路地裏
女は眉根を寄せて手配書を持つ男に首を傾げた。きっちりと上まで締められたスカーフに鴉のように黒い制服を纏った男は、女の返答に鋭い眼光を更に細める。
「本当に?」
男が身を乗り出して再度訊ねると、女は力強く頷いた。脅迫染みた尋問に、女の顔は脅えるように顰められている。
じりじりとした攻防戦のあとに折れたのは男の方で、「ご協力感謝する」と少しばかり不服そうに言い捨てた男に、女は背筋を伸ばすと脱兎のごとくこの場から去っていった。女の背中を横目に男は大きなため息を吐いて胸ポケットに入れていたたばこを一本取り出し咥えると、愛用しているボトル型のライターを近づける。逸る気持ちを抑えて顔を伏せ、もう一度吐き出されたため息は、灰の中に入れた煙と混ざり白い気体が空に浮かんだ。
土方十四郎は焦燥としていた。徳川家が贔屓にしているというとある料亭にて、幕府の御要人である天人への接待中に幕臣共々何者かに襲撃されたという報せを受けたのは今朝のこと。見張りに付かせていた番頭は斬られ、料亭の主人は意識不明の重体、奥の一等の座敷で会談をしていた高官を始めとした幕臣や天人は皆心臓を一突き、或いは首の脈を斬られ絶命していたという。ちょうど芸子達が退出している僅か一瞬の犯行であり、下手人は極めて腕の立つ手練れであるか、幕府に相当な恨みを持つ人間の仕業ではないかと奉行人は言う。
そこで浮上したのは、この時勢最も過激で危険な攘夷志士――高杉晋助であり、真選組監察方の山崎退が独自に入手した情報によれば三日ほど前から江戸に高杉晋助がいるという有力な目撃情報が多数上がっていた。
今回襲撃されたのが幕臣と天人十数名ということもあり、幕府配下の複数の警察組織が高杉以外の攘夷志士が下手人である可能性を視野に入れつつも、高杉を捕まえるべく血眼になって情報を集めている。真選組もその中のひとつだった。しかし、集うのは目撃情報ばかりで、肝心の現在本人が滞在している場所についての有力な情報は皆無である。もしこのまま逃げられれば、長官の松平公や真選組幹部の首が刎ねられる可能性もある。緊迫した状況が続く。
「どっちが犯罪者かわからねえな」
「あ?」
ふと、聞こえてきた声に土方は顔を上げて声の方へと視線を向けた。壁に背を預けて腕を組みながら鼻で笑った目の前の男に、土方の眉間には皺が増える。それが先程通りすがりの町娘に対して情報を得ようと迫っていた姿を言っているのだと分かれば、咥えていた煙草のフィルターをがりっと噛んだ。そして、「捜査の邪魔だ。公務執行妨害でしょっぴくぞ」と声を低くさせた。ただでさえ鼻につく男だというのに、今は特に相手にしている暇はない。
「おーおー、職権乱用かよ。これだから税金泥棒は」
「うるせえよ。つーかなんでてめえがこんなとこにいんだ? 縄に括って屯所まで連行してやろうか?」
「通りすがりだよ。冤罪で逮捕ってか? 慰謝料請求すっからな」
金にがめついこの男のことだ。請求書を揃えてたかってくるのは目に見えている。任意同行という手もあるが、再三いうように今は相手にしている時間がない。たとえそれが、伝説の攘夷志士『白夜叉』という異名を持ち、かつて高杉らと共に戦争に参加していたとの疑惑のある――坂田銀時だとしても。高杉の情報を得るためにやはり連行させた方がいいのか、土方は思案する。しかし、
「副長! ちょっとよろしいでしょうか!」
銀時を睨んでいた土方だが、向こう側から自身を呼ぶ部下の声に盛大に舌を打つと路地裏から表通りへと足を進めた。やはり時間はない。
「おい」
その背中を気だるげに眺めていた銀時は、足音も気配も消えたところで独り言ちる。刹那、路地裏の暗く湿気が漂う空間で影が伸びた。
「てめェが俺を庇うなんざ、とうとう気でも狂ったかァ?」
「庇ってねえよ。ただの通りすがりだ」
細い紫煙がゆらゆらと揺れる。草鞋の底が土の上を滑る音を鳴らしながら銀時の隣に並んだ男は、愛用している煙管を指の上で遊ばせ可笑しそうに喉を震わせた。煙に混ざる血の鉄くさい匂いと、羽織の袖に付いた血痕は昨晩の悲劇を物語っている。
「俺ァ、てめェに次会ったらぶった斬ると言われた気がしたんだがな」
「ああ、斬るよ。でも今日は、」
――チビでよく見えなかった。
銀時はふたりだけに聞こえる音量で言うと、腕を引き寄せ唇を重ねた。熱い息に混ざった僅かに響いた笑声と首に回された腕に、銀時も華奢な腰を強く抱いて舌をねじ込んだ。逢瀬は黒猫しか見ていない。