます。江澄くんはスマホをポケットに突っ込むと、駅のホームに足を踏み出しました。
学長と教授との三者面談は二時間に及びました。大学としては三月卒業後に就職してほしい、とのことでしたが、二人とも「きみの意向を最大限尊重する」と言ってくれました。ちなみに学長のおすすめは、カナダの新年度となる九月からの就職だそうです。八月までは語学留学として、あちらの生活になじむ時間を設けたほうが、環境変化によるストレスが少なくて済みます。
しかし、問題もあります。語学留学となる期間は収入が得られません。江澄くんの貯金も、今回の短期留学の費用に充ててしまって、ほとんど残っていません。
また、ビザの問題もあります。今回のような短期留学ならともかく、就職となれば絶対に必要です。しかし、その制度は複雑です。予定されている江澄くんの身分について、ヴィヴィエ博士に確認が必要だろう、と学長が言いました。その結果によってビザの種類が変わってくるのだそうです。
最終的には素人が額をつき合わせても解決しないということで、学長から弁護士事務所を紹介してもらえることになりました。
「明日にでもここに連絡をしてみてほしい」と学長が見せてくれた名刺には金グループと書いてありました。
江澄くんは数年前のトラブルを思い出しました。あのとき助けてくれた人は、たしか金光瑶と言ったはずです。なんという偶然でしょうか。
とはいえ、わざわざ話す必要はありません。江澄くんはスマホのメモアプリに連絡先を保存しました。
面談が終了した後、江澄くんは電車に乗りました。しかし、まっすぐ帰宅する気にはなれません。まだ、夕方前です。
ターミナル駅で下車した後、江澄くんは駅の上階にある百貨店に向かいました。買い物がしたいわけではありません。ほんのちょっとだけ、見てみたいものがあるのです。
フロアを三つ上がったそのエリアは、江澄くんにはきらきらとまばゆいばかりでした。ショーケースの中で、その美しさを誇っているのはたくさんのアクセサリーです。
宝石もびっくりするくらいの種類があります。ダイヤモンドやルビーなら江澄くんでもわかりますが、黄色や紫色の石はまったく名前がわかりません。
しばらく通路を歩き回った後、江澄くんは思い切って、目についたショーケースの前で立ち止まりました。ずらりと指輪が並んでいます。
江澄くんはつばを飲み込みました。
ダイヤモンドの指輪、というものを一度見てみたかったのです。
「いらっしゃいませ」
ショーケースの向こうにいた女の人が笑顔で江澄くんの前に立ちました。
「指輪をお探しですか?」
「あっ、はい」
「プレゼントでしょうか?」
「えっと、まあ、そうです……」
「ブライダルでしたらこちら、ペアリングはこちら、ファッションリングですと、こちらにご用意しております」
店員さんの手の動きにつられて、江澄くんはショーケースに並ぶ指輪をながめます。そして、視線はブライダルへと戻りました。ペアの指輪はきっと結婚指輪でしょう。ひとつだけで飾られているのが婚約用です。
ラインの細い指輪の端に、一回り大きな指輪が並んでいます。その中のひとつ、プラチナの指輪の輝きと目が合いました。スクエアのダイヤモンドが三つも埋め込まれています。
「こちら、お出ししましょうか?」
「え?」
「ぜひ、直接ご覧になってください」
店員さんは白い手袋をつけると、紺色のトレーの上にその指輪を出してくれました。
江澄くんはダイヤモンドをじっと見つめます。おそろしくて手に取ることはできません。
「こちらはリングの幅が3mmございます。どなたでも、違和感なく身につけていただけるデザインとなっております。ブライダルでしたら、内側への刻印がおすすめですよ」
店員さんがかたむけてくれた指輪の内側には、ブランドの名前が刻まれています。
「刻印って、名前とかですか」
「ええ、そうですね。下のお名前ですとか、お二人のイニシャルですとか、日付をお入れになる方もいらっしゃいます。刻印のサービスは後日でも承っておりますので、お二人でご相談なさってからお持ちになる方もいらっしゃいます」
「へえ……」
江澄くんはそろりと視線を動かして、値札を見ました。さすが婚約用の指輪とあって、なかなかのお値段です。しかし、残っている貯金で買うことはできそうです。
もし、江澄くんがこの指輪を差し出したら、藍渙はどんな顔をするでしょう。喜ぶでしょうか。それとも困るでしょうか。
カナダまで一緒に来てほしいとはとても言えません。帰国が何年後になるかもわからないのに、待っていてほしいというのも傲慢です。
それでも、と江澄くんは顔を上げました。
藍渙に、あなたが一番大切だと伝えるにはこれしかありません。
「すみません、これ、ください」
店員さんは目を丸くして、それから「ありがとうございます」とほほえみました。
青い小箱におさめられた指輪は、江澄くんのハンカチに包まれてリュックの中にしまわれました。ブランドのショッピングバッグは使いません。家族に見つかったら大騒ぎになってしまいます。
江澄くんはそのリュックを胸に抱えて、混雑しはじめた電車に乗り込みます。
本当に買う気はなかったのです。なにせ、指輪のサイズも知らないくらいなのですから。
それが判明したとき、店員さんは確認後の購入をすすめてくれました。「サイズのお直しは可能ですが……」と言いつつも、だいぶ日数がかかるそうです。
それでも、江澄くんは押し切りました。指輪があれば、決心も揺るがない気がしたのです。
——わかったよ。お昼ごはんはどうする? 食べたいものはある?
いつのまにか、藍渙から返事が来ていました。江澄くんは電車を降りるぎりぎりまで迷って、リクエストを送りました。
——サンドイッチがいい。ポテトサラダのやつと、マスタードのハムのやつ。
藍渙の作るハムサンドはマスタードソースがたまらなくおいしいのです。初めて食べたときから、江澄くんのお気に入りでした。
帰宅すると、甥っ子を連れて姉が来ていました。「あなたから良い話が聞けるっていうから」と母がわざわざ呼んだそうです。
「それで? 良い話ってなにかしら?」
江澄くんはリュックを置く間も与えられず、ダイニングの椅子に座ることになりました。向かいに座った母は真顔です。リビングのソファで幼子の相手をしていた姉は、不安げな視線を送ってきます。
江澄くんは深呼吸をしてから口を開きました。
「俺、またカナダに行こうと思ってる」
「留学ということかしら?」
「いや……」
江澄くんは「これから教授に確認するけれど」と前置きをしたうえで、大学に就職する予定だと事情を話しました。
「すばらしいわ、江澄!」
「すごいじゃない、阿澄!」
母と姉の声が同時に飛んできました。遅れて「しゅごーい!」とかわいらしい声が響きます。
「本当に良い話だったのね。たぶんなんて言うから、ひやひやしてしまったじゃないの」
「でも、まだ決まりじゃなくて」
「あなたなら大丈夫よ! 時期は決まっているのかしら?」
「これから教授と相談するから……」
「決まったらすぐに言いなさい。さ、今夜はお祝いよ!」
母はぱっとスマホを取り出すと、電話をかけはじめました。江澄くんがぽかんとしている間に、近所の中華レストランに予約を済ませてしまいます。
「阿離も一緒に来なさい。もちらん、阿凌もよ」
「あーりんも?」
「そうよ。おばあちゃんと一緒に、おいしいおいしいしましょうねえ」
「ぱぁぱは?」
「一緒よ。パパもお仕事終わったら来てもらいましょうねえ」
どうやら母は姉一家を巻き込むようです。姉は、自分の旦那に電話をかけはじめました。
江澄くんはこの隙に、とリュックを持ってリビングを出ます。ずっと指輪が気になってしかたありませんでした。
その日の夜遅く、江澄くんは父親に書斎へと呼び出されました。「だいたいの話は三娘に聞いたが」と言う父はひどく不機嫌でした。
「本当にカナダに行くつもりか」
江澄くんはその意味をはかりかねて、目をしばたきます。
「移住するのか」と重ねて尋ねられ、江澄くんは「とりあえず、ビザが切れるまでは……」と答えました。頭の中は、三者面談で調べた知識をかき集めるのに大忙しです。
「ただ、ビザの種類が複数あって、あっちの教授と、弁護士さんに確認しないといけなくて……、何年っていうのはその後……」
「この家に戻る気はないのか」
江澄くんは息をのみました。まさか、この父から聞くとは思っていなかった問いかけです。言うのであれば、きっと母だろうと思っていたのです。
しかし、江澄くんはすぐに気がつきました。父のまなざしはいつも通りです。そこに江澄くんを引きとめる意思はありません。
お腹がぎゅっと縮むように痛みます。
「そこまで考えてなかったけど」
江澄くんは父をまっすぐに見ました。
生まれたときから暮らしてきた家です。居心地がいい、とはいえない家でしたが、それなりの愛着はあります。
けれど、これからの人生に必要なものではありません。
江澄くんはリュックから出せないままの、小さな青い箱を思い出しました。
「ここには、帰らない」
「わかった……」
父の声が少しだけ落ち込んだように聞こえました。気のせいでしょうか。
父が再び口を開きました。
「もういい」
それは幼い頃から何度も聞いた言葉です。その度に悲しくなって、どうにかしたいと、もがいてきました。
でも、江澄くんは(そうか)と思っただけでした。
シャワーを浴びて、髪を乾かして、それからベッドに入ります。
藍渙からメッセージが来ています。
——了解。土曜日、楽しみにしているね。おやすみなさい。
江澄くんは「おやすみ」と返事をしました。
その夜は真っ青な海の夢を見ました。
いよいよ、土曜日です。
江澄くんは早朝6時に目を覚まして、自分に苦笑しながら寝直しました。
次に目覚めたのは7時でした。藍渙の家に行くのは12時前の予定です。もうちょっと寝ようと目をつぶります。
その次は7時半に目覚めました。そこからは何度寝返りを打っても寝付けず、しかたなく8時にはベッドを出ました。
「珍しいわね。どこかに出かけるの?」
リビングには母がいました。休日はもっと遅くまで寝ている江澄くんです。「ああ、まあ、うん」とあいまいな返事をします。
朝食はかんたんにお茶漬けで済ませました。服を選ぶのに思いのほか手間取りましたが、それでもまだ9時です。
しかし、母に出かけると言ってしまった手前、いつまでも家にはいられません。
江澄くんは駅前のカフェに向かいました。日差しが強くて、この時間でも暑くてたまりません。
冷房の効いたカフェで、江澄くんが最初にしたことは身だしなみの確認でした。
悩んで、悩んで、結局いつものTシャツとジーパンを選んでしまいましたが、本当にこれでよかったのでしょうか。
Tシャツは下ろしたてですが、プリントされているのはフランス語で「自由」です。ジーパンはすっかり着古したとわかるほどには傷んでいます。
だんだんと不安がふくれていきます。
江澄くんは急いで百貨店の営業時間を確認すると、コーヒーを飲み干しました。そして、百貨店の開店時間には、自動ドアの前で並んでいました。
「いらっしゃいませ」
男性向けファッションのフロアに到着すると、待っていましたとばかりに店員さんのあいさつが飛んできました。江澄くんは軽く頭を下げて、フロアを見回します。
江澄くんが探しているのはカジュアルな服です。とはいえ、普段の自分からかけ離れている格好ではいけません。少しだけ、ましな姿になりたいだけなのです。
「おはようございます。なにかお探しですか?」
声をかけてきたのは、百貨店の名札をつけた男性でした。おそらく、藍渙と同じくらいの歳でしょう。
そのやわらかい笑顔に、江澄くんは抵抗なく自分の目的をしゃべっていました。
「服を探していて……」
「夏物でよろしいですか?」
「はい、そうです」
「どのようなシーンでお召しになりますか」
「えっと、実は今日……」
男性は江澄くんの希望をするすると聞き出していきます。そして、江澄くんの姿を頭からつま先まで確認すると、「承りました」とほほえみました。
「ご案内いたします」
最初の店はシャツの専門店でした。フォーマルも、カジュアルも、取り扱いがあるようです。
そこですすめられたのは、薄紫という上品な色合いのリネンシャツでした。自分では絶対に選ばないシャツですが、江澄くんは拒否をしないで様子を見ることにしました。この意外な色の服を、どう組み合わせるつもりか、興味がわいたのです。
その次は、カジュアルファッションのお店です。さきほどとはうってかわって、江澄くんがふだん着ているような服ばかりです。ここで男性が手に取ったのは、意外にもジーパンでした。「こちらのデニムパンツはシルエットが美しい」のだそうです。
最後はなんと靴下です。
江澄くんがびっくりしていると、男性はじっと江澄くんの目を見て言いました。
「お相手のお部屋に上がられるなら、足下こそ、気をつかうべきポイントです」
そうして、鮮やかな青で縁取りがされた白のアンクルソックスは、男性の抱えるリネンシャツの上に置かれることになりました。
その後、最初の店に戻って、そこの試着室で服を着替えました。リネンシャツはTシャツの上からと言われましたが、変ではないでしょうか。
江澄くんはカーテンを開ける前に、鏡の自分をながめます。そして、眉根を寄せました。
どうしてこの組み合わせで、違和感なくまとまるのでしょう。内心では紫のシャツは(ありえない)と思っていたのに、なんの問題もないように見えます。
男性は江澄くんの姿を見ると、「よくお似合いです」と言いました。
それはまったく完璧な笑顔でした。
江澄くんがそれまで着ていた服は、百貨店のショッピングバッグにおさめられ、自宅へと発送されていきました。あの男性店員は何食わぬ顔で手配をしていましたが、きっと通常の対応ではないのでしょう。伝票を用意してくれた店員さんの、かたい笑顔が印象に残っています。
それはともかく、これで準備万端整いました。
つい、食品売場でケーキをながめたり、生花店の前でうろうろしたり、と手みやげを悩みましたが、さすがにやりすぎだろうと思い直しました。そんなことをしたら、玄関ドアが開いたとたんに空気が張りつめそうです。
そして、その予想はまさしく大当たりしたのです。
藍渙は江澄くんを見た瞬間に目を細めました。「いらっしゃい」と言うときにはいつもの笑顔でしたが、玄関というせまい空間に緊張感が満ちていきます。
リビングに入ると、テーブルのまんなかにビタミンカラーのフードカバーが見えました。きっと、サンドイッチにかぶせてあるのでしょう。
キッチンからはスパイスの香りもただよっています。
江澄くんのお腹が小さく鳴りました。すぐにでもランチにしたいところですが、この雰囲気をどうにかしないと、せっかくのサンドイッチも味がわからなくなりそうです。
「とりあえず、昼食でいい……」
「藍渙!」
江澄くんはリュックから青い小箱をつかみ出すと、藍渙の前に突き出しました。
「あの……っ!」
しかし、肝心の言葉が出てきません。頭の中を無数の単語がうずまいています。
なんて言えばいいんだっけ
なんて言うつもりだったんだっけ
藍渙は目を丸くして小箱を凝視しています。彼も、言うべき言葉を見つけられないようです。
江澄くんはもう一歩踏み出しました。
「結婚してください!」
藍渙の目が江澄くんを見ました。
「俺、またカナダに行くから……、い、一緒に来てほし……ぅぐっ!」
江澄くんの口から奇怪な音が出ました。
藍渙に抱きしめられたのです。信じられないくらいの力です。
江澄くんは、苦しい、と言うこともできず、そのまま唇をふさがれました。押し込まれた舌に夢中で応えながら、ふと、とんでもないことを言ったと気がつきました。
藍渙には事情を話した上で、別れないでほしいとお願いをするつもりだったのに。
この局面で口から出たのは、一番の願望でした。
「いつ?」
長いキスがようやく終わり、ふらふらする江澄くんに藍渙が尋ねます。
「いつ、結婚するの?」
「いつって……あ、いや、待て。俺、またカナダに……」
「カナダでも、どこでも一緒に行くよ」
「えっ」
「そんなことより、いつ……」
「カナダだぞ」
江澄くんは思わず藍渙の胸を押し返しました。この人はカナダがどこにあるのか、わかっているのでしょうか。
藍渙は珍しく真顔でうなずきます。
「わかっているよ。きみが大学院に進学すると言ったときから、準備をしてきたから大丈夫」
聞けば、国際的な英語能力テストで9割近いスコアの記録があるとのことでした。さらに江澄くんの短期留学中には、フランス語の検定で日常会話レベルの等級を取得したそうです。
あぜんとする江澄くんに、藍渙はなぜか照れ笑いを浮かべます。
「もともと語学は得意だからね。今はオンラインの塾で講義を持っているんだけど、そこでは英語で授業をしているんだよ」
これなら世界のどこでも仕事ができる、とは並では言えない台詞です。
江澄くんは握りしめたままだった小箱を、藍渙の頬に押しつけました。
「それなら、ちゃんと受け取れ」
「もちろん。うれしいよ」
藍渙に「つけてくれる?」と言われて、江澄くんは指輪を取り出します。サイズを勘で決めたわりには、指輪はするりと左手の薬指におさまりました。
「すごく、うれしいよ」
頬に添えられた左手の、冷たい金属の感触にくすぐったい気分になります。
「私も、指輪を贈ってもいい?」
「うん」
江澄くんは目をつぶりました。
そしてまた、たっぷりと時間をかけて、深くキスを交わしました。
江澄くんは藍渙と腕を組み、コーディネーターが開けてくれたドアをくぐりました。
予定ではここでフラワーシャワーがふりそそぐはずでした。しかし、かわりにどよめきが場を支配します。
江澄くんは(やっぱり)と思いながら、隣で得意げな顔をしている藍渙をにらみました。
江澄くんと藍渙の今のいでたちは、明るい赤色のタキシードに、江澄くんはボルドー、藍渙は白のシャツという組み合わせでした。タキシードの赤は、ガーデンに咲くバラと同じ色なのです。
今日はガーデンつきの一軒家を借りて、ウェディングパーティーが行われておりました。
藍渙がこのタキシードを選んだときに、江澄くんは反対しました。コーディネーターでさえ渋面を作ったほどなのです。モントリオール郊外の、緑豊かなガーデンには似つかわしくない色です。
しかし、藍渙は「結婚式なら赤」だと言って譲りません。衣装替えでシルバーブルーと、藤紫の色に着替えることを条件に押し切られてしまいました。
「やっべー! 江澄、かっこいいー!」
ばさっと派手な音がしたかと思ったら、大量の花が顔にぶつかってきました。犯人は義兄です。
「おめでとうございますー!」
「おめでとう」
それに続いたのは聶懐桑と金光瑶でした。今度はフラワーシャワーらしく江澄くんと藍渙に降りそそぎます。
彼らの背後には背の高い男性が、たくさんの花かごを抱えて立っています。いつかのお肉屋さんでした。
そして、ようやく我に返った参加者からも、次々に花が飛ばされて、江澄くんと藍渙はあっという間に花まみれになりました。
「じうじう、おめでとー!」
「おめでとう、阿澄」
江澄くんは姉と甥っ子に手を上げて応えます。甥っ子はすっかり大きくなりました。大学卒業と同時にカナダに渡り、一年半を大学院生として過ごした江澄くんは、甥っ子とは数回しか会っていません。それでも、月に二回はビデオ通話でおしゃべりをしていたおかげで、「じうじう、だいすき!」と言ってもらえています。
「思い切ったな。似合ってるぞ」
「うるせー」
江澄くんが義兄に花を投げ返している隣では、藍渙が弟と話しています。彼に会うのはまだ二度目ですが、藍渙を慕っているようだということは江澄くんにもわかります。兄を取られた、とばかりに江澄くんをにらんでくるのです。
「きみと働けるのが楽しみだよ」
ヴィヴィエ博士はさっそくシャンパンを片手にしていました。江澄くんはたくさんの人の助けを得て、正式にこの九月から大学で講師として働くことになったのです。
離れたところで、江澄くんの父母と、藍渙の叔父とがあいさつを交わしています。参加者の手元にあるかごからは、すっかり花がなくなりました。
「それでは皆さま、ご歓談をお楽しみください」
司会の一言で、ガーデンに設られたテーブルに、手際よく料理が並べられていきます。
中央にはこんがりと焼かれたロティサリーチキン
が、その両脇には大皿のミートパイと、サーモンのオーブン焼きが鎮座しました。
別のテーブルにはメープルシロップのたっぷりかかったクレープや、色とりどりのプティガトーがそろいます。
しかし、江澄くんが最初に手に取ったのはバゲットのサンドイッチでした。カリカリに焼いたベーコンが一枚と、ポテトサラダ、それからりんごのスライスがはさまっています。
「これはあなたのレシピじゃないか」
モントリオールで一年前から藍渙と一緒に暮らしはじめた江澄くんの、新しいお気に入りのひとつです。藍渙は「そうだよ」と笑います。
「こちらに来て、初めて私が作った料理だもの」
「それがなんでここに出てるんだ」
「きみが食べたいだろうと思って」
早朝から髪のセットをして、タキシードを身にまとい、コーディネーターとの最後の打ち合わせも乗り越え、ようやく本番、今なのです。とっくにお腹はぺこぺこです。
江澄くんは眉間にしわを寄せたまま、大きく口を開けました。かぶりついたサンドイッチは、いつも通りにおいしくて、のぞきこんでくる笑顔に腹が立ちます。
「どう?」
江澄くんはだまったままサンドイッチを飲み込みました。
そして、藍渙の腕を引っ張ると、思い切り顔を近づけます。
ちゅ、と小さな音がしました。
「どうだ?」
「……おいしいよ」
義兄の口笛が響きます。
江澄くんは声を立てて笑いました。