眠れない夜は寝つかれず、諦めて布団から出て厨に行ったら、これから晩酌らしい、ベスト姿の大般若さんに出会した。
「あんた、どうしたんだい?」
「眠れなくて……大般若さんは晩酌ですか」
「まあ、そんなところさ」
鉄瓶に水を汲み、マグカップを出してドリップのカフェインレスコーヒーを用意する。小分けの袋から取り出して、フィルターを軽く振るといい匂いがした。思わずため息と一緒に、よりにもよって、という気持ちがこぼれる。
大般若さんとはあまりふたりで話したことがない。見目麗しい容姿で近寄りがたいからだ。なに話したらいいかわからないし。その実性格は親しみやすいと評判だけど、私は緊張してしまって無理だ。だって顔を見なくても、その声、もう呼吸すら赤面ものなんだもの。
なのに、フィルターの足場を組み立てると、大般若さんが横にやってくる。なんでだー、と思いつつ横目で見ると、大般若さんはその工程を面白そうに眺めていた。
「……なあ、あんたの飲もうとしてるのって、眠くなくなるやつじゃないのかい」
「眠くなくなるのを抜いたコーヒーなんですよ。苦いのが落ち着くとかなんとか」
「ほう?」
たぶん、私の場合は、コーヒーを淹れると動作がいいのだと思う。無心になって、内側からからだをあたためて、そうするとひと息つける。布団に入る頃にはすこし体温が下がって、スムーズに眠れる。少なくとも、前回はそうだった。でも今日はたぶん、だめだ。大般若さんの前で変なことを口走らないかと、緊張でがちがちになっている。
「大般若さんも飲みます?」
「いや、俺はいい」
「ああ、お酒飲みますもんね」
それ以上、気の利いたことはおろか、普通の会話もできない。
一分が十倍になったような気持ちをかかえたまま、鍋つかみを手にはめて、会話の糸口を探すのを諦めて、鉄瓶に耳を澄ませる。しゅんしゅん、と静かな音がする。
「いや、それ苦いから飲めないんだ」
その言葉にあまりに驚いて、火をとめずに大般若さんの顔を見て──それがどれくらいの時間だったのかは定かではないけど、短くはなかったのだろう──、うっかりお湯を吹きこぼしてしまった。慌てて火を止める。大般若さんが近くにあった布巾で、濡らしてしまったところを拭いてくれた。
「す、すみません」
「そんなに驚いたのかい?」
「驚きますよ……っ」
気を取り直して、深呼吸してからドリップパックにお湯を注ぐ。十秒蒸らして、三回に分けて少しずつお湯を注ぐ。その間に、また大般若さんが話し始める。
「ちなみに俺には日本茶も苦い。飲むなら、麦茶かほうじ茶がいい」
「へ、へえ……意外です」
「長船派(うち)でコーヒーを飲むのは、謙信だな」
……さらに意外な事実が浮上した。長船派って、みんなこだわりありそうなのに。
「たまに謙信が作ってくれて、そういうときは俺も飲むよ。こう、粉に湯を注いで混ぜると、泡が立つやつでな」
「ああ、あれもおいしいですよね」
コーヒーを淹れ終わって、一度鉄瓶を置くと、大般若さんに鍋つかみを貸してくれないかと言われ、そうする。フィルターを捨てたりスプーンで一度コーヒーをかき混ぜたりしていると、大般若さんが鉄瓶の残りのお湯でお湯割りを作っていた。どうやら、付き合ってくれるらしい。
「いい香り、とは思うんだがなあ」
「お酒も苦いですし、慣れたら飲めるようになりますよ」
つい、笑みがこぼれる。……大般若さんの容姿に怯えないで、もっと早く話しかければよかった、とも思う。
「折角の夜だ、月を見よう」
誘われるがままに、飲み物を持って、厨からぬれ縁に向かう。心地のよい風が、前を歩く大般若さんのりぼんを撫でる。