彼岸そこは静かだった。濃霧の白が視界を覆う。目を落とすと足元は彼岸花が群生しており、霧で霞む視界の端までびっしりと生えている。陽光に焼かれ崩れ落ちたはずの肉体は傷まで元通りだ。突然、前方から微かな音がした。草を掻き分ける軽い音、そして湿った衣擦れの音。何者かの歩みは少し離れたところで止まる。空気が揺れ、靄の向こうに青白い影が見えた。
「迎えにきたよ」
何者かと鋭く問うと、影は困ったように笑った。
「かつて君の友だったものの亡霊さ。忘れてしまったかな、もう何百年も経っているもの」
無惨の睨む先の影は周囲の花を揺らしながらゆっくりと近付いてきた。霧の奥から、浅縹の縫腋袍に冠を身につけ、長い黒髪を垂らした柔和な笑顔の青年が姿を表す。
「……琥鴞」
「お疲れ様、無惨くん」
「待っていたよ、とは正直言いたくなかったけどね」
無惨は手招きする琥鴞に従い、左右に避けられた彼岸花の道を進んでいく。
「ここはどこだ。私は炭治郎に……」
そう。炭治郎に置いて行かれたのだ。珠世の毒で弱り、鬼狩りに足止めを喰らい、日光で焼かれて私は死んだ。
「君の思ってる通りの場所だよ」
琥鴞は少し振り返り、悲しげに微笑むとまた歩み始めた。彼岸花は疎らになり、足元の湿った土には砂利が混ざってきた。
「叶うなら四十九日の間じゅうずっと、君と話しながら行きたかった。でも君を一刻も早く送り届けて欲しい人が大勢いるようだね」
足元の砂礫が丸い石に変わったと気付いた途端、目の前に川が出現した。奇妙なほど清潔な岩の上には畳まれた白い着物が置いてあり、琥鴞はそれを取って無惨の元へ戻ってきた。自分でやると言っても琥鴞は聞かず、傷だらけの腕を袖に通し始める。
「こんなに傷ついて……痛くはないかい?」
「全く。先刻までの戦いが信じ難いくらいだ」
「そう……頑張って生きたんだね」
つまらなそうな無惨に誇らしげな金色の眼差しが向けられる。何故労る。何百年も昔の亡霊が、鬼の血も生命も持たないお前が、最早私と何のかかわりもなくなったお前が、何故私をそんな目で見る? 疑問を口にすると、穏やかな顔の男は無惨の帯を結びながら、君に生きて欲しかったから、と答えた。
「永遠の命を語る君の瞳は輝いていた。その野望を実現せんとする弛まぬ努力と献身には目を見張るものがあった。僕は君の夢を応援していたんだよ。君の凄まじい生への欲求と精神力に励まされ感化された者として、また一人の友として、君の直向きな姿を尊敬していた。 僕は君の人生へ敬意を抱いているんだ」
怪訝な表情の無惨へ向かって琥鴞は厳かな声色で続ける。
「これが人を想う心だよ。君を苦しめた鬼狩りたちの絆と同質の感情。想いは押し付けるだけではいけないんだ。真に相手の望むことを知り、彼らの幸福を心から願う。そしてそれには深い尊敬と愛情、そして共に過ごした時間が大切なんだと、僕はそう思う」
「それが竈門炭治郎に託せなんだ訳か」
「多分ね。彼の望みと君の望みは全くの異質だ。正反対と言ってもいい。それに君は、君の幸福とは異なる彼の幸福を考えはしなかったろう?」
「私の知ったことではないからな」
「そういうことだよ」
琥鴞は無惨の白い手を引き、恐ろしい唸りをあげる暗い川へと歩みを進める。氷のような水が足の皮を躊躇なく叩く。痺れる足の裏で滑る川底を探りながら、無惨は思いついたように尋ねた。
「ならばお前に託したなら成功するか?」
膝まで川に飲まれた琥鴞は立ち止まって眉を顰める。
「どうだろう。僕は永遠に耐えられるほど精神が強くないからなぁ。君が久遠の生を歩む様を眺めていたくはあるけれど、僕一人では生きていこうと思わない。第一、君は自分が命を落とすまで他者に夢を託そうなんて考えやしなかったろう?」
「それもそうだ。死ななければ託す必要もない」
「なら失敗に終わりそうだね。僕は君なしでは永遠を望まない。君は君の死無しでは夢を託したりしない。……目指すところが一致することって、僕らが思うより奇跡じみているのかもしれないね」
「……」
無惨は鬼狩りのことを考えていた。短い命にも関わらず、何代にも何百年にも渡って大勢の人間が目的を共にして絆を紡ぐ集団。弱いくせにやけに鬱陶しくて滅ぼすことが叶わない。その厭らしさの根源たる想いの正体と希少性がわかりかけてきた……が。
「無惨くん!?」
川が一層深くなっていると気付かず、足を踏み外した無惨は川に引き摺り込まれた。立とうとするも流れが強く、上体を起こすだけで着物ごと持って行かれそうになる。筋力も感覚も人間程度になってしまった今、身体を思うように扱えない。慌てて戻ってきた琥鴞の腕に引き上げられると、冷たい着物が肌に張り付いてたまらなく不快だった。
「君、大事ないかい?」
蒼白な顔の無惨は、震えを悟られぬよう口を間と真一文字に食いしばってそっぽを向いていた。
「他の場所ならおぶってやれるんだけど、ここは"あの川"だから自力で渡らないと」
琥鴞は己の左腕に掴まるよう促し、落ち着いた足取りで川を進み始める。下流の無惨は少し歩きやすくなったものの、腰まで冷水に浸かり続けて身体の芯まで凍えそうだった。
「川を越えたら少し休もう。その間、君の一生の話をしておくれ。僕と出会う前、僕の所を訪れていない時間、そして僕がいなくなってからの時間。君の物語を聞きたいな。君だけの人生の話を」
暖かくしてからだけどね、と琥鴞も青い顔で付け加える。今や水嵩は胸にまで到達していた。声を出すと舌を噛みそうで、かといって頷いても琥鴞からは見えないので、しがみついた腕を強く握った。冷たい水流が感覚を奪う中、琥鴞の冷えた指が握り返してくるのを感じた。