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    フレス

    @hakitame1607

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    フレス

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    本編後乙坂家(🐻🐦、おととも)
    21.8.10 修正

    「わーっかっこいいーっ!」
     妹のはしゃいだ声。
    「キマってるだろう」 
     ニッと笑いながらポーズをとる兄。
     空気が涼しくなり、秋のはじまりを感じるころ。自室で勉強中、気分転換にリビングに出ると兄と妹が楽しげに笑っていた。いつもはラフな黒シャツを着ている隼翼がスーツを着ている。
    「へえ、珍しいね、兄さん。どうしたの?」
    「ちょっとしたパーティがあってな。さすがにいつものカッコじゃまずいだろ? どうだ、有宇」
     感想を求められて、改めてその立ち姿を見る。
     色は黒。その色合いは普段の隼翼の装いとあまり変わらないと思ったが、よく見るとストライプが入っている。ネクタイは無地の深い緑、ボタンはグレー、いつもは開いている首元は隠れ、組織のリーダーというより誠実な若者らしさがあった。スーツの持つイメージのおかげか、それとも今兄がとっているポーズのおかげか、いつもよりスマートに、背筋が伸びて見えた。
    「かっこいいよ、すごく」
     有宇の素直な言葉に隼翼は柔らかい笑みを返す。隣ではなぜか歩未が誇らしげな顔をしている。
    「歩未が選んでくれたんだ」
     隼翼に撫でられ、えへへと歩未の表情は融ける。
     目時や七野とともに購入に行ったという。3人であれやこれや言い合ったが最終的には歩未のセンスが採用され、ふたりには随分褒められたらしい。
    「有宇お兄ちゃんの時も、このわたくしめにおまかせあれー!」
    「ああ、ぜひそうさせてもらうよ。楽しみだ」
     胸を張る妹にいつか来る未来の約束をする。喜んだ歩未が隼翼とハイタッチをした。その勢いは目の見えない兄を慮ったのか小さく、ふたりの手のひらが弾きあう音はささやかだ。だのに有宇には、パチーンと高らかに響いた気がした。まるで何かの祝福のように。
     暖かく、穏やかで柔らかい。家族の揃う空間に有宇の心はかけがえのないものを感じ、目を細くする。この光景をいつまでも覚えていたいと思った。
     ふいに、歩未の前でポーズをとったり、くるりと回ったりしている隼翼の背中で揺れるものに目がいった。隼翼の髪が彼の動きを追いかけるように流れている。それは出会ったころより長い。
     ーー兄に対して"出会ったころ"というのはおかしいかもしれない。実は有宇にはこの春以前の記憶がない。記憶を失う前から有宇を知る人であっても、口にはしないが有宇自身からすれば春に出会ったという感覚が正直なところだった。本当の出会いの思い出話を聞いても、それは有宇には今知った話だとしか受け止めることはできなかった。事実として実感を持とうと努力もしたが、心のうちから自然に感じられるものもなく、そんな行動がまた虚しさを大きくする。昔のことを覚えていないなんて誰にでもあることなのに、自分は記憶を失っているから覚えていないという事実が彼に孤独を与えた。それが実の兄や妹でも、大切な恋人でも。
     有宇と接する誰もがそれを敏感に感じ取り時に影を纏うが、しかし誰も彼を責めることはしない。皆が記憶を失った有宇とともに未来を生きようとしてくれている。
     だからこそ有宇は今の毎日をこの日常を、代えがたいものだと生きていた。些細な会話さえ何も忘れたくないと恋人にこぼしたことがある。恋人はあっけらかんと言う。
    「忘れても大丈夫ですよ。記録に撮ってありますから。もし記憶にも記録にも残せなくても、大丈夫です。人間はそういうものなので、諦めましょう。忘れて、また同じことをして、またあたしと笑いましょう。何度だって歓迎します。ウェルカムです」
     大体あなたは全部覚えられるほどのメモリもないでしょう、と軽口を添えられる。は、と息を吐き「確かに」と呟いた。誰も有宇には語らないが、自分の過去には取り返しのつかない過ちが、罪があったのだろうと彼にはわかっていた。記憶のない孤独と罪悪感が迫る暗闇から、自身のそばがあなたの居場所だと手を引いてくれる恋人の抱擁が有宇を陽光のもとに導く。穏やかに暮らす日々を受け入れてよいのだと。奈緒はすごい、と彼女と出会ってから何度目かわからない感慨にひたり、そこに確かな幸せを覚えるのだった。
    「兄さん、髪伸びたね」
     右腕をまっすぐ伸ばし天を指さしている隼翼に声をかける。
    「ん、ああ。そうだな……」
     振り向いた隼翼は後ろ髪を撫でながら答えた。前髪や耳にかかる髪も触り確かめ、ふむ、と声を漏らした。伸びたのは後ろだけではないようだ。
    「髪くくる? あゆのでよければ、なのですが……」
     眉を下げて歩未が言う。普段は髪をまとめていない歩未の髪ゴムやシュシュは華やかで愛らしいデザインのものが多く、ほとんどがコレクション的意味合いで集められたものだった。彼女の控えめな声は、兄が必要とするなら使ってほしいが、普段のシンプルな装いから彼があまり過度な装飾は好まないのではないかと思ってのことだった。
    「おっ。助かる、歩未。貸してくれるか?」
    「うん!」
     首肯した隼翼に歩未はぱっと破顔し、取ってくる、とパタパタと自室へ走っていった。
     その背中を見送る有宇が尋ねる。
    「髪伸ばすの?」
    「うーん、どうするかな」
     隼翼はソファに腰を下ろし、伸びた髪を梳くように触れている。どれだけの長さか、確かめているようにも見えた。
    「忘れてたな……気にしてくれる奴がいないから」
     わずかに口角を上げる隼翼の言葉に、誰のことかと首を傾げる。兄の周囲の人々を頭に浮かべたが、彼の仲間である目時たちは髪が伸びたことに気付かないほど兄に無頓着ではない。過去にはあえて口にする人がいたということか。
     兄はかつては有宇たち弟妹と暮らしていたが、この数年は離れていたらしい。今は週に何日かは家族とともに過ごす時間を作っているが、仕事が忙しいのだろう、相変わらずほとんどの時間は彼の組織が持つ研究施設にいた。
     兄の髪の長さを気にしていた人。ともに暮らしていた頃の幼い歩未のことだろうか。これだという人が有宇には思い当たらない。
    「有宇、お前は? 春ごろは長かっただろ。けっこう目にかかるくらいに。お前もなかなか甘いルックスをしているからな……似合うと思うぜ」
     そう言ってウインクを投げられた。容姿を褒められた照れから半笑いになる。こっちは今くらいのままにするけどと、まぶたには縦にナイフの痕が残る、もう光を通すことのない右目を覆う前髪に少し触れる。
    「伸ばすつもりはないんだ。短いほうがなんだかしっくりくるし、いつも顔が見えるようにしてくれって、奈緒が」
     そう言う有宇の瞳は幸せに満ちていて、綻んだ顔は恋人に向けたようだった。声音からそれを感じ取った隼翼の表情も穏やかになる。笑うと似ている、いつか隼翼と弟妹をそう言ったあの人を思い出した。
    「隼お兄ちゃーん」
     歩未が小さな箱を抱えて戻ってきた。
    「お待たせいたしましたー」
    「そんなに持ってきたのか」
     箱の中を覗いて有宇が呟いた。
    「試着は大切だからな」
    「その通りでござる! 似合うかなって思ったのをピックアップいたしました!」
     ソファの隼翼の隣に座った歩未は、箱を膝に乗せてひとつ取り出し隼翼の顔に近づけた。またひとつ顔まで持ち上げて、ふたつを見比べたりしている。それで髪をまとめてみてしばし見つめて解いたりする。シンプルな単色の髪ゴムや、ラメやクマなどの飾りがついているもの、色鮮やかなシュシュたち。中にはリボンも入っている。真剣ながら楽しそうな妹に有宇が時折口を挟むが、歩未のセンスには適わないらしく不満気な声を返される。聴こえてくる賑々しいやりとりに隼翼は目を閉じた。
    「本番までには短くするよ」
     歩未の手に残る選択が3つになったあたりで隼翼が声をかけた。
    「そっかあ……」
     歩未の呟きはシュンとしていて、ふたりの兄にも落胆が伝わった。パーティだと言っていたから、身なりを整えなくてはいけないのだろう。スーツを選ぶ時にも印象を良くしたいと言っていた。兄の髪を見つめることも、手で触れることも、何が似合うか考えることも、やっていくうちまるで隼翼という人を知っていくようだった。兄隼翼のかたちが胸にじんわりと染みていった。次は自分の髪をやってもらいたいと望みながら、歩未は明るい声で応えた。
    「それなら、いっちばんお似合いのにするね!」
     そしてより真剣な顔で手の上の装飾を見比べはじめ、長い思案ののちにこれだというものが決まったらしい。右手には櫛を持ち隼翼の髪を梳く。隼お兄ちゃんは癖っ毛だねと言われ、兄ふたりはそういえばそうだ、とお互いの髪質の違いを思った。
     首を超える長さの髪をひとつに集め、髪ゴムでまとめる。前から後ろから、何を確かめているのか歩未は隼翼の周りをくるくると移動しながらよくよく見、うん、と息をついてから
    「できましたー!」
     満足そうに言った。
     立って立ってと促され隼翼はソファから立ち上がり、またポーズを決める。隼翼が動けば下の方で結んだ髪が小さく揺れ、それをひとつにしている髪ゴムが鈍く光ったように見えた。歩未が選んだものはスーツの色に近い深い夜のような色合いの髪ゴムだった。その材質ゆえか、光があたれば微かにそれを反射し、それは星空を思わせた。
    「どうだ、有宇」
    「似合ってるよ。あ、写真撮っていい?」
     ああ、と隼翼が答えると、「あゆも」と歩未も声を上げた。スマホかカメラを取りに弟妹が揃って自室へ向かう足音が遠ざかる。ムービーのほうがいいかな、と弟の呟く声を最後に、リビングには隼翼だけが静かに立っていた。
     結ばれた髪を右手で撫でる。結んだ箇所から髪が固まりとして盛り上がる感触に懐かしさを思い、顔を和らげる。試しにそれを右肩から流そうと持ち上げてみるが、手を離せば肩に留まることはできずするりと元の位置に戻り隼翼の背を打った。
    「まだ短いな」
     苦笑混じりの呟きを聴くものはいない。
     隼お兄ちゃん、兄さん、と口々に兄を呼ぶ声に顔を向け、ふたりの近付く足音に耳を傾けた。
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