スエット姿の立香ちゃんの闇 一
深更――
時間は、草木も眠る丑三つ時である。
建物全体が、ひっそりと眠りについたようだった。
昼間は賑やかなカルデアも、夜ともなると静けさが増す。
広い廊下の照明は消えて、今は常夜灯のみが点灯している。
ここは、カルデア居住区画。
召喚されたサーヴァントたちの部屋が、いくつも並んでいる。
深夜ということもあって、どの部屋も入り口のドアはぴったりと閉められていた。
こんな時間にもかかわらず、とある部屋の前で立ち尽くしているマスターの姿があった。
走ってやって来たらしく、彼女の息は随分と上がっている。
しかし、何をそんなに急いでいるのか事件や事故が発生したという訳ではない。
緊急避難を告げる館内放送も、けたたましく鳴るサイレン音も聞こえない。
周囲は至って静かなもので、聞こえるのは電力を供給する機械音だけだ。
虻の羽音のようなジーと言う単調な音が、微かに聞こえるばかりだ。
マスターだけが慌てていた。
「来ちゃった……」
今の時刻を考えれば、とても他人(ひと)の部屋を訪ねるような時ではない。
そのことは承知のうえで、彼女はドアの横に備え付けてあるインターフォンを鳴らすべきか迷っている。
胸の前で握り拳をぎゅっと握り込み、呼吸を整えながら、目の前のインターフォンを凝視していた。
部屋の中の様子を窺い知ろうにも、物音すら聞こえない。
目の前に聳えるのは鉄壁の扉だ。
ピクリとも動かない。
何より、防音加工が施された扉だ。
余程の爆音でもない限り、室内の音が外へ漏れてくることはなかった。
覚悟を決めて、インターフォンのボタンを押そうと指を伸ばすが、直前で躊躇ってしまい手を引っ込めてしまう。
それを何度か繰り返したころ、今更のように後悔が押し寄せてきた。
感情のままに自分の部屋を飛び出して来たが、時間が過ぎれば冷静さも戻って来る。
マスターはゆっくりとドアから離れて、
「やっぱり帰ろうかな」
そう諦め掛けたときだった。
――プシュ
冷たい機械音をさせて、扉が開いた。
インターフォンを鳴らしても無視をされて、開くかどうかわらなかったドアだ。
それが何の前触れもなく、開いたのだ。
「へっ?」
俄かには信じられない状況に思わず間抜けな声を上げる。
廊下でおろおろと戸惑っているマスターを知ってか、開いたドアはすぐに閉まってしまうこともなかった。
ほんの少し前までピクリとも動かなかった強固な扉は、まるで彼女を招くように開け放たれたままになっている。
ドアから顔を突き出して覗き込むと、部屋の中は真っ暗だった。
灯りはひとつも見当たらない。
天井の照明はもちろん、常夜灯や非常口の誘導灯さえなかった。
一寸先は闇である。
あまりの暗さに、ここに人がいるのかさえ疑わしくなる。
この部屋の広さは、マスターも知っている。
居住区画の部屋は、どこも同じような間取りだった。
だが、この部屋は薄明りが指すようなこともなく、そのうえ奥行きがまったく感じられない。
漆黒のような暗闇が、どこまで果てしなく続いている。そんな予感がした。
部屋の中へ足を一歩でも踏み入れたら最後、そのまま二度と出られなくなってしまいそうな、そんな不安に駆られる。
(今、ドアを閉められたらギロチンよろしくで、首を痛めそう)
そんなことを思いながらも、これほど暗くて怪しい空間へ飛び込む勇気はなかった。
「もしもーし、道満さぁん。こ、こんばんわ〜」
入り口から暗闇に向かって、声を掛けてみる。
部屋の中には入らず、声のトーンを落としながら、辺りを憚るようにぼそぼそと喋る。
だが、居住区画で与えられた個室の広さを思えば、小さな声でも部屋の奥まで十分届くだろう。
「夜分遅くに恐れ入りまぁす。いらっしゃいましたら、お返事を頂けると助かるのですがぁぁあ?」
遠慮がちに話し掛けてみるが、返事はない。
人の気配どころか生活音さえしない不気味な部屋からは、無言が帰ってくるばかりだ。
すると、そこへ小さな動物がやってきた。
四つ足を忙しなく動かしながら、暗闇からちょろちょろと出て来る。
茶色い体毛をしたカヤネズミだ。耳は大きく、可愛らしいつぶらな瞳をしている。
「ネズミ?」
ネズミはマスターの前までやってくると、地べたにお尻をぺたんとついてその場に座った。
そして前足を軽く持ち上げながら、いきなり人の言葉を喋り始めた。
「これはこれはマスター」
「……ッ!?」
突然喋り出すネズミに、マスターは目を丸くして、声を詰まらせる。
「部屋の前にどなたかいらっしゃるとは思うてはおりましたが、やはりあなたでしたか」
彼女は、ぱちぱちと頻りに瞬きをしながら、混乱していた。
「これがよそ者でござりますればさらりと無視を決め込むところでございまするが、他ならぬマスターとあってはそう言う訳には参りませぬ」
しかも、その声は口調といい蘆屋道満の声とそっくりそのままなのである。
聴き覚えのある声色に、彼女はネズミを食い入るように見返した。
「拙僧に何か御用でしたか?」
「イヤイヤイヤ、ちょっと待って。ドアを開けてくれたのは嬉しいけれど……」
マスターはネズミを指差しながら、驚きを隠せないでいる。
「いつの間に、そんな愛らしい姿になっちゃったの?」
「はい?」
「だっておかしいでしょ、鼠が喋っている!」
頭を抱えて懊悩するマスターをよそに、ネズミは小首を傾げて『ち?』と鳴いた。
「いつの間に、ネズミに生まれ変わっちゃったの?」
「ああ、これは式神と言いましょうか、使い魔と言いましょうか」
「使い魔?」
「まぁ立ち話も何ですので、そちらの明かりを持って、どうぞこちらへ」
ネズミは道満の声でそう喋ると、ドアの脇に視線を向けた。
頭を持ち上げてネズミが目配せを送った先には、持ち手のついた行燈が置いてあった。
床の上で、ほんのりと小さな灯りをともしている。
風よけの和紙には、あの世で見かけると言う曼珠沙華の絵が妖しく描かれていた。
この行燈は、いつから置かれていたのだろう。
部屋のドアが開いた時は驚きばかりが先行して、行燈の存在に気付きもしなかった。
だがきっと最初からここに置いてあったに違いない。
自分がいかに落ち着きを失い、取り乱ししていたのかを思い知らされる。
自力では結局、インターホンのボタンを押すことさえできなかったが、ここへ来た時はそれほど気が動転していたのだ。
行燈を有り難く手に取ってネズミに向き直ると、小動物はさっさと部屋の奥へ進んでいた。
「ちょ、ちょっと待って」
慌てたマスターは、弾かれたようにネズミの後に続く。
ついさっきまで手をこまねいて廊下で立ち往生していたのが嘘のように、彼女は何の躊躇もなく部屋の中へと飛び込んでいた。
漆黒のような暗闇に圧倒されて、部屋の前で棒立ちになってことなどすっかり忘れている。
そんなことより今はネズミのあとを追うことに気を取られていた。
足を踏み入れた室内は、想像以上に暗かった。
前方はもちろん、右も左も真っ暗だ。
開いたままのドアから、廊下にある常夜灯の光が部屋の中に差し込んでいる。
自分の足元しか照らさない行燈だけでは心許無く、背中に感じる常夜灯の光が頼もしい。
だがしばらく進むと、
「あっ」
背後で自動ドアが閉まった音がした。
その音に足を止めて、思わず後ろを振り返るが、ドアは暗闇に溶けて消えてしまった。
その瞬間、闇がさらに深くなった。
常夜灯の光も遮断されて、まるでとぷんと闇に取り込まれてしまったようだった。
これでもう後戻りはできなくなってしまった。
今ならまだドアがあった場所は、肌感覚でわかる。
自分が立っている数歩後ろ、確かにそこにドアはあった。
けれど、闇が深くなった瞬間、その扉は消えてしまったような気がしてならなかった。
文字通り『消滅』してしまったように思えた。
例え引き返したとしても、出入り口はなくこの部屋から出られない。
奇々怪界な空間を前に、マスターの勘がヒシヒシとそれを感じていた。
頼みの綱は、手元にある灯りが一つ。
それと道案内のネズミが一匹だけだ。
もしこの明かりをなくしたら……
もしネズミとはぐれてしまったら……
そう考えると、ゾッとする。
どちらの場合でも、あっという間に、前後不覚に陥るだろう。
今は、行燈の灯りでネズミを見失わないようにすることが精一杯だった。
一人と一匹は、闇の中にいた。
ここは、とにかく暗い。
ただ暗い――
行燈の灯りに照らされたネズミは、四本足をせかせかと動かして先を急いでいた。
マスターは自分の半歩前を進むその背中を追いかける。
一体、どこへ連れて行かれるのだろうか。
行き先は聞いてないのでわからない。
尋ねてもはぐらかれるだけかもしれない。
きょろきょろとあたりを見回してみるが、見える物は何もない。
体に感じる気温は暑くもなく、寒くもない。
冬の空っ風が吹くようなことも、夏の夜の蒸せるような熱気があるようなこともない。
やはりここは室内なのだ。
音もしない。
電力を供給するあのジーという機械音すら聞こえない。
ただ歩く自分の足音だけが、コツコツと響いている。
入室してから、どれくらい歩いただろうか。
まだほんの数分しか歩いてない。
だがすでに数十分、あるいは数時間ほど時間が過ぎているような錯覚に陥る。
同じ場所を永遠に歩かされているような気分に苛まれるのは、風景にまったく変わらないからだろう。
それとも本当に同じところをぐるぐると回っているだけなのだろうか。
そもそも居住区にある一人部屋のスペースは、それほど広くない。
しかし、そんな狭いスペースではとても説明が付かない距離をすでに歩かされている。
これほどの距離を歩けば、とっくに壁に突き当たり隣の部屋だって通り越している。
それなのに、壁や行き止まりが見えて来る気配は一向にない。
そんな風に闇の中をひたすら歩いていると、遠くにぼんやりと明るく浮かび上がっている場所が見えて来た。
その一角だけが、ぽつんと小さな灯りを点している。
目を凝らしてよく見ると、高坏の燈台が二つ用意されていて、その片方に灯りが燈されていた。
油皿の上で炎が揺れている。
その周りを二羽の蛾が、ひらひらと舞っていた。
残った燭台に、灯りはついてない。
床板の上に数枚の繧繝縁を敷いて、その上には文机が置かれている。
近くには几帳が立ててあって、朽木形の柄が入った布がかかっていた。
その隣にはやはり使われてない四足の香炉が用意されている。
文机の前には、黒い袍を着た男が座っていた。
燭台の灯りに映し出されたその男は、髑髏の烏帽子を被っている。
--蘆屋道満。
その男の佇まいは、どこか怖いものがあった。
遠目でもわかる。一見すると無害そうなのに漂う雰囲気だけでぞくりと背筋が凍る。
まるで叡智を得た獣が、そこに座しているようであった。
人ではないものが、無理に人のふりをしているようで、もののけのような男だった。
その男からは、厭世観が放たれていた。
深い悲しみのようなものが滲み出ている。
だがその反面、あかあかと燃えるようないきり立った情熱も見え隠れしている。
その合間さが、見る者に恐怖を与えていた。
道案内をしてくれたネズミは、道満の腕を伝って肩まで駆け上がると、そのまま首の後ろを通って、もう片方の肩の上で止まった。
髪の間からひょっこりと顔を覗かせている。
道満は左手の袖口へ右手を差し入れると、中から白い包みを取り出した。
包みには、黒い植物の種のような物がいくつか入っていて、その一つをネズミに与える。
ネズミは嬉しそうに『ちちっ』と鳴くと、それを口に咥えてどこかへ行ってしまった。
暗闇の中へ消えて行くネズミを見送ると、
「よくぞ参られましたな」
道満は居住まいを正してマスターに向き直った。
「ささ、どうぞこちらへ」
灯りを持ったまま所在なさげに立っているマスターを繧繝縁の上へと勧める。
「灯りはこちらに預かりましょう」
道満に促されて、彼女は持っていた行燈を道満へ渡した。
靴を脱いで、畳の上に上がる。
やはり周囲は暗く、いくら見渡してもねっとりとした闇が広がっていた。
何も見えず、その場所だけがぽかりと明るくなっている。
道満がそばにいるものの、まるで荒野に一人取り残されたようで、なんだか心細くなる。
「夜更けにごめんなさい」
「いえいえ、お気にならさず。マスターのお越しとあってはこの道満いつでも歓迎したしまするぞ」
道満は受け取った行燈の中から灯りを取り出すと、近くに置いてある火の点いてない燭台に、その炎を移した。
「しかし、あなたがこのような時間にお越しになるとは珍しいですね」
彼女は申し訳なさそうに笑って、その場に腰を下ろす。
「もしや、夜這い――?」
沈黙があった。
畳の上に正座をして収まるマスターは、一瞬、思考が停止したように、きょとんとした顔をしている。
言葉の意味を図りかねて、目を丸くしながら何度も瞬きを繰り返していた。
だが、じわじわとその意味に気が付くと、
「なっ、違ッ!」
突然声を荒げた。
暗がりの中でも、顔色が赤くなったことがわかる。
「そんなわけないでしょ!!」
マスターは深夜だということも忘れて、大きな声で否定した。
その叫び声は、微かに上擦っている。
「変な勘違いしないでよね?!」
「んーそうですか、それは残念」
「いやいや、残念がるな!ってか、全然残念そうに見えないけど!?」
「そんなことはありまぬ」
ころころと表情を変えて百面相を繰り広げるマスターに、道満は口角を上げてくすりと笑声を漏らした。
「これだからあなたといると退屈をしなくて済む」
「はぁ!?何か言った?」
「いえいえ、何も」
ギラギラと噛みつくような目で睨みつけるマスターとは対照的に、道満はあくまで冷静に笑う。
「ですが、そのお姿……。こんな時分に随分とお急ぎとお見受けいたしまする」
「ん?」
「御召し物が夜着のままではございませぬか?」
上も下もグレーのスエットに身を包んだマスターの姿は、まさに部屋着の服装だった。
しかも、靴下すら履いてない。足は裸足だ。
素足に親父サンダルを履いて、ここまでやってきた。
この味も素っ気もない姿を見て、どうして夜這いなどと言う発想になるのか。
夜這いの色気どころか、可愛げすら皆無だった。
「一度は床に就いたにも拘らず、部屋を飛び出してきたとお見受けいたしまする」
「そ、それは……」
道満の洞察力に、マスターは口ごもってしまう。
あれほど喧しくがなり立てていたのが嘘のように、弱々しく目を伏せる。
「何か急ぎの用件かと思ったのですか?」
用事はあった。
けれど、その内容は“ちょっと顔が見たくなった”くらいの用件で、自分勝手な話だった。
しかも、急ぎだったかと言うと、そうでもない。
正直、朝まで待ってもよかったと思う。
後先を考えずに突っ走って来てしまった自分に、今更ながら反省してみたりもする。
けれど、できることなら話したくない。
用事があって来たのに、話したくないというのは、身も蓋もない。
しかし、素直に話せば『どうしてそんな心境になったのか?』と訊かれるに決まっている。
問われれば、言葉に詰まる。
マスターは肩を落として黙り込んでしまった。
すると、道満の手が動いた。
ゆっくり腕を伸ばして、その手はそっとマスターの頬に触れる。
咄嗟のことに驚いた彼女は、びくりと全身を震わせた。
反射的に首を竦めて、ぎゅうと目を閉じてしまう。
その頬は、涙で濡れた跡が残っていた。
二
敵であれ味方であれ、誰かが消滅する瞬間は、未だに慣れない。
それが志半ばで果てるものであるとすれば、なおさら良いものではない。
『何、とも……はや――』
その人には、その人の信念があったと思う。
例えそれが万人に理解されずとも――
『嗚呼……
何時の世で、あろうと……悪事とは……うまく、運ばぬ……もの、です、なァ――』
目が眩むほどの閃光が白く周囲にほとばしる。
光の奔流は、大きなうねりとなって、すべてのものを飲み込んでいた。
「イヤァァァァアアア」
次の瞬間、玉のような汗を掻いて、飛び起きるのだ。
いつか見た光景。
だが、それは夢だった。
平安京へレイシフトしたときの出来事を夢に見ていた。
気が付けば、自分はいつもベッドの上にいて、目の前には見慣れた部屋が広がっている。
就寝時間となって、消灯したのは何時間前だろう。
呼吸は荒く、マスターは肩で息をしていた。
心臓の鼓動が、耳のすぐ側で聞こえる。
胸に手を当てて、呼吸を整える。
静かに、深く息を吸い込む。
吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。
それを繰り返しているうちに、息遣いは次第に元に戻った。
目には、瞼いっぱいに溢れた涙が浮かんでいた。
その涙が、頬伝って一粒零れる。
なぜ今になってそんな夢を見るのかよくわからない。
だが、そんな夢をみたせいで思いも寄らない感情が、ふつふつが湧き上がっていた。
『ちょっと道満の顔が見たな』と思ったのだ。
今は、深夜だ。
『こんなに時間に……』とも考えた。
しかし、食事も睡眠も必要としない英霊が、寝ているとは限らない。
初めは、ほんの出来心でしかなかった。
けれど、一度思い付いてしまうと、それが名案としか思えないようになっていた。
溢れ出す感情を堪えることができず、他の考えはもう眼中にない。
(無事な姿を少し見られたら安心できる気がするし。
邪魔にならないようにそっと眺めるだけなら、問題はないんじゃなかろうか?)
部屋を訪ねれば、必ず会えるというものでもない。
ドアの前で門前払いを食らうという考えには、毛頭至らないらしい。
無鉄砲もここまでくれば、あっぱれだ。
速やかにベッドから起き上がると、マスターはそっと自分の部屋を抜け出した。
そして、道満の部屋へと足を向けていた。
三
おずおずと目を開けた途端、道満と目がかち合う。
彼女を見据えるその瞳は、何かもを見透かされてしまいそうな眼差しをしていた。
目を逸らしたくても、目線を動かすことができない。
まるで金縛りあったかのように、マスターは息をするのも忘れて固まっている。
「悪い夢でもご覧になりましたか?」
「え……」
前触れもなく核心をつかれて、マスターは顔を強張らせた。
痛いところを指摘されて、驚いたように目を瞠っている。
「拙僧の杞憂かもしれませぬが」
そう言うと、道満は泣き濡れた彼女の頬をそっと拭った。
その手がゆっくりと遠ざかって行く。
マスターは、全身が硬直するような呪縛から解放されていた。
「何より、それだけの軽口を叩けるようであれば心配は無用のようですが」
呆れたように苦笑する道満に、彼女は眉を寄せて鼻白む。
「どーゆー意味よぅー」
「いえいえ、深い意味はありません」
「本当かなぁ~」
渋面で呻くマスターを道満は淡々と見据えている。
彼女は照れを隠すように自分でも涙の痕をゴシゴシ拭ると、わざとらしく話題を変えた。
「それで道満は何をしていたの?」
文机の上を覗けば、見慣れない形状のした筆のような物がいくつも置かれていた。
けれど、その形状は筆とは違う。
先端がヘラ状になったものや、小さな羽根を付けたようなもの。
耳かきのような形のものや、両端が針のように細く研ぎ澄まされたもの。
箸やピンセットのような物まで様々である。
その傍には、蒔絵を施した漆塗りの湯吞みのような物が置いてあった。
「薬の調合?」
「んん~、そんなところでしょうか?」
「あっ、誤魔化したでしょう」
「いえいえ、まさかそんな」
「はいはい、いいですよぅー。別に教えてくれなくても」
「主に隠し事など致しませぬ」
「本当かなぁ?」
「信じられぬとあらば、いつでもこの首を掻き切って構いませぬぞ」
「いやだから、そういう物騒なのやめてね?」
道満は目を細めて笑った。
「典薬頭(てんやくのかみ)ほどではありませんが、多少の知識はございますれば」
「ふぅん。じゃあ、さっきのネズミは?友達?」
「ああ、あれなる。使い魔の一種ですよ」
「使い魔?」
「褒美を対価に使役する一時的に契約を結んだ使い魔ですよ」
「一時的?」
それはつまり一時的なら、どんな姿にでも化けられるということだろうか?
そんなことをふと思いながら、マスターは文机の上に並ぶ、道具をしげしげと眺めた。
「平安時代の人はよく星を詠んだって聞くけど、道満もできるの?」
「そうですねぇ。できないことはございませぬが……」
道満は難しい顔をして、暗い天を仰いだ。
「星を詠むにしても、それなりに数がなければあまり意味がありませぬ」
「そうなの?」
「はい」
道満はそう返事をすると、右手の人差し指と中指をそろえて、トンと机の端を叩いた。
すると突然、真っ暗だった天井に、満点の星空が浮かぶ。
青、黄、紫、赤
満点の星空は、どこまでも広く続いていて、さまざまな色の星がさんざめいていた。
天中には天の川まで浮かんでいて、むせ返るような星の数は、まるでプラネタリウムだ。とても数え切れない。
時よりキラリと流れ星も降っている。
ここが屋内だということを忘れてしまうくらい景観だった。
「わぁぁ」
天井を見上げて、マスターは感嘆の声を漏らす。
まるで宝石を散りばめたような空に、自身も目を輝かせて喜んでいた。
「きれい」
「とまぁ、妖術のような真似事をしてみましたが、これらの星々はシュミレーターにて映し出された嘘偽り、幻影にて夢が如きものですとも」
「幻影でもすごいよ」
「そうですか」
道満はチラリと空を一瞥すると、幻影には何の興味もそそられないというように、さっさと視線を手元に移す。
文机に置いてある箸を手に取って、紙片の上にある丸薬をつまんだ。
袍の袂を左手で抑えながら、つまんだ丸薬を香炉の中へ落とし入れる。
「当世では星の数が減ってしまったと聞き及びます」
「うん」
「無論。少ない数でも星を詠むことはできまするが、正確ではない」
「そうなの」
マスターは飽きもせず星空を眺めながら、道満の話を聞いている。
その表情は、強がりではない明るい笑みを溢していた。
悲しみに苛まれて落ち込んでいた浮かない顔は影を潜めている。
「どうです?少しは気分が晴れましたか?」
星空ばかりを見上げていたマスターはぴたりと動きを止めて、道満を見遣る。
「あまり無理をしてはなりませぬよ」
「無理……してるのかなぁ」
マスターは首を捻った。
「本人はそんなつもりないんだけどね?」
眉毛をハの字に下げながら、へらりと笑う。
しばらくすると、香炉から紫色をした一筋の煙が立ち昇ってきた。
燻した香が甘い香りを漂わせていて、マスターの元にも届いてくる。
匂いは鼻を擽って脳の奥へと入り込み、とろんとした眠気を誘い出していた。
ひと呼吸、ふた呼吸するだけでうとうとと瞼が下がってくる。
芳香は強い催眠効果をもたらしていた。
それに夜更かしも過ぎた。
この時間は、いつもだったら眠っている。
そのせいもあって、意識は急速に朦朧としていった。
「逆夢という言葉をご存知ですか?」
「さか、ゆ…め?」
マスターは目を擦りながら、ゆるゆると頭を左右に振っている。
「事実と同じそのままの夢のことを正夢と言いますが、逆夢はその逆」
「ぎゃく?」
強烈な睡魔に襲われて、マスターはうつらうつらと舟を漕いでいた。
思考は緩やかに鈍くなって行って、自分でも何を喋っているのかよくわかってない。
「夢で見たこととは、逆のことが起こると言われているんですよ」
「ふうん」
かろうじて話を聞いていられたは、ここまでだった。
心ここにあらずな体で、相槌を打つと意識を手放した。
首を前のめりにもたげて、ことりと眠ってしまった。
四
「うげッ、こんな夜更けにマンボちゃん発見」
「おや、これはこれは清少納言殿」
清少納言は、深夜の廊下で肩に大きな荷物を抱えた道満と出くわした。
右肩で荷物を担ぎ、左手には紐を結い付けた小さな香炉をぶら下げている。
香炉からは、微かに煙が流れ出ていた。
「こんな時間にいかがされましたか?」
「いや、あたしちゃんはほら!夜の食堂へ突っ撃ぃー☆ってね」
「あなたも懲りませんね」
「それ、マンボちゃん言われたくないし」
清少納言は、半眼で呻く。
「つーか、マンボちゃんだってこんな時間にうろついているのは超絶ウルトラ怪しくない!?
いくらなぎこさんでもこんな時間までマンボちゃんの監視はできないZE!
だいたいその肩に担いでるの何なのよ?なぎこさんに教えてみ?」
「あぁ、これはあまりご覧にならないほうがよろしいかと」
「いや、隠されると余計に見たくなる!」
清少納言はそう言いながら、素早く道満の後ろに回り込むと、血相を変えて悲鳴を上げた。
「って、ちゃんマスぅーー!?」
身体を二つに折りにして頭と手足を下へ向けるマスターは、道満の背中ですよすよと眠りこけていた。
「あんた、ちゃんマスに何したの!?」
「ですからご覧にならない方がよろしいと申し上げたのに」
「いやいやいや、誤魔化そうとしたってあたしちゃんの目は騙されないぜ!これはことと次第によっちゃー、血祭り案件だぜ」
「んー困りましたねぇ。本当ことを申し上げても、信じてもらえると思えません」
「それはさぁ、マンボちゃんの日頃の素行が悪いからじゃねぇの」
猜疑を向けられた道満は、肩を竦めた。
この状況では何を言っても、聞く耳を持ってもらえなさそうだ。
「いいからキリキリ吐けーーー!」
まるで噛み付くように睨みつけて来る清少納言を見返しながら、道満はわざとらしく嘆息した。
状況からすれば、事態はかなり深刻だ。
だが、半ば面倒になった道満は、まるで意に介していない。
「こうなっては仕方ありません」
そう言うと、懐から一枚の護符を残して、
「お先に失礼をば」
あっという間に、どこかへ消えてしまった。
五
翌日――
図書館へ返却しなければならない本があったことを思い出したマスターは、司書である香子の元を訪ねていた。
返却口のデスクに座って、事務作業をしている香子に声をかける。
「香子さん、これありがとう」
「ご返却ありがとうございます」
香子は作業の手を止めて立ち上がると、
「いかがでしたか?」
マスターから本を受け取った。
「とっても面白かったよ。香子さんが薦めてくれる本はいつも面白いね」
髪を揺らして嬉しそうに話を彼女を
「あら?」
香子は珍しくまじまじと見返してきた。
「ん、何?」
「あのマスター?少々失礼なことをお聞きしますが……」
「うん」
「心なしか、マスターの御髪から大変良い香りがするのですが」
「香り?」
「ええ、はい……」
「あっ、本当だ」
自分の髪を手櫛で梳いて臭いを嗅ぐと、確かに甘い香りがした。
「匂いから察するに、大変難しい調香のようですが、その……マスターが?」
「ちょ、調香?」
聞きなれない言葉にマスターは、不思議そうな顔をしている。
「す、すみません。ご存じではありませんでしたか」
「う、うん」
「調香というは、お香を合わせることですが、マスターがご存じでないということは、一体どなたがこのような素晴らしい香りを合わせたのでしょう?」
「あぁー、ひょっとして道満かな」
「まぁ、御坊がこの香りを?」
「うん、たぶん……」
今朝、起きたら枕元に小さな香炉が置いてあった。
燻した香はすでに灰になっていたが、香炉を手に取るとまだ甘い香りが残っていた。
昨日の夜、道満の部屋で薫っていた臭いと同じだった。
香子は改めて食い入るように、マスターの髪を注視している。
自分の髪をじっと見られると、どうもこそばゆい。
「な、なにこの香りそんなにヤバイものなの?」
マスターが動揺してきょろきょろ顔を動かすと、また甘い香りが匂った。
「そうですが、あの御坊が」
紫式部にも、香道の教養はあったはずだ。
だが、その目にはどこか憧れのようなものが混じっている。
「まさか時限式で、この匂いに呪詛要素があるとか?明日の今頃は土左衛門とか、そういうオチ?」
「うふふふ、そうかもしれませんねぇ」
薫子は意味ありげに笑う。
その顔を少し悪戯っぽく、楽しそうな笑みだった。