星見する托恩ごうんごうんと低い唸り声を上げながら、艦は荒野を進んで行く。
カジミエーシュ駐在員のムリナールは滅多な用事でなければ、或いはドクターの呼び出しが掛かったという状況でなければ、この艦に滞在することは無い。今回の場合は後者だった。走行路が大騎士領を通りがかるルートだったこと、また戦闘経験が豊富なオペレーターを求めていたことからムリナールに白羽の矢が立ったのだ。
現場付近の移動都市まで艦を進めて、そこから現地へ車で向かうとのことだった。まだ暫く日数が掛かることから、ドクターからはこの艦でゆっくりしていてくれという言葉を掛けられていた。
何気なく窓の外を見ると、夜になっていたようだった。十数年間オフィスで仕事漬けの日々を送っていたムリナールには、休日の過ごし方があまり分かっていなかった。強いて言うなら、街の外に出て兄夫婦の足取りを探すことくらいだ。彼らは夜空に輝く星々のように美しいひとたちだった。
ふと、ムリナールは星空が見たいと思った。大騎士領内に居ると、ネオンのギラギラとした光に遮られて星の光が目立つことは無い。だが、今ムリナールが居るのはロドス艦内で、ましてやその艦は荒野を走行している只中だ。星空を鑑賞するにはうってつけの場であろう。脱いでいたコートを再び羽織り、部屋を出た。
甲板に出ると当然風が吹き付けていた。だが、あまり風は冷たくなかった。空を覆い隠すビルはここには無い。見上げるまでもなく、輝く星々が目に入る。
久方ぶりに眺める星空はとても美しく感じられた。強い光を放つ星、それとは対照的に薄暗く光る星、モヤがかかったような星。荒野に立っていたあの頃は、いつでもこのような星を見ることが出来ていた。あの美しさに心を揺さぶられていたというよりは、この光たちをいつでも享受することの出来るあの荒野を、大地を安心する居場所として見出していた。兄夫婦に対しても同じようなものを見出していたのだろう。美しく輝く標であり、穏やかで居られる場所として。
ふいにムリナールは背後から気配を感じた。今まさに艦内から甲板に出て来るところだろう。振り向いてじっと扉を見つめる。気配を隠そうともしていない様子に、半ば呆れたような気持ちを抱いていた。どうせ自分が見ていることは気付いているのだろうということも勘づいていた。厚い扉の向こう側に声が聞こえないだろうことを分かっていたが、敢えて「トーランド」と名前を呼ぶ。ゆっくりと扉が開いた。見知った人物が扉の向こうから現れる。ムリナールが予想した通りだった。
目が合うとその人物──トーランドはくしゃりと笑顔を浮かべた。
「やっぱバレてたか」
「いくら私相手でも気配くらいは隠せ」
手にマグボトルとマグカップを二つ持ったトーランドが肘でドアノブを押しながらその扉から出てきた。
「一緒に良いか?」
「好きにすると良い」
それを聞いたトーランドは嬉しそうにニンマリ笑った。対してムリナールの表情は変わらずだったが、一度だけボリュームのある尻尾が大きく揺れた。その動きが無意識下で行われたものであることをトーランドは気付いていたが、敢えて触れなかった。怪訝な顔がこちらに向くのが分かっていたからだ。
「あんまり風は冷たくねえな」
そう言いながら、ムリナールの隣に並び立つ。二つのマグカップの取っ手を片手でまとめて持ち、マグボトルの中身を注いだ。マグカップに注がれた中身は甲板の最小限の明かりでも溶け込むくらいに黒く、湯気と共に香ばしい匂いも立ち上らせている。
「ちょっとキッチンで適当に見繕ってもらったんだよ。つってもコーヒーだけどな」
片方のマグカップをムリナールに差し出す。ムリナールはそれを受け取り、コーヒーを口に運んだ。荒野の湿った土や草の匂いと立ち上るコーヒーの香りが混ざり合って、そのまま暗闇に溶けていった。
「ちったぁ雲が出てるが、星はちゃんと見えるな」
トーランドは空を見上げながらぼやいた。薄灰色の疎らな雲が夜闇に浮かんでいる。その雲がじわりじわりと流れて行く。
「何故ここに?」
「そりゃあ、お前さんと一緒に星が見たかったからな。アテが外れたらどうしようかと思ったけどよ」
トーランドはにやりと笑ってコーヒーを啜った。分かっていて来たんだろう、という言葉をムリナールは敢えて口にしなかった。これも分かりきっていることだった。
「……お前もロドスに来ていたのか」
「ああ、ちょっとした野暮用でな。お前は……ドクターに呼ばれたってところだろ?」
「そんな所だ」
その後に言葉は何も無かった。風が頬を撫でて髪の毛を通り抜けて行くのをそのままに、ムリナールは再び星を眺める。
ムリナールは仕事の内容について身内だろうと友人だろうと何か話すことなど滅多に無い。その事を分かっていて、トーランドは敢えてムリナールが「ドクターに呼ばれた」事だけを確かめた。それを踏まえて少し間を置いて口を開いた。
「まあ、ちょっと先のブリーフィングには俺も居るだろうさ」
その言葉を聞いた瞬間、夜空に向けていたムリナールの視線がトーランドの方に向いた。その瞳に驚きの色は見られない。トーランドの次の言葉をただ待っている。
「ドクターに捕まっちまった。『良かったら手伝って貰いたい。貴方の戦術能力があればより心強くなる。不安材料を無くしておきたいんだ』だと」
そう頼まれちゃあ断れないだろ?口説き文句が上手いよな、とトーランドはボヤいた。元々断る気など最初から無かったが。
「ドクターの指揮は的確だが、お前さんが居るならもっとやり易くなるな」
「好き勝手に動くつもりは毛頭無いんだろう」
「そりゃあそうだ、今の仕事相手を無くすわけにいかないだろ?金貰ってる以上は向こうのお綺麗なやり方に合わせるさ……求められたら話は別だが」
言い終わると、しっかりとムリナールの瞳に視線を合わせた。笑みは崩さないまま、少し真面目な雰囲気を纏う。
「でもお前さんが居るともっとやり易くなるってのは本当だぜ?」
二人がロドスに来る前、トーランドが何度かムリナールを自分の仲間に迎え入れたいと零していた時のような、ムリナール自身に対する信頼が言外に込められていた。荒野に立っていたあの日から今日までずっと積み重なってきている信頼だ。
ムリナールは信頼を込められた視線から目を逸らさずにいた。そうしていると、トーランドが笑みを深めて再び口を開いた。
「ま、ドクターは分かって俺とお前を同じ作戦に組み込んだんだろうけどな」
そう言うとトーランドはコーヒーを口に運び、星空の方に視線を向けた。ムリナールも釣られたように同じ方向へ視線を動かした。人の声が途切れると、艦のごうんごうんという低い唸り声が再び主張し始めた。
その音で思いがけずムリナールはぱちぱちと薪が爆ぜる音のなか、焚き火を取り囲んで友人たちや兄夫婦と語らったときを思い出した。特筆すべき特別な日の出来事でも無いそれは、あの時代のただのひとつの日常だったのだが、それでもムリナールにとっては心穏やかで居られる瞬間であった。
ネオンが星々の光を遮る大騎士領では、空を見上げる気にもなれない。ただ、トーランドと共に眺めるこの今の瞬間だけは確かにムリナールの心は穏やかでいた。
暫くしてトーランドがやにわに口を開いた。
「なあ、もう一回くらいここでまた星でも見たいんだが、どうだ?どうせ仕事が終わったらすぐ帰っちまうんだろ?」
「ああ。お前もすぐ帰らねばならないんだろう」
「そりゃあそうなんだが、その前にちょっとだけ時間くれよ。久々にお前さんと一杯やりたいんだ」
「飲みの約束は出来ない。……ただ、この場で再び共に星空を見るということだけは約束しよう」
それを聞いたトーランドは、今日一番の嬉しそうな表情をしてムリナールの背中を軽く叩いた。約束を交わすくらいには、ムリナールにとってこのひと時が存外気に入ったものであった。
ムリナールは少し冷めたコーヒーを口に運んでから再度星空を見上げた。かつての薪が爆ぜる音は聞こえない。機械が駆動する音が代わりに響いている。ただ変わらないのはやはり暗い空に浮かぶ星の明るさだけであった。