精神崩壊と思考放棄「お前の言った通りにしたのに! どうして!」
「貴様のせいだ! キラ・ヤマト!!」
「戦闘以外には、何の能も無いくせに!」
あぁ、また聞こえる。
誰かの口から吐き出される雑音が、耳の奥から離れない。
「キラさ……隊長!」
シンに声を掛けられて、キラは振り向いた。仄暗かった瞳は、シンの姿を映すと同時に僅かながら光を取り戻す。
「どうしたの?」
にこりと微笑んで問えば、シンは少しだけびくりとした後で、持っていたバインダーを恐る恐る見せた。そこには数枚の書類が挟まれている。
「あの、これ……ザフトから、共同演習の依頼があって」
キラさん、この前の出向の後から、やっぱりどこか変、だよな……。笑ってるんだけど、笑ってないって言うか、暫くオーブに行ってたけど、その時の事を全然話してくれないし、何より。
シンは、書類を覗き込むキラをちらりと見やる。
どうして、そんな目をしているんですか……?
書類の文字を追うキラの瞳は、明らかに宝石の様なキラキラとした輝きを失っている。終わらない戦争に心を痛めながらも、同志と共に歩んでいる今は、前よりも自然な笑みが増えて、穏やかな雰囲気を纏う日々が続いていたのに。
「……隊長?」
書類に視線を落としながら黙り込んでいたキラを呼ぶと、キラは顔を上げてシンを見返す。やはりシンの目には、キラの浮かべる笑みが整っているのに歪んでいるように見えた。
「あぁ、ごめんね。シンはどう思う?」
「え?」
「シンは、この演習に参加したい?」
「お、れは……」
問われて、シンは動揺した。今までも同じようにコンパスにも演習や作戦に参加して欲しいという依頼は多数あった。その度に、その参加の有無はキラが隊長として決めていた。だからシンはどう答えて良いかを迷ってしまう。
「……シンが決めていいんだよ」
返答に間を置いてしまったシンに、キラの穏やかな声が掛けられる。シンの見つめる先で、キラはにっこりと笑んでいた。
「君が決めて? 僕にはもう、決められないから」
笑顔のままでそう言うキラに、シンは違和感を覚える。
決められない? 何が? 何で? どうして?
「……俺、は……参加したい、です」
絞り出すようにシンが言えば、キラは嬉しそうな笑みで頷く。
「ん。分かった。ありがとう、シン。参加で返事をしておくね」
キラはぽんっとシンの肩を叩き、呆然としたままのシンの手からバインダーをそっと受け取るとその場から去っていく。シンはそんなキラの背を見つめながら、体に入っていた力をドッと抜いた。
「はぁ……」
キラと話しているだけなのに、妙な緊張感があったのだ。穏やかで温かい雰囲気は変わらない。なのに、どこか笑顔と問い掛けには冷たさがあった。いや、冷たさと言うには語弊がある。冷たさがあるのではなく、何も無いと言う方が正しい。演習に関して、キラは何も思っていないようだった。だからシンに全てを委ねた。そんな雰囲気だった。
綺麗過ぎる笑顔には、何の感情も含まれているように見えない。シンには、キラが何を思っているのか、全く分からなかった。
「ねぇ、最近の隊長、絶対に変よね」
パイロット待機室でルナマリアが口を開く。シンは即座に反応していた。
「だよな!」
シンの勢いに驚きつつ、ルナマリアは頷く。アグネスも同様の事を思っていたらしく、二人に近付いてきた。
「綺麗な顔も笑顔も変わってないのに、どこか不気味に思う事はあるわね。この前なんて、技術士の配置を私に任せるって言ってきたのよ。普段だったら、自分でやるのに」
腕を組んでその時の事を思い出すように眉を寄せるアグネスの言葉に、シンもルナマリアも頷く。
「そうなのよね。私たちに判断を委ねる事が凄く増えたのよ。前だったら自分が決めて、それから一応私たちの意見を聞いてくれるって流れだったのに、最初から笑顔で『どうする?』って聞いてくるの」
「それで俺らが答えると、全部肯定して何も直しとか入れないんだよな」
「「そう!」」
シンの言葉に、ルナマリアとアグネスの言葉が重なる。
三人が同様に、キラから様々な事を選ばされていた。今のキラが自身で選択している事と言えば、武力介入する際の隊員配置と自分の動きだけだ。そして、それすら以前とは異なり通信での指示には、一拍だが妙な間が空いているのをシンは気付いていた。
「……私たちに任せてくれるのは、信頼の証……って思っていいのかしら」
「まさか隊長、引退しようとか考えて無いわよね」
「うーん……信頼も、引退も……なーんか違う気がするんだよなぁ……」
三人で考えるが、結論は出なかった。しかし、キラの様子がおかしいと言う事だけは一致していた。この三人がそう思っているのだから、恐らく他のミレニアムのクルーたちや、もしかしたらアークエンジェルのクルーたちも同様に、今のキラの言動の違和感には気付いているだろう。
「けど、何も言ってこないわよね」
「今の所、大きな問題が無いからだとは思うけど……」
「……俺たちが一番隊長の傍にいるんだ。何かあったら、俺たちが隊長を守るぞ」
シンの言葉に、ルナマリアとアグネスも頷いていた。
キラは士官室の自席に座り、ぼんやりと天井を見上げていた。すっと目を閉じると、また頭の中にあの日に投げつけられた言葉が思い出されてしまう。
オーブの官邸でカガリたちと話した後に、知らない男から突然腕を掴まれた。
「キラ様! どうか知恵をお貸しください!」
官邸にいるのだから、それなりの役職の男なのだろう。初老と思われるその男は、自身の娘がテロ組織に関わっている。助けて欲しいと縋りつく様に言ってきた。それが真実なのか、その男の妄言なのか、キラには判断が出来なかった。だから当たり障りの無いように、「詳しく調べてもらいましょう」と男を諭し、情報室へ案内した。
男は案内している間も騒いでいた。「早くしなければ間に合わない」「貴方には力があるのに、私の娘は守ってくれないのか」「カガリ様のきょうだいと言うだけで権力を与えられているくせに」等、焦りからかキラを責め立てる暴言へと変わっていった。
元々キラの心には影が落ちている。戦争を嫌いながら、戦場から離れる事の出来ない自身の業と向き合い続けているキラの心は、細い糸一本でギリギリ理性を保っているような状態だった。その一本の糸が切れないように支えてくれていたのは、カガリやラクス、アスランやシンたちと言う、キラを慕う者たちである。
そんな者の一人であるカガリを、その男はキラへの報復と言わんばかりに狙った。
当然、カガリは無傷であり、他の者にも一切被害は出ていない。自由に官邸を出入りできるような議員である男だったが、何かしらの訓練を受けた訳でもない素人である。何が出来る訳でもなかった。
男がキラに暴言を吐いてから数日後、男の娘は反社会的勢力とのいざこざで命を落としたと言う。男はそれを全て、キラのせいであると吐き捨てたのだ。
「お前の言った通りにしたのに! どうして!」
「全てお前のせいだ! キラ・ヤマト!!」
「戦闘以外には、何の能も無いくせに!」
「お前さえいなければ!」
カガリは聞くなと叫んだ。しかし、キラは聞いてしまった。
そして、ギリギリで保たれている理性は、心は、ぷつん。と言う音の後に、完全に崩壊してしまった。
笑顔でいれば、どうにかなる。大丈夫。それでいい。僕なんかが選ばなくたって、他のみんなが優秀だから問題ない。
キラは自身で何かを選ぶことを放棄していた。否、出来なくなっていた。
それをキラと話している間に察したカガリが、ミレニアムへ戻らなくてはならないキラに、一枚のコインを渡してくれていた。
「迷った時はそれに聞け。私と、ハウメアが、お前の背を押すから」
戦場でそんなことをしている暇があるのかと言われれば、無いと言うのが正解だろう。しかし、キラにはそれを使って行動することしか出来なくなっていた。キラがコイントスで指示を選んでいると言う妙な間に、シンは気付いている。
もう、何も考えたくない。
キラの心の糸は、未だに戻っていない。
「隊長、聞いてますか?」
技術部からの呼び出しで、キラは格納庫に来ていた。フリーダムとデスティニーの調整で相談があるとのことで、シンもやって来ている。技術士官たちから色々な事を言われていたが、今のキラには何も響かない。耳の右から左へと、皆の言葉がするりと抜けてしまう。
にっこりと綺麗な笑顔でその場にはいるが、シンはキラが何も言わない為に問いかける。技術士たちもキラの様子に、若干の困惑をしている様子だった。
キラは笑顔のままで何も言わない。シンはキラと技術士たちを交互に見た後で、キラの手を取って格納庫を後にする。
「また後で聞くから! ごめん!」
ヴィーノもいた為、彼に向かって謝罪をしてから、シンはキラの腕を引いたままで近くの空いている士官室へと入った。
キラは未だに、貼り付けたような綺麗な笑顔のままで、シンは迷った末にキラの頬にそっと自身の手の平を当てた。
「キラさん、何か辛いのなら、笑わなくても大丈夫ですよ?」
シンの言葉に、キラは笑顔のままで首を傾げる。
「どうして? 笑っていれば、みんな安心するでしょう?」
「いや、それは状況に合っていればの話ですよ。今のキラさんは、その……無理矢理笑っているだけで、逆に、不安になります」
シンの言葉に、キラは笑顔をやめる。しかし、瞳を綺麗な丸にして、心底不思議というように首を傾げたままである。
「……最近の貴方は、なんていうか……」
キラの様子をどう表現したら的確なのか分からない。その為、シンははっきりと喋れない。
「……俺達に選ばせてくれるのは……頼って、くれているのは、勿論嬉しいんです。でも、それがあまりにも多過ぎますし、キラさんは何も自分で選んでいないように見えます。いったいどうしたんですか?」
シンの問いかけに、キラは数秒の間を置いてから自身の頬にあるシンの手をそっと外した。そして、一歩背後に下がると、背中側で手を組んでシンを見据える。
そして、一度消した笑顔をもう一度見せる。
とても綺麗で整った、誰も彼をも拒絶する笑みだった。
「どうでもいいんだ」
キラはハッキリと言葉を口にしていた。
「全部どうでもいいから、自分で決められないんだ」
あの時、心が壊れた時から、何もかもどうでも良くなってしまった。
どうして自分が戦っているのかも、今ではもう、何も分からない。
キラの言葉に、シンの表情が徐々に絶望に染まっていく。シンが考えていたよりもずっと、キラの精神状態は深刻だったからだ。
「そんな……。キラさん、いつから……」
自分で口にしながら、シンは自身が違和感を覚えた日を思い出す。
もしかしてあの時からずっと、この人はこんな酷い状態で俺たちを指揮してくれていた……? どうでもいいなんて言いながら、この人はやっぱり優しいから……!
シンは強く唇を噛んだ。もっと早く行動するべきだった。この人がここまで追いつめられる前に、もっと自分が寄り添っていたら。
「キラさん!」
シンは思い切りキラに抱き着いていた。キラは一瞬だけ驚いた表情になったが、すぐにまた綺麗過ぎる笑顔に戻る。
「なぁに、シン」
あぁ、この人は、今の俺の心情にすら興味を失くしている。あんなに俺の心に、寄り添ってくれていたのに。
キラの細い身体に回されたシンの腕に、強く力が込められた。
「…………俺は絶対に、貴方の心を取り戻します……」
呟いて、シンは強く強く、キラを抱き締める。今のシンには、それしか出来なかった。
「……変なシン……」
キラにはシンの言葉の意味が全く分からない。それでも何故か、シンの背に手を回して、縋るようにその身体を抱き締め返していた。