酔う「大丈夫かい?」
執務室を訪れると、主人が机に突っ伏していた。思わず肩を叩くと、徐に起き上がる。いつもより、とろんとした目が俺の顔を見る。
「大般若だぁ」
主はいつもより、幼い表情をしていた。様子が変だなと首を傾げていると、机の上に仰々しい箱を認める。大きさは文庫本ほどだが、その包装は、まるで。
「日本酒みたいだな」
「そう、日本酒入りのチョコ。甘いの好きならあげる」
眠そうな声で、主人はチョコレートの入った箱を俺に押しやった。ひとつつまんでみると、つんと日本酒が鼻を抜ける。チョコレートは口当たりが軽く、甘すぎず、ついもうひとつ、と手が伸びそうになる。
「うまいな、これ」
「そう、おいしくて、ぱくぱく食べてたら酔っちゃって」
でも消費期限が近くなっててね……、とむにゃむにゃ、主人は言う。笑いが込み上げた。
「あんた、それで酔っちまったのかい」
「そう、でも気持ち悪くはないんだよ」
ふわふわしてるだけ、と主人は言って、ふわりと笑った。頭を撫でてやると、気持ち良さそうに目を伏せる。
「これはバレンタインとやらのチョコなのかい」
「そう、自分用」
「ほう」
もう日付は過ぎていたが、確かそんな行事もあった筈だ。執務室のウォーターサーバーで白湯を作りながら、大般若長光は壁に貼ってあるカレンダーに目をやる。豆まきに追われ、やっとひと息ついた頃だったように思われる。
「あんたには、想いびとはいないのかい」
「いないよう」
主人はふにゃりと笑って礼を言い、白湯を受け取った。ひとくち飲んで、ほうとため息を吐く。
「私は……好きなひとがいたら、花火とか、イルミネーションとか、流れ星とか……綺麗なものを一緒に見たいなあって思うんだ。それだけいいから」
「ほう?」
「つまんないでしょ」
「そんなことはないさ」
──そう、言われたことでもあるのだろうか。それとも、今までに彼女が好いたひとは、それほど彼女を想わなかったか。
「それで、どうでもいいひとになりたいの」
その言葉には、思わず笑ってしまった。日本酒入りのチョコレートの酔いはなかなか、さめないらしい。白湯より冷たい水がよかったか、と今さら思う。
「ふつう、誰かにとって、かけがえのないひとになりたい、と思うんじゃないかい?」
「ふふ、そうかもね」
主人は白湯を飲み干して、目を伏せた。俺の知らない、或いは知っている誰かに、想いを馳せているのだろうか。
「窓、開けていいかい」
「うん」
窓を開けるなり、吹き込んできた夜風が頬を撫でる。喉が痛むような冷たさだったが、心地よい。振り返って見たが、主人は目を開けない。眠ってしまったのかもしれない。
「──やわらかな陽の射す日も、冷たく雨のそぼ降る日も、吹き飛ばされそうな風の日も、雪の降りだす前の曇天の日も、どんな時でも、俺はあんたといたいと思うよ」
だから、俺が言った言葉は、聞こえていなかっただろう。それでいい、と思った。彼女のこぼした涙が乾いてから、俺は窓を閉めた。