未定 田園風景が広がる田舎にぽつりとその古書店はある。「小虎」という可愛らしい名前だが、店構えはしっかりとしていて蔵書も充実している。
その店の店主は銀色の長い髪をピンクのリボンで結い、分けた前髪からのぞく瞳はべにいろの男だった。やや面長の顔立ちに細い顎、鼻筋は高くきりりとしていてその下の唇は薄いが形がいい。目元は切れ長で睫毛が長く、美丈夫という言葉を体現したかのようなたたずまい。
「ああ、来たかい。今日もよろしくな」
私はこの古書店でアルバイトをしている。
一年前、夢破れて実家に戻ろうかと思っていた私はふと田園風景が見たいと思って、退職金を片手に適当な電車に乗った。手元にあるお金はそれなりだったはずなのに、よりにもよって鈍行で、しかもヒールの高い靴だった。
今思えばあの時は判断力も鈍っていたのだと思う。
ああ、外の景色がビル街から住宅街、そして田園風景に変わったなというところで電車を降りて、木造の無人駅に切符を置いて改札を出た。
これまでに人のいない駅というのを見たのは初めてだった。
着替えの入った緑色のリュックを背負いなおしてロータリーを眺める。この調子だとバスが来るのに何分待つかわからない。念のため確認したが、期待は裏切られなかった。
タクシーを呼ぶという手もあったが、今はただ歩きたかった。どうしてヒールの高い靴なんかで来てしまったのだろう。うずうずとする土踏まずに文句を言われているような気がする。
(どこかにコンビニはないだろうか。サンダルやスリッパは売っていないだろうか)
駅前を見渡すもそのようなところはない。致し方ないと歩き始める。
駅は高台にあるらしく、ロータリーから道路へ出ようとするところで田園風景が良く見えた。遠くに青い山々の連なりがあり、その上に雲がかかって山の色をまだらに染めている。
「ああ……」
思わずため息がこぼれた。もう私は戻らなくていい。あんなところにはいなくていい。実家にも帰らなくていいのかもしれない。こういう場所で、ただあてもなく、誰にも知られることなく生きて、そして死ぬ。
それが私にはちょうどいいのではないかとそんな風に思った。
景色を眺めていると大きな建物があることに気づく。さほど近くはないが、民家というわけでもないようだ。もしかしたらあそこにサンダルでも売っているのではないだろうかと思ってジッと見つめる。店先にはワゴンが並んでいるが、その上に乗っているのは靴の類ではなさそうだ。
スマホで調べてみればいい話かとも思ったが、無粋だなとも思った。それに今、私は現実世界にいながら現実世界から逃避しているような気分なのだ。引き戻されるのはごめんこうむりたい。
(なんとか歩いてみよう)
坂を下ってもあの建物はきちんと見える。冬だから田んぼに水は入っていないが、茶色い土がころころと波打っている。ぐらつくコンクリートの上で足を踏ん張り歩く。これはかかとが一気に削れそうだななどと思う。この靴とも何年付き合って来たのか。
付き合っていた男に贈られたものだったと、思い出してすぐに考えるのをやめた。もうそういうことを考えたくなかった。
ここにいるのは何物でもない人間で、なんてことのない女だ。ヒールで荒れたコンクリートの上を歩くような女だけど、それでも誰も何も言わない。
歩いた分だけ建物は近づいてくる。近くになるとワゴンの上に置かれているのが本だとわかる。本屋さんだろうか。それにしては小口が茶色に染まっているような気もする。
ふと、昭和ガラスのはめ込まれた引き戸がガラガラと音を立てて開かれた。
そうして私は目を疑った。
そこにいたのは背の高い、美しい男性だったからだ。銀色の髪をしているし、顔立ちもどことなく洋風に思える。ただ彫りが深いかと言えばそうでもなく、ハーフかクォーターかとも思える。
彼は何冊かの本を手にもってワゴンの中に丁寧に置いた。そしてまた店内に戻ろうとするところで私に気づいた。
「おや、こんにちは」
「こ、こんにちは」
なんてことのない挨拶がまるで異世界で起こっている出来事のように思えた。こんな美丈夫に会うのはこれが初めてだった。
それなりに年齢は重ねているし、二十代のころならまだしも三十半ばを過ぎて異性にきゃあきゃあとはしゃぐこともないだろうと思っていた。しかし彼の魅力は二十代どころか十代の自分の初恋まで引き出してくるかのようだった。
あまりの出来事に立ち尽くしていると、「大丈夫かい」と優しい声がかけられる。
「は、はい、大丈夫です」
「そうかい。それならよかった」
「あ、あの、ここは何のお店ですか?」
「ああ、ここは古本屋だよ。といってもいろいろなものを取り扱っているがね」
男は看板を指さす。そこには木彫りで「古書店 小虎」と書いてあった。
「そう、なんですね」
そうして私は見つけてしまった。その看板の下に「アルバイト募集中」の紙が貼ってあるのを。
ああ、ここならいいか。
誰も私を知らないところに行きたかった。そこでなら息がしやすいのではないかと思ったから。
「あの、ここで働かせてもらえませんか?」