かたわら その車の中に足を踏み入れるのは、なんとなく大般若さん個人の領域に足を踏み入れる感じがして戸惑った。からといってオウムを寒空の下に長くさらしておくわけにもいかない。躊躇をなんとか踏み越えて助手席に座る。オウムは「可愛い! 可愛い! ちよちゃん!」と鳴いている。
私が座ると同時に助手席の扉は締まり、ほどなく運転席の扉が開く。ぬっと入り込んでくる体は想像していた通りこの車の大きさに不似合いで、でも長くこの車に乗って、この車の小ささを知り尽くしている動きでもあった。
そして大般若さんが運転席に体を収めると、その近さに胸が高鳴る。
オウムの入った段ボールを抱えていることもあり、私は身動きがとれない。運転席と助手席ってこんなに近いものだったっけ。旧車だからそうなんだろうか。シフトレバーのあるスペースがやたら狭い。ちょっと揺れたら大般若さんの腕に触れてしまいそうだ。
「ちょっと失礼するよ」
大般若さんがぬっと私のほうに手を伸ばす。
(待って、近い近い近いっ!)
大般若さんはグローブボックスを細く開けるとそこから黒い皮手袋を取りだす。私がいることを気遣ってかすぐに離れたが、髪から漂う整髪料の香りがあまりにもよくて、大般若さんの美しさを改めて思い知らされることになった。
(どうしよう、何を話せばいいのかわからなくなってきた)
オウムのことを話せばいい。きっとそうだ。それしかない。わかっているのに何か話そうとすると喉につかえて言葉が出てこない。エンジンのかかる音がする。ジャズが静かに流れてくる。でも心臓の音がおさまらなくて、大般若さんの呼吸する音があまりにも近くから聞こえてきて、さっきの整髪料の香りに心が囚われたままで、頭がパニック状態だ。
「ああ、そうだ」
「はっ、はいっ」
身を揺らさないようには気を付けたが声が震える。大般若さんは自分のしているシートベルトをつまんで見せて、「つけてくれるかい」と言った。
「わ、わかりました」
身動きの取れない中、寝ている子どもが毛布をゆったりとかき分けるような速さでシートベルトを締める。そしてカチッと音がするのと同時に、大般若さんの腰に私の手の甲が振れた。
「あっ、すみません」
「いや、気にしないでくれ」
「は、はい……」
大般若さんのシフト操作に合わせて車が発進する。走っている間は車の音に心臓の音が紛れているように思えて少し落ち着いたが、赤信号などで止まる時にやはり聞こえてしまうのではないかと慌ててしまう。
「あ、あのですね、このオウムなんですが」
「うん?」
「ちよくんって言うらしいです。さっき『可愛い! ちよちゃん!』って鳴いてましたよ」
「へえ、飼い主が良く言っている言葉なんだろうな」
「愛されてますよね」
「ああ、そうだな」
視線は前を向いたまま、それでも柔らかな声音で大般若さんは答える。
狭い空間の中、大般若さんの声は内装に反響してやけに色っぽく思えて、この人はどんなセックスをするのだろうかと思った。そしてそんなことを考えてしまったことで私は私に責め苦を与えることになった。
(なんてことを考えているんだ)
しかし一度考え始めたことは止まらない。
大般若さんとホテルに入って、広いベッドに押し倒されて、例えば骨董品のように口説かれて、ほめそやされてゆっくりと押し倒されて。
額や頬に降り注ぐキス。すぐには服を脱がさないで、まずは私の体を柔らかくもみほぐすように触れてくる手。耳元で睦言を囁かれるときに漂う整髪料の香りと、ほんの少し高級なホテルのボディソープの香りが混じっている。
そのうち服の裾から彼の手が入ってきて、ああ、妄想の中で彼は手袋をつけている。今ハンドルを握る手に着けているような黒い革のぴったりとした手袋。よく手入れをされているのだろうそれは柔らかく、大般若さんの第二の皮膚として振るまう。
息遣いと視線。時折見つめ合いながら、時折逸らしながら、指先の動きを見て、髪のきらめきを見て、大般若さんの目を見て、そうして唇にキスをして、それはだんだん深くなっていって……。
「痛い! 噛んじゃダメ!」
「うわあっ!」
「おっ」
意識が急激に引き戻される。
人様の車の中でなんてことを考えてしまったんだ。
私はしばらくオウムに夢中になっているふりをして、なんとかさきほど浮かんだ情景を頭から取り払おうとした。
小虎につくやいなや私はシートベルトをすぐに外して車から外に出た。これ以上妙な想像をしていたら身が持たない。大般若さん相手だからこういう妄想をしてしまったのか、あるいは男と別れて寂しいからこういう妄想をしてしまったのか、それともそのどちらもなのかはよくわからないが、とにかく外の寒い空気に身を浸したかった。
小虎の引き戸の前には四本脚の木の椅子が置かれ、その上に「御用の際はこちらへ」という文字と電話番号が書かれている。なるほど、店を空けるときはこうするのか。
それにしてもなぜ自分の首を自分で絞めるような真似をしてしまったのだろうか。これは何とかしないと仕事に差し支えるなと思い早急に対処を考えようと決心する。