黄緑と青の短冊を持って、ワタルは龍神池の桜の木の根元へと座り込んだ。
願い事を書いて提出するようにと、学校の宿題になったものだった。
二枚あるのは、失敗した時用の予備というで、二つ願い事を書いても構わないということにはなっていた。
「何がいいかな……」
ワタルは、短冊を眺めながら考える。
普段なら、したい事、やりたい事、欲しい物はいくらでも湧いてくる。
けれど、いざ『二つ』となると、どれを書こうか非常に迷う。ましてや、これはクラスに後々飾られる笹飾りに吊るされる物だった。あまりおかしな事を書けば、俊やクラスの皆のからかいの対象になりかねない。
「うーん……」
ワタルは鉛筆を取り出すも、自分の願い事は何だろうと頭を捻った。思いつく事は、直ぐには叶いそうもない事や、そうでなかったら、自分の目標にしてもいいような事で……。
「お小遣いがアップしますように…、じゃ、なんだか恥ずかしいし…。テストでいい点取れますように、じゃ、勉強しろって言われるよなぁ……。欲しいゲームの事なんか書いたら、何だか先生に怒られそうだし……、うーん……、皆に見せてもいい願い事って言ってもなぁ……」
ワタルがブツブツ呟いていると、不意に、ひゅっと強い風が吹いた。ワタルが膝に乗せていた短冊のうち、黄緑色の短冊が風にさらわれてしまう。
「あ……!」
短冊が龍神池に落ちると思われた時だった。その短冊を、ぱっと掴む手が伸びた。
「え……?!」
「ふう……、危ねえなぁ……」
短冊を掴んだその人物が、くるりと振り向き……
「……ワタル?」
「虎王!」
思わず立ち上がったワタルと、短冊を持った虎王は、お互い目を丸くした。
「「何やっているんだ?」」
二人の声が、同時に重なった。
「ボクは…学校帰りにここに寄って、宿題をやってたんだよ。虎王こそ、何をやってるのさ」
「オレ様は、ヒミコと遊んで帰る所だったんだ。そうしたら池が見えて、こいつが落ちそうになってたんだ」
虎王は、ひらひらと短冊を揺らした。
「これはワタルのか?」
「うん、そうだけど…」
「これ、タンザクって言うんだろ?」
「え?知ってるの?」
ワタルが驚くと、虎王は得意げに胸を張った。
「ヒミコに聞いた」
「……それは、知っているとはちょっと違うんじゃ……」
「そんな事はない!このタンザクに願い事を書いて、ササに飾るんだろ?そうしたら、願い事が叶うって」
「うん、そうだけど……」
「だろ?」
虎王は、覚えたばかりの知識を披露できたのが嬉しいのか、満面の笑顔になった。
「教えてもらったって事は……虎王は、願い事を書いたりしたのか?」
「してない」
「え?そうなの?なんで?」
「別に、オレ様には願い事なんてないからな」
あっさりと虎王が言う。
……ワタルはそれが、何故だか、ひどく……
「ほら、もう落とすなよ?」
虎王はワタルに近づくと、拾った短冊を差し出した。
ワタルは、それを受け取る代わりに、虎王に鉛筆を差し出した。
「?……なんだ?」
「虎王にあげるよ」
「へ?」
「ボクには、願い事は一枚で十分だ。だから、もう一枚は虎王にあげるよ」
「……オレ様には、願い事なんて……」
「願い事がない人なんて、いないよ」
「………ワタル」
虎王が、目を見開いた。ワタルは……虎王の瞳を、真っ直ぐに見据えた。
「……ここには、ヒミコも、モンジャ村の人も、聖龍殿の人だっていない。……虎王がどんな事を願ったって、誰にも知られたりしないよ」
「………」
「好きな事……、書いたら良いじゃないか。なんだって良いよ。虎王が、叶えたい事を……」
「………うん」
虎王はためらいがちに頷くと、ワタルから鉛筆を受け取った。
二人は、木の根元に座り込み、少し無言になって、互いの願い事を考え始めた。
「……なあ、ワタル」
「なに?」
「なんで、タンザクに願い事を書くと、叶うってなってるんだ?」
「そこは聞いてなかったんだ…」
ワタルは、苦笑した。
「モンジャ村のとは少し違うかもしれないけど……、ボクの世界では、明日は七夕なんだ」
「タナバタ?」
「うん、織姫と彦星って人が、年に一回会える日なんだ」
「?なんで、年に一回だけなんだ?」
「二人は元々恋人同士だったんだけど、遊んでばっかりだったから、神様が二人に別れて暮らす様命じたんだって。一年に一回だけ会う事を許されて、その日二人の願いが叶うから、七夕の短冊に書かれた願いも、叶えてくれるって訳」
「随分と太っ腹だな」
「まあ…本当に叶うかは、分かんないけどね」
「なんだ、そうか」
「でも、願い事って大事なんだって、宿題を出された時に先生に言われたよ。人は、目標だとか願い事があるから、頑張れるんだって……」
「……そうなのか?」
「うん……、ボクも、そう思うよ。ないよりは、あった方が良いって……」
「ふうん……、それで?お前は、何を書くんだ?」
「え?まだ考え中……。けど……」
「?けど、なんだ……?」
虎王が、じっとワタルを見る。
どこまでも澄んだ、青い瞳。
夏の抜ける様な群青色の空や、透明な夜空を思い起こさせて……
「うん……、決めた」
「?なんだ?」
「……内緒」
「なんだそりゃ?ケチケチしないで、教えろよ」
「恥ずかしいからやだよ。……虎王こそ、早い所書いたら?」
「ワタルが教えたら書く」
「それじゃ、自分の願い事じゃないじゃないか……」
「もう決めてる」
「そうなの?」
「だから……」
「…じゃあ、書いて。書いたら、教えるから…」
「本当だな?」
「うん……」
ワタルが渋々頷くと、虎王は、嬉しげに笑った。
「約束だぞ?」
そう言って、虎王は手元の短冊になにかを書き始める。ワタルは、カバンからノートを取り出した。
「虎王、これを短冊の下に置いたら、書きやすいよ」
「そうか?」
虎王はワタルから受け取ったノートを膝に乗せ、その上に短冊を乗せて、文字を書くのを再開した。ワタルは下敷きを取り出して、同じように短冊の下に敷き、両膝を曲げて、支えにしながら、文字を書いていった。
サリサリと、二人がタンザクに滑らせる鉛筆の音が、ひっそりと聞こえた。
「……よし、書けたぞ」
「え?もう?」
ワタルが虎王を見ると、虎王がずいっと、顔を近付けてきた。
「ワタルは出来たのか?」
「ちょ…、まだだから見ないでよ」
「なんだ、まだなのか。オレ様の勝ちだな!」
「何言ってるんだか……」
呆れてため息をつき、ワタルは願い事を最後まで書いた。
「よし…と」
「書けたか?見せろよ」
「いいけど……」
はい、と、ワタルは虎王に自分の短冊を渡した。虎王はそれを受け取って、じっと眺め……
「……読めない」
「だろうね…」
ワタルが、おかしそうに笑うと、虎王は眉をひそめた。
「なんだ。読めないって分かってるなら教えろよ」
「ボクだって、虎王の書いた文字は読めないんだよ?なんでボクばっかり…」
「オレ様の方が先に書き終わったんだ。だからオレ様が先に聞く権利がある」
「権利って、なんなの…」
呆れつつも、隠す気はなかったので、ワタルは虎王に手招きして、手を口元に当て、虎王の耳元に、自分の書いた願い事を伝えた。
それを聞いた虎王は、目を丸くして……
「……おなじだ」
「え?」
「オレ様と、同じだ!」
嬉しげに、虎王が言った瞬間、
「……?!」
たった今、そこにいた虎王が、消えてしまった。
慌ててワタルは立ち上がり、辺りを見回すが、虎王が『いた』痕跡は、どこにもなかった。
ただ、ワタルの足元に、黄緑色の短冊が、ノートの上に残されていた。
「……虎王…」
ワタルは、その短冊を拾い上げる。
そこには確かに、ワタルの書いた覚えのない、記号の様な『文字』が残されていた。
何が書いてあるのか、読むことは出来ない。
けれどワタルは、そこに何が書いてあるか、分かっていた。
ワタルは、自分の願い事を書いた短冊と、残された短冊をそれぞれの手に持ち、並べてみる。ワタルの願いと、虎王の願い。
それが同じだと、虎王は言っていた。
「………」
ワタルの口元に、笑みが浮かぶ。それは一人では叶う事はなく、二人揃って初めて叶う物だった。願いを同じくしているという事が……とても、嬉しかった。
「皆が見たら、なんて言うかな……」
先生や、クラスの皆に、あれこれ言われるかもしれない。けれどワタルは、それでも良かった。大切な『トモダチ』と願いを同じくしている事。それが分かった事が、何よりも重要なのだから……
ワタルは、空を見上げる。
夕暮れは美しく、きっと明日は晴れるだろうと予想された。
どうか、明日が晴れて、夜空に星が煌めく様、ワタルは願った。
ワタルと虎王の、二人の願いが、空の織姫と彦星に届くように……。