愛の塊、星の欠片 越前リョーマは、人を惹きつける才能がある。俺も惹き付けられた一人であろう。あの夏の日から、彼奴の煌めく星に、気付かぬうちにおちてしまっていたのだから。
七月二十七日、夏の暑さと、真剣勝負である試合特有のジリジリとした熱。俺も彼奴も、その熱をそれぞれ持っていたに違いない。勝敗を分けたあの一振りに、脳が、指先が、いや、身体中が痺れるような感覚に襲われてしまった。そして、心臓は心做しか早鐘を打っていた。敗北からの喪失感?後悔?それとも、ユニフォームの中でダラダラととめどなく汗が流れてしまうほどのこの暑さにやられたからかもしれない。それとも……様々な思考が俺の中で速く早く駆け巡った。
寝床の中、夏独特の草木の匂いが混じる生温い夜風が頬を掠める。いつもならば試合後の夜は疲労感から数える間もなく眠りにおちるが、今日は何故か違かった。やけに目が冴えていて、目を閉じると目蓋の裏で先程の試合が再生される。
滝のような汗を流し、息を切らしながらボールに食らいつき、ラケットを振るう小さな一年生ルーキー。まだ無我の境地を使いこなせず、疲労に膝をついても必死に追いかけて闘志を燃やし続けていた。
正直、ここまでの奴だとは全く思っていなかった。
一週間前の草試合のときは、本当にただの「他校の生意気な一年」としか思えない程のプレーだった。だがそれが、今日はまるで別人かのようだった。あそこまでの勇気と自信と、それに比例した実力を秘めているとは思いもしなかった。
そのせいか、悔しさだとか悲しさだとかは想像以上に湧かなかった。勿論、自らの実力不足な面に対する苦い感情はあった。しかし、浮かんでくるのはそういった感情よりも、脳に焼き付いた先程の試合の映像が圧倒的で、不思議な感覚と少しの困惑を抱えながら、浅い眠りを繰り返したことを今でも覚えている。
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関東大会決勝戦から約一月後、八月二十三日。再び青学との対戦。俺の試合はS3であったため、彼奴との再戦はないと分かっていた。そして事前の予想通り、彼奴は幸村と戦うことになった。無論、万全な状態で戦ったとしても、勝つのは幸村であろう。
だが、いざ蓋を開けてみれば越前は記憶喪失になっていると知った。自らの試合終了後、なんとも言えない感情を抱きながら聞かされたそれは、俺の心を何故か酷く乱した。後に試合に間に合うかわからないという話や、過去に対戦したチームの奴らが次々と彼奴の記憶を取り戻そうと奔走しているという話を耳にし、彼奴なら間に合うだろうと根拠の無い自信すら抱いていた。
しかし、次が試合開始であるという時間になっても、戻ってくる気配すらない。何をしている。それなりの人数が記憶修復のために手を尽くしているのにも関わらず、記憶は戻らないのか。そんな言葉が浮かぶ。幸村は、お前との真っ向勝負を望んでいるはずで、それに、そうして勝たないと意味が無い。
改めてそう思うと、どうしてだろうか居てもたってもいられない気持ちになった。ああ、もう我慢ならん。
俺はラケットを手に持ち、観客席を後にした。
対面したとき、ある程度記憶を取り戻したことはわかった。だが、まだ足りないことは一目瞭然だった。「容赦はせん、本気で来い。越前リョーマ」そう投げかけ、ラケットを構えると、彼奴のボールが放たれた。
俺は、脳裏にこびりつき続けているあの日の試合を、できる限り正確になぞりながら技をぶつける。そしてそれをまたなぞるように、彼奴が返球する。段々とあの日の光景を見ているような気さえした。
だが、俺はこれだけで終わらせる気はなかった。だから、手塚との試合で初めてだしたあの技を、最後の最後で思い切りぶつけた。酷使した両膝がまだ少し痛むことなど構わずに、本気のそれを体力が底を尽きてしまっている彼奴にぶつけた。
お前が見たことないこの技だからこそ、見せた。お前ならば、一度見ただけでも己のものにしてしまうだろうという確信故。
所謂これは、愛の鞭というやつだった。
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全国大会後、もう彼奴に会うことは無いだろうと思っていたが、九月開催の海原祭に各部それぞれ他校生を二から三名招待する運びとなり、何故か俺がその招待状を作ることになった。どの学校を招待するかを検討したとき、初めに浮かんだのが青学であった。理由は単純で、直近で試合をしたのが青学であったからと記憶している。参加不参加についてはあちら側の判断に任せるものであることも相まり、青学から二名招待する旨の招待状を作ることにした。その時、何故かあの小さな一年生ルーキーの顔が浮かんだため、招待者氏名欄には越前リョーマと比較的彼奴と交友が深い桃城武と記載した。何故彼奴が浮かんだかという理由は当時の自分にはわからなかった。
当日、教室内をちらりとうかがう二人組の男が目に入った。そしてそれは、招待した彼等であると直ぐにわかった。迎えるため二人の元へ柳生と共に向かい声を掛ける。
すると俺の目の前に立つ小さな一年ルーキーは、こちらを見上げた。それと同時に、こんなにも近くで顔を見るのは初めてだと思った。殆どコート上でしか顔を合わせたことがなかったためか、酷く近く感じる。幼い印象を抱いてはいたが、近くで見ると大きなアーモンド型の瞳だったり、小さな口だったりがその印象を加速させた。
数時間後、俺たち硬式男子テニス部による喜劇「シンデレラ」が幕を開けた。滞りなく物語は進行し、いよいよラストシーンといった時にアクシデントが発生し、続行は不可能かと思われた。
しかし、幸村は妙案を思い付いた様子で補修したてのドレスを手に持ち、突然姿を消したと思いきや、彼奴と共に舞台裏へと戻ってきた。「越前くんが代役を引き受けてくれたから、真田、指示してあげて」そんな幸村の言葉に、俺は一瞬戸惑った。
だが、複雑そうな彼奴の表情が目に映り「代役を引き受けてくれたこと、感謝する」と言葉をかける。すると苦い顔をしながらも「どんな役もやりこなすって言っちゃったから」と言葉を零していて、自らの発言に対して責任を持つ姿勢に思わず感心してしまった。
改めて視線を向けると、越前の足元が少しカタカタと震えいる。何故かと思った俺は「失礼」と声をかけ、ドレスを少しずらす。すると、ヒールの靴を履いていたからであると合点がいった。
「慣れない靴で辛いだろう。だがもうすぐ再開だからすまないが、ここを掴んで舞台までついて来てくれ」と自分の衣装の襷の部分を指す。すると彼奴はコクコクと頷き、きゅっと襷の端を掴んだ。
海原祭終了後、俺は青学宛に、彼奴に対するお礼の手紙を送ることにした。
結局、誓いのキスを交わすラストシーンはどうも彼奴にとって耐えられなかったらしく、舞台上から逃げ出してしまった。しかし、突然の代役を引き受けてくれたことは感謝すべきであると思い筆をとった。
一通り手紙を書き終えたとき、一枚の写真が目に入る。
実は逃げ出してしまった直後、俺は彼奴をすぐに追いかけた。立つだけで足元を震わせていたのを忘れていなかったからだ。ヒールの靴を履いていたことから追いつくのは容易く、舞台袖に入った辺りで前へ回り込み抱き留める。
突然の衝撃に驚いた様子の彼奴に、俺は思わず「突然走ったら危ないだろう!怪我でもしたらどうする!」そう投げかけていた。
その後怪我は無いかと問うと大丈夫だと答えたため、最後に整列をしにもう一度舞台へ戻らなければならないから、襷を掴んで着いてくるように促すと、越前の顔が突如歪んだ。
「やはり足を痛めたか」と思った俺は、咄嗟に越前を横抱きにする。
そしてそのまま舞台へ戻り、再び幕が上がり喜劇「シンデレラ」は終演を迎えた。
この写真はその後に実行委員の撮影班が撮影したもので、先程手渡された数枚の写真の中の一枚だった。同じようなアングルの写真が一枚ずつあったので、記念に同封して、封を閉じた。
もう一枚は、今も自室の机の引き出しにしまってある。
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それから、彼奴に対する印象が大きく変わったことがあった。
それは、海原祭から二ヶ月後の十一月に召集された、U17選抜合宿中の負け組修行であった。辛く苦しい崖の上での修行。正直音をあげたくなる事も皆無だった訳では無い。しかし、彼奴はその先頭をいつも走り続けていた。それが俺にとって、活力の一つとなっていたのだろうと今では思う。目標高く、貪欲に己の強さを求める姿に、自らも刺激された。
崖の上でのある晩、土手の草原の上で一人寝転ぶ彼奴を見掛け、思わず声を掛けてしまった。生意気な口振りは相変わらずであったが、強い闘志と意志を抱いてる様子も相変わらずで、何よりも真っ向からぶつかる姿を見ると、そんなことは不思議と全く気にならなかった。
数日後、俺たちは二番コートまで這い上がり、施設の整った合宿所での生活になった。彼奴とは他校同士で同室でもなかったが、共に打ち合いをすることも少なくはなく、不意に見せるどことなく放っておけないような意外な一面を知った。
また、海外遠征の際はホテル割りが近く、同室の遠山が彼奴の部屋へ訪れたがそのまま眠ってしまい、越前がこちらの部屋で一夜を過ごすこともあった。
その時は、消灯時間まで他愛ない会話をしていた。その日の練習についてだとか、自校の部活内での出来事だとか。他にも越前の愛猫の写真をみせてもらったり、和食が食べたいと言う意見が合致したことから施設内の寿司屋に行く約束をし、後日実際に行ったりしこともあった。
ただ、そんな日は就寝時間後、眠ろうとするとどうにも胸が騒がしくなって、その日は寝返りが酷く多くなる夜であったのは記憶に新しい。
そんなことも挟みつつ、怒濤の世界大会も終了し、卒業まで残り僅かとなった。高等部への進学も確実にし、部の引き継ぎも終え、あとは卒業を待つだけだった。
だがこの頃、俺には一つ悩みが生まれていた。それは、彼奴が頻繁に脳裏を過ること。
確かに、合宿から世界大会まで関わる機会は増え、同じ目標へと向かう同志であった。
しかし、代表らは皆自らの場所へ戻り、好敵手に戻った。勿論、越前も例外ではないはずだ。では何故、越前のことがこんなにも脳裏を過ぎってしまうのだろう。喉に何かが詰まってしまったかのようなこの感覚は一体何なのか、数日考えても分からなかった。
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とんでもない夢を見た。
よく分からない靄のかかったような感覚を抱えながら、十数日程すぎた晩のことだった。
とんでもなさ過ぎて、真夜中に思わず飛び起きた。どんな内容かと一口で言えば、自室の今俺が寝ていた布団の上で、彼奴と性行為紛いのことをする夢だった。
確かに俺は年齢的には思春期真っ只中の男である。だがしかし、性行為などは責任を持てる年齢になってからするべきものであると考えていた。否、今だってそうだ。
ここ最近、いくら彼奴のことばかりを思い出してしまっていたと言えど、まさかこんなにも不純な夢を見るとは想像すらしていなかった。しかも俺も彼奴も列記とした男だ。
しかし、朧気な記憶であっても酷く幸福だったことだけは憶えてしまっていた。なんて夢を見てしまったのだ。こんな夢を見てしまう自分はどうかしてしまっている。思わずその場で頭を抱えたが、身体の中心は無情にも主張しながら、熱を孕んでいた。
それから、俺はさらに数日間悩んだ。あの日以降、そういった夢を見ることは幸いないが、この感情は「恋」であることに気が付いてしまった。
喉に詰まったものが、ストンと落ちたような感覚は得られたが、だからといって解決には何一つ近づいていない。寧ろ遠ざかってしまった。
何とかならないものだろうかと頭を悩ませていると、自分のスマートフォンが目に留まり、ある考えが浮かぶ。すると、俺は電話帳から越前リョーマの文字を探し、発信ボタンを押した。
もうここまで来たら、とりあえず一度本人に会うしかないと思ったのだ。だから俺は、彼奴に電話を掛けた。
「久しぶりに、俺とテニスをしてくれないか」そう問うと、二つ返事を得られ、三日後に会う約束を取り付けた。
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三日後は自分が思っていたよりもすぐやってきた。正直会ったところでどうするんだという思いもあったが、ここ数週間、もう色々と辛かったことは鮮明に覚えていて、この状況を打破するにはこうする以外に道がないと思っていたのだ。
待ち合わせはあの草試合をしたテニスコートで午前十一時。テニスコート端のベンチに腰を掛け腕時計を見れば時刻は十時二十五分。流石に早すぎたが、まあ気持ちを落ち着かせるにはこのくらいが丁度いいだろう。俺は深く息を吸おうとした。
すると、フェンスの扉がカシャンと音を立てる。咄嗟に視線を上げると、そこには彼奴がいた。
「真田さん、おはようございまーす」と声を掛けられる。こんなにも早く来るとは予想だにしていなかったため、驚きを隠せなかった。
「ああ、おはよう……随分と早かったな?十一時で良かったんだぞ?」
「真田さんとテニスすんの久しぶりで楽しみだったし、真田さんはどうせ早く来るだろうって思ったから」
彼奴はにっと笑みを浮かべた。
「越前、俺はお前が好きだ」
その幼くいたずらな笑顔は、俺の思考を奪うことなど容易かった。
つい自らの気持ちを口走ってしまったのだ。そしてその瞬間、顔に熱が集まるのがわかった。事の重大さを自覚する頃には時すでに遅く、もう取り返しもつかない状態である。
すると彼奴は唐突に俯いた。
「テニスで勝負して、真田さんが勝ったら、この返事してあげる」
一瞬何がなんだか分からなかった。しかし、彼奴がもうひとつのベンチにラケットバックを置いて、上着を脱いでいる姿を見てから漸く状況が把握できた。
最初のサーブ権は自分だったため、深呼吸を一つして、ボールを高くあげる。そして試合が始まった。試合であるからには、それ以外のことは考えてはならないと思い、俺は即座に目の前の試合にだけ集中し始める。
彼奴がまた腕を上げたことがすぐに分かった。威力もスピードもしばらく試合をしないうちに随分と上がった。本当に底知らずな奴だと改めて思わされた。
自分も新しい技をいくつか習得し、力を上げた自信があるため勝利する気で真っ向からぶつかり、打ち合った。それはネットの向こうでも同じようで、全力で打ち合うこの感覚を共有している気分になった。そして俺はいつの間にか戸惑いの気持ちなど忘れて、目の前の好敵手に勝つことだけを考えていた。
そして、試合の決着がついた。結果は7-5で彼奴が勝利した。
「俺の勝ちっすね!」
真冬であるにも関わらず汗をダラダラと流しながら、彼奴は勝気な笑顔を見せる。
「ああ、俺の完敗だ」
顔に流れる汗を拭いながら、続けて言葉を返した。すると、彼奴はラケットを持ったままこちら側のコートへ駆け寄ってきて、そのまま俺に正面から抱きついた。
「俺、真田さんのことLikeじゃなくてLoveな意味で好きなんだけど、真田さんはどう?俺のこと、好き?」
そう言った彼奴の瞳は、陽の光と合わさって、星の欠片を散りばめたかのように、キラキラと煌めいていた。あの日みた煌めきと同じだ。俺はあの時からもう既に、この煌めきにおちていたのだと、今更ながら自覚した。
そんなことを考えていたら、俺は先に言葉で返答するのを忘れて、思わず強く抱きしめてしまった。「好きに決まっている。勿論、愛しているという意味だ。愛おしくて堪らなくて、耐えられなくなるくらい、お前のことが好きなのだ」
噛み締めるように、言葉を紡いだ。
二人して汗でびしょ濡れなことなどお構い無しでに寧ろその冷たくなり始めた汗ですら、何故かとてつもなく愛おしく思えたのを鮮明に憶えている。
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そろそろ梅雨に入るか入らないかという季節。現在、俺は高校一年、越前は中学二年になった。今日は越前が自宅に泊まりに来ている。
時刻は深夜一時。自分の布団の中が異様に暑いと思い目を覚ますと、隣の布団で眠ったはずの恋人が同じ布団ですやすやと眠っていた。恐らくトイレに起きた後、間違えて入ってきてしまったのだろう。
最近知ったのだが、越前はこういったことをよくしてしまうのだ。本人は無自覚らしいのだが、流石にここ最近、熱帯夜並の気温が続いているため暑さで気付くと思っていたがそんなことは無いらしい。
現に今も前髪を額の汗で張り付かせながら、夢の世界から帰ってきそうにない。このままで熱中症の危険もあるので、頭上の引き出しから扇子を取り出し広げ、そっと扇いでいるのである。
ああ、あの頃はまさかこのような関係になるなんて想像すらしていなかったのに、人生は何があるのか分からぬものだ。
そっと愛しい恋人の柔らかな髪を撫でながら、俺はそっと幸せに浸った。
「愛している、リョーマ」