.「……むかし、世界が……こんな風に見えてて……、」
どれくらいの時間そうしていたかわからなかったけれど、やっと呼吸のリズムを取り戻したありすがポツリと呟いた。いつだって気を使っているのが一目見てわかる高そうな洋服が汚れるのも構わず、綺麗に彩られた指先に傷がつくのも構わず、むき出しのアスファルトを握りしめるように座りこんだまま顔をあげようとしない。声をかければ返事をしようとして余計に苦しくなるのだとどこで聞いたのか覚えちゃいねえが、できることはないと判断して寄り添って、ようやく出てきた言葉は予想外のものだった。
「わたし、なまえがありすでしょ。日本うまれの日本人だけど日本人ぽくない……のは、いずれイタリアに来ることになるって、親がわかってたからなの」
「お前の親がそんなこと考えてたのかよ」
「うまれる前は、わたしのこと愛せると思ってたんだって……、"言ってた"よ」
こんな風に自信のなさげな、覇気のない声で話すのを聞くのは初めてだった。
両親は自分に興味がないからどこで何をしていても気にしないし、現に行方不明の届けもでていなければ時折勝手にお金を持ち出しても何も言ってはこないというのは聞いたことがある。随分薄情な親もいたもんだと、そういうものに無縁な自分でもそう思ったものだ。
「愛してあげられると思ってたんだって。でもうまれてみたら全然……うまくできなくて。頑張ってくれたんだよ。でも存在しない愛情はどうがんばったって出てこなくって……。そのことがショックだと思うくらいには普通の感覚のひとたちだったから、気づいたら、わたしのこと知らんぷりして、そこにいないものとして認識してたんだって……、イタリアに来てから知ったの」
こんなにかわいいのにね。わたしの何が悪かったんだろう。どこか投げやりな言葉がたくさん吐き出されるから、これは珍しい弱音で、ありすの本音なんだろうと思った。
「アリスのお話があるでしょ。不思議の国のアリス。わたしの名前の由来ってそれでね、……まあ、特別名前に意味を持たせるのもめんどくさかったのかもしれないけど、少なくともいずれ住むイタリアの地で浮かないような名前を、ちゃんと意味を持つ名前を、そう思ってつけてくれたんだって知ってたの。だから、……わたしは、愛してもらいたかったから、かわいい名前の通りのアリスを演じれば……」
がり、と音がする。アスファルトに血が滲む。さすがにそれ以上はと小さな拳を地面から掬い上げて、半分剥がれかけた爪を見て思わず目を顰めた。抵抗なく預けられた手は一回りどころじゃなく俺の手よりも小さくて頼りない。
俯いていた顔が、ぱっと上を向いた。息が上がって赤い頬、うるんだ瞳がまっすぐに見上げてくる。
「アリスになれば、愛してもらえるって、思ったの」