鴨居百の百物語 試験 前 海は好きだ。
春の仕事でスズシロさんについて行った時、時間が余ったからと海辺の小さな水族館に連れて行って貰った。
公民館みたいな小ささで壁の隅がぼこぼこと湿気で腐っていたけれど、水槽に観賞用の魚以外が入っているのはそこで初めて見た。
自分の背丈程ある大きな水槽に、数匹の魚がすいすい泳いでいた。これ何の魚ですかと聞いたら、ベンチに座ってスマホを弄っていたスズシロさんから「サバ」とぶっきらぼうな返事が返ってくる。
サバって、あのサバ?食べるサバ??食料とされる魚を、わざわざこんな仰々しい水槽で生かしているのか?生簀じゃあるまいに。
何の為に生かしているんだ?
俺はなんだか面白くなって、アレは何だコレは何だとスマホばかり見るスズシロさんを引き摺り回して狭い水族館を何周もした。
帰りの売店で、海の魚図鑑を買って貰った。その夜スズシロさんと回転寿司を食べながらどデカい図鑑を広げて「エンガワって何の魚ですかね」「オヒョウ」「なんすかそれ」と寿司ネタと図鑑の魚を照らし合わせながら食った。
「......カモ、水族館気に入ったか」
「ハイ!デッカイ生簀がいっぱいあって面白かったです」
「馬鹿か?あれ生簀じゃねえわ」
「......?じゃあ何の為に食う魚をあんなに沢山飼ってるんですか」
俺の馬鹿な質問を聞いて、スズシロさんはいつも通り、ハーァと重い溜息を吐いた。
「熟々、お前は『夏』に向かねぇ男だよ」
〇〇〇
今思えば、あの時の俺の問いは拾われ生かされている自分の扱われ方への疑問にも通じる物があったかもしれない。
結局、俺は春の仕事をチマチマ手伝いアズマさんにボコボコにリンチ(という名の稽古)をされる内に春から出て行く時期を迎えた。
春を生きたのだ。無事とは言い難いけれど。何回か心臓止まったし、その分アズマさんはAEDの使い方を熟知する事になったし......。
数回、商談の場にも立った。そこでも色々あったが、まァそれは別の話。
俺が四季会に入る事になった事象を整理すると、まず「穢土(エト)」の息がかかった店で働いていたせいで多少なりと穢土の内情を知ってしまっていた事が始まりだ。
穢土は四季会の敵対勢力。
穢土から逃げた俺を見つけたのが、四季会に所属する夏代秋市朗。
夏代秋市朗は俺を捨て駒として勧誘した。
捨て駒の使用期間は平均約1ヶ月。どういった条件で捨て駒から構成員に格上げされるのか知らないが、俺の余命は1ヶ月と見積もられていた。
だが幸運なことか不運なことか、俺は四季会に所属して半年程死なずに済んでいた。
冬の怪談、牡鹿の死神にも再会していない。
春の怪談、春嵐からはいつ死ぬのか不思議がられている。
そんな折、カシロさんに殺される夢を見るようになった。多分正夢なんだろうなぁと思っているが、アズマさんにその話をしたら「夢占い的にはめっちゃいい夢らしいけどね〜!」と言われた。どうなんだか。
夢の中のカシロさんは初めて会った時と同じスリーピースのスーツを着ていて、隣にパーカー姿のアサナギさんを連れていた。殺される現場は決まって地下室の様な薄暗い牢屋に似た場所で、俺は鉄格子の内側の椅子に括り付けられている。
カシロさんとアサナギさんは鉄格子の向こう側に並んで立ち、薄らと微笑んだまま俺を見ているのだ。ジッと見つめ、時折カシロさんが顔を寄せて隣のアサナギさんに耳打ちをする。
するとアサナギさんは「くくっ」と喉を鳴らすのだ。
それが何だか、とても仲睦まじく見えた。
俺はそんな2人の様子をぼんやり見ている内に、カシロさんに銃口を向けられて死ぬのだ。
どん、と撃鉄が起こされる。
毎晩そんな不思議な悪夢を見て、春を終えた。
「おっ。生きてるじゃん」
明朝三時。待ち合わせ場所に指定された喫煙所に、彼はいた。足元に散乱したシケモクと紙幣。上半身裸の男を四つん這いにさせ、その上にどっしりと腰を据えていた。ベンチに腰掛ける形では無く、男の頭を前にして公園の遊具に跨る様に長い脚を放り出して座っていたので、恐ろしい男が子供っぽい姿勢で人間に跨っているアンバランスさに少しぞっとした。
臀に敷かれた男はまだ若いのか、傷んだ髪をカラフルな金と赤に染めている。
アサナギさんの長い足の間から項垂れるその頭の赤が血液だと気付けるくらいに近付いた頃、アサナギさんは眠そうな眼をゆっくりと俺に向けた。
「おはようございます」
「応。お前、火持ってるか」
「マッチで良ければ」
「ハ。古くせえ野郎だな」
アサナギさんは「ハ」と咳をするように笑い、大きな掌をこちらに向けて開ける。俺の手首なんて一掴みでへし折りそうな掌に喫茶店で貰った名刺代わりのマッチをチョコンと乗せると、余計にマッチが玩具みたいにちいちゃく見えた。
彼は器用に片手でちいちゃなマッチを点すと、何の躊躇いも無く臀に敷いている男の頭髪に火を置いた。
ぽい。
そんな気軽な身振りで。
男は「ぎゃぎぎ」と錆びた悲鳴を上げたが、しかし動こうとはしない。動けないのだ。
頭髪が燃える異臭が風に流される。
「カモイだっけ」
「鴨居百です」
「鴨居、煙草吸う?」
「嗜む程度には」
「あそ。俺の前で吸うなよ」
アサナギさんはそう言って、頭髪が燃え尽きてピチピチ音を立てる椅子から腰を上げた。
男の背中には般若が彫られていたが、般若の目玉の位置に執拗な根性焼きの跡が見られる。
煙草の火種にしては一回り大きい。しかし丸い火種をギュウギュウ押し付けられたのだろう皮膚は焦げて凹み、爛れた火傷から瑞々しい血を滲ませていた。
暴力的な場面はすっかり見慣れた筈だった。しかし、拷問や折檻に近い暴力を目の当たりにするのは初めてだ。今までは、あくまで死体処理や制圧だったから。
夏の人間はきっとこういう事を平気でやってのける奴等ばかりなのだろうと思ったが、自分だって人間の死体をバラバラに刻んで山に「戻し」たり海に「戻し」たりしていた事を思い出した。
彼等夏の人間を異端呼ばわりするには、自分はあまりにも手遅れらしい。
アサナギさんは男をそのままにさっさと歩き出す。まだ日が昇る前だし致命傷ではないから、勝手に這ってどこへなりと行ってくれるだろう。どうせ裏社会の人間だ、救急車や110番なんてやりたくてもできない立場。アサナギさんは恐らくそれを知った上で、何か不手際を犯した男の般若の目を焼いた。
彼の背を無言で追いかけながら、関わらない方がよかったかもなぁ、とボンヤリ考えた。
○○○
夏の仕事は主に三つ。
殺し、取り立て、拷問。
抗争戦力は取り立て班と殺し屋班が担い、書類や死体の処理を冬に引き継ぐ際の手続きは拷問班と殺し屋班が担う。比較的雑務が多い様に見える殺し屋班だが、その理由は殺し屋班に割り当てられた構成員の数の多さにあった。他班と比べて倍の人員が割かれているだけあり、殺し屋班は「殺し屋」より「なんでも屋」に近い役割を果たしていた。
そんな有象無象の怪奇な夏を、悠々闊歩する男が一人。
「おっ、生きてる」
アサナギさんの背を追って辿り着いた、廃ボウリング場。
朧に朽ちた天井から細く光が差し込むだけの、薄暗く埃臭い廃墟だ。一面に絨毯が敷かれたフロアは所々不自然に弛んで陥没し、現役時代はぴかぴかだっただろうボウリングのレーンも板が反ったり割れたり腐ったり。
暗くて見えづらいが、遠くの床一面に何か大量の植物がうじゃうじゃ生えている。
およそ人の手が加わっていたなど想像もつかないくらいの荒れ方をしていた。
そんな廃墟のど真ん中。
彼は初めて会った時と同じ、高そうなスーツを纏って地べたに胡座をかいていた。薄暗い中でスーツを纏った黒い影の様な彼を見つけられたのは、彼が上着として着用していた白いパーカーが暗闇の中で薄ぼんやりと見えたからだ。
目が慣れると、よりはっきりと彼の姿が見えた。
濡烏の長髪を結い上げた、恐ろしい笑顔のヤクザ。夏の怪談。
夏代秋市朗は、シニカルに笑った。
「いやあ、長生きするねえ、モモちゃん。
正直な事を白状すると、まさか君が五体満足で夏に来るとはこれっぽっちも思って無かったよ。だって君、初めて会った時、俺を見ただけで泣いて命乞いしたじゃない。
......それが、こんなに立派な狂人になって」
彼は暗がりの中何かごそごそと動き、ポケットから何か取り出して「シャキン」と蓋を弾いた。
オイルジッポーだ。あの日、俺が盗んだ書類を燃やしたジッポー。
オレンジ色の光が彼の革靴の表面で弾けて、ぴかぴか光る。
おもむろに立ち上がった彼は、長い脚を1歩2歩と進めて手に持ったジッポーの光を奥のフロアに向ける。
光で辺りが柔らかく照らされて初めて、奥のフロアの異様さに気付いた。
床に無数の蝋燭が立てられている。
ディナーキャンドルの様な大きなものから誕生日ケーキの上に刺さっていそうなものまで、その大きさは様々。彼が胡座をかいている背後のフロアに、枯れた花畑の様にびっしりと、溶けかけて力尽きた蝋燭の亡骸が無数に立っていた。溶けた蝋が細長い蛆の様に重なり合い、象牙色の根を床に張る。
ジワーッと後頭部が汗ばみ、頭から血が降りていくのを感じる。
暗がりの中で植物だと思っていたものの正体が異様な数の蝋燭だと知り、喉の奥が酸っぱくなった。
植物なら、群生していても違和感がない。
あれは違和感の塊だ。人の手が加わらなければ有り得ない現象な上、規模が大きすぎる。
明かりに照らされて浮き上がっている数だけでもざっと百は超えているように見える。
じっと固まる俺に、彼は話しかけた。
「アレが何か分かる?」
「......いえ」
「アレはね、暦の子の墓標。俺が勧誘した子の分だけだけど、五百人くらいになるのかな」
硬い革靴の底が柔らかい絨毯を踏み、コン、コン、と曇った足音がする。
俺と俺を連れてきてから一言も喋らないアサナギさんを置いて、秋市朗さんは墓標の群れに近付いた。
「ーー皆大体1ヶ月くらいで死んだよ。春夏秋冬どこへ配属されても、長くは持たなかった。春に入れば商談に巻き込まれて死ぬし、夏に入れば抗争に巻き込まれて死ぬし、秋に入れば人生を根こそぎ巻き上げられて死ぬし、冬に入れば気が触れて死ぬ。
半年生持つ子は今までに片手で数えられるくらいしか居なくて、だからモモちゃんみたいな子は本当に珍しいんだ」
彼の声は落ち着いていた。不気味な程。
「夏の仕事は、冬や春に比べりゃ楽なモンさ。ただ人を殺せばいい、ただ出来るだけ酷いやり方で『お話』をすればいい。死体の処理なんてしなくていいし、命を懸けて商談なんてしなくていい。
だけどなァ、百ちゃん。俺はまだお前を信用しちゃいない訳だ。残念な事にな。
ーー愛出」
彼がジッポーを翳したままアサナギさんを呼ぶと、アサナギさんは彼の左隣に立った。ジッポー持つ彼の右手側に立ったアサナギさんの表情は、当然より鮮明に浮かび上がる。
2人が並ぶと、俺は(あっ)と思い出す。
この並び。
檻は無いけれど、これ、夢で見たのと同じだ。
夏代秋市朗は右手でジッポーを保持したまま、左手でパーカーのポケットから拳銃を2丁取り出してこちらに投げた。
鉄の塊が鈍い音を立てて腐った床に落ちる。
ゴン、ゴトン。
あれ。撃ち殺されるんじゃないのか。
「さぁ、試験だ百ちゃん。合格条件は秘密、合格したら正式に構成員になれるように話をつけてやろう。失格したら身元引受け人の責務を果たして殺してやるよ。
その銃2丁のうち1丁は弾が1つも入っちゃいないが、もう1丁は全弾入ってる。どちらか選んで引き金を引きな。あぁ、マガジンを抜いて中を見るなんてつまらねえ事するなよ。
辛い思いをしない内に自分を撃ってもいいし、俺でも愛出でも好きな方を撃っていい。
尤も、俺と愛出が銃如きで死ぬと思ってンならな」
床に落とされた銃は、春にいた頃商品として取り扱った事があった。
黒星、トカレフTT-33。
懐かしい、これ最初素手で持ってスズシロさんに「死にてぇのかクソボケ......。安全装置付いてねぇからトリガー触れば即死だぞ」って言われたなぁ。
目線を上げて2人の表情を伺うと、2人とも笑っていた。笑顔だけは夢の通りだ。
成程納得、正夢では無かった様だけれど状況は限りなく死に近いらしい。
恐らくこれは試験というより誰かに看取って貰える最後のチャンスなのだろう。
夏代秋市朗という男が拳銃程度で死ぬとは思えないし、恐らく撃った所ですぐ隣に立っているアサナギさんが庇う。
2人と俺の距離は目測3メートル。
トカレフの装弾全てを撃ち切った所で全弾命中する保証は無い。というか銃を撃った事なんてアズマさんとの訓練で何度かやらされた程度だし、恐らく俺のそういう実戦経験の程度も2人は知っているのだろう。
これは2人の間で仕組まれた出来レース。
どんな状況に転んでも「2人が死ぬ未来は無い」。
「さぁ、選びな。死ぬも生きるも地獄だが、マシな方を選ぶといいさ。ハハハ」
夏の怪談、夏代秋市朗。
彼の突き放す様な鋭い笑い声が廃墟にこだました。
続