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    shinashi_natuka

    @shinashi_natuka

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    shinashi_natuka

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    けおし設定の健つば。

    中間試験勉強とかで疲れ果てたツバサちゃんを、ケントさんが反対方向の電車に乗せて一緒にズル休みする話。

    反対方向の休息何となく、疲れた。
    何となく、何もやりたくない。
    そう思う原因は、試験が終わって気が抜けたからだろうか。それとも、三〇度をも超える真夏日が続いて夏バテしているからだろうか。そのどっちもな気がしてならない。
    朝起きるのが辛くて、それでも頑張って通学する準備をして。重い体に鞭打って、朝早い時間にも関わらず既に暑くなっている通学路を歩いて、最寄りの駅へ。
    (人、多いな……)
    夏休み前の学生や、夏休みも何もなくなってしまった社会人。通勤通学ラッシュの時間帯は、いつものように人でごった返している。
    仲良さそうに話す高校生達、一人イヤホンで何かを聞いている大学生、スマホをいじる社会人。外から聞こえる都会の喧騒と、駅構内に流れるアナウンスと。耳のいいツバサにとっては、不快なノイズでしかない。いつもなら平気なのに、心身共に疲弊している今は何となくその人混みの中へ入っていくことが億劫に思えて。でも。そんな満員電車に乗るしかないのだ、今は。
    (学校……行きたくないなぁ……)
    何となく、そう思う。誰かと喧嘩したとか、嫌なことがあったとか、怒られてしまったとか、そういう何かがあったわけでもない。ただ本当に、何もないけど行きたくないなんて。
    そんなふうに思いながら、ホームの椅子に座ったままでいること数分。
    「間もなく、一番線に‪✕‬‪✕‬行きが参ります」
    乗る予定だったものよりも数本後の電車が到着する構内アナウンスが聞こえたものの、偶然座れた椅子から立ち上がりたくはない。
    行かなきゃ、なんて言うのはわかっている。わかっているから億劫で。抱えていた鞄に顔を埋める。
    「ツバサ……?」
    名前を呼ばれた気がして、すぐに顔を上げた。
    「ぁ……ケント、さん」
    目の前に、先輩で数ヶ月前に恋人となったケントが立っていて。心配そうに、顔を覗き込んでくる。
    普段はツバサよりも遅く学校に着く彼がここにいるということは、結構な時間ホームでだらりとしていたことになることに気がついて。
    「大丈夫? 顔色悪いけど……体調悪い?」
    「え、と……」
    大丈夫です、という言葉は咄嗟に出すことができない。思わず彼の制服の裾を握ったと同時に、電車がホームに入ってくる。
    「……行きましょう?」
    彼の服を握った手はそのままに立ち上がって、しかし目に入った電車の中と扉の前に並ぶ列に目眩がして、足がすくんだ。
    「……ツバサ」
    「っ……」
    優しい手が肩に乗って、優しい声が名前を呼んで、優しい笑顔が自分を見て。ツバサの足から力が抜け、椅子の上に崩れる。
    「……すみません、少し…………今日は、学校に行きたくないなぁ……なんて……」
    なんて冗談めかしているけれど。〝大丈夫です〟とは、とても言えるような状態でないことは自覚しているし、きっと誤魔化そうとしても無駄だろう。電車が来たことによって空いた隣の椅子に、ケントが座った気配がした。
    「何かあった?」
    「いえ……ただ、考えてみれば……中間試験もありましたし、部活動とか委員会とかも……ここ最近忙しかったので」
    「頑張り過ぎちゃったんだね。ツバサは、心配になるくらい真面目だから」
    頭を撫でてくれるその手が心地よくて、彼の肩に寄りかかる。それを拒まず受け入れてくれるものだから、余計に甘えたくなって。
    「あとは……最近、いきなり暑くなってきてしまったので……」
    「わかる……それに、クーラーが効いた室内とも気温差がありすぎてさ」
    「そうなんです。余計、体がついていけなくて……」
    色々なことに体がついていけなくて、キャパシティが大幅にオーバーしてしまった。
    「すみません、付き合わせてしまって……ケントさんも遅れてしまいますね……」
    ツバサもツバサで朝は少し余裕が持てるように登校しているけれど、話している間に時間は過ぎていく。
    「先に行ってください」
    「……ツバサはどうするの?」
    「私は……もう少しここでゆっくりしようかなって」
    何となく、今日は遅刻してしまった方が気持ちが晴れるかもしれない、なんて。ここで休んでいたところで、今までの疲れが取れるかと言われたら微妙だけれど。そんな非行に、ケントを巻き込むわけにはいかない。
    「本当に真面目だよね、ツバサは」
    「です、かね……」
    本当に真面目だったら、わざと遅刻しようとするなんてことしないだろうに。
    「間もなく、二番線に○○行きが参ります」
    電子音と共に構内アナウンスが流れ始める。反対行きの電車だけれど。でも。
    「行こっか」
    「へっ……」
    ケントは椅子から立ち上がり、ツバサの手を引いた。
    「け、ケントさん……!? そっちは、逆方向で───」
    「うん。だから、ね? 行こう、ツバサ」
    手を引く強い力に思わず立ち上がり、そのまま彼に引っ張られる形で反対方向の電車に飛び乗る。ツバサの体や荷物が完全に電車内に入ったところで、扉が完全にしまって走り出す。駆け込み乗車は危険ですのでおやめください、なんて車内アナウンスはきっと自分達に向けられたものだろう。
    「あ、あの……」
    「ごめんね。こっちも少し満員だけど、向こうほどじゃないから」
    「えっ……は、はぁ……」
    そういうことじゃないんだけどな、なんて思いながら学校とは反対方向に走り出した車内を見る。確かに混雑してはいるものの、東京の中心地に向かう電車よりはいささか空いているようだ。
    「ツバサ、今学期入ってから学校休んだ?」
    「い、いえ……一度も……」
    電車が遅延した日を除けば、無遅刻無欠席だったはずで。
    「じゃあ大丈夫。うち、欠席の連絡はメールでもよかったはずだから、風邪引いたって送っておけばキミなら大丈夫だよ」
    「そう、ですか……」
    彼が言うなら大丈夫だろう、多分。でも、流れる景色に不安を感じているのも確かで。
    「ズル休みは初めて?」
    「初めてです……思い付きもしなかったから……」
    高校生どころか小中学生の頃もしたことは、なかった……と、思う。
    話している間にも駅に着いて、しかしケントが降りようとする素振りは見せない。扉が閉まって、再び電車が走り出す。電車が走れば走るほど、予鈴に間に合わなくなっていって。
    だからツバサは、諦めてスマホを取り出した。遅刻・欠席用のアドレスへ、『本日、体調不良のため欠席させていただきます』なんて嘘の文字列は案外あっさりと送ることができて。送れば少しだけ、気分が軽くなった気はする。
    「行く宛てはあるんですか?」
    「んー、考え中」
    笑いながら、ケントもメールを送り終えたらしくスマホを胸ポケットへとしまった。
    「体調は大丈夫? 疲れたら俺に寄りかかっていいから。無理そうなら素直に言って?」
    「は、はい……」
    何となく、気付いてはいる。東京に向かう電車より少ないとはいえ、人と人との距離が近い満員電車の中のドア側で、彼が自分の盾になってくれていることくらい。一番隅にいるツバサの周りだけが、ケントによって窮屈にならないくらいの隙間が空いていることくらい。
    お礼を言えばきっとはぐらかされてしまうから。だからわざと、彼に寄りかかって額をその制服に埋めてみる。
    「辛い……?」
    心配そうに聞いてくれる彼の優しさが嬉しくて、ついつい笑ってしまう。
    「いいえ……私、ケントさんにだったらくっついても平気なので……」
    むしろ、安心するのだ。体温とか、匂いとか、聞こえてくる鼓動とか。何もかもが心地よくて、彼とだけはこんな満員電車の中でくっついていても落ち着ける。
    「そ……っか。じゃあ、こうしていようか」
    体勢の関係から、ケントの表情まではわからない。けれど、その嬉しさを堪え切れていない声と背中に回ってきた腕に、彼が照れているのが伝わってきて。だからなおのこと嬉しくなる。
    そのまま一駅二駅と過ぎていって、ついには予鈴が鳴る時間。メールを送ったあととはいえ、これで完全にズル休み決定だ。東京から遠ざかり、隣県まで多少はまた空いてくる。
    そんなこんなで、三〇分以上。その間にいくつもの駅を通り過ぎ、気が付けばその電車の終点まで来てしまった。
    人が降りるに従って、空間ができてくる車内。やがてケントの体も離れてしまうけれど、その代わりに今度は手が繋がれた。
    クーラーの効いた車内から出れば、外には湿度と温度の高い空気が広がっていて。
    「気分は大丈夫?」
    「そうですね……さっきよりは大丈夫です」
    まだ疲れてはいるけれど、朝よりは少し気分がよくなってきてはいた。よかった、と笑うケントは優しくツバサの手を引いて。
    「行き先は決まりました?」
    「うん、漠然とだけどね。だから、ちょっとこの駅で準備しようか」
    「準備……?」
    何のかはわからない。本当に突発的に連れ出されてしまったから、全部彼に頼るしかなくて。だから、彼が行く後を大人しく手を引かれながらついていく。
    改札内のドラッグストアでジップロックを、コンビニで軽めのお菓子とお茶と、それとエコバッグ。首を傾げていれば、コンビニを出たところでケントがジップロックを一枚ツバサへと差し出してきた。
    「これに財布とかスマホとか入れて?」
    「これに……ですか?」
    思わず受け取ってしまったものの、その必要性がわからなくて思わず首を傾げてしまう。
    「これから遊びに行くっていうのに、教科書とかノートとかの勉強道具が入ったスクールバッグなんて邪魔でしかないからね。だから、必要なもの以外はコインロッカーに預けていこうかなって」
    「なるほど……」
    言われてみれば納得だ。荷物が重くなってしまうから、教科書やワークのほとんどは学校に置いてあるけれど。それでも、家で課題をやるのに必要なものは持って帰っているから、それなりの荷物になってしまう。確かに、そんなスクールバッグは邪魔にしかならない。
    渡されたジップロックにスマホと財布と鍵類を入れて、あとはブラシやリップクリーム等が入ったポーチをエコバッグに入れてもらう。これで準備万端だろう。
    小さなコインロッカーに詰められた二つのスクールバッグは、少し窮屈そうだ。
    「じゃあ、もう少しで乗る予定の電車が着くはずだからいこうか」
    「あ……は、はい」
    偶然なのかもしれないし、ケントが丁度いい時間になるように買い物中時間調整をしていたのかもしれない。ただ、一時間に二本ほどしかない電車がホームに停車していて、二人が乗り込んで数分後に発車したのは確かだ。
    大体の高校の登校時間を過ぎたからだろうか。相も変わらず社会人で全て席は埋まってしまって、またドアの傍に立つことになってしまったけれど、だからといって東京に向かう電車よりは混んでいない。
    「今は少し混んでいるけど、すぐに空いてくるはずだから」
    「そう、なんですね?」
    自然と背中に手が回され、彼に体を支えてもらいながらも乗り慣れない電車の車内や窓の外を見る。なかなか落ち着くことができずにそわそわとしながらもケントに掴まっていれば、確かに一駅二駅と過ぎる内に席はどんどんと空いていって。二〇分もしないうちに二人が並んで座ることができるどころか、乗客もちらほらとしかいなくなっていた。
    長椅子の端に並んで座れば、窓の向こうに都会の喧騒とはかけ離れたのどかな風景が広がっているのが見えて。最寄りの駅から一時間程しか経っていないような気もするけれど、ついつい見上げてしまうものが高いビルから生い茂る木々に変わってしまった。
    静かな車内と、窓の向こうに広がるゆったりとした緑と、談笑中の心地がいいケントの声。色々と重なって、だんだんと瞼が重くなってくる。
    「ふぁ……」
    自然とあくびが出てしまって。
    「眠い?」
    「そ、ですね……少し……」
    少しどころではないけれど。彼も気付いているのだろう。頭に添えられた手が、ゆっくりとツバサの体を引き倒して自分の体に寄りかからせた。
    「参考までに聞くけど……昨日は何時に寝たの?」
    「試験の、自己採点をしていて……気が付いたら……日付は越えてしまっていたような……」
    眠気の中で答えれば、隣でケントが困ったように笑って。
    「疲労と夏バテと、寝不足も重なっちゃったのかもね。それは、〝学校行きたくない〟って体の方もストップかけるよ。ツバサは頑張り過ぎ」
    「そう……ですかね……」
    そうなのかもしれない。多分。
    眠ってしまわないように耐えるけれど、頭を撫でるケントの手がそうさせてはくれなて。
    「目的地まで、まだまだ時間がかかるんだ。だから、このまま寝ちゃっていいよ」
    そんなことを優しい声音で囁かれるから、ついに眠気に耐えられなくて完全に瞼を下ろした。

    ~*~*~*~

    ガタンゴトンと、規則正しい電車の走行音が聞こえてきてゆっくりと目を開ける。ぼんやりとして一瞬ここがどこだかわからなかったけれど、向かいの窓から見える景色がここは東京ではないことを教えてくれて。見回せば、電子掲示板には聞いたことがない駅の名前が表示されていた。
    「起きた?」
    「は、い……」
    返事をした声は、寝起きのせいか掠れていて。
    学校は……そうだ。サボってしまったのだった。
    電車が止まり、扉が開く。外からは、ミンミンゼミやアブラゼミの鳴き声が聞こえてきて。しかしケントは、降りようとしない。
    「どこまで乗ります?」
    「終点まで。それからローカル電車には乗るけどね。あと二〇分くらいかな」
    「二〇分……」
    どのくらい眠っていたのかわからないけれど、あれから少し時間経っていることだけはわかって。スマホを取り出そうとスクールバッグに手を伸ばして……しかし、そこにそれはなかった。
    (駅に置いてきたんだっけ……)
    通りで身軽なわけだ。
    「スマホ?」
    何もないところに手を伸ばしたツバサに何かを察して、ケントは膝に乗せていたエコバッグから彼女の荷物が入ったジップロックを取り出す。
    「あ、いえ……あの……どのくらいの時間眠っていたのかなと……」
    「一時間いくかいかないかくらいかな? 疲れてたんだね。ぐっすり眠ってたよ」
    「そんなに……」
    一〇分くらいの仮眠のつもりが、結構な時間眠ってしまっていたらしい。
    「すみません、退屈させてしまって……」
    「ん? ううん、大丈夫だよ。俺も少しウトウトしていたし、ツバサの寝顔も堪能できたしね?」
    「……もう」
    ケントのこういうところには、相も変わらず慣れることはできない。拗ねたふうに彼から顔を逸らせば、ごめんごめんと悪びれもない謝罪が返ってきた。
    「体調は大丈夫?」
    「はい、眠ったのでだいぶん良くなりました」
    「ならよかった。でも、辛くなったら無理しないで言うんだよ?」
    「わ……わかり、ました」
    どうやら、今日の彼は輪をかけて心配性らしい。この小旅行……という名のズル休みのきっかけがきっかけだから、仕方ないとは思うけれど。
    だからそっと、彼の膝の上に乗っていた手に自分の手を重ねてみる。
    「どうしたの?」
    「いえ、ただ……こうする方がケントさんも安心できるかな、と……」
    普段なら恥ずかしくてできないけれど。ただ何となく、今はこうした方がいい気がして。少しだけ積極的になれるのは、乗っている車両に二人しかいないからだろうか。
    頭に少し、ケントの頭の重みが加わった。
    「ふふっ……そうだね。いつもみたいに無理して『大丈夫』って言われるより、こうやって甘えてくれた方が嬉しいかな」
    「……私って、そんな無理してるように見えます……?」
    確かに、何度も心配されるようなことはあったけれど。「大丈夫です」と答えたのは、本当に大丈夫だと思っていたからで。でも、そうは見えなかったらしい。
    「〝ように見える〟じゃなくて、実際無理してるんだよ。だからこうやって、体の方が先に限界迎えちゃったんでしょ? だからこれからは、ちゃんと自覚して気を付けること」
    「う……そ、そうですね……」
    何も言えなくなってしまうのは、最寄り駅でのことがあるからだろうか。あそこまで辛いと感じたのは今日が初めてで、ようやく頑張りすぎたのだと自覚して。
    「ん。じゃあ、約束」
    「えっ……!?」
    彼の手に重ねていた手が掬い上げられ、その小指の付け根に唇が押し当てられた。ちゅ、と軽いリップ音が鳴る。
    「約束を破ったら……またこうやって、連れ出してズル休みさせちゃうかも」
    「そ、それは……」
    頻繁には困ってしまうけれど、しかしだからといって罰にはならない気がして。喜んでいいのか、それとも嫌がった方がいいのかわからない。
    困惑したような返事になってしまったけれど、しかし言葉に乗せられなかった感情は全部顔に出てしまっていたらしい。ケントが、可笑しそうに笑った。
    「こういうリフレッシュを兼ねたズル休みデートもいいけど、俺はキミには身も心も健康でいてほしいな」
    「あ……そ、そうですよね」
    確かに、言われてみれば……というか、そう思うのは当たり前というか。ツバサだって、ケントには健康でいてほしいと思っている。
    「わかってくれた?」
    「は、はい……!」
    頷けば、彼は嬉しそうに笑って。
    「次は□□、□□。終点です」
    そのタイミングで、丁度そんな車内アナウンスが流れた。窓の向こうに見える景色は、先程までの自然溢れるものとは違って整備された、だからといって都会ではないやっぱりのどかな街並みになっている。
    「海……ですか?」
    市町村や駅名までの事細かな地理は詳しくないけれど、しかしその地名で真っ先に思い起こされるのは〝海〟という単語で。
    「そう、海。東京にも海はあるけど……こっちの方が、誰にもバレないで遊べるでしょ?」
    最寄り駅から約二時間かかる海。確かに、学校関係者はいなさそうだ。そういう面でも、ケントは気を使ってくれたのかもしれない。
    電車は終点の駅に停車して。そして、扉が開いた。
    「じゃあ、行こう」
    「はい……!」
    色々なものから一時的に逃げ出して身軽になった二人は、手を繋ぎながら長い間乗っていた電車を降りる。

    ~*~*~*~


    夏休みがまだ始まっていないからだろうか。それとも、東京から二時間以上かかる場所だからだろうか。それとも、東京にはまた別のアクセスのいい海水浴場があるからだろうか。
    なんにせよ、券売機すら無いローカル電車の乗客はケントとツバサを含めて数人。暑い夏にしては、のんびりとした雰囲気だ。
    そんなのんびりとしたローカル電車へ乗り継いで数分、目的地らしい駅で降りた。改札すら無い本当に小さな無人駅は、年季が入っていて随分歴史があるものだとわかる。
    「ちょっと待って、ツバサ」
    「は、はい、なんですか?」
    駅舎から出ようとしていたツバサの手を、ケントが引いて引き止めた。振り向けば、彼の反対側の手に日焼け止めのチューブがあって。
    「一応日傘は持ってきたけど、日焼け止めは塗った方がいいでしょ?」
    「あ……そういえば、そうですね……」
    駅舎の外は、まだ午前中だと言うのに日差しがさんさんと降り注いでいる。植えられた向日葵と、遠くに見える入道雲と、聞こえてくる蝉の声も相まって、まさに夏真っ盛りといった感じだ。この日差しは、確かに日傘だけでは防ぎきれないだろう。
    「おいで、ツバサ。塗ってあげる」
    「えっ……」
    小さな待合室に引き込まれ、その長い木製ベンチの端に座らされて。ツバサの前に膝をついたケントは、彼女の手を取って夏用の制服から伸びるその右腕に日焼け止めを塗っていく。
    「腕、凝ってる。この分じゃ肩も凝ってるでしょ? ここ数日、本当に試験勉強ばっかりしていたんだ?」
    「そう、ですね……結構……」
    毎日夜遅くまでやってしまった気がする。
    「頑張らなすぎもダメだけど、頑張りすぎもダメだよ? って……今日はお説教してばっかりだね」
    笑いながら、腕を滑るケントの手は日焼け止めを塗るにしてはほんの少し力が入っていて。ほんの僅かに入れられた指での指圧は、凝り固まった体にはよく効いた。
    「気持ちいい?」
    「はい……疲れ、全部吹っ飛んじゃいそうです」
    「それならよかった」
    初めからそのつもりだったのか、それとも日焼け止めを塗り始めてから気が付いたのか。気が付けば、日焼け止めを塗るよりも凝り固まった腕の筋肉をマッサージする方がメインになってしまっていた。
    右腕が終わったら、今度は左腕。
    「日焼けしちゃったら、後が大変だからね」
    なんて言いながら、ツバサの白い腕に念入りに日焼け止めを塗り込んで。それに並行して、腕に溜まった疲れも取られていく。
    「あとで、肩もマッサージしてあげようか?」
    「それは嬉しいですけど……何だか、何でもかんでもやっていただけて申し訳ないです……」
    いつも彼に頼りっぱなしではあるけれど、今日は特にそう思ってしまって。
    ふふ、と笑うケントの手が腕を離れ、適量の日焼け止めを取った後でツバサの頬に添えられた。
    「俺がやりたいから、こうしてるんだよ」
    「け、けんひょひゃ」
    みょんと、痛くない力で頬が左右に引っ張られる。自分が今どんな顔をしているかわからないけれど、ケントが可笑しそうに笑っているから多分変な顔になっているのだろう。
    「だから今日は、遠慮も無理もしないで俺に甘えること。わかった?」
    「わ、わか、わかひまひひゃひゃらッ……!」
    さすがに……自分では見ることはできないけれど……この顔は恥ずかしい。必死で何度も頷けば、彼はまた面白そうに笑ってようやく頬から指を離す。
    「ん、わかればいいんだよ」
    「んみゅ……!?」
    指は離れたけれど、今度はたぽたぽと彼の手が頬を弄び始めた。日焼け止めを塗っている、というのはわかるのだけれど。
    「とにかく今日は〝申し訳ない〟とか〝心苦しい〟とか思わないで、大人しく俺に甘えさせられて」
    「ひゃ、ひゃい……んっ……!?」
    両頬を包まれたまま顔が引き寄せられ、ケントの顔が近付いた。二人の唇が触れ合って、そのまま数秒。
    遠くから、折り返してきたらしいローカル電車の走行音が聞こえてきて。無人駅に到着する直前で、顔が離れた。降りてきた乗客の目を誤魔化すように、ケントも立ち上がって。
    「俺も日焼け止め塗るから、ちょっと待ってて?」
    「わか、り……ました。待ってます」
    意識してしまうのは、今の一連の流れがあったからだろうか。自分の体に日焼け止めを塗っているケントの手付きを見るだけで意識してしまうのは、その所作にどこか色を感じたからだろうか。それとも、ついさっきまでその手が自分の腕や顔に触れていたからだろうか。
    クーラーのない待合室は、じっとりと汗ばむくらいにアツい。
    「ツバサ……見すぎ……」
    「あ……す、すみませんっ……!!」
    どうやら、不躾に見すぎてしまったらしい。ケントが、どこか照れたように顔を逸らしていた。
    「見惚れてくれるのは嬉しいけど、流石の俺でも照れちゃうよ」
    なんて言いながら、困ったように、でも嬉しそうに笑って。手に持っていた日焼け止めのボトルの蓋を閉めてエコバッグに入れたケントは、ツバサの手を引いて立たせる。
    「行こう」
    ケントは彼女の手を自分の腕へと添えさせて、待合室を出た後で傘を広げた。晴雨兼用だと言っていたその折り畳み傘は、大きいけれどしかし二人入るには窮屈で。真夏日の中、二人くっつかないと日差しは避けられない。
    「暑くないですか……?」
    流石に、暑さにやられて倒れてしまっては元も子もないから。彼の答えによっては、少し離れた方がいいかなと思っていたけれど。
    「大丈夫だから、くっついたままでいてよ」
    被せ気味に、そんな答えが返ってくる。だからまた少しケントの方へと身を寄せれば、上機嫌に笑う彼の息遣いが聞こえてきて。
    閑静な住宅地を談笑しながら歩いていれば、すれ違いざまの地元の住人らしい老人が怪訝そうな顔でこちらを見ていることに気が付いた。こんな時間に制服姿の学生がいるからか、人目もはばからずくっついて相合傘なんてしているからか。何かが怒りに触れたらしく、老人は顔をしかめた。その様子が可笑しくて、ツバサは思わず笑ってしまう。
    やっぱりいつもなら恥ずかしくて離れてしまうところだけれど、今はそんな気も起きない。
    そのまま、二人くっついたまま歩いて。
    「あ……」
    進行方向にある木々の隙間が、きらきらと輝いているのに気が付いた。
    目を凝らせば、木々の隙間から見える空に真っ直ぐ一本の線が走っていて。その下が太陽の強い日差しを反射して輝いていた。そこからツバサの人一倍鋭い聴覚は、ザザンザザンという規則正しい音を拾い始める。
    「海だ」
    ツバサがそれを認識したと同時に、ケントも同じ方向を見てそう言った。
    示し合わせた訳でもないのに、二人の足は同じように少しずつ早まっていく。
    「長旅でしたね」
    東京から、二時間と少し。電車を乗り継いでいる間に、都会の喧騒とは縁遠い所へ来てしまった。
    「だね。でも、悪くはなかったでしょ?」
    「そうですね。むしろ、楽しかったです」
    試験と学校と……色々なものから逃げた開放感と、久しぶりにケントとどこかへ出かけられる嬉しさと。そんな中で、浮かれないわけがなくて。
    「それならよかった」
    ケントも、嬉しそうに笑った。彼も彼で浮かれてくれていたらしい。
    歩みを進める度、波の音はだんだんと大きくなって。そして視界が開け、大海原が目の前に広がる。
    「わぁ……」
    思わず、感嘆の声を上げた。
    長く続く砂浜と、ザザンと引いては押してくる波。この地域だけ他の場所よりも突き出したような地形になっているから、海を邪魔する場所もない。文字通り、どこまでも続く海が広がっていて。
    平日の、夏休み前の午前中だからだろう。観光地の海水浴場らしいけれど、あまり人はいない。
    「水泳の授業、あったらよかったんですけどね……」
    そうすれば、水着が手元にあったのに。まあ、海水浴にスクール水着は少し恥ずかしいけれど。
    「水着、どこかに売ってる場所はあると思うよ」
    「どうしましょうか……」
    突発的に来てしまったから、色々と準備ができていない気がする。海には入りたいけれど、なんとなく今は気恥ずかしくて。
    「今日は、歩きましょうか?」
    「そう? つばさがいいならそれでいいけど」
    言葉ではそういうものの、その声はなんだか残念そうで。
    「……期待して、くれていたり……しました……?」
    だったらいいな、なんてツバサの方が期待して。見上げれば、ケントはどこか照れたように笑った。
    「……俺だって、年頃の男子高校生だしね? 好きな子の水着を想像して期待しちゃうのは、当然のことだよ」
    「そ……ぁ、う……」
    ほとんど冗談、だったのだけれど。しかし、予想していなかったストレートな返事に、今度はツバサの方が照れる番で。恥ずかしさから、咄嗟に彼から目を逸らして海の方へと視線を移す。
    「う、みっ……て、いいですね」
    下手な誤魔化しだとは自分でもわかっているけれど、そういう以外に思い浮かばなくて。隣でふふっと彼が笑う声がした。
    「……うん。波の音にはリラックス効果もあるし、歩くだけでもいいリフレッシュになると思うよ」
    海水浴場に沿うように造られた遊歩道を歩く二人の足は、さっきよりもゆっくりとしたものになる。
    さっきまで感じていたじっとりとした暑さは、海の方から吹いてくる波風で涼しさすら感じて。海で遊ぶ人々の声も、海の音と相俟って楽しさすら覚える。波の音を聞きながらケントの隣を歩いていれば、体に残っていた疲労やそこからくる緊張が、少しずつ解けていくような気がして。
    地元住民からしたら日常的な風景なのだろうけれど、東京在住のツバサからしたら非日常の風景。いいな、なんて思ってしまう。
    「……ズル休みもたまにはいいかも、ですね」
    最近は少し、肩に力を入れすぎてしまっていたのかもしれない。何もかもを忘れて、こうして好きな人とのんびり過ごすのも……なんて。
    「俺、ツバサにワルい遊びを教えちゃったかな?」
    「も、もちろん頻繁にはしませんよ……? ただ時々……本当に時々、ですよ……!!」
    「ふふっ、わかってるよ」
    そう、あくまで時々。本当に時々。学生の本分は勉強で、普段はやっぱりそっちに力を入れた方がいい。ただ時々、今日みたいに頑張りすぎてしまった時はいいのかもしれない。
    「……また誘おうか? ツバサは頑張りすぎちゃうから、また辛そうにしてたら俺が止めてあげる。なるべくそうなる前に止めてあげたいけど、今回みたいな時は止める間もなく崩れちゃいそうだから」
    「そこまでではないと思いたいんですけど……でも、その時はお願いします」
    なんて素直に甘えてしまうのは、今朝が辛くて、連れ出してくれた時から今にかけて少しずつ回復してきているからだろうか。
    体が動かず、無気力になって。それが今は、少しずつ溶けていっている。
    「……ケントさんがいないと、ダメですね」
    彼と付き合い初めて、すっかり〝甘える〟ということを覚えてしまった。きっとそれは、彼が甘やかし上手なのもあるのだろうけれど。
    「そう? それなら嬉しい。俺としては、もっとツバサに甘えてほしいんだけどね。俺はもうとっくに、キミがいないとダメだしさ」
    ほら、そうやって。彼は欲しい言葉を甘い声色と共にくれるのだ。だから、ついついそれに甘えたくなる。
    「じゃあ、時々……今日みたいに甘えてもいいですか?」
    「時々、じゃダメ。いつも甘えて。そうじゃないと俺、ツバサが心配で過保護になっちゃうかも」
    「それは……ケントさんの方に心労が溜まっちゃいそうですね……」
    冗談交じりに彼は言ったけれど、どことなく本気なんだろうなと思えたのは付き合い始めてから彼が心配性なのだと知ったからで。今まで何度も心配をかけてしまって、その度に甘やかされて。
    多分きっと、今日もそうなのだろう。
    だから、そっとケントの腕に身を寄せて肩に頭をもたげてみたり。
    「ん……疲れた?」
    「いえ……イヤですか?」
    さすがに歩きづらかったのかもしれない。波風があるとはいえ、暑苦しくもあったのかもしれないし。
    しかし、ケントは優しく笑って首を横に振る。
    「違うよ。言ったでしょ? そうやってツバサが甘えてくれるの、嬉しい」
    そうやって答えてくれるから、ツバサの方も安心して。また、ケントの方へと身を寄せた。

    ~*~*~*~

    リラックスすればするほど、そして動けば動くほど体というものは正常に動いて、そしてお腹は減る。
    そしてまあ、なんというか。それがお昼時と重なって、更に丁度いいところに観光客向けの商業施設があるもので。日傘を差し、波風が吹いていたとはいえ、やはりそれなりに暑さを感じる中海沿いを歩いてきた二人にとっては、クーラの効いた商業施設内は快適なようでもあり温度差が辛いようでもあった。
    海の見える位置にあるカフェに入れば、丁度空いていた窓側の席に通されて。ケントはチキンサラダサンドとストレートアイスティーを、ツバサは〝夏季限定〟という四文字につられてしまったマンゴーと桃のケーキとアイスカフェラテを頼んだ。
    届いたケーキの上に、向日葵の形を模したメレンゲクッキーが乗っていて微笑ましい。
    「……今日来てしまってよかったですね」
    昼食時の観光地とは言え、夏休み前の平日だからだろうか。席の半数が空いていて、そのおかげで窓際の席に座れたわけで。
    「かもね。夏休みとか土日に来てたらもっと混んでたかも」
    どこの席でも、座って休めるのなら嬉しいのだけれど。でも、やっぱり海が見える席の方が楽しい。
    「結構歩いたけど大丈夫?」
    「いいリフレッシュになりました。明日は多分……痛くなってしまうでしょうけど……」
    久しぶりにたくさん歩いた気がする。ゆっくり休むのも休息にはなるけれど、体を動かすのもいいリフレッシュになるものだ。
    「……少し休んだら、今度は砂浜歩いてみませんか?」
    海を眺めながら歩いているうちに。そして今、海を眺めながらケーキを食べているうちに、もう少しだけ海へ近付いてみたくなってしまった。
    「いいよ。せっかく来たんだから、楽しまなきゃ損だからね」
    嫌な顔をされてしまうかと思ったけれど、ツバサの提案は思いの外すんなりと通って。
    「でも、もう少し休んでからね。ここに入る前、ツバサの体温高くなっちゃってたから。熱中症には気を付けないと」
    そう言いながら、ケントはツバサの頬に手を伸ばす。頬を撫でるその手も、いつもより温かく感じた。きっと、彼も彼で夏の暑さの影響を受けたのだろう。
    もしくは……
    「すみません……ケントさんも暑かったですよね……? ちょっと、くっつきすぎてしまったかもしれません……」
    夏の暑さの中、長時間二人で密着して体温を分け合っていれば温まってしまう。
    「あのね。くっついていいよって言ったのは俺だよ? それに……そうしてほしかったから、ツバサに日傘持ってきてって言わなかったんだよ」
    「えっ……」
    目をきゅうと細めて笑うケントに射止められ、フォークでケーキを切り分けていたその手が止まった。彼のその指が、ツバサの唇をなぞる。
    「電車の中で行先はある程度決めてたから、キミに『自分の日傘も持ってきて』って言えたけど……でも、俺はそうしなかった」
    どうしてかわかる? なんて、ふふっと笑う。
    「あ、の……ケントさ……」
    恥ずかしくなって、照れて、彼から思わず目を逸らしたくなるけれど。しかし、その視線や頬に添えられた手がそれを許してくれない。
    「ね、知ってる、ツバサ? 恋人同士がこうやって触れ合ったり、手を繋いだりすると幸せホルモンが分泌されてストレスが軽減されるんだよ」
    「ぁ……」
    頬が熱くなる。触れるケントの手が、その熱を更に高くして。
    「疲れ、取れた?」
    面白そうに聞いているクセに、その視線や言葉は真っ直ぐにツバサを捉えている。
    言葉が上手く出ないから、代わりに頷いて顔を伏せる。
    「ならよかった」
    ケントの指がツバサの唇の端を少しだけ強く撫でて。その指が離れる瞬間、視界の端に先程まではなかったはずの白いものがついているのが見えて顔を上げてしまう。
    「でもね、ツバサ」
    それが食べていたケーキの生クリームだったと気付いたのは、彼がそれを舐め取った瞬間で。
    「下心がないわけじゃないからね、俺も」
    「ッ……!」
    本当に、彼はズルい。
    「だから、さ。ここを出た後も相合傘でいいでしょ?」
    涼むどころか、どんどんと熱くなる体温の中で。ケントの言葉に、ツバサはゆっくりと頷いた。

    ~*~*~*~


    小さな商業施設とは言え、カフェでゆっくりと休み、お土産売り場を何をするでもなく見回っていれば案外時間は早く過ぎるもので。元々ここに到着した時間が遅かったのもあるけれど、再び外に出る頃には真上にいた太陽が少しずつ西に傾きかけてきた頃だった。
    結局、また一本の日傘の中に二人でおさまって。
    「足元悪いから、俺にしっかり掴まって」
    砂浜に下りてからは、そんな理由から更に二人の体は密着していた。実際、気を付けていないと砂浜に足を取られて転びそうになってしまうから、言われた通りに彼の腕にしがみつく。
    学校の授業が終わり、学生達も遊びに来始めたのか海水浴場には子供達の姿も少し多くなって。そんな彼らの合間を縫うように、二人は寄せては返す波を砂浜の方から見ていた。
    たった数メートル近くなっただけなのに、さっき見ていた海よりもわくわくして。水着ではなく、Tシャツや体操服、自分達と同じように波打ち際で制服姿で遊ぶ学生達の姿を見たら尚更だ。
    「海、入ってくる?」
    「あっ……」
    ケントの笑う声が聞こえてきて、思わず見上げてしまう。
    「羨ましそうに見てたから。ローファーと靴下は俺が預かっておくから、少し入ってくるといいよ」
    なんとまあ、恥ずかしいところを見られてしまった。
    ただ、海で遊ぶ学生達を見て羨ましくなったのも事実だし、せっかく海に来たのだからと遊びたくなってしまったのも事実で。
    「……すみません。では少しだけ行ってきます」
    「いってらっしゃい。でも、波打ち際までだからね? ちゃんと見てるけど、危険な場所まで行かないで」
    「水着じゃないのでさすがに……でも、気を付けます」
    制服が濡れてしまえば、帰りが大変なことになってしまう。さすがに、後先考えないほどはしゃぐ自分ではない……とは思いたい。
    しかし、気を付けるに越したことはないから。ローファーと靴下を脱いでケントに預け、波打ち際へと歩く。
    太陽を直に浴びた砂浜は、少しだけ小走りになってしまうくらいには熱い。足に触れる押し寄せる波は、やっぱり太陽の光を浴びて温くなっている。でも、肌に触れる水の感触と、外気よりは冷たい水の温度はやっぱり気持ちがよくて。
    足首が浸かるところまで行ってそんな水の感触を楽しんでみたり、パシャパシャと軽く水を蹴飛ばしてみたり、ただじっと足元を見て押しては返っていく波を眺めたり。ただそれだけのことなのに楽しく感じてしまうのは、〝夏〟と〝海〟という組み合わせだからだろうか。周りでキャッキャと遊ぶ他の海水浴客の笑い声も相俟って、自然と口角が上がり同じような笑い声がこぼれて。波打ち際を歩くその足も、軽やかなものになる。
    ふと顔を上げ砂浜の方を見れば、ツバサと合わせて歩いていたらしいケントと目が合った。
    「ケントさーん!」
    なんて、浮かれて手を振ってみたりして。
    「気を付けるんだよ!」
    困ったように笑いながらも、そう言って彼は手を振り返してくれる。そんなやり取りも嬉しくなって、楽しくなって。
    ただ、少し浮かれすぎてしまったかもしれない。そのまま、ケントの方に目を向けたまま足元の悪い砂の上を歩いて……
    「きゃっ……!?」
    足を踏み込んだ瞬間、波と砂に足を取られて体勢を崩してしまう。踏み留まろうとしても上手くいかなくて、体が後ろへと倒れていって。ばしゃ、という音を立てて尻もちをついてしまった。
    「ツバサ……!?」
    遠くの方でケントの声がする。
    「ぃっ、たた……」
    お尻や腰の痛みに悶えている間にも、押し寄せる波はツバサの足や制服を濡らしていって。
    「大丈夫……!?」
    遠くから聞こえていたはずの彼の声がすぐ近くから聞こえてきて、太陽の光が影によって遮られた。どうやら、慌ててこちらに駆けつけてきたらしい。波に濡れる革靴が視界に入る。
    見上げれば、眩しい太陽の光の中に心配そうなケントの姿があって。
    「転んじゃいました」
    気を付けて、なんてあれだけ言われたのに。浮かれて、転んで。それすらも可笑しく感じてしまう。
    「はしゃいじゃうくらいに楽しかった?」
    「はい、とても」
    「うーん……それならよかった、かな? 立てる?」
    眉を下げて笑う彼の、差し出された手を取って。手を引かれて立ち上がったツバサは、当然の事ながら海水でびしょ濡れだ。
    「あーあ、こんなに濡れちゃって」
    叱り口調ではあるものの、彼もどこか楽しそうなのは気の所為だろうか。日傘の中に引き入れられ、腰を抱き寄せられて。
    「……ケントさんも濡れてしまいますよ?」
    自分が濡れた分にはいい。いや、この先を考えるとよくはないけれど。自業自得で転んでびしょ濡れになってしまったのはいいけれど、しかしそれで彼まで被害を被る必要はないわけで。
    でも。
    「気にしないでこうされてて。今のツバサには、ブラインドが必要だから」
    「ブラインド……?」
    なんのための?
    首を傾げれば、ケントは溜息混じりに笑ってツバサを更に抱き寄せる。
    「こっちの話。本当、思春期真っ只中の野郎ってイヤになるよね。他人の彼女をジロジロ見てさ。バレないとでも思ってるのかな?」
    「え?」
    「ツバサは知らなくていいかも。あー、いや……ちょっと気を付けてほしいけど。とりあえず、こっち」
    ケントは、ツバサを石段へと連れていき座らせた。
    「これ持って……暑いけど、これも羽織ってて。あと、スマホも」
    手に持っていた日傘を渡し、着ている水色のカーディガンを肩へとかけさせて、エコバッグからツバサのスマホを取り出し持たせた。
    「えっ……でも、ケントさんは……」
    直射日光の下に出るなんて、絶対に避けたいだろうに。せめて日傘だけでも返そうとしたものの、「いいから持ってて」なんて突っぱねられてしまう。
    「一〇分以内に戻ってくるから、ここから動いちゃダメだよ? 本当は今のツバサをこんなところに一人にしたくないんだけど、そうも言っていられないからさ。知らない男から話しかけられても、絶対に相手にしないで。男物の日傘とカーディガンを身に付けてる女の子に話しかける野郎なんていないだろうけど……何かあったらすぐ電話して」
    矢継ぎ早に降り注ぐ言葉に、戸惑うツバサはただ頷くことしかできなくなって。
    「じゃあ、待ってて」
    なんて、颯爽と駆けていくケントの背中を見送るしかなくなっていた。

    ~*~*~*~

    結局、ケントが戻ってきたのは本当に一〇分もしない頃だった。手渡された向日葵柄のビーチバッグを覗けば、替えの洋服らしいものが入っていて。
    シャワールーム付きの更衣室があるから着替えてきて、なんて今度はツバサの方が彼に送り出された。
    更衣室で海水に濡れた制服を脱いで、シャワーを浴びて海水や汗を流して改めて渡されたビニールバッグの中身を見る。
    「これは……水着、じゃ……」
    下が白地に青系色の花柄で、上が紺色の、ビキニタイプの。冷静に見てみれば、少し大人っぽいような、少し布面積が少ないような。
    配慮なのか、デニムのショートパンツと白いレースのラッシュガードが入っていた。
    「ぁ、う……」
    見つめていれば見つめているだけ、なんだか恥ずかしくなって固まってしまう。着る以外に選択肢がないのはわかっている。わかっているからこそ、照れてしまって恥ずかしくなって少し水着から目をそらす。そんな繰り返しで、時計の針を無駄に進めていく。
    しかし、いつまでもそうしているわけにはいかなくて。
    「……着るだけ……着るだけ……着るだけ……」
    そう自分に言い聞かせる。大丈夫。ラッシュガードとショートパンツはある。よくよく見れば、ラッシュガードはレースで若干透けているような気もするし、デニムのショートパンツも太もも中ほどまでの丈の長さしかないように見えるけれど。しかし、着るしかない。
    濡れた体を、ビニールバッグに入っていたタオルでしっかり拭いて。ええいままよと水着を着て、それを上からラッシュガードとショートパンツで隠す。
    大丈夫、なはずだ。学校指定のローファーと靴下がアンバランスではあるけれど。
    濡れた制服をビニールバッグに入れ込んで、濡れたままの頭にタオルを被って更衣室を出た。何となく、今の自分の格好が恥ずかしくて。周りの視線が怖くて、タオルを目深に被りながら近くで待ってくれているはずのケントを探す。
    「あ……ケントさん……!」
    目立つ彼だ。すぐに見付けて駆け寄る。
    「っ、と……慌てるとまた転んじゃうよ?」
    半ば転ぶように倒れ込んできたツバサを、彼は抱き留めて日傘の中へと迎え入れた。普段であれば、人前で抱き締められる方が恥ずかしいけれど。しかし今は、自分の姿を彼の大きな体で隠してもらえる方が嬉しい。
    「なかなか出てきてくれないから心配したけど、上手く着れたみたいだね? まあ……上、着ちゃったみたいだけど」
    「だ、だって……!」
    ああ、やっぱり。わかっていて、ケントはあの水着を選んだらしい。
    「水着のままで来てくれてもよかったのに?」
    「い、今は無理です……!」
    どことなく水着がキツく感じてしまうのは、まだ全然水着を着る準備すらし終わっていなかったからで。だって、せっかくケントの前で着るなら、もっとちゃんと色々と気を付けて色々と準備をした後の方がいいじゃないか。ちょっと食べ過ぎて増えてしまった体重を戻したりとか、もうちょっと肌のケアをしたりとか……とか。
    「……うん、そうだね。じゃあまた行こうか? 海とか、プールでも。緊急事態だったから勢いと直感で選んじゃったから、気に入らなかったら別のを選ばせてほしいんだけど」
    「勢いと、直感で……あの水着を……」
    「んー……ふふっ。そう」
    ケント自身も何か思うところがあったのか、少しだけ目を逸らしてツバサの腰を引き寄せて歩き出す。
    「……言ったでしょ? 俺も、下心がないわけじゃないからさ。特に、じっくり考える時間がない時に直感とかで選んじゃったら……まあ、自分の願望とか欲望が一番前に出ちゃうんだよ」
    「ッ~~~~!!」
    シャワーは冷水だったはずだ。それで、また海で遊んでいて上がった体温が元に戻ったはずで。しかしまた全身が熱くなる。
    「だから……よければ、次は見せてほしいんだけど」
    「う……わ、っ……わかりました……」
    そんなことを言われてしまったら、頑張るしかないじゃないか。
    「楽しみにしてるね」
    なんて嬉しそうに言われたら、期待に応えるしかないじゃないか。ダイエットとか、肌の手入れとか。
    ツバサの腰を引き寄せながら歩いていたケントは、また石段の隅まで彼女を連れていって。今度は、エコバッグから大きめのタオルを取り出して敷き、ツバサを座らせる。
    「はい、これ」
    そうケントに渡されたのは、ペットボトルの梅ジュースで。
    「髪拭いてあげるから、その間に飲んで? いっぱい歩いて、遊んで、疲れてるでしょ?」
    「あ、ありがとうございます」
    受け取れば、彼はツバサを包み込むような形で後ろに座る。視界の端に、自分が持っているのと同じ梅ジュースが見えたから、彼に気付かれないように胸を撫で下ろした……つもり、だったのだけれど。
    「ちゃんと俺の分もあるから心配しなくていいよ」
    なんて、全部を見透かされたような言葉が後ろから聞こえてきて、思わず笑ってしまう。
    ケントもツバサと同じくらい動いていたはずだから、心配していたのだ。
    「なんでもお見通しですね」
    「わかるよ、ツバサのことならなんでも」
    タオルの上から、優しい手つきで彼が触れる。
    「制服は、明日にでもクリーニング出した方がいいかもね」
    「そうですね……もうすぐ夏休みも始まりますし、ある意味では丁度よかったのかもしれません」
    中間試験が終わり、今日から始まっているはずのテスト返しや解説が終われば、もうすぐに夏休みだ。元々、その間に制服をクリーニングに出してしまうつもりではいたから、タイミング的には丁度いい。
    「今日は、もう帰った方がいいかもしれないね」
    空が、だんだんと茜色に染まってきている。ここに来た時にかかった時間を考えたら、日が沈んだ後に帰り支度をし始めるのであれば遅くになってしまうだろう。それはわかっているけれど。
    「……帰っちゃうん、ですか?」
    一日限定のズル休み。それはわかっているけれど、なんだか名残惜しくなってしまう。帰りたくないなんて、ワガママなのはわかっているけれど。
    「また来ればいいよ。今度はズル休みじゃなくて、ちゃんとしたデートで」
    「それ、は……そうですけど……」
    なんだか、楽しかった分今日が終わってしまうことがなんだか寂しくて。始まりがあれば終わりが来るのはわかっているけれど。
    「帰りたくないって思ってくれるほど楽しんでくれたのなら、俺は嬉しいよ。疲れは取れた? 明日から、また頑張れそう?」
    「はい。ケントさんのおかげです」
    重く垂れ込めていた色々なものは、遊んでいるうちにすっかりとどこかへ消えてしまった。だからきっと、明日からはいつも通り頑張れるだろう。
    そうだ。もうすぐで夏休みとは言え、また明日からしばらくは学校があるんだ。
    「明日、駅で待っててよ」
    「駅で……?」
    「そう。ツバサが電車に乗る時間に合わせて俺も行くからさ、下校の時だけじゃなくて登校する時も一緒にしようかなって」
    下校時よりも、忙しい朝の時間を合わせてしまうのは申し訳ないから。そんな理由で、一緒に登校することを遠慮してはいたけれど。
    「今朝、疲れ果ててたキミを見付けて、すごく心臓に悪かったから」
    「あ……」
    ツバサの髪を拭いていた手がタオルを取り払い、お腹の方へと回ってくる。彼の顔が首筋へと触れた。
    「……ごめんなさい、心配をおかけして」
    「本当にね。元気になったならなによりだよ」
    「んッ……」
    首筋に柔らかいものが触れて、チクリとした甘い痛みが走る。それがケントの唇だとすぐにわかったから、ゆっくりと背中を彼に預けてもたれかかる。ケントはそれを受け入れ、ツバサの体を支えて。
    「……帰ります?」
    まだ、この時間を手放してしまうのが勿体なくて、探るようにそう聞いた。
    「ん。もうちょっとこのままで」
    それは、ケントも同じだったらしい。その返答が嬉しくて、彼の腕に手を添えた。
    そして、そのまま。ギリギリの時間まで、二人は夕焼けに染まりつつあった海を眺めていた。
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