ファーストピアス【後編】 不死川と伊黒が勤務するコンビニは、こぢんまりした居酒屋やスナックが軒を連ねる通りの四つ角に面している。飲み屋街の反対の筋はラブホテル街。さらに2つばかり角を曲がれば、そこは風俗店が立ち並ぶエリアだ。バイト帰りにこの辺りを通ると、いつも雑居ビルの間の路地から、夜風に乗って石鹸の匂いが流れてくる。1年ほど前、不死川がコンビニのバイトを始めた頃は「こんな所に銭湯でもあンのか」と思っていて、その事をバイト仲間に散々笑われたものだ。
風俗街を過ぎると、古びたアパートやワンルームマンションが並ぶ静かな通りに出る。ここいらの部屋の住人の多くが、夜の街で働く人々だ。伊黒の住まいは、その中でもそこそこ年季の入ったアパートの2階だった。
「顔に緊張が漂ってる」、か。
不死川は、伊黒の後に着いて階段を登りながら、先刻の伊黒の言葉を反芻した。
緊張。そうかもしれねェ。そもそも高校生の頃から、昼夜働き詰めで不在がちの母に代わって弟妹の世話、夜や休日は学費と生活費の足しにするためのバイトに明け暮れ、友達の家に遊びに行くこと自体が滅多になかった。ましてや、今日初めてマトモに会話した相手の家に、初めてのピアスを開けられに行く訳だ。マジでなんなんだァ、この状況。
伊黒が暮らす1Kの部屋に入ると、真正面に大きな水槽が鎮座していた。その中には、真っ白い大きな蛇がいる。思わず覗き込むと、白蛇のほうも首をもたげてこちらを見てきた。目が合った不死川は、思わず目を輝かせた。実は、ガキの頃から生き物は結構好きだ。
「わ、すげェ…デケェ蛇!へェ、よく見たら結構かわいい顔してんのな。目が赤くて綺麗だなァ」
「鏑丸というんだ。もう10年近く一緒にいる」
伊黒はそう言って鏑丸の頭を撫でた。
水槽を除けば室内は見事に殺風景で、フローリングの上に折り畳みマットレスと毛布、折り畳みテーブル、収納棚と小さな冷蔵庫がひとつあるだけ。テレビはなく、なぜか台所にも皿ひとつない。独房かって位にモノがない部屋だ。
伊黒は「適当に座っててくれ」と言いながら、棚の抽斗から何やら道具を出してきた。「ピアッサーだ。これでホッチキスみたいにパチンと挟んで穴を開ける」
「なんだ、太い注射針みてェなのブッ刺されんのかと思ったァ…」
「はは、安心したか?では早速やるぞ。耳たぶの真ん中あたりでいいな?」
そう言いながら伊黒は不死川の側についと寄った。左耳をそっとつまみ、位置を合わせる。頬に息が掛かる距離だ。思わず横目で伊黒の顔を見る。存外真剣な表情だ。改めてよく見るとコイツ、整った顔立ちしてんだな…「ッて!!」
不意に、耳たぶを針の刺激が襲った。
「おい、痛くねェんじゃねーのかよ!!」
「多少は痛いに決まってるだろう」伊黒は事もなげに言う。
「慣れるとなかなか快感なんだがな。右の耳も開けるか?」
「…快感…??…や、いや、左だけでいいわァ」
「ふふ、了解。消毒済みのチタンピアスを挿しておいてやる。2ヶ月位はこのまま装着して様子を見ておけ。ビール飲むか?」
「や、酒は飲まねェことにしてっから…」
そう応えて、バッグから飲みかけの甘いカフェオレを出して一口飲み込んだ。
「面白い奴だな。耳たぶに針を刺されただけだろう」
伊黒は、不死川の耳たぶから視線を移し、上目遣いに顔を覗き込んできて言った。
「イヤ、なんつーか…実は注射とか苦手なタチでよォ」
「ふぅん?その傷が付いた時の方が余程痛かっただろうに」
「……」
ふと答えあぐねた瞬間、外の通りから、酔っ払いらしき男の怒号と、女が泣いて懇願するような声が聞こえた。この辺りじゃよくある事だ。不死川はほんの少し眉を顰めて、頬から鼻にかかる傷跡に指を当てた。
「…悪い。余計な事だった」
そう言って伊黒は不死川に背を向け、小さな冷蔵庫を開けた。中身は缶ビールと豆乳のパックが数本、ミネラルウォーターが1本。何食って生きてんだコイツは。
「や、そんなんじゃねェよ。ずっと昔の傷だァ」
「そうか」
伊黒は冷蔵庫から缶ビールを取り出したが、一瞬考えてからそれを仕舞い、代わりにミネラルウォーターを取り出して一口飲んだ。
「舌のやつ、飲み食いする時、邪魔じゃねェの?」
その様子を見て、不死川は疑問を率直に尋ねた。
「だいぶ慣れたところだ。最初は、痛みもあって相当気になったがな」
伊黒はそう答えて、銀色のピアスが刺さった舌を出した。
やけに赤くて長い舌だ、と思った。ここに穴を穿つ痛みとはどれ程なのか。
快感、も、感じたんだろうか。
「…まだ増やすんかァ?穴」
「うーん、舌ピアスを増やすのもいいが、それより今はスプタンに興味がある」
「スプタン?」
「スプリットタン。舌先を切って二股にするんだ。鏑丸とお揃いになるだろ」
「うわァ…」
「ピアスは臍にも鎖骨にも開けたし、次は首を考えている。この辺りへのピアッシングは、ヴァンパイアという名で呼ばれているんだ」」
伊黒が青白い首筋周りを指し示した。
「…何を聞いても『痛そォ』以外の感想が出てこねェな」
「まあ、痛いよな」
「え、お前もちゃんと痛てェのかよ!」
「は? 当たり前だろう。俺を何だと思っている」
「快感つってたじゃねェかよ…。ちゃんと痛てェのに、なんでわざわざそんなコトするんだ?」
「ん?…そうだな…」
問われた伊黒は、ミネラルウォーターを一口飲むと、言葉を探すように視線を落として続けた。
「…『自分の身体の扱い方を、自分で決められる』という自由を謳歌している…、いや、確かめていると言う方が正しいかもしれない」
「自分の身体の扱い方を決める…?」
考えた事もなかった。
物心ついた時から当然のこととして、自分の体は、俺という自我の器であり、俺の意志によって動かす道具だった。並外れて頑丈なのをいいことに、学費と生活費のために睡眠時間を削ってバイトを詰め込むのも、俺がそうしたいからだ。死んだクソ親父が酔って暴れる度に、身を挺して傷だらけになって幼い弟妹を守ったのも、俺の意志だ。
コイツは、そうじゃねェ世界線にいたってコトか?
「そうだ。あちこち穴を開けまくって、“これは俺の身体だ”と確かめている。初めてピアスを開けたのは、12歳の時だ」
12歳。2番目の弟と同じだ。
「それまでは、自由じゃなかったってコトかよ」
「…そうだ。俺の体の事を“神様に捧げるための特別な体”だなどと抜かす連中に育てられていてな。髪や爪すら自由に切らせてもらえなかった」
「…なんだそれェ…」
「ふ、まあ、それはどうでもいいんだ」
どう考えても普通ではなさそうな生い立ちの話を、伊黒は吐き捨てるように切り上げた。
「それで、初めてのタトゥーが16歳。見ろ、ここに鏑丸を彫ったんだ」
伊黒は、黒いTシャツの首元を引っ張って右の鎖骨を見せた。一度も日光を浴びたことがないんじゃねェのかと思うほど、肌が白い。その鎖骨に、巻き付くように白蛇が彫られていた。
「おぉ…、あっ、それ、アイツか!!すげぇ、そっくりじゃねェか!」
「はは、そうだろ」
伊黒は心底嬉しそうに笑った。いくつもピアスが刺さった薄い唇が開くと、暗く湿った口内にシルバーのピアスが見えた。こんな所に穴を開けるのは、耳たぶの比ではないほど痛かっただろう。
「なんだ、さっきから。本当にコレが気になるんだな」
視線を悟ったらしい伊黒が、舌を出して見せた。
「ッあ…いや、味が気になるって言ってただろォ? どんな感じなのかと思ってよォ」
「…試してみるか」
あ、やべェ
伊黒がこちらに向き直る。膝を寄せ、手を伸ばす。一連の動作が、まるでスローモーションのようにゆっくりに感じる。
躱せ。今ならまだ「いや冗談やめろって」って笑える。まだ間に合う。よく考えたらおかしいだろ。今日初めてマトモに喋った男と、こんな─
頭の中で警告が鳴り響く中、ゆっくりと伊黒の手が不死川の顔を寄せ、口を捉える。やがて唇を割って、ぬるりと舌が侵入してきた。冷えたミネラルウォーターを飲んでいたせいか、少し冷たい。ピアスが前歯に当たり、カチリ、カチリと小さな音が響く。伊黒の舌は無遠慮に口内をさぐり、やがて不死川の舌を絡め取った。柔らかく湿った粘膜同士の接触の中心に、硬くつるつるした金属が押し当てられる。それは伊黒の舌の体温と同じ温度を帯びていた。なるほど、これはアイツの体の一部なんだな。味は、ない。体調が悪い時にスプーンの味が気になる事があるが、コレもそんな感じなのだろうか。わかんねェ。ッつーか何やってんだ俺は。なんでこんな、正体不明男の舌ピアスの味のことなんて。喋ってみれば意外と話しやすくて面白いヤツだ、友達だ、なんて思ったのに。なんなんだよ全然分かんねェ。ふたつの舌の温度が同じくらいになってきた。口の中が混じり合って、どちらの舌か、どちらのピアスか、わからなくなりそうだ。何なんだコレは。もっと中を探らせろ。もっと感触を確かめさせろ。思考はまとまらず、体の芯が妙に熱い。
どのくらいの時間、舌を絡め合わせていたのか分からない。数秒かもしれないし、数分だったかもしれない。
帰り際に「くれぐれも耳を清潔にしておけ」「おぅ」などと言葉を交わしたような。正直、どうやって伊黒の部屋を出たのかよく覚えていない。情けないことにガチガチに勃っちまったのを、なんとか誤魔化しながら鎮めようとするのに手一杯だったのだ。
20年ばかりの人生で何もかもが初めてだった。ピアスを開けるのも、舌ピアスしたヤツとのキスも、男とのキスも。男とのキスで勃っちまったのも。そんなの初めてに決まってんだろ、クソったれェ。
帰宅した頃には、とうに日付が変わっていて、家族は皆寝静まっているようだった。洗面所の鏡で、一人、左耳に光る銀色の粒を確かめる。それは数時間前まではなかったくせに、既に不死川の体の一部として当然のような顔をして耳たぶに収まっていた。
体温を纏った丸い金属の粒に触れると、体は否応なく、伊黒の舌のピアスの感触を思い出して反応する。
「クソがァ……」
次に店で顔を合わせた時、何事もなかったような顔をしていられるだろうか。明日(いや、もう今夜か)、アイツは深夜シフトに入るのか? そういや、連絡先も知らねェ。
左の耳たぶが、ほんのりと熱を持っていた。
【おわり】