ラピストリアの穴(1) 放課後のラピストリア学園、その食堂の一角で、大量のお菓子がテーブルの一つを占拠していた。パフェにタルト、ショートケーキにガトーショコラ、色とりどりのマカロン。積み重なったパンケーキの上にはバターが溶け、メープルシロップがしたたり落ちている。食堂で注文できるおおよそ全ての洋菓子がそこに並んでいた。
スイーツの中に埋もれるようにして、一人の少年が座っていた。彼は上品な仕草でケーキを口に運び、その小さい口を小動物のように動かしている。時折俯いてフォークの先端を見つめ、ぼんやりと考え込んでいる様子だ。
「いいないいな~! わたしもあれ食べたいよ~!」
「どれどれ、お菓子ならおにいちゃんが買ってあげるよ……って、あれは凄いな。理事長先生って甘党だったんだ」
珍しい光景に、食堂にいた生徒たちの目は釘付けだ。その場を通りかかったちびっこアイドル・ミニッツと、その兄であるタイマーも、ひそひそと囁きあいながらその様子を見ていた。少年にそれが聞こえていないはずもなく、彼はしばしば周囲の生徒に鋭い視線を投げかけて怯ませていた。
渦中の少年の名はジェイドといった。初等部のミニッツより若干年上程度の子供に見えるが、これでもラピストリア学園の正式な理事長である。先日のラピス騒動まで表舞台に出ることはなかったものの、ラピスから解放されて以降、己の身分を隠さなくなった。
「甘い……」
食堂のBGMにかき消されるような小さい声で、ジェイドは呟いた。口に運んだショートケーキはクリームたっぷりだ。考え事をしながらじっくりと味わえば、胃もたれするような甘さが広がる。
良くも悪くも、食堂レベルの味である。熱い茶と一緒にMZDのところへ持って行くような、高級パティスリーのケーキとは全く違う。これは学生たちが友人同士で分け合って楽しむためのものであり、一人で物思いに耽るために食べるものではないのだ。
ジェイドが眉をひそめると、不機嫌そうなオーラが更に強まった。それが粗悪なクリームのせいなのか、MZDのことを思い出したからなのか、彼自身よく分からなかった。
「ちょ、ちょっとミニッツ!」
ジェイドの不快そうな表情を体調不良とでも認識したのか。兄と繋いでいた手をするりと離し、ミニッツが彼のもとに近づいていく。顔を覗き込まれれば、彼も無視することはできなかった。
「だいじょうぶ? おなかいたいの?」
「キミは確か……初等部の」
「うん! わたしはミニッツだよ」
着用している奇妙なウサギの被り物の耳を揺らしながら、タイマーも理事長の方へ駆け寄ってきた。
「ごめん、ぼくの妹が変なことを言ってない?」
「僕のことを心配してくれただけだ。二人とも、そこで立っているのもなんだから、こっちに座りなよ」
「え? でも……」
「お菓子を分けてあげると言ってるんだ。キミの妹が随分物欲しそうにしているからね」
ジェイドは意地悪そうににやりと笑った。ミニッツは今や、大量のスイーツに目が釘付けだ。ジェイドの誘いに乗って隣に座った彼女は、許可が出るのを目を輝かせて待っている。タイマーも続いて着席したが、さりげなく椅子の位置をずらして己から遠ざかったのを、ジェイドは見逃さなかった。
見せ付けるようにショートケーキの最後の一口を食べ終えてから、彼はようやく口を開いた。
「さあ、どうぞ。何でも好きなものを食べるといい」
「やった~! わたしはパフェにする!」
「じゃあぼくは、これを」
タイマーはマカロンを手に取った。赤く色づけされたそれはベリー味で、齧れば爽やかな酸味と甘味が口の中に広がる。ごく普通のマカロンだった。緊張しているせいで、あまり食べた気はしなかったが。
誰に対しても物怖じしない、ムードメーカーであるはずの彼は今、明確な緊張を感じていた。見た目は子供であるが、ジェイドには強烈な威圧感がある。パンケーキを切り分けているその時でさえ油断ならない。次の瞬間にはナイフを突きつけてくるのではないか、と思わせる。
ジェイドはパンケーキを四等分に切り分けたが、それを口に運ぶことはなかった。フォークを手に持ったまま、兄妹が食べる様子を観察している。
「……ねえ」
「ふぉうひたの?」
口の中に物を詰め込んで喋ったミニッツに、彼は優しく微笑んだ。
「キミたち、甘い物は好き?」
「うん。ぼくもミニッツも大好きだよ。ぼくは食べるのも好きだし、スイーツを作って他の人に振舞うのも好きだ」
「ん……ごくっ、おにーちゃんの作ってくれるおかし、だいすき!」
「それなら……甘い物を食べれば、心が満たされる?」
その問いにどんな意味があるのか。理事長の笑みは、顔に貼り付けられたかのように動かない。だがその赤い目の奥に、名状しがたい感情が渦を巻いているのをタイマーは見た。あえて名前を付けるとするならば羨望、だろう。
それはまるで、今ここにはないはずのラピスがざわめき、震え、強い光を放っているような。
「……好きな物を食べれば、普通は満足するものだよ」
「ふうん。そう。普通は、ね」
意味ありげな言葉を残し、ジェイドは先ほど切り分けたパンケーキを頬張った。不味くはないが、チープで家庭的な味だ。大方市販のホットケーキミックスをそのまま使用しているのだろう。パンケーキを食べる彼の表情は、どこまでも義務的だった。
ジェイドも甘い物は好きだ。かつての実験施設では、〝優秀〟な成績を残した子供に、ご褒美としてお菓子が与えられた。甘味は優越感と、他の子供の妬ましげな視線を思い出させる。あの日食べた小さなチョコレートは、粗末な食事しか与えられていない子供にとって、舌が痺れるほど甘かった。
しかし――
(今はどれだけ食べても、満たされない……)
深く、底の見えない穴に、小さな如雨露ひとつで水を注いでいるようなものである。
「……表面だけなぞってもだめ、ということかな」
「りじちょーせんせー?」
「なんでもないよ。少し……お腹が一杯になってきただけだ」
何にせよ、彼の身体のつくりは常人とは異なるのだ。宇宙人も超能力者も在籍するこの学園に〝常人〟がいったいどれだけいるのか、という問題は別として。
彼は残りのパンケーキを口に詰め込み、パックの牛乳で流し込んだ。食べかけのものはもうない、はずだ。そして悠然と立ち上がり、兄妹にどこか挑戦的な鋭い視線を向けた。
「残りは君たちにあげる。そっちは手を付けていないから」
背を向けて歩き去るジェイドを、生徒たちが遠巻きに見つめる。ひそひそと何やら囁きあう者もいる。しかし、彼はそんな有象無象の視線を意に介さなかった。先ほどまで会話していた兄妹たちのものでさえ。