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    前に書いた、℡さんの絵から派生した妄想の完全版。それなりに長いし、なんでも許せる方向けです!

    沖縄に行って龍に会う話とかも書きたいなって思ったけど、沖縄に行ったことがないから書きようがないし、絵面が完全に犯罪なので断念しました。

     この世には非科学を前提とした宗教的支柱がある。単純で非情な本能的反復に精力を与えるためのギミックだ。それは誰も見たことがないからこそ成立している。猫の死体が隠されてるからこそ保たれている均衡なのだ。誰であろうと蓋を開けるのは許されない。死なれていたら困るし、生きていられたらもっと困る。前世も来世も運命も、いうなれば宝くじドリームみたいなものなのだ。叶わないくらいがちょうどいい。
     大真面目にこれらを語った場合、世間から貼られるレッテルは良くてカルト教祖、悪くて精神異常者だ。かくいう楽も例外ではなかった。楽は生まれたときからいまに至るまで前世の存在を主張し続けている。九歳までは夢見がちなオカルトボーイで済んだけど、年齢が二桁になると同時に周囲の目は一変し、十二歳でカウンセリングに連れて行かれた。十四歳で処方された向精神薬とは二十二歳になった今でも付き合っている。楽の病気は一向に治る兆しはない。当たり前だった。だって病気じゃない。
     楽には前世の記憶があった。楽は前世で今世と同じく八乙女楽として生まれ、芸能事務所を経営する八乙女宗助の元でアイドルになるための英才教育を受けて育った。レッスンの末、十龍之介と九条天と共にTRIGGERとしてデビューし、紆余曲折を経ながらもアイドルとして成功を収めた後、事件に巻き込まれて二十五歳で亡くなっている。これが楽の前世の全貌だ。楽の海馬には、生まれたときから変わらず八乙女楽として生きた二十数年間の記憶が植え付けられていた。記憶の中には、昨日のことのように思い出せる風景もある。けど誰も信じてくれなかった。証拠がないからだ。
     楽は精神異常者の烙印を押されたまま二十二歳になった。アイドルとしてデビューすることもなく、父親から与えられた2LDKマンションで月に一度病院に通いながら一人暮らしをしている。生活費は仕送りと、それから母方の家族が経営している蕎麦屋のアルバイト代で賄っていた。生活の主な目的は幻覚の治癒だ。治るわけがないのに、と思いながら楽は馴染みの医師と対話を続けている。今日もそうだった。
     何度目か分からないカウンセリングを終えて、楽は病院を後にする。医師は毎回決まって同じ説得をした。楽が唯一反応を見せる言だからだ。停まっている車の横を歩きながら、楽は医師の言葉を反芻させる。その世界に固執しているんだよ、この世界じゃ叶えられないなにかがあって、そのなにかがどうしても手放せないから君はあの世界に住み続けている。それがなにかを僕に教えてほしいんだ。本当にこの世界じゃできないことなのか、一緒に考えようよ。
     心当たりはあった。致命的な未練を過去に残してきた自覚はある。されど楽はその未練を口にすることができなかった。どういう処置をされるかが大体わかっているからだ。どうしても未練だけは否定されたくなかった。だったらこの生活を続けた方がマシだった。
     薬袋が擦れる音がする。終わりの見えない治療に楽はほとほと参っていた。効かなかった向精神薬が徐々に効果を発揮し始めている。わかりやすい皮肉だった。そういう伏線回収は求めていない。
     病院から楽の家まではバスで十分だった。父親である宗助がその位置にマンションを買ったのだ。病院のすぐ目の前に設置されているバス停へ向かう。  大学病院前の標識版が見えてきた。標識版の前には十人ほどの列ができている。楽はその列の五人目を認めた途端、夢から覚めたような心地になった。嘘みたいな地獄みたいな夢から覚めて、でもまたすぐにぐるぐると現実と常識が回る夢の世界へ突き落とされる。
     薄桃色の、日光を透かした桜のような髪色をした少年が、背筋を伸ばしてバスを待っていた。少年は黒いてかてかしたランドセルを背負っている。背丈を見るに小学校高学年くらいだろう。楽はカバンの中に入っている薬を投げ出したくなった。本当に前世も来世も運命も転生もあったのだ。楽が言い続けてきたそれがようやく肯定された気がする。
     ところで、楽は以前の人生を前世と呼ぶのにずっと抵抗があった。楽が保持していた記憶以外は総じて一緒なのだ。楽にまつわることもまつわらないこともみな一様に焼き直しされている。前世と呼ぶには内容がテンプレートだ。しかし他に言葉を知らなかった楽は、便宜的に"前世"と呼んでいた。楽だけが持ちうる非科学を知らない言葉で表したら、いよいよ誰も取り合ってくれなくなるとわかっていたからだ。されどバスを待っている少年を見た瞬間、違和に名前があてがわれた。前世じゃない。転生じゃない。
     そう思うやいなや、楽は少年に声を掛けていた。名前はわかる。昔も今も喉が焼けるくらい口にした名前だ。
    「天!」

     これは前世じゃない。転生でもない。人生のやり直しなのだ。楽が二十五歳で死なないために、それから、天が天として生きるために、神様が与えてくれた泣きのもう一回なのだ。

     見知らぬ青年から話しかけられた天は、持っていた鞄を前に抱えてすっと身構えた。天の前と後ろに並んでいた中年の女性二人が、天ちゃん、知り合いかい? とか、あなた誰ですか、とか言いながら楽から天を守る。女性らに守られている天を見ながら、きっといつもこの時間のバスに乗るのだ、と楽は思った。楽は天に病気の弟がいることを知っている。その弟が幼い頃は入退院を繰り返していたことも知っている。そして、大人になったら仲間に助けられながら歌ったり踊ったりしていることも、楽はちゃんと知っていた。なにせ弟が大人になったところも見ているのだ。一緒に仕事だってしたし、二人でご飯に行ったことも背中を流し合ったこともある。
     でもそんなことを言えるわけがない。今の楽は可愛らしい少年に突然話しかけた要注意人物だ。実はお前のことを生まれる前から知っていて、俺とお前は同じグループのメンバーでそれから、と続けたところで信用してもらえるわけないし、安心してもらえるわけもない。むしろ警戒を強められるだけだろう。楽にも少年時代があったからわかる。この世には一回りも二回りも離れた同性の児童に性欲を覚える人間がいるのだ。
    「だれですか、あなた」
     女の子とたいして変わらない、高くて軽やかな声だった。
    「…………すみません、人違いだったみたいで」
     ちょうど良い言い訳が思い付かなかった。真実を話しても信じてもらえないのはこれまでの二十二年間で経験済みだ。楽は深々と頭を下げて謝ったあと、列に加わるために天に背を向けた。どうしたらいいか考える。七瀬の家の話を持ち出したら忌々しいあの男と一緒になってしまう。脅すような真似はしたくなかった。でもこのまま天を放っていたら、また以前と同じ道を辿ってしまう。以前よりも悪い道を歩ませることになってしまう。
     楽は考える。以前の人生で天は弟のために九条鷹匡の養子になり、そのせいで鷹匡の夢に囚われた人生を送ることとなった。最悪な事実だ。でもこの最悪な事実の中に、楽にとって都合の良い事象が隠されていた。天は見知らぬ人の話を聞いてくれるのだ。鷹匡はけっして知り合いなんかじゃなかった。それでも天は話を聞いて、鷹匡に着いていくことを決めた。だったら楽も出方さえ間違えなければ知り合いになれる。
    「まってください」
     それでも既に楽は出方を間違えている。どうしよう、と脳内を渦巻く絶望を切り裂いたのは、砂糖を模したかのような甘い声だった。
    「あの、なんて言ったらいいかわからないんですけど、」
     天が真正面から楽に語りかける。楽よりもかつての天よりも遥かに低い位置から、天はじっと楽を見つめた。楽は天と一緒に生きてきたあの頃からずっと不思議だったことがある。天の目だ。順風満帆とは言えない人生を歩んでいた天は、それでも目だけは変わらず純然だった。澄明な水晶玉みたいな瞳に見つめられると、人は天から目が離せなくなる。今もそうだ。楽は天から目が離せなくなっていた。
    「きっと、ひとちがいじゃない、と思います」
     見たことがある、と楽は思った。人違いじゃないと語る天のこの顔を、楽は見たことがある。楽たちのことを友だちだと語ったあの顔だ。楽のことを恋人だと語ったあの顔が、まさにいま、目の前で自分に向けられている。楽はもらったばかりの向精神薬を投げ出したい気分になった。
     見てきたあれもこれも全部幻覚じゃない。幻覚だったら眼前で息づいている少年が天とまったくおなじ表情をしているのはおかしいのだ。前世じゃなかったら予知である。どっちにしたって楽は天への愛情がゆえに科学を超越したのだ。
    「明日のしゅくだいがあるから、今日は、もういえに帰らなきゃいけないけど」
     天だ、と楽はみたび確信する。幼い天は一層愛らしかった。美醜の概念に囚われた人間が思い描く天使そのものだ。楽は屈んで視線を合わせる。天は怯むことなく言葉を続けた。
    「またあした、ここに来るので」
     そう言って天は列に戻った。天だ。あれはまぎれもなく、楽が見てきた天だった。見知らぬ人に平気で話しかける、警戒心を欠いた様子が楽の予感を裏付ける。楽が夢を共にした彼は、まさしくそういう男だった。
     ちいさくて頼りない天の背中に黒い影が重なる。ランドセルを背負っているから、鷹匡が忍び寄るまでまだ数年ほどの猶予はあった。それまでにどうにかしなくてはいけない。楽と天の年の差は以前よりも大きく差がある。なおさら鷹匡を近付けてはいけない。天がアイドルになってしまったら、今度こそ楽は天を救えなくなる。
     楽は薬が入っている袋を握りしめた。あらゆる情報は手中にある。天のこと、陸のこと、それから七瀬の家のこと。考える。天と一緒に生きるための道筋を、天が笑顔になれるゴールを、楽は前の人生と照らし合わせながら考える。

     
     八乙女楽の話をしよう。看護師たちに『薄幸のゴッホ』と呼ばれている男じゃなく、世界中から『抱かれたい男』と呼ばれた人気アイドルの話だ。楽はビジュアルと情熱にたいそう恵まれた天性のアイドルだった。歌の才能も演技の才能もあったし、なにより彼は努力家だった。後ろ盾がなくても逆風に立ち向かえる男だった。八乙女楽は稀代の秀才アイドルだ。惜しむらくは誰一人として覚えていないことである。されど彼は確かに存在した。存在したけど、殺された。事故と呼ぶにも事件と呼ぶにも収まりが悪いある出来事のせいで、八乙女楽の短い生涯は終わりを遂げる。
     八乙女楽が殺されたのは、彼が齢二十五で過ごす冬のことだった。その冬は例年より寒くて、一月までに東京では三回も雪が降った。楽は恋愛ドラマの撮影中で、真冬だというのに髪を短く切っていた。一度事務所を退所したTRIGGERはふたたび八乙女事務所に戻り、一緒に暮らしていた三人は同居を解消し、それぞれが別々の場所で暮らしていた。仕事もほとんど戻り、おおよそが順風満帆だった。
     それでも楽は、なんとなく違和を感じていた。天に関することだ。
     楽と天は付き合っていた。その冬でちょうど二年目だった。
     楽が一人暮らしをしているマンションの合鍵を天に返された。天が性交渉に応じなくなった。天がすこしずつ痩せていった。天が楽の名前を呼ぶとき、ほんのわずかに、声が震えるようになった。すべてが些細な変化である。痴情の移ろいと言えばそれまでだ。天の気持ちが楽から離れたんだと考えれば説明がつく。それでも楽はそうは思わなかった。天を信じていたからこそ、それらが天をとりまく環境の変化であると知っていた。
     天の変化に楽以外は気付いていないようだった。楽は天を問い詰めたけれど、天はなにも言わなかった。ただ、ごめん、と言うだけで、それ以外はなに一つとして教えてくれなかった。天のTRIGGER脱退とソロデビューが発表されたのは、東京に二回目の雪が降った一月十二日のことだ。
     それは誰しもにとって青天の霹靂だった。楽と龍之介が知らなかったのだ。他の人が知っているわけがない。とある特定の人間以外が知りえなかった情報が、アナウンサーの口から淡々と語られる。楽がそれを聞いたのは姉鷺の車の中だった。唐突にカーラジオを掛け始めた姉鷺に、どうしたんだよ、と問いかけようとしたところだった。アナウンサーの声は皮肉なくらい聞きやすかった。聞き間違いが起こらないくらい流暢だ。
     そういうことだから、と姉鷺は言った。楽はいまにも天に会いに行きたかったけど、あいにくこれから仕事がある。仕事を最優先にしないと天は怒る。いま怒らせるのは悪手だ。楽は天がアイドルとして生きる上で最適な人間でなくてはいけない。感情的に仕事を放置する男は、天と生きるのに敵役じゃない。楽はひとまず仕事に向かった。天のためだ。天がいなくなったTRIGGERを守るためだ。
     仕事が終わった楽は、姉鷺に頼んで天の元へと向かった。天がいる場所はわかる。九条の家だ。三人の同居をむりやり解消した九条鷹匡は、なかば強引に天を九条の家に幽閉した。天は仕事以外でほとんど家から出なくなっている。楽も友だちとして外に誘い出したけどダメだった。恋人として誘い出したけど無理だった。
     九条の家はあいもかわらず悪趣味な外装をしている。九条の持ち家はまさしく成功者の家だった。美意識に正気は不要なのだと教えられる。楽はインターフォンを押した。『九条』と書かれた表札を囲むように、取材お断りの張り紙が無数に敷き詰められている。それを見て楽はゾッとした。枚数も貼り方もまともじゃない。
     ドアホンが搭載されているインターフォンは、しかしほとんど情報伝達機器としての役割を果たしていなかった。向こう側から音が聞こえることはない。見られている様子もない。楽はただじっと誰かが出てくるのを待つことしかできない。
     ややして扉を開けたのは天だった。扉に手をかけたまま、半開きの状態で天が俯きがちになにかを言う。聞き取れなかった。楽は敷地に足を踏み入れる。天の言葉はすべて拾いたかった。近付くうちに天の指が震えているのが見えてくる。徐々に声が輪郭を帯びていった。てん、と楽が名前を呼ぶ。
    「……って」
    「天?」
    「帰って」
     楽は内包された感情を瞬時に見つけられなかった。天のそれに含まれている感情は、怒りでも呆れでもない。でも好意とか嬉しさかと聞かれれば、それもそれでまったく違う。予想のどれにも当てはまらない感情がそこにあった。
    「お願い、がく、お願いだから」
     楽はそこで天の声音に宿っているそれの正体に気付いた。気付いたけど、理解できるかと言われれば別だった。楽はさらに天に近付こうとする。天の声量を変わらず、しかし必死さだけがゆるやかに増していった。
     こないで、おねがい、と焦れた様子で天は言う。のべつまくなしに発されたそれは、されどややしてぴたりと止んだ。玄関先のアスファルトに水玉模様が浮かぶ。天は俯いていて、それが汗なのか涙なのか楽にはわからなかった。
    「どうしたんだい、天」
     廊下の奥から鷹匡が歩み寄ってくるのがわかる。天だけを見すえていた彼は、すこし来たところで楽の存在に気付いた。ふっと微笑んだ鷹匡が後戻りして部屋に戻る。楽は拍子抜けした。鷹匡に詰め寄られると思っていた。天はなおも俯いたまま震えている。
    「……い、まのうちに、にげて」
     ひそやかな愛だった。楽にだけかろうじて聞こえる音量で、天は愛を囁いた。かわいい愛情だ。惜しむらくは、楽がそれに黙って気付ける男じゃないところである。楽ははたして逃げなかった。なにも喋らないまま、こっそり、付近の道路で待機している姉鷺へメッセージを送る。警察を呼んでくれ、なにもなかったら俺が謝るから、と。
     奥の部屋から戻ってきた鷹匡は、不気味な微笑みをたずさえたまま、手に刃渡り十五センチくらいの包丁を持っていた。楽が息を飲む。もとより無かった逃走の選択肢が完全に完璧に消え去った。鷹匡がゆるい速度で近寄ってくる。刃物の先が照明の下で宝石みたいに煌めいていた。
    「やあ、お久しぶりだね」
     ねっとりとした話し方が、かがやく刃先への恐怖心を助長する。声が、恐怖が、焦燥が、湿度の高い熱帯夜よろしく皮膚にこびりついた。鷹匡が天に危害を与えないことは知っている。警察が到着するまでかわし続ければ楽の勝ちだ。楽が後ずさる。まかり間違っても天に被害がいかないように、扉と塀の間に広がるわずかなスペースへ鷹匡をおびき寄せた。
    「天を返せ。天はTRIGGERのセンターだ」
    「それは過去の話だろう。天はもう抜けたんだ」
    「天が俺たちに黙って抜けるわけがない」
     鷹匡が包丁を持ち上げる。切っ先が楽の心臓を捉えた。舌先が乾いてたまらない。刃先が心臓を貫く想像が頭から離れてくれなかった。首筋になまぬるい汗がすべる。汗の通り道がまとう冷気に冷やされる。寒いのか暑いのかもわからない、なにが怖くてなにが怖くないかがわからない。天を守りたいという気持ちだけが血管を巡って楽を奮い立たせていた。
    「お前もそれを知ってるから、天を閉じ込めたんだろ」
     鷹匡の瞳孔が猫のように光る。獲物を前にした獣の眼光だった。人間にあらかじめ備え付けられている理性や倫理が一切感じ取れない。広大な深海に取り残されたかのような恐怖が楽を苛んだ。話が通じない猛獣を相手にしている気がするのに、言葉のひとつひとつが相手の神経を逆撫でているのがわかって目眩がした。
    「相変わらず強気だね」
     警察が来るまでの辛抱だ。最悪刺されてもいい。罪が重くなるのは万々歳だ。警察が来て、鷹匡が連行されれば、晴れて天は自由になれる。そしたらまた天と楽は恋人に戻れるのだ。天にはひさしく触れてない。楽は天の体温を忘れかけていた。楽が好きだったつやめく肌の感触や、揺れる髪の質感はそのままだろうか。
     天に触れて確かめたかった。自分は天に触れられるのだと、指先を通じて実感したかった。
    「嫌いじゃなかったよ、君のそういうところ」
     遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。虫の羽音さえ聞こえない沈黙のなかで、サイレンの音はひどく重く響いた。天の悲鳴が聞こえる。目を離せないでいた刃先が、一瞬遠ざかって、そのまま居場所を見失う。鷹匡の不調和がやけに近くで聞こえた。光る。胸元で錆びた刃物が光る。サイレンと笑い声と悲鳴がぐちゃぐちゃになって、耳鳴りみたいに一本の線になった。殺せないだろうと思ってた。殺されないだろうと思ってた。それでも、
     鷹匡が楽を殺せた理由は一つである。簡単な話だ。たった一行で片付けられる。
     彼は人を殺し慣れてなかったのだ。
     だから殺せた。躊躇いと無知が楽の心臓に的確に刃物を向ける。そこからもう記憶がなかった。楽が次に起きたとき、身体はもう赤子のそれだった。即死だったのだと思う。確かめる術はもうなかった。楽が新しく生を受けた世界には、八乙女楽の記録も九条天の記録も残っていなかった。頼りになるのは楽の記憶だけだ。記憶は成長と共に鮮明になっていった。記憶を取り巻く感情も同様だ。天のことを思い出したのは三歳の時だった。殺されてまで守りたかった天が恋人だったことを思い出したのは七歳の時だ。
     楽はそれから天を探して生きてきた。見つけてどうするかは決めてなかった。見つかったらわかるだろうと思っていたからだ。えもいわれぬ自信だけを頼りに生きてきた楽に、ようやく答えが与えられる。正解だった。花丸だった。天を見つけた楽は、次にやるべきことをちゃんと自覚する。
     楽がこれからやることはひとつだった。天の救出だ。これから忍び寄るであろう鷹匡の手からの、そして、天に鷹匡の手を取らせた原因である七瀬の家からの。


     バスに乗って家に帰った楽は、ほとんど手を付けていなかった口座の残高を確認した。天が九条になった決め手は、七瀬家の資金難にある。弟の治療がままならないほど家にお金がなかった。ゆえに天は鷹匡の要求を受けざるをえなかったのだ。それなら七瀬の家を立て直すのが先決である。歌と踊り以上の娯楽を見つけられなかった楽は、お金をまともに使ってこなかった。口座にはそれなりの額が残っている。ショークラブを立て直すのは無理でも、両親が新しい職を見つけるまでの援助くらいはできるはずだ。
     鷹匡対策はこれで十全である。家のことさえなければ天は家を離れたりしなかった。次は七瀬対策だ。
     七瀬家はおよそ問題があるようには思えない。揺るぎない兄弟愛は見ていてとても微笑ましい光景だ。やさしい兄が病弱な弟を想い、病弱な弟がやさしい兄を想い、そうして二人で世界を広げてゆく。麗しの支え合いだった。しかし楽はそれが健全な家族愛じゃないことを知っている。天の異常な献身を以前の人生で目の当たりにしていた。
     楽は天が陸のために生きることも許せなかった。鷹匡の夢を代弁するのはもってのほかだが、か弱い弟のために身を削るのも嫌なのだ。天が自分の脚で自分の腕で自分のためだけに歩くところが見たい。そしてあわよくば、人生を歩む天の隣には自分が立っていたい。それが楽の願いだった。
     楽が頭を悩ませる。言うのは簡単だが、実践するとなるとまた別だ。天の弟愛は並大抵のものじゃない。なんにも障害がない今、病室ではかつての陸が言うところの『飴玉みたいな天』が最大限に披露されているはずだった。されど引き離すのはかえって気持ちを強くさせる。陸の病状も悪化させるだろう。それじゃあまったく意味が無いし、楽としても鷹匡と同じになるのは避けたかった。
     愛情を健全な範囲に収めるためには、陸と適切な距離を取らせる必要がある。天の様子を見るに、記憶こそないものの、楽に対して思うところはあるみたいだった。楽のアプローチ次第だ。陸にだけ向けられている矢印を、ひとつ増やして、楽にも向けさせられたら勝ちである。
     作戦を取り決めた楽は、気合を入れるために日本酒を飲んだ。宗助が置いていった、東北産の純米大吟醸だ。喉が炙られたように熱くなるのを感じながら、楽は出方を思案する。不思議と不安はなかった。なにせ楽は一度天を落としている。ほら、生まれ変わっても君を愛すよって、むかしから愛し愛されたレトリックだし。

     翌日、楽は天に会うためだけに病院に来ていた。大学病院のすぐ横に緑溢れる自然公園が広がっている。入院服を着た患者らしき人や、お見舞いに来たであろう小さい子どもたちが思い思いにのんびり公園で過ごしていた。楽はひとまず公園の中に入る。病院に用があるわけじゃない。病院に来ている天に用があるのだ。
     天がいつ頃現れるのかわからなかった楽は、天と会った時刻に合わせて病院に訪れた。楽と会うからといって、天が陸との時間を削るとは思えない。バス停が見えるベンチに腰をかけて、楽は天を待った。子どものはしゃぐ声がする。はやまる鼓動が楽の穏やかな呼吸を脅かした。落ち着いていられるわけがない。これから天と会えるのだ。
     空になった水のペットボトルを潰したり膨らませたりしながら待っていると、病院の正面玄関から、ランドセルを背負った天が歩いてくるのが見えた。天は楽を認めるなり早足になる。あのときより三十センチは背が低いであろう天が、黒いランドセルを揺らして近付いてきた。
    「っ、おまたせしました」
     天がちいさくおじぎをする。全然待ってない、と楽が言う。本音だった。楽は待っていた時間はたった十数分だ。待ち焦がれた二十二年間を考えればすぐである。
    「今日は時間があるのか?」
    「はい。今日のしゅくだいはそんなに大変じゃないので」
    「そうか」
     気を緩めるとうっかり泣いてしまいそうだった。天はランドセルを前に抱えて、楽の隣に座る。毒気がなくて他人行儀で幼くて素直で、楽が知っている天とはおおきく違ったけど、それでも笑い方は知っている天と一緒だった。
    「お名前は?」
    「楽だ。八乙女楽。下の名前で呼んでくれ」
    「楽、さん?」
     ううむ、と天が顎に手を当てて悩む。悩む時の癖も一緒だった。
    「なんか、ちょっとちがう感じがします。楽、って、よんでいい?」
    「ああ」
     楽が天の頭を撫でる。柔らかい髪の毛が楽の五本の指を包んだ。ふたりで育んだ夜の記憶がふと蘇る。楽がひとりで磨いてきた、楽の、楽だけの大切な思い出だ。
    「そう呼んでくれ」
     ランドセルに引っ掛けられている名札が揺れる。ななせてん、と、丸いひらがなで書かれていた。
    「ぼくは天。えっと、な」
    「天、って呼んでもいいか?」
     楽の隣にいる少年が、あのとき愛した九条天じゃないことは理解している。九条の名を冠してない事実が、天にとって幸せであることも重々承知している。それでも楽は天に苗字を名乗らせたくなかった。理由はうまく説明できない。ただ、なんとなくそう思った。人の感情ってそういうものである。特に、恋にまつわる感情は。
    「うん。そう呼んでほしい」
     天が笑った。まだまだ楽の作戦は始まったばかりだ。これから色々やることがある。天に知られずに七瀬の家を助けないといけないし、迫るであろう鷹匡の魔の手から守り抜かなくてはいけない。なにより大変なのはその後だ。九条天にならなかった未来になにがあるかわからない。なにせ一度は死神に魅入られた男だ。天使と呼ばれた男だ。
     楽のこれからはきっと険しい道のりである。並大抵の覚悟で乗り切れるような道じゃない。精神異常者だけでなく、同性小児性愛者の烙印まで押されることとなるだろう。あだ名もゴッホから織田信長に変わるはずだ。白かった目はさらに彩度を落とし、何色にも負けないオフホワイトに姿を変える。アイドルだったときとは真逆の生活を強いられるのは火を見るより明らかだ。
     でも楽はそれでよかった。一生分の賞賛は受け取っている。一生分どころか、二生分くらいはあるかもしれない。そりゃあまあ、時折あの時の輝きが歓声が興奮が恋しくなるときもある。幻覚だと認めればあの世界に戻れるかもしれないと、そう考えた夜もあった。しかし楽はそうしなかった。一人で戻ったところで意味が無いからだ。楽は天と龍之介と作り上げるあのステージが、あのステージだけが好きだった。
     楽は天と色んな話をした。小学五年生で、好きな授業は音楽、嫌いな授業はまだない。同い年の弟がいて、一週間前からここに入院している。パパとママはショークラブを経営していて、ダンサーさんたちがそこで踊ったり歌ったりキラキラしたりするのを見るのが好き。知っている情報ばかりだったけど、楽は精一杯話す天がかわいくて、すべての話を聞いてあげた。
     小一時間ほど話したあと、夕焼けチャイムと共に天は帰った。またあしたね、と天が言う。楽はあえてバスに乗らずに送り出した。天は窓の前に立って、見えなくなるまで手を振ってくれた。だから楽も見えなくなるまで手を振る。過ぎ去るバスの背面を見ながら、楽はひそかに一人で泣いた。あのとき守れなかったすべてを、今度こそ守れたらいいな、と思った。
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