堅氷を踏む。撃鉄を起こす。.
珍しいこともあったもんだ。
手持ち無沙汰で胸に下がったループタイを弄りながら隣にちらと目をやった。運転する男は咥えていた煙草を抜き取り、口の右端を歪めて窓の外に煙を吐き出す。車の中に煙が充満しないようにという配慮だろう。そんなことしたって、この男の車なのだから煙草の臭いはすでに車内に染み付いているのだけど。
長く見つめすぎたらしく、男……ヘクトールが視線に気付き、目だけをこちらに向けた。運転中なのですぐに前を見たが、器用にも煙草を咥えたまま低く穏やかな声が届いた。
「どしたぁ、ビリー君」
まるで子供を相手にしたような声色に、頭を撫でられた気分になる。父親ってもしかしたらこんな感じだったのかな。さすがにそこまで年離れてないか。いや、わかんないな。ヘクトールの年知らないし。
それよりも、この態度だ。いつもより明らかに機嫌がいい。秋晴れの今日の天気みたいだ。
ヘクトールが無愛想なわけではない。むしろよく笑うし、一緒に冗談も言うし、煙草を買うついでにお菓子も買ってくれる。別にいらないけど買ってくれる。ただ、それら全部が完全にメッキなのだ。初対面なら人の良さそうなものに見えるが、何度か付き合えばすぐわかるほど適当な張り付け方だ。
彼の中身はもっと淡白で冷たい。例えば明日ビリーが撃たれて死んだとしても、ああそうかぁ、の一言くらいで終わるだろう。ヘラヘラと笑うのも周りを和ませるのも、ヘクトールにとっては仕事を円滑に進めるための手段でしかないのだ。
とはいえビリーもここまでではないにしろ同じようなものなので、不快に思うことも責めることもしない。むしろ正気でこういう人間は珍しいタイプだ。裏社会は辛気臭い顔ばかりだから。ヘラヘラすんな、気が緩む、とボスに何度も苦言を頂く仲良しコンビである。
だが今日は違う。いつもの軽薄な態度から嬉しそうな様子が滲み出ている。こうしてビリーのご機嫌を伺う素振りすら見せるのだ。訊いてくれと言わんばかりじゃないか。それじゃ、訊いてやろう。
「なんかいいことあった?」
「えー、なんでそう思うの?」
「なんでって、あからさまにウキウキしてるじゃないか」
「えっ」
またヘクトールがこちらを見た。今度は顔ごと、キョトンとした顔で。え、まさか、気付いてない?
たっぷり五秒くらい目が合う。ぶっちゃけ今高速道路をガンガンに走ってる最中なので、どう考えたって事故る。特に騒ぎもせず落ち着いていられるのは、ヘクトールのアクション映画級な運転技術を知っているからだ。片足でアクセルを踏んで、もう片足でハンドル操作しながら両手で銃撃ってるのを後部座席から見て悲鳴を上げたあの頃が懐かしい。逆に何したら事故るんだろ。でもそういえば前に人轢いたって言ってたっけ。
「オジサン、そんなウキウキしてる?」
「わざとかと思ったくらいだよ」
「そっかぁ……そんなに……」
ドリンクホルダーに付けたカップ型の灰皿に短くなった煙草をねじ込み、ヘクトールは困ったように頬を掻いた。照れたらしい。本当に気付いてなかったんだ。珍しいものを見たな、と思いながら高速に入る前のコンビニでヘクトールが買ってくれたジュースに口をつける。
理由はやっぱりアレだろうか。ここのところ、よくスマホ覗いてたし。
「新しいおもちゃ、そんなに気に入ったの?」
「おもちゃ?」
ぴくりと眉を上げる。あれ、なんか意外な反応。
「違うよ。オジサン恋人が出来たんだ」
流れるように追い越し車線に切り替え、前を走っていた車を追い抜いていく。見上げた横顔はいつもの気怠そうなそれよりずっと生気があった。
恋人かぁ。わざわざ訂正したけれど、そんな真面目なヤツだっけ。それくらい本気ってことだろうか。いつもならへらりと笑って冗談に冗談を被せてくるあのヘクトールが、軽口にも乗らないなんて。
「女?」
「男」
「なんか意外」
「そうかな」
ヘクトールってゲイだったんだ。いや、でも確か女連れてたところ見たことあるし、両方かな。色んなやつ見る人生だから大して驚かないけど。かく言う自分も、いけそうと思えばどちらもいけるタイプだ。ボスも多分ストレート寄りのバイ。って言ったらボスの一番の女(を自称してる)メイヴが怒って鞭を振り回すので言えないけど。ラーマみたいな、奥さん一筋で周りに見向きもしない方が珍しい。
「年上? 年下?」
「なんだい、グイグイくるなあ」
だって面白いんだもの。こんな話聞ける機会滅多にないよ。ヘクトールは公私に定規使ったみたいにびっちりきれいな線を引いてる。よく一緒に行動するのに、何聞いてもはぐらかして全然教えてくれない。まあ、こんな仕事してる仲間なもんだから、お互い私生活の話ってあんまりしないんだけどね。弱味になりかねないし、プラスにならないし。みんなに奥さんをドヤ顔で紹介してきたラーマはちょっとおかしいんだって。真面目なくせにそういうところ変わってる。
「んー、どっちだろ。そういや年聞いてなかったなぁ。同い年くらいだよ」
「どんなタイプ? 可愛い系? イケメン系? ゴツい系?」
「世界一可愛いよ。はい、もうおしまい。あんまりオジサンをからかわないでおくれ」
片手をぷらぷらと振られ、話は強引に切り上げられた。なんだい、もうちょっとサービスしてくれたって良いじゃないか。アウトレイジな陰気臭い雑談をわざと明るく話すより、人前でも盛り上がれるこういう話の方が楽しいだろ。あんまり騒がしいのも好きじゃないけど。
ていうか、付き合いたてってもっと自慢したくなるもんじゃないの?こんな可愛くて、とかデートした、とかさあ。ヘクトールらしいっちゃらしいけど。
「じゃあ馴れ初めだけ!」
「もー……飲み屋で隣になったんだよ」
「へえ、なんかヘクトールらしいね」
「そう?」
酒が好きなのか店が好きなのか。色んな居酒屋だとかバーだとかを知っているヘクトールらしくていいじゃないか。そんな場所で出会うなら相手も酒好きなのだろう。お似合いじゃん。
「酒すっごい強いんだよ。オジサンより強い。どれだけ飲んでもケロッとしてるんだわ」
「ヘクトールより強いってすごいな」
「ふふ、でも酔った顔は可愛くて……」
でれ、という効果音がしそうな目尻の下がり方だった。しかしそこまで話したところで、話すぎたと言わんばかりに肩を竦める。どうやら本当に終わりらしい。やっぱりノロけたかったんだ。もっと聞かせてくれたっていいのにね。ていうか、そんなに強いのに酔った顔見たってどれだけ飲ませたのさ。
今の『酔った顔』とやらは別の意味も含んでいると感じ取れた。口を閉じたのもそれだろう。童顔だけどそういう話に疎いわけじゃない。いつから付き合ってるかは知らないけど、もう食べちゃったんだね。手の早いこった。
そう思うと、ついむずりと言葉が沸いてくる。
「そんなにイイなら、貸してよ」
ぴり、と悪寒がした。
「ビリー君」
こっちは見ていない。さっきと同じ、穏やかな声。態度も声色も変わっていない。ただ、雰囲気だけが肌を刺す。分厚い氷の上でジャンプして、ヒビが入ったような緊張。
ヘクトールの悪癖が連絡をサボることなら、僕の悪癖はきっとこれだ。突つくとヤバいところを突ついてみたり、怒るか怒らないかのギリギリを踏んでみたくなる。根っからのギャンブラーなんだ。きっと。
ビリー本人としては楽しんでいるだけなのだが、その楽しみ方はどうやらあまり褒められたものではないらしい。可愛い顔してなんでそんな悪趣味なのかねえ、と親友にぼやかれたことを思い出す。
口元がニヤつかないように、いつものゆるりとした微笑みを張り付ける。相手はハンドル握ってるんだ。銃引っこ抜く前に殺せる。なんなら逆の立場だったって勝てる。早撃ちじゃ絶対に負けない。
ハンドルを掴んでいた手が動く。こちらへ伸ばされた左手は、二人の真ん中にあったシフトレバーを掴み、がこりと動かした。
「コーヒー飲みたくなっちゃった。次のパーキング、寄っていいかな」
「ああ、いいよ」
張っていた空気は時速百キロで流れる窓の外に消えていった。とはいっても全部が消えたわけじゃない。さっきの煙草の残り香と混ざって、服に纏わりつく。
左折ウィンカーを出して下り坂になった脇道に入る。すぐに広い駐車場とその奥に平べったい建物が見えてきた。平日の昼間らしく駐車場はガラガラで、乗用車と大型トラックとツアーバスがいくつか点在するくらいだった。
特に用はないけど車から降りて、ぐっと伸びをする。トイレ行っとこうかな。ボスと合流してからごめんトイレ、なんて言えないし。
「ビリー君、お菓子いる?」
「いらないよ」
なんでこう、いつもお菓子買ってくれるんだろ。そんな子供に見える? まあでも、以前ラーマにコンビニのくじか何かで当たったマスコット人形をあげていたし(ラーマは妻へのお土産にすると喜んでいた)、子供に何かあげたくなるタイプなのかもしれない。お菓子とかマスコットとか安直になるのは、おじさんだからなのかな。それともヘクトールがずれてるんだろうか。自分もラーマも、一応成人してるんだけれど。
いつものやる気のなさそうな猫背で自販機に向かって歩いていく背中を見送り、彼の先にある売店の近くに見つけたお手洗いの標識を目指す。売店の側にソフトクリームと書かれたのぼりを見つけ、やっぱり買って貰おうかな、なんて思ったり。
動いた拍子に、服からふわりとヘクトールの煙草の臭いがした。何時間も隣に座ってたわけだしね。歩きながらさっきの危なっかしい空気ごとぱたぱたと払う。ひびの入った氷はまだまだ分厚くて頑丈そうだ。
なんかもうちょっと、楽しめそうじゃない?
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