カドモリ吸血鬼パロの書きかけ 一人で月を見ていた。つい昨日まで新月であった細い三日月が窓から頼りない光を室内に投げかけている。
月は嫌いだった。しかし人里離れた山林では他に見るものない。素人作りの掘立て小屋は隙間風が吹き込み、カドックはひとつくしゃみをした。
まだ冬の入り口だが寒冷な地域である。そろそろ湖に氷が張り始めるだろう。それまでにこの小屋の防寒対策を考えておかないと、とため息をついたカドックの耳に物音が届く。
「……」
夜行性の動物であれば仕留めて明日の糧にできるかもしれない。たとえ凶暴な肉食動物だったとしても負ける気はしない。カドックはそっとドアを開けて外の様子を窺った。
「気のせい、か……?」
足音を殺して、動物の気配を探ったが何も聞こえない。三日月を映した凪いだ湖面だけがそこにはある。孤独のあまり気がおかしくなったのかもしれない、と踵を返す。
「こんばんは、いい夜だネ」
「うわっ!?」
ほぼゼロ距離からの声がけ。全く気配を感じさせずにその男はカドックの背後、湖を背にするように立っていた。
この近辺には凶悪な獣が生息しているので真っ当な人間は誰も近寄らない。いるとすれば訳ありの旅人や山賊だ。だからカドックは肝を潰しつつもほぼ無意識に腕を振り回した。
ギャ、という短い悲鳴と共に大きな水柱が立つ。
「な、なにをするっ! ガハッ、この私がっ! 何をしたというんだぶはっ!」
少し落ち着きを取り戻してみると彼は自分と同年代の青年のようだった。
彼に敵意がないこと、そして泳げなさそうだということを悟ったカドックは、慌てて冷たい湖水から男を引き上げた。
「はぁ、はぁ……た、助かった……まったく、川だったら、どうなっていたか……」
引っ張り上げた男の着ているものは上等そうだった。金銀の飾りがついた黒い服、濃紺の立派なマント。間違ってもこんな場所に来てくるようなものではない。山賊の類ではなさそうだが、不審者であることは間違いなかった。湖に突き落とされても文句は言えないくらいに。
「あんた……こんな所で何してる」
「いい夜だから、ちょっとした散歩に、ネ」
美しい男だった。カドックの白髪とは微妙に色合いの違うプラチナブロンド。夜の闇をそのまま溶かしたような黒い瞳。唇の端を上げると人を惑わせる妖しい色香が閃く。
まあ、今は全てがびしょ濡れになっているのだが。
「はあ……来い。汚い所だが暖炉くらいはある」
そう声をかけたのは、突き落としてしまった責任感からで、この男に魅入られたわけではない。決して。
「あんた吸血鬼だろ」
「ほう?」
建て付けの悪いドアを開けて、男を招き入れる。床がずぶ濡れになるがどうせ大した家でもない。火をつけた暖炉にどんどんと薪をくべていく。
「さっき湖から引き上げた時影が映ってなかった」
吸血鬼は鏡に映らない。同じような性質を持つ湖面にも映らないのだとさ初めて知ったが。あと、吸血鬼とは総じてとても美しいイキモノだと聞いていたので。
単刀直入に正体を言い当てられた男は大した驚きも見せずに「おや詳しいね。ご明察」と肩をすくめてみせた。
「まあいい。そんな所にいると風邪ひくぞ。もう少し火の近くに来い」
火が安定したのでようやく作業を止めて男を振り向く。彼は鋭い目を大きく見開いて、少し面食らったようであった。やがて肩を振るわせ始める。
「くく、ハハハ、吸血鬼が風邪とは! きみ、面白いことを言うな!」
確かに言われてみればそうで、永遠の命を持つという吸血鬼が風邪など引くはずない。ついには腹を抱えて大笑いされて顔からも火が出そうだ。
「うるさい! 知るか!」
「フフ、笑って悪かったネ」
笑いすぎてまだ少し涙目の彼が暖炉に、カドックに近づいてくる。手袋に包まれた指先がふいに首筋を撫でた。布越しだというのに氷のように冷たく、それは湖水で冷えたせいではない。確か吸血鬼とは蘇った屍人が力を持ったものだと聞いたことがある。百年ほど前の吸血鬼狩りで大きく数を減らした彼らと出会うことは稀だ。
「きみ、私に襲われるとは思わないのか?」
「襲いたければ最初に声なんかかけてこないだろ」
あの時黙って背後から首筋を噛んでいれば済む話だ。この近辺には誰もいないので目撃者もいない。
「なるほど、良い度胸と洞察力だ。では暖かい飲み物を所望しよう。できればホットワインがいいナ」
「図々しいな。そんなもんないぞ」
吸血鬼の青年はジェームズ・モリアーティと名乗った。こう見えて数百年生きているのだという。ワインなどないのでカドックは残っていたミルクを暖炉の熱で暖め始めた。
「それで、吸血鬼がこんな所に何の用だ」
この辺りは餌となる人間もいないし彼らの城があるという話も聞かない。
「人間を喰らう恐ろしい化け物がいる、と噂を聞いてネ。退治しにきた」
過去の吸血鬼狩りで仲間を数多く殺されたというのに、彼は人間の味方なのだろうか。疑問が顔に出ていたのだろう。彼はこう付け加えた。
「私は化け物から血と魔力を戴く、人間共にとっては命を脅かす敵が一つ消える。win-winの関係というワケだ」
きみ、何か聞いたことはあるか? と聞かれたが、カドックの口からは何も言えることはない。
「さあな……獣がいる、というのは聞いたことがあるが」
それからは特に化け物の話はされなかったしカドックも聞かなかった。二人でミルクを飲みながら吸血鬼の暮らしだとかカドックの森の暮らしだとかをぽつりぽつりと話し合う。沈黙が落ちることもあったがそれも不思議と嫌ではない。
「そろそろ日の出だネ。名残惜しいがそろそろお暇しよう」
モリアーティが立ち上がる。一瞬のうちにまだいくらも乾いていなかったはずの衣服も髪もすっかり元通りになっていた。彼らは魔術に長けているというが、これもその一つなのだろう。
「お前っ…! 最初から火なんて必要なかったんだな……!」
「でも嬉しかったヨ。じゃあネ」
彼はそう微笑んで、煙のように消えてしまった。
一生に一度あるかないかの数奇な出逢い。相手は吸血鬼だが、他人とこんなに話せたのは何年ぶりだろうか。そのせいで結局は一睡もできなかったが、たまにはこんな騒がしい夜があってもいいだろう。
そう、思っていたのだが。
彼は数日後再びやってきた、今度は薔薇の花束を持って。
「演算過程は割愛するが、きみは私と一緒に暮らすべきだと結論付けた」
「は?」
花瓶などないのでとりあえず水を張った甕に花束を生けたところでモリアーティはとんでもないことを提案してきた。何を馬鹿なことをと言われることは予想していたのだろう。分厚い綴じ本が渡された。
「今からきみにも分かるようにその理由を説明しよう。配布資料の一ページ目を見てくれ」
表紙には『モリアーティ・ザ・キャッスルレジデンス〜歴史と共に歩むゆとりある上質な暮らし〜』とよく分からない文章と共に古めかしい城の絵が描かれていた。
「私の城はここからずっと北方の深い山奥にある。少し不便だが必要があれば私の力でどこへでも連れて行ってやろう」
表紙をめくる。「暮らしを包む安心・安全」という項目に「無料の送迎」と書かれていた。
「築数百年の古い城だが適宜設備更新を行なっておりセキュリティ対策も万全」
過去の吸血鬼狩りでも一度も見つからなかった上に侵入者撃退トラップも最新式だと胸を張る。
「『先進魔術で王侯貴族並みの快適な暮らし』……?」
「そうだとも!」
屋敷の維持管理は魔術で編んだ人形達が自動で行なっている上、敷地内の気温は常に一定に保っていると書かれている。
「城にはいくつかの居室があるが、きみの好きなものを好きなだけ使ってくれて構わない」
ルームタイプA〜Eまで。様々なデザインや間取りの部屋が数ページに渡り描かれていた。どれも一部屋だけでカドックの小屋よりもずいぶん広そうだ。
「広大な敷地には様々な施設を備えている。特にお勧めは薔薇園だナ。とはいえきみが望むならばどんな花でも咲かせてみせよう」
ページをめくると今度は屋敷内部の詳細な絵がいくつか描かれていた。「充実した共用設備」という表題がつけられている。
・年中美しく咲く薔薇園
・噴水付き庭園
・国内最大級の蔵書を持つ図書館
・広大な運動場
・バー/キッチン/大食堂
・ダーツ/ビリヤード/コンサートホール
・その他設備増設については応相談
「私自身は人間の食事は食べないが、用意ならいくらでもできるから安心して欲しい」
イメージ図として美味そうな食事が描かれたページを指し示す。「世界の美食が集うカフェ/ビュッフェ」と書かれている。この無駄に美麗な言い回しが余計に胡散臭さを補強していた。
「さらに……興味があればどんな学問でも教えよう。私は天才だからネ」