五条悟の機嫌がすこぶる良い時に彼へ近寄ってはならない。これは呪術界(というよりも彼近辺の呪術師間)でまことしやかに語られている話だ。高専時代から先輩後輩の関係で長く付き合いのある七海建人ももちろんそれを知っているし、それを広めている節さえある。この間は任務の合間に押し付けられ……もとい、任された一年生達にも強く強く言い聞かせた。虎杖悠仁と釘崎野薔薇は神妙な顔つきで頷き、伏黒恵はげんなりした顔で遠くを見つめていた。きっと過去既に何かあったのだろう、ご愁傷様としか言いようがない。
さて、ここまで「機嫌のいい五条」の恐ろしさを軽く説明したが、実際のところ七海は未だそれに巻き込まれるどころか、直接目の当たりにしたことすらない。ただただ周囲の被害を見て「アレにだけは絶対に関わらない」と足掻き続けた成果である。不思議なことに、率先して絡んできそうな五条もそんな時には七海に近寄らないのだ。
謎の不可侵を保った数年間、これまでもこれからも破られないものだと七海は思い込んでいた。五条がどんなことを考えていたのかも知らず。
「なーなみ♡」
「お断りします」
「まだ僕なんも言ってないけど?」
七海より上背があるくせに、あざとく下から覗き込む。弾んだその声からは嫌な予感しかせず、早足で逃げるにもリーチのある男から逃れることは叶わず。思わず寄った眉間のシワをうりうりとつつかれる。不快。
「アナタのその声色、ろくなこと考えてないのがダダ漏れなんですよ。私に構わず生徒達に顔を見せてきては? こちらに戻るのは五日振りでしょう、虎杖くんが帰りを待ち侘びて」
「それはさっき済ませてきたー。土産も渡したし、これからしばらくフリーなんだよねえ僕」
「そうですか、良い休暇を。私はこれからまだまだ任務が残っていますので」
今までの比ではない猫撫で声。きっとこれは、今まで避け続けてきた「機嫌のいい五条悟」だ。なぜ今になって七海に牙を剥くのか、すり抜けてどうにか逃げる手段を考えるもさすが最強。隙がない。こんなところで発揮しないでほしいと切実に思った。
「ふーん、任務ね」
「はい、任務です。こればかりは私の仕事なのでアナタにどうこうはできませんよ」
「それ、終わらせてきたって言ったらどうする?」
「……失礼、何と?」
「だからさ、オマエに割り振られてた三日分の件、伊地知締め上げ……聞き出して出張ついでに片付けてきちゃった」
てへぺろ、なんて三十路の男がやるもんじゃない、いくら童顔とはいえ年齢と周囲に与えるダメージを考えろ、伊地知に謝れ、等のツッコミが掻き消えるほどの衝撃。ご機嫌な五条はついでで一級案件を、しかも他人へ振り分けられた任務をいくつも片付けるのか。始末書も終わらせたよとピースサインを出された時は本気で今すぐにでも槍が降るかと心配した。
非常に混乱したがつまり、よっぽどのことがない限り三日きっちり休めるのだ。五条悟のおかげで。少し癪だが、素直にありがたいではある。
「でさ、これって等価交換が成立すると思わない?」
「……三日分の休暇と釣り合う何かを私がアナタに提供する、と?」
「さっすが七海、ご名答! あのさ七海」
行くでしょ、二泊三日で慰安旅行
穴のないドーナツが無いように、裏のない五条悟の行動はほとんどないに等しいことは悲しいかな数分前までの七海の頭からすっぽ抜けていた。渋々とまではいかないが、旅行に行くなら一人旅派の七海には、五条との二人旅はあまり快適とは言えない。しかし何故か費用をすべて受け持ってもらっている分、何も言い出せるはずはなく。提案を受けた翌日、二人は関東圏から発ったのだった。
「……ホテルまですでに予約済みなんて、用意周到すぎる……」
「ホラホラ〜、ぶつぶつ言ってないでチェックインするよ! ところでオマエ、休暇中は髪の毛七三にしないんだ」
「そりゃまあ……せっかくの休みなのでリラックスしたいですし」
「へぇ、知らなかった。なんかイイね、ちょっと昔に戻った気分」
さらさらと無造作におろした金糸に触れられる。触るなと頭を振るとくすくす笑い声が降ってきた。まだご機嫌は継続らしい。
分け目の生え際が気になるから休暇中くらいは、なんて話は見た目年齢が万年十八歳(ついでに言うと中身はほぼ八歳児のそれである)のこの男にはわからない悩みだろう。話したら話したで死ぬほど煽ってきそうなので、共感してもらおうとはミリほども思わない。想像だけでもイラッと来てしまった、やはり旅は一人に限る。
だだっ広いラウンジでそんなくだらないことを思い巡らせながらぼんやり天井の装飾を眺めていると、カードを受け取った五条が帰ってきた。
「…………私の目がおかしいんでしょうか、ルームキーの番号が同じように思えるのですが」
「だってえ、駆け込みだと部屋あんまり余ってなかったんだもん。広い部屋だし寝室もふたつあるからさ、安心しろよ。……もしかして五条さんと同衾の方が良かった!? ヤダ!! 七海のムッツリ!!」
「そんなこと微塵も思ってませんよ、大声で騒がないでくださいみっともない」
色々とスルーさせてもらうが要は恐らく、スイートルームしか取れなかったということだろう。逆に何故スイートルームが空いているのか、とも思ったがもう何も考えないことにした。とにかく今は疲れを癒すことに集中したい。癒したそばからストレスが蓄積するチキンレースになりそうではあるが。
〜〜〜〜〜
「おお……」
「な〜? 良いとこっしょ?」
五条が取ったスイートルームは最上階まるまる貸切、エレベーターもカードキーをかざさなければここまで来られないというスタイルらしく、彼ら以外の気配が皆無であった。職業柄気配に敏感な七海たちでもまったりと過ごせそうだ。だからといって彼がドヤ顔をする理由にはならない。
「それで、こんな郊外のご立派なホテルにまで来るなんてアナタには大層な目的があるんですよね?」
「いんや。あるわけないっしょこの僕にぃ。なんか適当に近辺のうまいもん食って、適当に観光スポットっぽいとこぶらつくだけだよ」
予想はしていたが……予想した上での皮肉だったが、ここまでさらりと言われてしまってはこちらの毒気も抜かれてしまうというもの。つい、彼と関わるうち癖になってしまった深い深いため息を吐く。
「もしやとは思いますが、私の提供する対価というのは」
「うんうん、七海はさすが察しがいいね。このへんの美味しいもの調べて♡ オマエの選ぶとこならハズレ無いっしょ。そんで、目の前で美味そうに食べてよ。」
「ますます意味がわかりませんね。自分が食べたいから探させませんか、普通」
そもそも七海もあまり馴染みのない土地である、適当にGoogleマップなどで評価が高い周辺の店にアタリを付けようとしていたのだが。
「この五条悟に普通を求めてはいけないよ〜ん。ま、オマエを信用してるからさ。ちょうどもう少ししたら夕飯どきだし、楽しみにしてるよ」
ひらりと手を振り、寝室の片割れに滑り込む姿はしなやかで気まぐれな白猫のようだ。一方、タスクを半ば押し付けられた人間は少しの間呆然としたが持ち直す。五条の思惑はよく分からないがとにかく、食べ物への妥協を七海は一切しない。すぐに携帯を起動させてリサーチを開始した。
七海が悩み抜いて選んだ場所は海鮮料理店だった。こじんまりとしているが土地代に金を割かない分食材追求に余念がないという。とはいえあくまでもインターネット上での評価であり実際足を運ぶまで内心不安ではあったが、それも無事杞憂に終わった。
「これうま、この白身魚。なんて言ったっけ。僕あんま山椒とか得意じゃないけど味付けとめっちゃ合うね」
「配膳の時にわざわざ説明してくれていたでしょう……。さわらですし、白身魚でもないと仰っていました」
「ありゃ失敗。まあうまけりゃ何でも良いや」
味わう気はあるのか、ひょいひょいと身をほぐしたそばから適当に口に放る五条とは対照的に、ちびちび酒を舐めながらゆっくり味わう七海。ぴりっとした程よい辛味は酒を進ませ、普段なら滅多な事では酔わない七海の頬をほんの少し赤らめた。そしてそれを宣言通り上機嫌にじいと見つめる五条。
「……こら、五条さん。人が食べるところをあんまりまじまじ見るなと教わりませんでしたか?」
「ええー。言ったじゃん、これが対価だよって。大人しく僕に美味しい顔を見せな」
本当に何が楽しいのか、魚と酒を嗜む七海をにこにこじっくりと見つめる。食べ盛りの少年のように見てて気持ちがいいほどの食べっぷりでも無ければ、どこぞのご令嬢のように美しい所作でもない。アラサー男性がひたすら食べる姿をただただ見つめるアラサー男性、側から見たらどんな図なのか。シュールな絵巻のようなものを想像してため息が出そうになったのを慌てて抑える。
幸いにも個室であるし五条はアラサーに見えないが、これほどまで客観視したくないものはない。そんな気持ちも相まってお猪口を傾ける回数が増える。五条も五条で嬉しそうにどんどん酒を注ぐものだから、酔いが回るのは必然なわけで。本来の目的であった海鮮をしっかり味わう前に軽く出来上がってしまっていた。
「なあ見てよ七海、サーモンてっかてか。いくらも信じられないくらい乗ってて溢れそうだし、ヤバ! ほんとにオマエは良い店選ぶのが上手だね」
「……ああ、ふふ、喜んでくれたなら何よりです……」
「なーに笑ってんの。失礼しちゃうゥ。てかもしかして酔ってんの? 珍しーね」
「そちらこそ失礼ですね五条さん、わたしは酔ってません」
「酔ってる奴の常套句なそれ」
大の大人が、それも最強と呼ばれ美味いものなどそれこそ腐るほど味わってきたはずの男が、ただの海鮮親子丼ではしゃぐ姿が本当にこどものようで。不躾にも笑い始めてしまったが五条は特に気にしていないようだ。むしろ機嫌が良くなったようにも見える。
続きどうすりゃいいんだこれ