グレシル小説心地の良い歌が聴こえる。最初は小さかった為、よく分からなかったが、はっきりと聴こえてからは、誰の声かすぐにわかった。どうやら部屋で口ずさんでいるようだ。
本日は天候も良く賑わいもある。天真爛漫を絵に描いたように、楽しいことへ真っ先に飛び出していきそうな奴が籠っているとは。
しかし、反対の性質……たおやかさも持っている事を俺は知っている。
どちらもゴリアテを構成する要素だ。なので今は穏やかな方なのだろうと思考が帰結した。
それはそれとして……耳に馴染むそれをもっと堪能したいと、心身共に共鳴したのだろう。自然と歩みが速まり……目的の地に辿り着く。時間に換算して……1分も満たなかった。
さて……特に変わった所はない。ただ1箇所を除いて。そう、不用心な事に……扉が開いていた。見た所、片足くらいなら入るだろう。平和を保っている町の比較的治安の良い宿とは言え、一時に過ぎない。
足音を立てずに近付く不届者がいたらどうするんだ。……俺はどうなんだ、だと? 俺は恋人だから構わないだろう。言うまでもないが不届者の部類には入らん。
それよりもだ。小僧達には口煩く注意をしておきながら、お前は守れていないのか。彼女の長所であり、時折短所とも取れる甘さがこのような所で露呈してしまった事に盛大なため息が零れる。これは一言言っておかねばならん。
ノック等作法は必要無い。既に開いているのだから。衝撃音を背にゴリアテが座るソファーへと向かった。
「キャッ! び、びっくりしたじゃないの! 乙女の部屋に入る時はノックしてって言ってるでしょ!」
天井まで着くのではと思ってしまう程、驚きを起点とし体が飛び跳ねていた。……多少盛ってしまったが、数センチは浮いていただろう。世界を股に掛けるスターとは思えぬ面白い反応だが、今はその辺りの話を広げる必要は無い。
立ち上がる姿は優雅なものだったが、こちらへと向かって来る様は微かに怒りを纏っていた。
「ほぅ……扉自体開いたままだったのだが?」
壁に沿って開いたままのそれを指す。釣られて白鼠の瞳が緩やかに動く。ゴリアテの表情が罰が悪そうなものへと変わった事に、呆れ果ててしまう。ついでに頭痛も生まれてしまった。
やはり開いていた事に気付いていなかったのか、お前は。
「え、あ、あら……? そうだったの……? あの子ったら、ちゃんと閉めていなか……」
「待て貴様……!」
聞き捨てならない言葉が出てきた。他人であればそのまま素通りしても構わないのだが、相手はゴリアテ。俺の妻となる愛する者。その美しい唇から零れ落ちた『あの子』という表現。
それが意味するのはーーーー候補は多数あるが最も近しいのはーーーー警戒すべき小僧……いや悪魔の子……いや悪魔そのもの!
表情が歪んでいく様が手に取るようにわかる。それと同時にゴリアテの顔が少々青ざめていき、こめかみから汗が垂れ落ちていった。
「ストップ! 違うから! イレブンちゃんを探しているベロニカちゃんが来てアタシが振り向く前に行っちゃったと思うのよ! すぐに来てすぐいなくなっちゃったから気にしてなかったのよ! あの時アタシは……本を読んでいたから、あの子が閉めて行ったって思い込んじゃった……のかも?」
息着く暇なく畳み掛ける佳人の怒号の勢いは凄まじいものだった。まるで無罪の主張を行う被告人のようではないか……。流石の俺も確定ではない事案を強引に罪を認めさせる非情な男ではないのと思っているのだが……。
(ではここでとある御一行のとある方々のお言葉を頂戴致しましょう……せーの! お前(テメー)(アンタ)が言うな! 現場からは以上です)
奴と断定しかけた俺はゴリアテの弁論に一理あると、別角度から思考を進めてみる。
「(……確かに部屋にいた時、俺の所にもベロニカは訪れて同じ行動を取っていた。それにあの小僧であれば、些細な事だろうとマウントを取ろうと俺に何かしら言ってくるはずだ……!)そうか……すまないゴリアテ!」
本を読んでいた、の所は少々腑に落ちんが、共通する点や奴ではない事実に安渡の気持ちが上回った。無意識に握りしめていた拳から力を解き放つ。欲に支配されかけた己の未熟さを改めて痛感する。要らぬ誤解を生み、彼女に不快な思いをさせてしまう所だった……。
「フフ、分かってくれたら良いのよん♡」
「だが、扉の確認を怠った事は事実だ」
誠意が伝わったのか、いつもの茶目気溢れるゴリアテへと戻る。人を振り回し人に振り回され……は関係無かったな。兎に角、持ち前の天真爛漫さが露呈し始めた。
愛おしい事この上ないが、再度話の趣旨を逸らされては敵わん。
「う……」
近くにあった本棚へ視線を逸らす。逃げられないと観念したのだろう。
「街の平穏な雰囲気がお前の気を緩めたのだろう?」
「……はぁい」
眉尻が下がり許しを乞うような瞳を向けたゴリアテ。事実上の全面降伏だろう。早めに白旗を上げてくれた事で、これ以上追及を行う必要が無くなった。注意を促そうと思ったが、止めておこう……余計な一言が引き金で頑固な面を引き出してしまう可能性もある。次に同じ行動を取ったら……その時は遠慮なく仕置きをすれば良かろう。
……この話題は切り上げるとしよう。
「だがまぁ……完全に閉め切っていたら心地良い歌声が聞こえ無かったからな……」
「……え、ちょっ、聞いてたの!?」
滑らかな白い頬に朱が混じる。扉が開いていたのだ、通り掛かった人間や近くにいる人間には聞こえただろう。……俺以外の奴がいた形跡は無かったから確証は無いが。
「あぁ、近付くにつれ大きくなっていたからな。無意識のうちに声量が上がっていたのだろう」
「うそ……。は、恥ずかしい……」
朱が紅へと変わり顔全体に行き渡る。羞恥心に支配されている事は火を見るより明らかだ。人前では堂々と多種多様な演技を行う奴が……。と思案しかけたが、今はプライベートな時間を各々過ごしているのだ。自身に向けての行動が他者に見られていると把握した途端、気恥ずかしさが上回る事もあるのだろう。……わからん訳ではない。
「次からは確認を怠らない事だな」
「はぁい……」
「では……」
ここに赴いたもう一つの目的を堪能させてもらおう。
「?」
指で顎を掴む。佳人の抵抗は無かった。角度を上げ、視線が交差する。アイスグレーの奥は透き通ったまま、一切の澱みが無く……とても美しかった。
「先程の歌声を聴かせてくれ」
「……アンコール貰っちゃったんですもの♡ 心を込めて歌わせていただくわ♡」