告白 1
「——何これ?」
視界に入り込んだその物体は、私——日薙狛(ひなぎこま)が歩くコーナーにとってはあまりにも場違いで、予想外過ぎる物だった。
錠剤である。しかも何かラベルが貼られているわけでもない、ガラス丸出しの素っ裸状態だ。なかなかにファンキーな薬品管理だが、そもそもこの店は薬局ではなく雑貨屋さん。こんないかにも怪しそうな薬が置いてあるはずがない。
だが私は一度生まれた疑問を見捨てることができず、その薬に手を伸ばした。
「何で衣装コーナーにこんなのが……誰か置いて帰っちゃったとかかな」
先程、私が歩くコーナーにこの物体は場違いだと言ったが、それは誇張でもなんでもない事実だ。
まず前提として、ここはとある雑貨屋さんの衣装コーナー。自分の好きなキャラや物体になりきるための道具や素材が並べられた、いわゆる『コスプレイヤー専門売り場』みたいな場所だ。こんな錠剤の小ビンがあっていい場所じゃない。
私の目的はこれではないのだ。こんな得体の知れない薬などさっさと捨てて、早くお目当ての獣人コスプレの道具を揃えなくては。
「…………」
だがとても情けないことに、私の未知への探求心がそれを許さない。いつもこうだ。他に大切なことがあると頭ではわかっているのに、何か興味を引くことが目の前に起きると、いとも簡単に意識を奪われてしまう。人が押すなと言われて押すのと同じこと。私の中にある、決して抗えない衝動だ。
「バーコードはなし。じゃあこれ売り物じゃないんだ。ならやっぱり持病を持った誰かがここに薬を置いて帰っちゃ……って、そんなことあり得る? 持病を持った人がコスプレする? そんなに大事な薬なら、こんなわかりやすいところに置き忘れるなんてミスする? 病気によっては、命が危ないのに」
聞かれれば一歩引かれること間違いなしの独り言を呟きながら、私は思考を水車のように回転させる。それによって流れてくる情報と考察は、心中の興味関心をさらに引き立たせ、やがて一つの答えを導き出した。
——とにかく持ち帰ろう——
なにが「とにかく」なのかは微塵もわからない。要するに私の欲求を満たす口実になってくれればそれでいいわけだ。
「あっ、やば。もうこんな時間じゃん。着替えとか色々やってたらすぐ時間来ちゃうよ。さっさと帰ろう」
そうして、私は猫耳と犬の被り物に錠剤を隠し、レジに直行した。
さてここで、何故私がコスプレをしようと思ったかを説明させてもらおう。
時は高校三年の秋。つまり現在。イベント盛りだくさんだった夏が終わり、文化祭や体育祭といった、高校ならではのイベントもことごとく終わりを迎えた、空虚で少し物足りない季節。
大学の受験を推薦で終了させた私は、ようやく訪れた暇な時間を、三年間の思い出を回想することで消費していた。
大切な友達と出会った一年生。壁にぶつかりながらも頑張った二年生。自分の将来と戦った三年生。そのどれもが思い出に満ち溢れた、最高の時間。これが嘘偽りのない、私の高校生活への評価だ。
だがそんな時、私は幸せを改めて実感するとともに、もう一つの真実に気づいた。
『あれ? もしかして、もう高校生活終わるの?』
そんなの嫌だ。嫌に決まっている。まだまだ今の友達と遊んでいたい。この至極当然の願いは、やがて私をとあるイベントへと駆り立てた。
——それが、毎年地元の公民館で開かれる、ハロウィンパーティーである。
一年を彩るイベントのほとんどが終わってしまった今、ハロウィンは正真正銘、三年生として友人と望める最後の一大イベント。これで今年最後の思い出を作り、この年を有終の美で飾る。これが、私の計画だ。
しかし、ここで一つ疑問が残る人がいるだろう。そんな一大イベント、今まで行ったことなかったのか? と。
正直に言えば、今回が初参加だ。そしてその理由は、このイベントにとって決して外せない、ある特殊な風習が恥ずかしいからである。
そう、コスプレだ。
顔は正直、怪物のお面とかを被ればどうとでもなる。しかし問題なのは、私の肉付きの良い腰周り及び全体の体型だ。
こればかりは隠すことができない。幽霊とかだったら大きい布を被れば多少は隠せそうだが、今回のテーマは獣人。全身を覆うような小道具を使えばケモノ感がなくなり、不格好になってしまう。
だが隠さなければ隠さないで、高校最後の思い出が黒歴史という、女子高生にとって最も避けるべき事態を引き起こしてしまう。それだけはダメだ。
「んんんんっ——やっぱりダメ! こんな恥ずかしい恰好できないよ!」
案の定、私は鏡に映った真新しい私を三秒と見ることすらできず、その場にしゃがみ込んでしまった。
「あぁぁもう! あの時幽霊コスを提案しておけばこんなことには……」
思い返されるのは、学校でのコスプレ衣装会議。初めての参加ということであまり意見をしなかったが、どう考えても何か発言すべきだった。獣人コスを提案したのは……誰だっけ?
「ダメダメ! 犯人探しなんてダサいからやめる! 今の私に必要なのは、あと一時間弱でこの衣装の恥ずかしさに慣れることでしょ。さ、さぁ、しっかり立って、鏡を見て……ってそんなのできるわけないでしょ!」
再び膝が折れ曲がり、私はもう一度鏡の前に屈する。視線を自身のへそに向けると、上半身を畳んでいるせいで溢れた贅肉が、その圧倒的な存在感を私にぶつけてきた。
「うぐぐっ……私が死ななければこの肉を切り取ってやるのに……命拾いしたな」
世界一下らない冗談をかますが、心は和らぐどころかカッチカチに固められてしまった。普通に恥ずかしい。
私は手当たり次第に視線を周りに向け、なんとか腹を隠せる細工ができそうな何かを探す。だがそこには、狼の手やら足やらを作った図工の跡しかなく、腰全体を包めるようなものは何一つなかった。
どうすればいい。考えろ。何かあるはずだ。この状況を打開できる何かが——
「——あれ?」
瞬間、私の視線はある一つの物体を見て止まる。それは興味本位で店から持ってきた(犯罪とは言わないで欲しい)、あの場違いの一品。
そう、あの錠剤の入ったビンだ。そしてそのビンには、絶対にあり得ない変化が起きていた。
「どうして……お店にあった時は素っ裸だったはず……」
よく見ると、ビンには何かラベルのようなものが貼られていた。おかしい。店から持ってきた時は中身が丸見えだったはずなのに、今見たら当たり前のように文章が書かれている。
私は立ち上がり、鏡の前から移動。ビンを手に取ってそれを読む。
『あなたの望む姿に、あっという間に大変身!』
「…………」
どうやら変化が起きたのは見た目だけで、胡散臭さはむしろ倍増してしまったようだ。こんな詐欺の匂いがプンプンする文章を乗せられて、使う馬鹿がいると思っているのだろうか。
「私、こんなの持ってきちゃったんだ……」
コスプレによる羞恥心が、この薬への興味関心を吹き飛ばし、私はようやく正常なリアクションを取った。そして後でこっそり捨てることを決めた私は、そのままビンを机に置き——
「——え? ちょ、ちょっと、え?」
その異変は突然現れた。
私の右手が、ビンを手放さない。脳は確かに『このビンを机に置け』と命令しているはずなのに、ビンを握る力は逆に強くなっていく。
意識と行動が相反しているこの状況に、私は大いに狼狽した。
さらに私の身体は意志に反し、そのビンの蓋を開け、中の錠剤を手に一粒落とす。そしてゆっくりと、その錠剤を口元に近づけ始めた。
「ど、どうなってんのこれ⁉ お、お母さ——」
——母へのSOSが飛ぶ前に、その白い粒は私の口に入り込み、唾液の流れをすいすいと進んで、あっという間に喉を通り過ぎていった。
「……わ、私、飲んだの? この薬を、じ、自分で——」
——刹那、全身を激しい痙攣が襲い、私は自由を奪われる。咄嗟に鏡の方向へ目を向けていたため、私はその後に来る驚愕の現実を、余すことなく脳裏に焼きつけることとなった。
「ぁ……ぁあああぁ……」
まず初めに、身体中の毛穴という毛穴が最大限にまで広がり、そこからぶわあぁ、っと長い体毛が生えてきた。最近剃ったばかりの足の毛は瞬く間に生い茂り、さらには腕や首元、絶対に伸びないであろうおでこの毛穴からも、漆黒の体毛がぐんぐん伸びてくる。
その映画みたいな光景に吐き気を催していると、今度は顔面と尻に激痛が走った。
「ううぅ……が、がぁぁぁ……」
理解の範疇を超えた感覚と共に、顔の骨格が音を立てて形を変えていくのがわかる。まるで大木が倒れる時のような、メキメキという鈍い音が頭蓋骨の中を反芻し、鼻がピノキオのようにぐんぐんと伸びていく。その醜い変貌の結果が見たくなくて、私は毛むくじゃらの両手で視界を覆った。
そうして耐えているうちに、今度は尻の方でも変化が起こり始める。体毛とは違う、しっかりとした骨格を持った何かが尾てい骨周辺から伸びていく。その質量はパンツの中、そして身に着けているズボンの中を満たし、それでもなお膨張を続け、部屋に強烈な破裂音を響かせた。
「きゃあぁぁぁぁぁぁ!」
ズボンが破けるなんて、アニメしかないと思っていた。今、私がその常識を覆したわけだが、そんなことで笑っていられる状況ではない。現在進行形で、ズボンを破った張本人である何かが、尻の周りをうろついているのだから。
今まで感じたことのない未知の感覚が全身に広がる。背骨と繋がって伸びる新しい神経は、脊髄を経由して脳を刺激し、知見の根底にあった人間の体のつくりを、あり得ない速さで書き換えていった。
『私の、身体が……私じゃ……なくな、る……』
意識が薄れ、精神が自然と現実逃避を図り始める。その動きを止めることは、疲弊した私の心では不可能だった。
「はぁはぁはぁ、はぁ、はぁ…………」
果てしない苦痛と不快感、そして恥辱の嵐に、私はまんまと飲み込まれてしまった。
——そして数分後。
「……んんぅ」
どうやら気を失っていたようで、私は鏡の前でうつ伏せに倒れていた。だから当然、最初に視界に入るのはその鏡。転じて、今の私の姿だ。
「………………へ?」
開口一番、私の口はなんとも素っ頓狂な声を漏らす。
たわしのように全身に伸び揃い、全身を包む茶色の毛並み。カチューシャではなく、明らかに頭から直接生えている獣の耳。そんな人の域を超えた変化を中和させる、狼の顔。
——そして極めつけは、下半身の後ろから伸びる一本の太い毛の塊。尻尾だ。
そいつはふりふりと自らを左右に振り回し、自身の存在を必死にアピールしてくる。試しに握ってみると、そこには骨の感触と皮膚の感触が連立し、作り物ではない本物の尻尾だということを知らしめた。
というかよく見ると、そもそも私の手も肉球がついている。買ってきた被り物も、なんとか作った手袋も身に着けていない、言葉通りの完璧な変身を、私は成し遂げたということになる。
「嘘……この薬って、本当に……やったぁぁぁぁぁぁぁ————!」
上手い話過ぎることには一切気を向けず、私は完璧なコスプレと腹回りが毛並みで囲われたことに、個々の底から喜んだ。
これで参加できる。何一つ心配することなく、最後の思い出を作ることができる。
しかし、その思い出の形が、今までとは少々違うものになることは、この時の私はまだ少しもわかっていなかった。
「な、何そのクオリティ! 狛ってそんな器用だったっけ⁉」
舞台は私の家から代わって、ある大親友との待ち合わせ場所である公園。正真正銘の狼女となった私にちょっと失礼なことを言ってきたのが、その大親友であり、このハロウィンに私を誘ってくれた草場(くさば)美里(みさと)だ。
肩元までのショートヘアが良く似合う、女子目線でも素直に可愛いと言える部類の女子高生。日本人が好む長髪とポニテで、なんとかルックスを騙している私とは違う、地が可愛いという最強の女の子。
しかし、殊の外今日に至っては、私は彼女の見た目に苦言を呈することとなった。
「ねぇ美里。コスプレは?」
「うぐっ! え、ええっと……」
途端にばつが悪そうな表情を見せる美里。数秒の沈黙を空間が支配し、コスプレをしていない理由を話したくない美里と、なんとかして聞き出そうとする私の視線がぶつかり合う。
「……普通に衣装づくりが間に合わなかったので、普通に行こうと思ってました!」
そう清々しく言うことではないでしょ、というツッコミを喉元に留め、私は徐々に口角を上げていった。
「もーっ! 馬鹿にしないでよ! 悪かったって!」
「あははは、いいのいいの。実は私も、それなりにズルしてるから」
「嘘言わなくていいから! もうそんなクオリティで来られたら私どんな顔して——」
「——本当なんだって! あ、そうだ! なんなら美里も使ってみる?」
そう言って、私は腰に巻きつけていた尻尾を解き放ち、挟んでいた錠剤のビンを取り出す。
改めてそのビンを見ると、そこにはさっきの『あなたの望む姿に、あっという間に大変身!』の他に『痛みなし! 苦しみなし! 問題なし!』という、さらに疑い深い文章が追加されていた。
「あれ? こんな文章なかったのに……」
私が考え込む中、美里はビンを訝しげに見つめ、率直な感想を述べた。
「何その危なそうな薬。もしかして私に幻覚見せようとしてる?」
「そういうのじゃないから。とりあえず、この文章は気にしないで一粒飲んでみて」
「何その危ない人が言いそうな台詞。私の意識飛ばそうとしてる?」
「この文章的には飛ばないと思うよ。私は飛んだけど」
「いやいやいやそんな危ないの——」
「——なら、一人だけそのまんまの姿で参加することになるけど」
そう言った途端、美里が黙った。
美麗な見た目に反して意外と自身がなく、周りの空気に敏感なのが美里という人間。だから周りがコスプレをする中、一人学校の制服で行くことを嫌がるに決まっている。親友と呼ぶからには、それなりに相手への理解があるのだ。
「……本当に大丈夫?」
「私が保証する。私が今こうしていることが証拠」
「わけわかんないけど……わかった」
——かくして美里は、この世界で二人目の狼女へと変身した。追加の文章通り、一切の苦しみもなく、スムーズに。
ちょっと不公平過ぎやしないだろうか。
2
眼前に広がるは魑魅魍魎の群れ。古今東西、和洋折衷、日本に伝わり乱雑なまま定着してしまった妖怪亡霊その他諸々、なかなかの数が公民館の入り口に跋扈している。
「つ、ついに……来た!」
「来たね。なんか今年は参加者多そう」
その巨大な流れの最後尾に、私達はいた。
ここまで公民館が若者に溢れている光景は、一体何年ぶりなのだろうか。少なくとも、この町で十八年生きてきた私には、ここまでの盛況ぶりは見たことがない。ハロウィン自体に興味がなかったので、気づかなかっただけかもしれないが。
周りを見る限り、今年は最近話題になったホラー映画の影響か、幽霊コスが人気のようだ。だが獣人コスももちろん一定数存在し、中には同年代でありながら際どい格好の日ともちらほら見かける。
だが予想通り、私達ほど完璧な獣人はいないだろう。なんてったって、こっちはコスプレではなく本当に変身したのだから、そのクオリティの差は雲泥の差。
私は真っ白な毛並みに覆われた白銀の狼。対して美里は、鮮やかな黒に身を包んだ漆黒の狼。まるでファンタジーの世界から飛び出してきたかのような、最高にカッコいい二人組だ。誰かに後で写真撮ってもらおう。
やや到着が遅くなってしまい、開会式には間に合わなかったが、まだ開催されたばかりだ。時間はたんまりとある。
「じゃあ、あの計画開始ね」
「了解」
私は指をなるべく伸ばして敬礼を見せる。すると美里は数粒の錠剤を丸めた尻尾に収め、不敵な笑みを浮かべながら群衆の中に入っていった。狼らしく、ここからは単独行動というわけである。う~ん、かっこいい。
私も遅れて入り口を通り、会場内に足を踏み入れる。そこには幾つものテーブルが並べられ、その上に置かれたかごの中には、多種多様なお菓子がごちゃ混ぜになって入っている。隣にはジュースやらコーラやらサイダーやらが、透明な百均コップと共に用意され、参加者の化け物達はお菓子を摘まみながら自由にドリンクを飲み、同種族やそうでない者達との雑談に花を咲かせている状況だ。
昨今はメディアミックスが盛んであるが、ここまでいろんな化け物をミックスさせることのできるイベントはそうないだろう。海外の文化を自己流に料理してしまう、この国ならではの光景といえる。
「トリックオアトリート、って何だっけ……」
『文化』という言葉の意味を探りながら、私は美里と移動中に話した計画を遂行させるため、まずは視界から離れたドリンクの残るコップをロックオン。次にその全てを回る最適なルートを脳内で構成し、すぐさま行動に移った。
狼女になってからか、妙に視界が広がった気がする。今まで以上に周りの物体の動き、ひいては人の細かな所作に意識が向くようになった。これも薬の恩恵なのだろうか。全身の神経を組み替え直すほどの効力を持つ薬なのなら、使用者の意識の向け方すらも変えることができるのかもしれない。それこそ、意識を人から狼に変えてしまうような……。
まぁ、だとしても私と美里が健康なのだから、杞憂だろう。それよりも、今は計画を進めなくては。
『ほい。それから、ほい』
ビンを颯爽と取り出し、次々とコップに錠剤を放り込んでいく。今まで薬を水と共に飲んだことがなかったので、錠剤が入った瞬間泡のように消えたことに驚いた。おかげで気にされなくて済みそうだ。
鋭敏になった感覚で人の視線を掻き分け、僅か数秒で薬の秘密投入に成功した私は、人のたまり場から即時退散。全体を見渡せるような一歩距離を置いた場所から、狙い通りの現象が起こるかどうか観察することにした。
さて、そろそろ計画が実現する頃のはずだ。同性同士なら愚痴大会、異性同士ならナンパか色恋話に一区切りがつき、手元にある自身のドリンクに手を付けたその時——
「——うっ! って、何だ何だ⁉」
「きゃあぁぁぁ! 何が起きてるの⁉」
最初にフランケンの恰好でその大柄な体格を見せびらかしていた男性、次にセクシー女優に匹敵する露出度で自己満足に浸っていた女性が、共に驚愕の悲鳴を上げた。周囲の人間が彼らに注目していると、今度はさらに別の場所から悲鳴が轟き、困惑の連鎖は被害者達の一斉変身という、大道芸顔負けの現象によって見事に爆発する。
「何この感覚、気持ち悪い……きゃあ!」
「うえぇ! な、なな何だこれ⁉ おい何なんだこれ⁉」
「はぁあ! いやいやキモいぃぃ! わあぁ、はっ、はぁ⁉」
狼への変身に脳の処理が追いつかず、咄嗟に出てくる言葉の数々。文法も言葉の並びもぐちゃぐちゃな発言を繰り返すさまを見ているのは、なかなかに滑稽だ。言語のスクランブルエッグである。ケチャップとして周りからの嘲笑と賛美をどうぞ。
これぞ、私と美里が移動中に思いついた計画——柔らかく言うとイタズラ、人によっては迷惑である。
『まさかこんな上手くいくなんて……やっぱハロウィンなんだから、こういうハプニングもないとねぇ』
やばい。にやけが止まらない。というか爆笑してしまいそうだ。純度百パーセントでの狼顔で笑うことなど、獲物を狩った時ぐらいだろう。まぁ、狩ったといえば狩ったのか。よし笑おう。精一杯笑おう。
「すぅ……あっはっ——」
「——うわぁ! なんだよ! いきなり爆笑すんじゃねえって!」
瞬間、私の満点大笑いを阻止したのは、背後から反射的に飛んできたと思われる、聞き慣れた男の声だった。
振り向いた先にいたのは、全身を包帯でぐるぐる巻きにした一人の男子。坊主頭から伸びてきたせいで髪はぼさぼさだが、その風貌が死体であるミイラの雰囲気を良い意味で助長し、見事なコスプレを披露している。そう高くない背丈も、きっと太古の人類と同じ見た目になる様に計算したのだろう。男子の目線で言えば気の毒だ。
「もしかして平井君?」
「そうだよ。お前日薙だよな? 狼の姿で来てるって聞いたからもしかしてと思ったが、来てみたら何人も狼野郎がいるから、声を聞くまでわからなかったぜ」
後方で同年代の男子達が「先行ってるぞ」といって場を離れていく。全員ミイラ姿なのが、男子のコスプレに対する意識の浅さを象徴していた。
彼の名は平井(ひらい)憲(のり)正(まさ)。私や美里と同じ高校の同級生で、二年の時から同じクラス。高校三年間を野球部の活動に費やした、根っからの体育会系である。
だが意外と野球に対して思い入れがあるかというと、意外にもそうではないらしく、引退した次の日には、涙など忘れてさっさと旅行の話をしていたらしい。運動部に所属したことのない私にはわからないが、その部活に入っていた場合、イコールでそのスポーツが好きというわけではないようだ。人の心とは複雑怪奇である。
「な、なぁ、日薙。お前今日、草場と来てるんだよな?」
「え? そうだけど……」
「あ、あいつもお前と同じ、コスプレしてるのか?」
唐突に下手に出てくるミイラ。腕を前にクロスし、股間の辺りを隠すようにしてもじもじと腰を揺らす。これがアニメの萌えキャラがやっているなら絵になるのだが、本体のビジュアルを知っている超古代の人間もどきがやっていると、ここまで気持ち悪くなるのか。
包帯の上からでもわかる、顔の紅潮。これは……つまりそういうことだ。
前もって何度か相談を受けたことがあるので知っているのだが、実は平井君、美里のことが好きなのである。
理由としては、三か月前に行われた野球部最後の大会。美里は有志の応援団に参加し、彼ら坊主集団の最後の戦いを見届けに向かった。
その時の美里の応援する姿が、平井君の構えていた恋心という名のミットにストライクしてしまったらしい。それ以来、彼はずっと『告白』という一球を投げ込む隙を窺っている。自分がそうなったように、今度は美里が自分にミットを向けてくれる、その瞬間を。
「そうだよ。何? もしかして今日決めるつもり?」
「ち、違ぇよ! まずは仲良くっていうか……外堀から埋めていくってやつだ! そ、それで、草場はどこにいるんだ?」
その時、ちょうど私と平井君がいる第一広場から少し離れた第二広場で、さっきこちらで響いていたような驚愕の叫びが轟いた。恐らくは私と同じ志を持つ人間もとい狼の仕業だ。間違いない。
「第二広場の方に行ってるよ。今聞こえた叫び声の方」
「今のって……もしかしてあいつ、なんかまずいことにでも巻き込まれたんじゃ……すぐ行ってくる!」
何かしらの事件の雰囲気を感じ取ったのか、平井君は瞬く間に決意を固めると、素早く踵を返して第二広場へと駆けた。おお、なかなかに男らしい台詞を聞いた。もし本当の事件が起こったとしても、きっと今の彼なら最後の瞬間まで美里を守ろうとするだろう。その事件の犯人が彼女だとも知らずに……。
「ふぅ。なんか熱いな。毛が多過ぎて熱が溜まっちゃってるのかも」
妙にホラー映画のようなエンディングを脳内で再生した後、私は全身に積もり積もった熱を振り落とすため、人気の少ない入り口付近へ向かった。
到着の時はまだ若干顔を出していた太陽も、気がつけば地平線の中に姿を隠し、明日の空を照らすための準備を始める。空は燃え上がるような紅から一転、星々の光明が地に降り注ぐ暗黒の世界と化していた。
心地良い夜風が体毛を撫で、毛と毛の間に挟まっていた熱を丸ごと攫っていく。洗練されたような気分の中で、私は途方もなく大きな満足感に浸り、その喜びをかみしめた。
今までコスプレやらうるさいところは苦手やら、色んな理由をつけて参加する気のなかったハロウィンパーティーが、まさかここまで楽しいイベントだったとは。毎年参加しておけばよかったと本気で思う。そうすれば、少なくとも高校生活の中でもう二つ、思い出が増えていたはずだったのに。
まぁ仕方がない。過ぎた時間の話だ。そんなこと考えるよりも、今はあの二人の間の進捗が気になる。あれだけかっこよく走っていった平井君のことだ。今日中のどこかで、思いを伝えたいのだろう。それくらい彼は、このイベントに賭けている。
となれば、あえて二人と合流し、上手く二人だけになれるような空間を作ってやった方がいいのではないだろうか。意志と度胸はイコールではない。言葉を投げようとする度胸がなければ、せっかくの決意も水の泡だ。そして、美里の話をしようとするだけであれだけ顔を赤らめる彼に、土壇場で告白する度胸があるとは思えない。
「よぉ~し、じゃあ後半戦は、平井君の告白を手伝うことにしようっと。イタズラは、もう十分やったし」
それにしても、ゲリラ変身イタズラは大成功だった。突然肉体が変わっていく時のあの顔ときたら、忘れられない卓越した面白さを覚える。
改めてビンの中を見ると、もう残すところ数粒となっていたことに今更ながら気づく。当初は二、三人を変身させるつもりだったのだが、気分のままにばらまき過ぎてしまった。本来の持ち主には、少々罪悪感が残る結果である。
そういえば、結局この薬は何なのだろうか。あの店の売り物でもなく、持ち主も不明。しかも勝手に文章が追加されるだけでなく、人を狼に変えてしまうとんでもない効力。一体誰がこんなものを、何の目的で作ったのか。
もし持ち主がいるとすれば、それはきっと白衣を身に纏い、枕になるぐらいの豊富な髭を蓄えた、マッドサイエンティストに違いな——
「——お姉ちゃん。それ使っちゃったの?」
静寂の夜に突如、甲高い声が響いた。
3
声の響く方へ視線を向け、私はその持ち主の姿を視界に捉える。公民館から漏れる喧騒が耳を遮る中、それでもはっきり聞こえた、音の弾幕をすり抜けるその美声の先を。
——そこには、一人の少女がいた。
年齢的には、恐らく小学校高学年くらいだろうか。おかっぱ頭がよく似合う、トイレの花子さんくらいの背丈をした女の子。だがそれにしては、どこか大人びた雰囲気がある。
彼女もまた、このハロウィンパーティーの参加者なのだろう。私と同じ獣人のコスプレをしていて、全身の毛並みを柔らかい綿で編んだモフモフの服で再現し、足元はコスプレ専用の靴か何かを履いていると思われる。
ご両親とかがコスプレイヤーだったりするのだろうか。手造りにしてはあまりにもクオリティが高い。顔も被り物をせず、あくまで獣耳のカチューシャで済ませた、可愛らしい素顔丸出しのコスプレだ。私や美里が行ったような『変身』という邪道ではない、これこそ正真正銘のコスプレといえるだろう。
だが、私が彼女に惹かれたのは見た目だけではない。
「ねぇお姉ちゃん。それ使っちゃったの?」
もう一度彼女が言う。そう、この言葉だ。この場合の「それ」とは、今私の右手に握られているこの薬で間違いない。ということは、だ。
——彼女は、この薬について知っている。
「き、君もオオカミさんのコスプレしたのぉ? 凄い可愛いよ! とっても似合って——」
「——お姉ちゃんもコスプレじゃないでしょ」
うん。絶対にそうだ。調理を終えた後のフライパンくらいに冷め切った、この両目と無言の対応。私が人間であることをしっかり認識している。しかもコスプレじゃないと、はっきり言い切った。
可能性が革新へと変わった今、私はこの薬の正体を突き止めるため、より深い彼女へのコンタクトを図った。
「ねぇ君。この薬のこと何か知ってる? 私、とあるお店でこれを見つけて、そのまま持ってきちゃったんだけど……」
「うん。知ってるよ。だってそれ、私のお薬だもん」
「やっぱり知ってるん——って、ウオォォォオォォォォォ⁉」
予期していなかった衝撃。予想を遥かに上回る告白。彼女が言い放った事実は、見事に私の心に作られた真珠湾に巨大な爆弾となって降り注いだ。
「それ本当⁉ この薬、本当に君の物なの⁉」
「うん。本当だよ。お店ってあの雑貨屋さんでしょ? 私、よく行ってるんだ。それで今日、たまたま置いて帰っちゃって、探してたの」
私は思わず遠吠えに似た叫び声をあげた私は、それから数回彼女の肩を掴みながら、食い入るように事実確認を急ぐ。だが彼女は冷静に、そして簡潔に私の物だと主張を繰り返す。これではどちらが子供かどうかわからない。年上としての威厳もくそもない光景である。
少女はとても達観した様子で、私にこう告げてきた。
「お姉ちゃん、私の薬飲んで狼になったんでしょ」
「あ……うん。ごめんね、勝手に使っちゃって……」
返答をなんとか捻り出したその瞬間、私の脳みそが『言い訳モード』に切り替わった。
どうしよう。私は人の薬を、一夜にして半分以上使ってしまった。しかもその動機が『ただの陰険なイタズラ』という心底みっともない理由で。これが人助けのために使ったと言えたらどれだけかっこよかったことか。コスプレができない人々に薬を配ったと言えば、私は現代のねずみ小僧になれたかもしれない。まぁこの理論が許されるのなら、一応友人を一人巣くっていることになるが、その友人が薬物乱用の共犯者な時点で、それを言ったら逆効果だろう。
「ち、違うの! 誰か持ち主がいるかもってことは考えてたんだよ? だ、だけど、ちょっとおもしろい考えが浮かんじゃったっていうか……引き返せなかったっていうか……」
ダサい。キモい。かっこ悪い。獣臭い。
まるで某推理マンガに出てきそうな犯人の言い訳である。作中ではこれを言うという時、決まって自分の犯行が明るみになり、警察に連れていかれるまでの間。つまり今の私にぴったりの役どころというわけだ。
そんな、年齢と立場が本気で逆転しかねない言い訳を展開する中、少女は何を話しているんだと言わんばかりに、こっくりと首をかしげてこちらを見つめる。やがて肉球の手を顎に当て、何かを考え込んだ後、独り言をぼやき続ける私に対し、こう告げた。
「お姉ちゃん、その薬飲んでからどれくらい?」
「え? どれくらいって?」
「時間。飲んでからどれくらい時間経った?」
これまた予想外の一言に私は口を止め、これまでの時間を脳内で逆算する。
「そうだなぁ……ちょうど一時間くらいかな?」
それを聞くと、少女はほっとした様子でこう続けた。
「良かった。こういう場所でそれだけ時間が経ってても普通に話せてるなら、本物にならずに済みそう」
「ほ、本物?」
彼女はコスプレをするパンドラの箱であろうか。さっきから私の意表を突く言葉ばかりを言ってくる。いや、単に私の理解力がないだけなのかもしれない。最近の子供は塾やら何やらで忙しいと聞く。少女のような聡明な子供がいるのなら、日本も安泰だ。
そんな不必要な思考を回す中、少女は容赦なく第三の爆弾を落とした。
「——そう。その薬、一つ間違えると本物の狼になっちゃう薬なんだ」
「…………え?」
今までで一番の威力。それも思考の全てを焼き払うような、核爆弾レベルの超火力。彼女が純粋な眼のまま言い放ったその言葉の衝撃は、その例えに相応しいものだった。
「本当だよ。その薬はね、見た目だけを狼にするものじゃないの。何か凄いことが起きてたり、こういうお祭りみたいなところで盛り上がっちゃうと、自分のことを忘れちゃって、いつの間にか狼の人格が代わりに身体を乗っ取っちゃう薬なんだ。まだ試作段階の失敗作なの」
すらすらと語られる急展開な言葉の数々に、私は圧倒された。
「ちょ、ちょっと待って。それ……冗談だよね?」
「だから本当だって。変身するってそういうことでしょ?」
——彼女の言っていることは、本当なのか?
相手はまだ小さい女の子。私と同じように、ただのイタズラでこういうことを言っているだけかもしれない。真に受けるのは間違っている。
……いや、そんなことはない。確かに教えられた話は、非現実的でファンタジーな内容だ。だがそれを一概に少女の妄想で済ませるわけにはいかない。何と言っても、私がそのファンタジーを身に纏っているからだ。
何故かいきなり文章がビンに書き込まれ、飲んでみればコスプレどころか本物の狼に変身できる薬。その存在と効力の証明は、今の私や美里、そして私達のイタズラにかかったパーティー参加者全員によってサンプリングできている。
さらに思い返せば、イタズラのネタ仕込みの時に感じた、感覚の鋭敏さ。彼女の話を元に考えれば、あれは思った通り狼の力。私は少なからず、狼になっている部分がある。
彼女の言っていることは、本当かもしれない。
「…………………まずい」
「? どうしたのお姉——」
「——まずいよ! 私、いたずらで大勢の人にこの薬飲ませちゃったよ! このままじゃ、みんな狼に……!」
いやぁこれはヤバい。ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい!
唐突に心中に生まれた一抹の不安は、瞬く間に全身を支配し、目の前の賢者に助けを求めた。
「安心して。お姉ちゃんが大丈夫なら、心の底からびっくりしたり興奮したりしない限りは大丈夫だから。冷静になって、おおよそでいいから使った薬の数を——」
——その時、誰かの絶叫が突如として轟き、弾丸の如き速さで空間を貫いた。
「————————」
次の瞬間、公民館を参加者の阿鼻叫喚が包み込み、第一、第二広場から多種多様の化け物共が、雪崩を打って飛び出してくる。まるで像の群れが走って来たかのような地響きが周囲を襲い、私はその流れに飲み込まれないよう、少女を抱いてその場にしゃがみ込んだ。
「おい! 大丈夫か⁉」
「えっ⁉ ひ、平井君⁉」
その大群の中で、唯一私達の元に留まってくれたのは、十数分前に顔を赤らめていたあのミイラ——平井君だけだった。
共にその場に寄り添い、少女を守る私と平井君。やがて人が全て走り去っていき、もぬけの殻となった会場の真ん中に、この騒動の原因はいた。
「あ」
少女がそう漏らす。
「っ! あ……あ、あれ……」
「お、俺、頑張って言ったんだ。そしたら突然あんな……」
——一同が見つめたその先にいたのは、テーブルの上で尻尾を激しく振り回し、辺りを睨みつける、一匹狼の姿だった。
4
暗闇の中、獲物を狙うかのようにろんろんと光る眼。そこには人としての感情は一切なく、ただ湧き上がる闘争心と生存本能に身を焼かれた、孤高の獣としての闘志が感じ取れた。
ただ、その目の光によって照らされた顔周りの鮮やかな黒。吹き抜ける風になびく尻尾。そして何より、全身の一部一部に垣間見える衣服の存在が、あの狼の本来の姿を教えてくれている。精神はともかく、あの肉体の本来の姿が人であることを。
「み、美里……」
「グルルルル…………」
喉を鳴らし、こちらにじりじりと近寄って来る漆黒の獣。その目に映る私達の姿は、果たして尊厳を持った人か、はたまた血肉となるべき餌か。相手に問うことはできない。ただ、そこに友人としての思いやりがないことは明白である。
立ち上がるため脳が両足へ命令を流すが、しゃがんだ際に一度折り曲がった膝は早々伸びてはくれず、太ももとふくらはぎはいつまでもくっついたまま。まるで磁石のように離れようとはしない。それは隣の平井君も同じなようで、彼もまた膝を叩いて痛覚へ訴えるが、返事は帰ってこないようだった。
「——二人とも、動いちゃダメだよ」
「ぇ、ちょ、ちょっと」
「おい、マジかよ。くっそ……」
だが一人、少女だけは例外だった。
両足の裏をしっかり地につけ、しゃがんでいた膝をまっすぐ伸ばし、毅然とした態度で狼と対峙している。まるでアニメの主人公。圧倒的な悪に対して正面から立ち向かう、最終回目前のラストバトル前のような光景。
隣にいる高校生二人がこんなで、正当な獣人コスプレの少女がこれほど勇ましい姿を見せている。どこまでも情けない構図である。
「待て」
少女が言った。振り向くとそこには、月の明かりに全身を照らし、今にもこちらに飛びかかってきそうな餓狼の姿だった。牙を歯ぐきから惜しげもなく見せ、よだれをとんでもない量垂らしている。確実に私達を獲物として見ているのだ。
——もうそこに、美里の意志はない——
心の中に無理矢理ねじ込まれたその現実は、私の中に残っていた僅かな希望を食い殺した。
「行け」
また少女が言った。すると、餓狼はこちらに対して人吠えした後、驚異的な跳躍力を持って近くの茂みに飛び込み、ガサガサと音を立てながら再び闇夜に消えた。
「は、はぁ……」
「お、おい。あれ、どういうことなんだよ……」
身体中の筋肉を締めつけていた緊張と恐怖が解け、私と平井君は尻もちをついて大きく息を吐いた。
「お姉ちゃん大丈夫? あと、お兄ちゃんも」
少女が手を伸ばし、高校生二人はその恩恵にあやかり、ようやく立ち上がることができた。何から何まで彼女に助けられっぱなしな自分が、そろそろ嫌いになりそうだ。
とりあえずだが平穏を取り戻したこの状況で、まず考えが回るのは——
「——あれ、美里だよね?」
「ああ、そうだ」
真っ先に応えたのは平井君。そして私は、彼が私達と合流した直後の発言を思い出した。
「ねぇ、あの時に言ってた『頑張って言った』って……」
「…………そうだよ。告白したんだよ」
なんてことだ。『ヒューヒュー! さっすが野球部! やっぱり決める時は決めるんだね!』と煽ってやろうと思っていた瞬間が、まさか命の危険を感じるタイミングと重なってしまったなんて。平井君の努力に結果が見合っていなさ過ぎる。
「好きって伝えたの?」
間髪入れず、少女が質問を投げる。平井君はその単刀直入な問いに意表を突かれたものの、恥ずかしさからかやや起こり気味に「そうだよ!」と返した。
「なるほど。面と向かって『好き』って言われたら、確かに自分を忘れちゃうくらいびっくりしちゃうかもしれないね」
なるほど。つまり美里は、平井君からの告白によって薬の効力に囚われてしまい、あの餓狼へと人格が変わってしまったのだ。
どうすればいい。あんな身体能力を持たれたら、私達だけでは手が負えない。もしこのまま騒動が大きくなって、猟友会のおじさん達が出動することになったら……そこにあるのは高校最後の思い出ではなく、これから一生つきまとう『友人殺し』の業だ。今までの思い出すら思い出したくなくなってしまう、永久不滅の罪だ。
「ねぇお願い! 美里を元に戻す方法を教えて! このままじゃ美里が……美里が死んじゃうかもしれない!」
自分に降りかかる罪が怖いわけではない。俺だけは神様仏様に誓っていえることだ。ただ私には、大好きな親友がこのまま人として葬られない可能性を見過ごしたくない、ただその一心で、どこまでも情けない自分を棚に上げてまで少女にすがった。
少女は私の目を見つめ、恋しかった静寂を僅かな間だけ復活させると、にこっと優しく笑って言った。
「大丈夫。お姉ちゃんが思ってるほど、この状況は悪くないよ」
「ほ、本当に⁉」
「うん。簡単な話だよ。あの狼お姉ちゃんがびっくりして人格が変わったんなら、もう一度びっくりさせればいいの。そして、そのびっくりさせる手段もあるでしょ?」
視線が私から、平井君の方へと移る。アイコンタクトの意味を察したのか、平井君は顔周りの崩れた包帯を外し
「あぁ。やってやる。もう一度正面から当たって砕けろってんだろ! こんなん夏場の練習の方が数倍きついぜ!」
と、自らの決意を高らかに語った。
「でも、あんな素早く動く美里をどうやって捕まえるの?」
「そこはお姉ちゃんの役目だよ。お姉ちゃんが止めるんだよ」
その言葉ではっとした。そうだ。この状況で唯一、理性を持ちながら美里と互角に動けるかもしれない存在がいたではないか——私という、もう一匹の狼が。
さっき逃げていった人の中に、同じ狼人間は見えなかった。私は今日ずっと驚きっぱなしなのでまだ変身していられるが、きっと他の人はもう解けてしまったのだと思う。つまり戦力は、私だけということだ。
「やれそう?」
「うん。やれる」
愚問だ。こんなの即答に決まってる。何としてでも私が美里を捕まえて、平井君が告白できる時間を稼ぐ。稼いで見せる。
「じゃあ作戦を教えて。え、ええっと……ごめん、君名前は?」
ここに来て、やっと私は少女の名前を問う。
「う~ん、そうだねぇ……じゃあコン! 私のことは、コンって呼んで!」
すると少女は、まるで私達に微かな癒しを届けるかのように、無邪気な笑顔を見せながら、そう名乗ったのだった。
あれほど清々しい夜風は極寒の冷風へと変わり、それは体毛の壁を突き破って肌を刺す。迫りくる緊張と強くなる心臓の鼓動が肩を震わせる。そんな状況の中、餓狼が立て籠もったと思われるこの町唯一の自然地帯——裏山の茂みに隠れる私は、さながら塹壕に身を潜め、敵軍との接敵を待ちわびる兵士である。
だがそんな塹壕にも花は咲くようで、私の隣には今なおコスプレのクオリティを全く落とさない少女——コンちゃんが、身を低くして辺りを見回していた。茂みに手を置き、きょろきょろと目線を動かすその光景は、スフィンクスとミーアキャットの融合だ。可愛くないわけがない。
「ねぇ、コンちゃん」
少しでも凝り固まっていく気持ちを和らげるため、私はコンちゃんの声を耳に贈るため、声をかけた。
「何? お姉ちゃん」
「この薬のラベルってさ、いつも知らない間に文章が追加されてたりしたんだけど、これもしかけの一つなの?」
「うん。そうだよ」
コンちゃんはよどみなく答えた。
「その薬はね、人と動物が今よりもずっと仲良くなれるように作られたものなの。でも人って、知らないものを怖がるでしょ? だから安心してもらうために、ビンを握った人の心配事を読み取って、それを払拭するような文章が書かれるようにしたの」
「そ、そうなんだぁ……だから……」
全て合点がいった。私が薬に対して疑念を抱いていた時。薬による全身の苦痛を案じ、美里に進めるかどうか迷った時。ラベルの文章が追加されたタイミングは、いつも私が何か疑問や懸念を持った時だった。
「握った人の心を読むなんて、そんな凄い技術だね! それっていつ——」
「——しぃぃぃ! 来たよ」
コンちゃんの人差し指に当たる爪が口元に当てられたことで、私は再び非現実的な現実に引き戻されることになる。
目の前に広がる裏山唯一の平野。滑り台やシーソーといった遊び場でもあるこの場所は、昼間なら子連れの母親達が一挙に参集し、夫と子育ての愚痴を漏らす悲惨な大会が繰り広げられる。だがイベント直後の夜には誰一人として人は来ず、廃墟のような虚しい姿を晒すのみ。公園とは遊具だけでなく、子供と親と愚痴が揃ってはじめて成立するものだと、私は痛感した。
——だがそこに、輝く二つの光が現れ、その光の持ち主は周囲を警戒しながらゆっくりと中央へ進み、全身に月華の光明を浴びながら遠吠えをかました。
漆黒の餓狼こと美里である。あれから複数の目撃情報が出ていながらも、その素早い動きによって捕まることはなく、この近辺に狼が住んでいる事実がないことと、ハロウィンパーティーと被ったことから、目撃情報は仮装した人間を見間違えたものだと判断された。そのおかげで、美里は今も元気に生きている。
ここが、決着の戦場だ。
「じゃあ……行ってくる」
「頑張って。お姉ちゃん」
決意表明と背中を押す激励がほぼ同時に行われ、私は茂みから颯爽と姿を見せた。
「————————」
鮮やかな月の灯が照らす戦場に、白と黒の相反する狼が対峙する。その対立は何も毛並みだけではなく、お互いが持ってきた戦いに向ける精神そのものが大きく異なっていた。
私はあくまで、目の前の餓狼を美里に戻すための戦いであり、きっとどんなに理性を捨ててここに来ようとも、必ずどこかに友人としての情が残るはずだ。現に今も私の体勢は二足歩行であり、狼としての闘魂はない。
だが一方で、餓狼の目はこれまで以上に鋭く変化し、こちらを理解し合える相手ではなく、相容れない敵として認識している。公民館で見た獲物を見るような視線が一変、こちらに戦う意志があることを見越し、命を削り合う獣としての闘魂を燃やしている。
『負けない……負けない……』
一歩、前に進む。餓狼が毛を逆立出せて威嚇体勢に入るが、私は足を止めない。喉を震わせて明確な敵意を見せてくるが、それでも止めない。もう止められないのだ。
そうして二歩目を踏み出したその時——
「——グゥゥゥガァァァァ!」
餓狼が、今まで聞いたこともないおぞましい声を張り上げて飛び上がった。大喰らいの口を最大限まで開き、殺意の結晶たる牙を惜しみなく外界に突き出し、一瞬にしてこちらに間合いを詰め、私の左肩に全力で噛みついた。
「ぐぅぅぅ!」
筆舌し難い激痛が走ると同時に、牙の突き刺さった箇所から鮮血が飛び出す。それは私の純白の体毛を真っ赤に塗り替えていき、餓狼の体毛も錆びた鉄が見せる赤茶色に変色。だがそんなこと意に介さず、餓狼は肩に噛みついたまま、全身をスクリューのように回転させようと身体を捻り始める。
肉を引きちぎるつもりなのだ。こちらに致命傷を作り、苦しみ悶えるところで喉笛に食らいつき、私の息の根を止める作戦なのだ。
本当に容赦がない。これが生の執念に満ち満ちた獣の強さ。思いやりも気遣いも情状酌量の余地も一切ない、暴力と殺意によって支配された生存本能。
——だが、私にだって武器はある。
「ぐぅぅ……がぁぁぁぁぁ!」
突き出した爪を餓狼の腰元に突き刺し、回転を無理矢理に止める。そして人を捨てた精神の宿る気倍に対して、こちらは人としての尊厳、さらに友人への改心の思いを乗せた牙を、餓狼の左肩に突き立てた。
「ガァ! グゥゥアァァ!」
腰元、そしてまた同じく左肩から飛び出す鮮血。こちらはもう自分の血で汚れ切っているので問題はない。ただひたすらに、この傍若無人な獣が理性ある人に戻ってくれることを祈りながら、必死に振り払われぬよう食らいつくだけだ。
両雄はお互いに同じ体制でしがみついたまま、樽のように辺りを転がり回る。公園にあちこちに赤血球塊が飛び散り、血痕によるグラデーションが出来上がっていく。だが私も餓狼も力尽きることはなく、互いの本能と心情を乗せて突き刺した牙は、強く打ち込まれた杭の如く深く入り込み、そう簡単には抜けなかった。
——しかし、これは私の優勢であった。
餓狼は私の命を狙っている。命を奪うには私を行動不能にするまで追い詰め、この喉元の肉を食い破らなければならない。対して私はあくまで囮。こちらの本命は、敵が一瞬でも隙を見せたその瞬間に叩き込む奇襲攻撃であり、今の状態のまま短期決戦で押し込むことができれば、賞賛は十分にある。
だから一瞬でも、ほんの一瞬でも餓狼の暴走を止める。あとはその奇襲の一手を握っている仲間に、全てを委ねるしかない。
『負っけるかぁぁぁぁぁ————!』
私は最後の力を振り絞り、さらに深く、強く牙を差し込む。同時に腰元に差し込んでいた両手の爪を抜き、その余力を裏側——尻尾へ向けた。
「グゥ!」
深く差し込まれた牙による新たな境地の痛みは、一瞬であったが餓狼の動きを鈍らせることに成功。その間に、私の手は敵の尻尾を掴み、そのまま引っこ抜くかのような勢いで、全身全霊を持って引っ張った。
「キャウゥゥゥゥンン」
すると、先程まで勇ましく恐ろしかった餓狼が口を離し、素っ頓狂な声を漏らして力を失う。いくら血に飢えた蛮族の獣といえども、弱点は大人しい犬と同様の部位だったようだ。
——そして、このホイッスルに似た鳴き声が合図となり、一撃必殺の奇襲が敢行された。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉ————!」
けたたましい咆哮と共に別角度の茂みから、時代と地域を超えてミイラが出現。その朽ち果てたはずの肉体を動かし、尻尾への強襲でへなへなになっている餓狼の背後を取る。
そして餓狼の顔を両手で優しく掴んでぐいっと横に逸らすと——
「————」
熱い、熱い、どこまでも純情なキスを施した。
「グゥァ……がァ……んっ」
私は驚きのあまり絶句した。餓狼のたくましい肉体が、空気の抜ける風船のように、みるみるしぼんでいく。同時に全身を覆っていた体毛が抜け落ちていき、伸びていた尻尾が尻の尾てい骨に集約される。
もはや暴れる様子もなく、光り輝いていた両目はその輝きを失い、自分自身では光ることのできない、人の目へと戻ったことで、
「……ひ、平井、君?」
ついに美里の肉体は、美里自身を取り戻したのだった。
5
——あの激闘から数分。私は公園の広場から少し離れた場所のベンチに座り、やっと心地良く感じることができるようになった夜の冷風を受けながら、未だに変身が解けないことに少々苛立ちを募らせ始めていた。
「お姉ちゃん。イライラしちゃったら、また変身時間長引いちゃうよ? 冷静に」
「わかってるけどさぁ…………あんな凄い光景目の前で見せつけられたら、すぐに大人しくなれないってぇ……」
私が言っているのは、あの日焼け真っ黒ミイラと、ムキムキ狼女のイチャラブシーンのことである。最初からあのやり方で行くことは教えてもらっていたので、覚悟しておけばよかったのだと言われればそれまでだが、私だって年頃の女子高生だ。誰でもいいというわけではないが、キスの一回や二回してみたいものである。僻むのだって、羨ましくなるのだって、恥ずかしくなるのだって許してもらいたい。
あの戦場となった広場から離れたのも、平井君と美里が頑張って仲を深めているからである。もうそろそろ顔を赤らめてこちらに歩いてくる頃だろう。早くこの熱を冷まさなくては。
隣にはコンちゃんが、雄大な空の景色を見上げている。この地域は街灯が町と比べて圧倒的に少なく、家のベランダからでは決して見えない、プラネタリウム顔負けの星空を眺めることができる。個人的な優良スポットだ。
「ねぇ、コンちゃん」
その無邪気な笑顔を自分にも向けて欲しくなった私は、横から話しかけてみることにした。
「何? お姉ちゃん」
「薬、勝手に使ってごめんね。そしてありがとう。美里を元に戻すの、手伝ってくれて」
「……ううん。楽しかったよ」
コンちゃんが笑う。私の方を見て笑ってくれる。あ~癒される。やっぱり彼氏なんていてもいなくてもいいや。この笑顔があれば恋愛経験ゼロでも全く怖くない。
「じゃあ私行くね」
コンちゃんがぴょんとベンチを飛び降りる。
「夜も暗いからおうちまで送って行くよ」
「ううん、いいの。ここからおうち近いし、ばれたくないし」
防犯教育が行き届き過ぎていることに感心しながらも、なんだかんだでついて行こうとベンチを降りたその時、
「今度はこの姿じゃなくて、本当の姿で出てくるね。お姉ちゃん、本当の姿のままでも、仲良くしてもらえそうだから」
「え?」
奇妙なその発言に驚いて視線を向けると、すぐ隣にいたはずのコンちゃんの姿が、綺麗さっぱりなくなっていた。
瞬間、背後の茂みにガサガサという音が流れ、私はさらに身体を捻り、背後を向く。
「ぁ————」
見えたのはほんの僅かな時間。人の瞬き程度の、本当に一瞬。
しかし、私は今確かに、茂みから突き出た黄色い毛の尻尾を見た。間違いなく、コンちゃんが消えた茂みのところから突き出た、星のような輝きを放つ尻尾を。
「……え…………」
硬直していると、身体が音を立てて変化を始め、私は人の姿にあっさりと戻る。身体に痛みは走らなかった。
ポケットの違和感がないことに気づいた私は、視線を茂みに向けたままポケットを叩く。が、そこにあるはずの膨らみ——薬のビンはない。落とした記憶はない。ならどこに——
「————」
遠くから足音が聞こえてくる。きっとあの新星カップルのものだ。どうやら話に折り合いをつけて、ようやく戻って来たらしい。
こうして外部からの干渉が続いた結果、私はようやく硬直から解き放たれ、二人と同じように、目の前の現象に折り合いをつけた。
あの子はきっと…………いや、言う必要はないか。
「ありがと。次に会うのは……来年の今頃かな」
私は踵を返し、二人の放つ足音の方へ向かった。