伊坂探偵事務所のオカルト事件簿・嘴犬「今日も今日とてブログ更新!あ〜僕ってなんて勤勉なんでしょう!」
伊坂探偵事務所の所長、伊坂一晃(いさかかずあき)は日課兼収入源のオカルトブログの文章を打ち込み終わり、ノートパソコンをスリープしてぐっと伸びをする。
そこに、犬の散歩から肉体労働担当の藤重岳(ふじしげたかし)が帰ってきた。
「肝心の依頼は全然来ねえけどな。いっその事YouTubeでも初めてみたらどうだ?」
「ん〜、それも面白いかもしれませんね。冒涜的な呪術書の解説とか、バズりそうじゃないですか?」
伊坂の返答に、藤重はモニター前の視聴者が発狂する様子を想像してしまい気分が悪くなった。
「やめとけ、自分で言って後悔した」
「おーやおや。自分の発言には責任持たないといけませんよ、ね〜ライカ」
伊坂は散歩から帰ってきたシベリアンハスキーのライカを撫でくりまわす。ライカは分かっているのかいないのか、何故か自信ありげに「ワフッ」と一声あげた。その時、事務所のドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきたのはスーツ姿の女性だった。年齢は20代後半といったところか。整った顔立ちだが表情がやや固い。
「ご依頼の方でしょうか?当事務所は所長である私、伊坂一晃が取り仕切っております。こちらへどうぞ」
伊坂はソファへと彼女を案内すると、自分は向かい側の席につく。ライカは彼女の足元で伏せの姿勢を取り、尻尾をパタパタさせている。
「それで、本日のご用件は何でしょうか?」
「はい……実は最近困ったことが起きまして……」
彼女は神妙な面持ちで語り始めた。
彼女の名前は大沼陽子(おおぬまようこ)。とある出版社に勤務している編集者であり、主にミステリー系の書籍を手掛けているという。
「実は先週なのですが、私の勤めている会社宛てに奇妙な手紙が届いたんです。差出人は書かれていませんでしたが、宛名だけはしっかりと書いてあって……『この度、貴社ではある本を出版することが決まりました。つきましては、その本の原稿料として下記の金額をお支払い致します』という内容でした」
「ほう、それは確かに奇怪ですねえ」
伊坂は眉根を寄せた。
「はい、私はそんなもの書いた覚えもないし、そもそも出版する予定もないですし……。ただ、気になる点がありまして……」
「何でしょう?」
「その本の題名というのが……『嘴犬』というのです」
「なんとまぁ。知って名付けたのならかなりの妖怪通ですね」
「クチバシイヌ?犬にクチバシが付いてんのか?」
思わず口を挟んだ藤重に伊坂が向き直り解説する。
「正に。福岡の唐人町……外国人街ですね。そこで産まれた、カラスのような頭をした仔犬です。なんでも魚や米をよく食べたものの、数日で死んでしまったとか」
藤重の脳裏に、鴉の頭を持つ不気味な犬の姿と、路上で死んでいる野良犬の情景が重なる。それは不気味であり、哀れでもあった。
顔をしかめた藤重を気遣ってか、ライカが指をぺろぺろと舐める。藤重はハッとして、見た事もない物のために今神経をすり減らしてもしょうがないと思い直す。
依頼人の大沼も神妙な面持ちで語りだした。
「ええ。私も気になって調べたんですが、伊坂さんの言うとおりです。しかも、その福岡の唐人町は……私の実家のあたりにあったらしいんです」
「なるほど……偶然とは思えなくなってきましたね」
伊坂は腕を組んで考え込む素振りを見せた。
「はい……それからというもの、仕事場に謎の封筒が届くようになったり、自宅に知らない人から電話があったりと、何かと変なことが起きるようになってしまって……」
大沼の顔色は悪い。目の下にクマがあり寝不足らしく、既に相当参っている様子だ。
伊坂は膝を打って言った。
「凡その事情は分かりました。差し支え無ければ、最初に届いた手紙を拝見しても?」
「ええ……これです」
大沼は恐る恐るという風に井坂に封筒を差し出した。「ふむ……これは……」
伊坂が中身を読んでいる間、藤重は横から覗き込んだ。そこには達筆だが読みにくい文字が並んでいる。内容は以下のようなものだった。
『この度、貴社ではある本を出版することが決まりました。つきましては、その本の原稿料として下記の金額をお支払い致します』
「んー……?なんだこりゃあ?」
藤重が首を傾げると、ライカも真似して同じように首を傾げた。
「どうやら、タイトルと内容について書かれているようですね。やはり、『嘴犬』とあります。しかし、出版予定など聞いた事がありませんね」
「はい、全く身に覚えが無いです」
「そうですか……ところで、貴女は先程実家に戻られたと言っていましたが、ご両親はご健在でしょうか?」
「母はおりますが、父は……亡くなりました。2年前になります」
「失礼しました」
伊坂は頭を下げた。
「いえ、気にしないでください。母は今も元気でやっています。ただ、父の件があってから……少し、精神が病んでしまったようで、外出をしなくなりまして……私も心配しているのですが」
「ははぁ……なるほど」
「母には私がなんとか連絡を取っているのですが、最近は私の声を聞いても返事をしてくれなくて……」
大沼の表情が沈んでゆく。無理もない。奇怪な出来事に、母の不調。異常が重なれば精神が摩耗するのも当たり前の事だ。
「ふぅむ……お力になれず申し訳ない」
伊坂は頭を下げる。大沼は首を振りながら慌てて否定した。
「いいえ、とんでもないです!こうして相談に乗って頂けただけで十分です。本当にありがとうございます!」
「いやはや、ご丁寧に痛み入ります」
伊坂は微笑んだ。
「では、今日はこの辺りで……」
大沼が立ち上がろうとすると、伊坂が手で制す。
「待って下さい。まだ、話は終わっていないですよ」
「え?」
大沼が目を丸くすると、伊坂は真剣な眼差しを向けてきた……藤重に。
「藤クン、貴方の出番です」
「……俺ぇ!?」
肩に手を置かれる。ワンテンポ遅れて、藤重は素っ頓狂な声を上げた。
「え、どういう事だよ?」
混乱する藤重を他所に、伊坂は含み笑いをしながら人差し指で額を叩いた。
「思い出しませんか?福岡といえば……」
ここまで言えば分かるだろう、と伊坂はニヤニヤしている。
そこでやっと藤重は察しが着いた。
「……もしかして、岩永さん、か?」
「ビンゴ。その通りです。岩永さんに連絡を取って、周辺地域を調べてもらいましょう」
岩永降蔵(いわながこうぞう)。この事務所のかつての持ち主であり、引退した元ヤクザ幹部の老人。2人にとっての恩人である。
現在は隠居して田舎暮しをしているが、頼めば恐らく協力してくれるだろう。何しろ、伊坂に「探偵をしないか」と持ちかけたのは彼なのだ。「なるほどねぇ。確かにあの人なら……」
藤重も納得したように腕を組む。
「そういう事です。さぁ、早速電話してください」
「分かったよ」
伊坂に急かされ、藤重はスマホを取り出した。
電話帳アプリを開き、『岩永』の文字をタップする。しばらくコール音が鳴った後、通話状態になったようだ。
「もしもし?お久しぶりです」
『ああ、藤重くんか。元気にしてたかい?』
「はい!相変わらずッス。それより、頼みがあるんですが……」
『ふむ……どうやら、何かあったみたいだね』
「流石ですね……実は、今ちょっと困っているんですよ」
藤重はこれまでの経緯を話し始めた。
***
「……というわけなんすけど」
『ほぉ……それはまた厄介な依頼が来たものだね』
電話の向こうから聞こえる岩永の声音はいつも通り穏やかだった。
『うーん……その話を聞く限りだと、僕より伊坂くんの方が適任だと思うけれど』
「それがですね……」
藤重は、先程の大沼との会話内容を岩永に伝えた。
『なるほどね……』
「どうですかね?お願いできますかね?」
藤重が訊ねると、少し間を置いてから答えが返ってきた。
『うん、勿論構わないよ。たまには遠出して散歩でもと思っていた所だ』
「マジすか!助かります!」
藤重は電話越しだというのにお辞儀をしている。岩永は「引退したからそんなに畏まらなくてもいいのに」と言っているのだが、染み付いた習慣はなかなか抜けないものだ。
スピーカーの向こうでそれを察知したらしく、岩永はくすくすと笑っていた。
『それじゃあ、調べ終わったら此方から連絡するね。伊坂くんにも宜しく』
と岩永が締めて電話は切れた。「良かったじゃないですか、藤クン」
伊坂は嬉しそうに言った。
「ああ、これで解決の目処が立ちそうだな」
藤重もほっとした様子で答える。それに加えて、岩永と会話が出来たことが嬉しいらしく口端が緩んでいる。
楽しそうな雰囲気を感じ取って、ライカも藤重の足の周りをくるくると回っていた。
「では、私はこれから仕事があるのでここで失礼します」
大沼は椅子に掛けていた上着を手に取り、立ち上がった。
「はい、お気をつけて」
「ありがとうございます!それと……、もしよろしければ母に会って頂けませんか?手紙の事を心配しているみたいで」
「ええ、構いませんよ」
伊坂は快く承諾する。大沼はそれを聞いて、深々と頭を下げた。
「本当に……何とお礼を申し上げれば良いのか……」
「いえ、お気になさらずに。それに、我々が受けた以上、最後まで責任を持って調査致しますのでご安心を」
「よろしくお願いいたします……では、私はそろそろ行きますね。伊坂さんも、お身体に気を付けて下さい。それから、藤重さんも。……どうか、宜しくお願いいたします」もう一度丁寧に一礼すると、大沼は事務所を後にした。
「……さて、我々はもう少し詳しく話を伺いますか」
2人だけになったところで、伊坂は藤重の方へ向き直る。
「ん、分かった」
こうして、2人による本格的な調査が始まったのだった。
◇
「……だからっていきなり母親のところ行くか!??」
「だって言われたじゃないですか。『母に会って欲しい』って」
「お前なぁ、それ社交辞令だろ?!」
「僕はいつだって言葉を本気で受け取りますからね」
これ以上何を言っても無駄か、と藤重は肩を落とす。
伊坂達は、大沼に伝えられた住所のアパートの前に立っていた。もちろん、依頼人とその母親の現住所である。この辺りは、都心からは外れた住宅地となっている。そのため、建物自体はさほど大きくはない。
しかし、部屋数は多く、家賃もそれなりだ。恐らくは家族向けの物件だろう。
(確か、1階に2世帯住んでいて、その奥の部屋が母親と娘さんの家……だったかな)
事前に聞いた情報を反すうしながら、藤重は階段を登っていく。
「あ、ここですね」
目的の階まで到着してすぐ、伊坂は部屋の扉の前で立ち止まった。表札には『大沼』と書かれている。
「……インターホン押せばいいんだよな?」
「そうですよ」
「……」
「早く押してくださいよ」
「分かってるっつの!」
藤重は意を決して、呼び鈴を押した。しばらく待つと、中から足音が聞こえてきた。そして、ゆっくりとドアが開かれる。
「はい……どちら様でしょうか?」
そこには、やつれて弱々しい印象の女が立っていた。年齢は50代後半に見えるが、大沼の年齢からして考えるともう少し若くても良いはずだ。
「突然すみません。私、こういうものです」
伊坂は胸ポケットから名刺を取り出して差し出した。
「探偵……?あ、あの、何か?」
女は戸惑った様子で訊ねる。
「単刀直入に申し上げますが、貴方の娘さんのことで少しお話があります」
「え……?うちの子に、一体何があったんですか……!」
女は目に見えて動揺している。顔色が悪く、今にも倒れてしまいそうだ。
「落ち着いてください。実は、最近になって娘さんに不審な手紙が届いたそうなんですよ」
「……!それは本当ですか!」
女の顔が緊張に強ばっている。
「ええ。なんでも、身に覚えのない本が出版されるそうで、その原稿料を支払うとか」
「本……ですか」
「『嘴犬』、というそうです。……ご存知ありませんか」
『嘴犬』、という言葉を聞いて女は明らかに様子が変わった。
瞳孔が開き、虚空を見つめ何かから遠ざかるように空中をもがいている。
「ああ!!やめて!!その恐ろしい獣を思い出させないで……!!」
「ご婦人、落ち着いてください!獣などここにはいません」
「いいえ!来るのです!!あの獣は私たちの傍にいる!!」
半狂乱の女を藤重が押さえつけると、暫く手足をばたつかせていたが、体力の限界が来たらしくすぐに息を切らせて大人しくなった。肩で息をする女に向かい、伊坂は告げた。
「どうやら、僕の知る嘴犬と貴女の知る『嘴犬』は違うようですね。……お話、聞かせていただけますか?」
「……はい」
伊坂の言葉に、観念したように女は力なく返事をした。
◇
「私たちは元々、あの子の父の地元……福岡で暮らしていました。
夫は大学の研究員で、時間と空間についての研究を長い間していたようです。私と娘はそのような事にあまり興味を持たなかったので詳しくは存じませんが……どうやら、研究の一部が完成したらしいと、昔聞いたことがあります。
内容は……確か、未来に向けて事象を確定させる、だったかしら……。すみません、難しい事はあまり……。
それで、その実験を研究室で行うことになったのです。「見届けて欲しい」と言われたので、私と娘も着いてゆくことにしました。
危険があるかもしれないから外で待つように言われ、私と娘はガラス越しに夫を眺めて待つ事にしました。
夫の傍らには何やらパソコンに向かって小難しい作業をしていたと思ったら、脇にあった丸いモノが輝きだして……。気がつくと、夫の目の前には手紙が置いてありました。その手紙を読んだ夫は「やはり、実験は成功した」と目を爛々と光らせていました。普段とは違う様子に私たちは不安になる一方でした。
その時、目が合ったのです……あの、獣と。
獣は、光の収まった球体の分厚いガラスに、みっちりと収まっていました。
今でも、よく思い出せます。
カラスのような頭に、大きな犬の身体、口からは尖った舌が垂れていて、本当に恐ろしかった……。
私は幼い頃、物の怪の類が好きで、よく伝承の絵本を読んでいました。なので、あの獣を『嘴犬』だと思ったのです。
夫は続けざまに何かをすると、今度はいっそうガラス球が強く光り……そして、夫は、いつの間にか研究室から消えてしまいました。残っていたのは助手の方々と私たち、そしてガラス玉に入った『嘴犬』です。
助手の方々は数分もした頃から慌て始め、「実験は失敗した」と言っているのが聞こえました。夫はそれからずっと、行方が知れません。
……私は、私たちの傍らに、正体の分からぬ『何か』がいるのがとてつもなく不気味に思えました。……その事が私には耐えられなかった。
だから私たちは地元福岡を出、せめてもの抵抗として都内へ越してきたのです。
幸いにも娘はショックにより記憶が混乱していたようで、「父は事故で死んだ」と言い含めております。
……私から言えることは、このくらいです。
◇
「ご協力、感謝します。お辛かったでしょうに」伊坂が労るように言うと、女は力無く微笑んだ。
「いえ……これで少しでもお役に立てれば」
伊坂と藤重は女に別れを告げてアパートを後にする。
「有力な情報が得られましたね。時間と空間の研究、か……」
「嘴犬とやらの事はなんとなく分かったけどよ。まだ本については解決してないぜ」
思案にふける伊坂に、藤重は頭を掻きながら訂正を入れる。しかし、伊坂にとっては想定内だったようだ。
「それも、先程の話で大体の事情は掴めました。これは僕の推察ですが……大沼さんのお父上が失踪した事と関係があると思います」
「それが、本となんの関係があるんだよ」
「おそらく、大沼さんのお父上は、大沼さんの未来に『嘴犬という本を出版した』という事実を確定させたのです」
「そんな事して何になる?」
「うーん、そこがミソなんですよねぇ」藤重の問いに答えあぐねる伊坂。
「僕が思うに、『嘴犬』というのは何らかの怪異です。
その証拠に、本は出版されていませんよね?なのに、現実には存在する。……それはつまり、誰かが意図的に、そう仕向けているということです」
「じゃあ、その黒幕って奴をとっ捕まえりゃいいのか?」
「そういうことでしょうね」
「そいつの居場所とかは分かんねえの?」
「研究を継続しているなら、まだ福岡……研究室を根城にしていると考えられます。まぁ、これは岩永さんの連絡を待つのが1番いいでしょうね」
伊坂はやれやれと首を振った。結局徒労かよと文句を言う藤重を他所に、伊坂は時間を確認しようと思い携帯を見る。すると、留守電に履歴が入っていた。「……大沼さんからですね」
「依頼主から?」
伊坂はスピーカーを起動して電話アプリを開いた。
内容はこうだ。
『嘴犬』の原本が送られてきたので、一緒に確認して欲しい……。
「……来ましたか。事務所に戻りましょう、藤クン」「ん」
2人は急ぎ足で帰路についた。
◆
「お疲れ様です」
「……ええ、はい……」
大沼は気怠げに返事をした。その顔には疲労の色が見える。
「早速ですが、例の『嘴犬』について、伺いたいのですが」
「分かりました……」
大沼は鞄から厚い封筒を取り出し、中身を開ける。テーブルには、『嘴犬』と明朝体でタイトルが書いてある1冊の文庫本が置かれた。
「ありがとうございます。確認しても?」
「はい、よろしくお願いします」
伊坂はページを開かず、まず著者名を見る。「……やはり」
著者名は、『大沼正夫』となっていた。
「……これが、どうしたんですか?」
「どうしたも何も、大沼正夫は、貴女の父親の名前ではありませんか?」
大沼陽子は一瞬顔を強ばらせたが、すぐに視線を落とす。
「そうですが……父は既に他界しています。きっと同姓同名の別人では……」
「本当にそうでしょうか」「え……?」
「確かに、この人物は亡くなっています。ですが、死因が不明のままになっているのです」
「それこそ、事故で亡くなったんじゃないですか」
「いえ、違います」
「どうして言い切れるのですか」
「僕は、大沼さんがこの人物と同一人物だと確信できる理由があります」
「……それは?」
「お父様……大沼正夫さんは、時間と空間の研究をしていたそうですね」
「なぜ、その事を……」
大沼の顔色がみるみると青ざめていく。
「申し訳ありませんが、お母様からお話を伺ってまいりました」「そんな……」彼女は膝の上においた手をギュッと握りしめた。
「……僕は、本の内容に核心が書かれていると思っています」
伊坂は頁を開く。そこには、大沼正夫が体験したと思しき出来事がつらつらと書かれていた。
研究の最終段階である「自分の存在を未来に確定させ、擬似的なタイムリープを行う」実験に失敗し、未来に取り残されたこと。その過程で動力源の異世界存在を失い、途方に暮れていること。それでも何とか未来の研究室に潜り込み、逆に「事実を過去に確定させ、過去改編を行う」研究をしながらなんとか元の世界に戻る努力をしていること。そして、過去改編の実験として『嘴犬』を書いて過去に送り、自分の存在を過去世界に認知して貰おうとしたこと……。
大沼は全てを知り、ぽとりと一筋の涙を落とした。「ごめんなさい……父の研究に巻き込んでしまったみたいで」
伊坂はハンカチを差し出すと、大沼はそれを受け取り目尻を拭う。
「いいえ、気にしないでください。……ただ、お聞きしたいことがありまして」
「なんでしょう?」
「確か、『嘴犬』とはお母様が謎の獣を見て思いついた事柄です。なぜ、正夫さんは奥様しか知りえない事を知っていたのでしょう」
「ああ、それは多分……」
大沼はタイトルの印字をなぞり、柔らかく微笑む。
「父と母が幼なじみだったからですね」
◇
「とまぁ、これが今回の顛末です」
『へぇ、なかなか泣かせる話じゃあないか。けれど私の調査はすっかり無駄足になってしまったねぇ』
「そんな事ありませんよ。大沼正夫という名前を知ることが出来たのは間違いなく岩永さんのお陰です」
『ふふふ、そう言って貰えると嬉しいね』
結局、『嘴犬』は大沼陽子が出版することとなった。
父が確かにいるという証明を、物として残しておきたいらしい。謎の手紙も、未来にいる父から送られていたものだとすれば合点がいく。
彼女たちは、いつ帰るともしれない男を、希望を持って待つことにしたのだ。
『……しかしまさか、お父さんの研究を引き継ぐと言い出すとはねぇ』
「大沼さんは、タイムマシンを作ると言っていました。僕には到底理解できない発想ですが、彼女は本気でそれを実現させようとしているのかもしれません」
そう。大沼陽子は出版社を辞め地元に戻り、凍結されていた父親の研究を再起動させようとしているのだ。事情を知った母親もそれに納得し、2人で元いた家に戻ったらしい。
『夢のある若者じゃないか。応援してあげたくなるよ』
「ええ。大沼さんの願いが叶うことを願うばかりです」
『そうだね。家族は大事だから』
岩永の声のトーンが落ちる。何かを思い出しているような、遠い声だ。「……どうかしましたか?」
『いや、なんでもない。さて、今日はこれで失礼しよう。また面白い事件があったら教えてほしいな』
「はい、ありがとうございます」
電話を切ると、伊坂は大きく伸びをする。
窓の外は日が落ち、すっかり夜になってしまっていた。
彼は椅子にもたれかかりながら、机の上に置かれたままの文庫本を手に取り、『嘴犬』の最後のページ……後書きに目を通す。
それは、このような文章で締められていた。
『この本が愛する娘と妻の目に届くことを切に願う』
伊坂の足元では、彼の足首に寄り添うようにライカが静かに寝息を立てていた。
了