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    kasounokuma

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    kasounokuma

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    12月のイベント申し込みました。
    さしすのような同居五夏本を予定しています。
    冒頭サンプル(尻たたき)です。

    五条悟 家を買う(テーマ)▼Attention
    卒業生 さしす(教師)
    四年生 灰七
    三年生 秤キララ
    二年生 真希パンダ棘乙骨
    一年生 虎杖伏黒釘崎
    という年齢操作密集設定になっています。



    昔は入学式を彩る花だった筈の桜は、最近では三月の終わり頃に満開を迎える。関東以南では新入生の訪れを待って、花を綻ばせて迎えてくれる情緒のある桜なんてとんと見かけなくなってしまった。今年もどうやら生き急ぐ現代人のようにとんと駆け足の桜は満開を迎えていた。毎年のように早まっている気がするのだが、こればかりは最強の呪術師であってもいかんともしがたい。
    古の都の神社仏閣を模した校舎の至るところに桜が植えられているのはとても風流であったが、ほとんどがブラフの張りぼてだと知っている者からすれば、その桜並木が作るあたり一面の桃色でさえもただ恣意的に作られたジオラマの一部のように思われた。感動もへったくれもないが、教室の窓から春色に染まった眼下を真っ黒な不透過のサングラス越しに見下ろしながら、五条は誘われるように溜息を零した。
    「ついに卒業かー」
    腰骨あたりの高さの窓枠に腰掛けているものの、五条の長すぎる脚は悠々と地面に触れている。ただそこに座っているだけだというのに、ひとつの染みもない透き通るような肌にすらりと通った鼻筋、シャープな顎、理想的な輪郭に、憂いを帯びた表情を浮かべている様はまるでひとつの絵画のように完璧だった。はぁ、と短く吐き出された息は桃源郷のような景色の素晴らしさに対する感嘆ではなく、モラトリアムの終わりを嘆く若人の気持ちを露わにしていた。
    「長かったようであっという間だったなー」
    「五条にしては真っ当すぎてつまんないコメント。やり直して」
    「うっせぇ、硝子。じゃあ他にどんなんがあんだよ」
    「十五歳で入学して、もう四年か。ま、みんなよく生き残ったよね」
    「そこそこひどい。でも夏油の言う通り過ぎる」
    「何言ってんだよ。俺たち最強なんだから当たり前だろー!」
    五条の隣からひょいっと顔を出し、窓の外を眺めながら、太陽の光に温まった春風を受け、夏油のひと房垂れ下がった長い前髪が気持ち良さそうに靡く。その隣の椅子に座って何ぞや小難しそうな本を読んでいる家入の口には当然のように火の付いた煙草が咥えられている。学生であり、呪術師である彼らはまだ十代という若さであったが、卒業までの四年間、これまでにそれなりの死線をくぐり抜けてきた。生き残った、まさしくその言葉が正しい。
    この国は生まれた時から修羅の国で、人が人を呪い、呪いを生み出し、またさらなる呪いをおびき寄せる。それを祓う為に存在する呪術師はこの国で最もけったいな職業である。呪いと対峙する任務には危険が付きまとい、常に死と隣り合わせ、呪いに殺された人間や時には仲間だった筈の人間が切り裂かれた肉や血を見続けねばならない。呪術師は何百、何千ものかつての呪術師の屍の上に立っていて、いつ自分がそちら側に転がり落ちるかなんて誰にもわかりやしないのだ。
    「呪術高専、あぁ、呪術高専、呪術高専」
    「それ辞世の句か?」
    「だからすぐ殺すなっつーの」
    「相変わらず物騒だなぁ」
    そのつもりなど微塵もない。揺るぎのないその声が彼らの強さを証明するかのようですらあった。任務のない麗らかな午後なんて久しぶりで、空気は生温く体に纏わりついてくるような、ひどく穏やかな午後に浮かれていた。
    御三家の嫡子であり、次期当主として生まれた五条悟は赤ん坊ながらその小さな体に莫大な呪力を秘め、刻み込まれた術式は相伝の「無下限術式」と呪力を見通す「六眼」という特別な目の二つを併せ持ち、呪術界の頂点に立つと約束されたまさに寵児だった。対して一般家庭に生まれ、ごく普通の生活に馴染んで暮らしながら、式神使いの上位術式である呪霊操術によってすでに数千という呪霊をその身に受け入れた生きる器として夏油は類稀なる鬼才であることは間違いがなかった。
    まったく別の場所で、まったく逆の生き方をしてきた二人だったが、四年前のこの呪術高専の同級生として出会い、線と線が重なり合った。在学中に揃って特級術師となったなど、高専史上初なのは当然として、同窓の家入も非戦闘員ながら今生で反転術式を唯一他人に施せる稀有な才能を持っていた。かつて類を見ないほど優秀な年と言われたが、素行はまた別の話だ。
    「傑ちゃん、硝子ちゃん、君たち本当に分かってるのかい。この制服着て呪術高専生でいられるの、あと一週間だぜ」
    びし、っと目の前に指を一本だけまっすぐ立てた五条が傾けたサングラスの向こうで言葉とは裏腹にひどく真剣な目をしていた。ごくり、と大きく唾を飲んだ音さえも聞こえてきそうな佇まいに、夏油と家入も揃って口を噤んだ。その心は――
    「もちろんやるでしょ、校舎に落書き」
    「当然卒業旅行でしょ」
    「寮で卒業パーティーでいいよ」
    「それいつもと変わんないじゃん。高校生料金のうちに遊園地行こうぜ」
    「ふはっ、金に困ったことない癖によく言うよ」
    「パーティーは普通のパーティーじゃない。これまでにない、すっごいいい酒で乾杯するんだよ」
    「こういう時はどういうお酒がいいのかな?日本酒?樽で買って鏡開きでもする?」
    「ここはやっぱりドンペリじゃない?ドンペリだよ、ドンペリ、ピンクのピンドン。何本開けられるかやってみよーよ」
    「いいね、シャンパンタワー作ってみるとか?」
    「それ面白いの、オマエらだけじゃん。それよりオールでゲームしよーぜ。カラオケでもいい」
    「この制服で遊びに行くのも最後かもね」
    「他にやり残したことはないかね」
    「あと夜蛾センにドッキリ」
    「――は、しなくていい」
    突然頭上から降るように第三者の声が湧いて出てきて三人は飛び上がるように驚いた。
    「「「わ!」」」
    刈り上げられた短髪に髭、それから真っ黒なサングラス。胸の厚さや明らかに堅気の人間ではない。卒業までにやり残したこととしてドッキリを仕掛けられそうになった夜蛾本人の登場である。三人ときたら話に夢中になっていてまったくその気配に気付いていなかった。いくら天元の結界が張られた高専内といっても、特級が二人揃っていて随分平和ボケしていたものである。
    「いつからいたんですか先生―!」
    「盗み聞きはよくないと思いますー!」
    「うるさい。未成年の癖にドンペリだの樽だの……、硝子、当然のように煙草を吸うなと言っただろ。しかも教室で」
    「寮でならいいんですか?」
    「そういうことじゃない」
    ああ言えばこう言う。口々に不満を訴えれば、夜蛾ははぁ、と大仰に溜息を吐いて呆れた様子をアピールしてきたが、五条と同じく呪霊が視えすぎる目を隠す為の濃い色のサングラスをかけていてはあまりその迫力は伝わらない。伝わらないから五条も夏油も、家入だって少しも反省する訳がない。それどころか「もちろんパーティーには先生も誘いますよ」と付け加えた。
    「ほんっとにオマエらは三人集まると本当にしょうもないことばかり……。生徒でいられるのはあと一週間だから、任務の数も控えめにしてやろうとこっちが気を利かせてやれば、すぐこれだ」
    「えっ、マジ?先生大好き!さすが学長様!」
    「よ、夜蛾学長!最高!」
    「ブラボー」
    なんとこの三人で過ごせる穏やかな午後は夜蛾が苦労して取り計らってくれたものだと知って、三人はまるで手のひらを返したように夜蛾に擦り寄った。そういうことは最初から言って欲しいものだ。それに対して再び大きくて長い溜息を吐いた夜蛾だったが、だけどしまいには堪え切れなかったように吹き出した。どう見ても堅気ではない見た目をした体躯だが常識人で曲がったことが嫌いで融通が利かないほどまっすぐな性根の夜蛾にしては珍しいこともある、と三人は目を丸くした。
    「悟、硝子、それに傑」
    夜蛾に名前を呼ばれて三人は思わず押し黙った。その声には労わりと慈愛が籠っている、と感じるのはこの四年間、毎日のように顔を合わせていた三人だからこそだろう。
    「なにはともあれ明日は卒業式だ。卒業おめでとう」
    夜蛾にそう言われると途端に実感が湧いてきて、三人は肩を竦めた。
    四年前の四月、三人はこの教室で出逢い、同じように夜蛾に「入学おめでとう」と言われた。まるで昨日のことのように鮮明に覚えているのに、もう四年もの時間が過ぎ去ったのかと夏油は不思議に思った。一年経つスピードが年々早くなっているのは年齢による比率のせいだというのは誰が唱えていた法則だったか、まさしくその通りだと思う。三人で過ごす日々は毎日が刺激的で、新しいことに満ちあふれていて、人生山あり谷ありと言うけれど楽しかったことも大変だったこともたくさんあって目まぐるしかった。だけど圧倒的に山を登り続けている方が長くて、谷間にいる時だってすぐに隣から手が差し伸べられるからどんな時だって大丈夫だった。だがそれも一旦、明日で終わりだ。呪術高専生としての術師は終わり。三月末まで事実上の所属は高専生だが、明日の卒業式が終われば学校に来る必要はない。
    不意に隣を見やった夏油は五条と視線が絡んだ。空を切り抜いたかのような青い瞳もきっと同じことを考えている。なんせ二人はこの在学中はほぼ毎日一緒にいたし、任務も共に赴いたし、なにより二人一緒であれば最強だった。誰よりも安心してその背中を預けることが出来る、唯一無二の親友で、戦友で、それ以上の言葉が見つからない。
    「で、これは悟と傑に四月から着てもらう教員服だ。間に合ってよかったな」
    「ありがとうございます」
    「つーか、休み一週間しかないじゃん!」
    「一週間もくれてやったんだ、ありがたく思え」
    どうやら本当の目的はこちらだったらしい。夜蛾は持っていた紙袋を二人に押し付けるとふんっと鼻を鳴らした。
    最近になって五年から四年制となった呪術高専では四年目までに座学と呪術師としての訓練を終え、最後の等級査定の後、ひとりの社会人としてのいっぱしの術師という名の個人事業主として扱われることになるのだが、本来あった筈の五年目は訓練や任務ではなく、個人の研究期間として自由な時間として与えられている。大学で専攻の卒業論文を書くように、名目上は各々が好きなものを好きなように研究していろというものだが、明日にでも死ぬとも分からない呪術師の人生に少しでも花を添えてやろうと、最初で最後のモラトリアム期間がプレゼントされていると言われてきた。
    通例では五条たちもこのまま何事もなければあと一週間で卒業し、これまでつまらない座学や課題のように振られ続けてきた任務から解き放たれ、一年間のボーナスタイムに入る、かと思いきや、卒業後も東京校で任務をこなす傍ら教員として後進を育てることに決まっていた五条と夏油に「教育実習期間だとでも思え」と夜蛾が言い出して、高専を卒業して一週間後の四月から、またすぐに高専に戻って教師の任につくことになっていた。
    一年のバカンスが一週間に変わり、当然不満を零したのは五条だったが夏油は二つ返事で頷いた。今世最強の術師といくらでも私兵を作れる呪霊操術使い、二人揃いも揃って規格外の特級術師は上層部にとっては監視対象でもある。そうさせろ、と夜蛾が上層部にごり押しされているのはその困った色をした目を見なくても分かり切っている。五条も夏油もそれなりに夜蛾を信頼していて、決して困らせたい訳ではない。
    何より呪いが次から次へと湧いて蔓延るこの国で、術師として働くのは二十歳を過ぎてから、という通例を無視せざるをえないほど呪術師の数は圧倒的に足りていないのも事実だったし、それは高専の人材も同じで、同じ穴の後輩を守る為には強くて聡い後進を育てる他ない。そうなれば夏油が頷かない訳がないのだ。「悟は別に休みを取ってもいいんだよ」なんてあっけらかんと突き放してくるから、開いているのかどうかわからないほど細い、夏油の狐目の間に五条はチョップをかましたのはひと月ほど前の話だ。
    「引越しや役所の届けなんかはちゃんと済ませておけよ。もちろん退寮の準備はしてあるんだろうな?」
    「………」
    夜蛾が言う通り、もちろんしている訳がなかった。高専卒業後は必ず退寮しなくてはいけない、という決まりはなく、なんせ生徒数は年々減少傾向にあり空室はいくらでもあったのだが、いつまでも年嵩の先輩が寮に居座っているのも格好が付かない。ましてや四月から高専で教鞭を取ることになっている二人なら生徒と同じ寮なんて気まずいのはなおさらのことで、高専の補助を受けて新しい家の契約は済ませ、引越し業者の来る時間もすでに決まっている。だというのに五条は「段ボールに詰めるだけだろ?なんとかなるでしょ」と言ってゲームのコントローラーを持つ手を止めなかったし、夏油も「そうだね、そんなにたくさん物もないし……」と言ってそれを諫めなかった。あともう少しでその生活も終わってしまうのだと思うと少しもの寂しく、また明日でいいか、となかなか重い腰は上がらないままずるずると今日まで来てしまった。人はそれを現実逃避という。言い訳のしようもない。
    「硝子は部屋の片付け進んでる?」
    「なめんな。クズどもとは違ぇーんだよ」
    「マジか~」
    「おま、この間、まだ全然やってないって言ってなかったっけ」
    「人のことはいいから、準備しろ、悟」
    衝撃を受けている五条に向かって、ぷか、と煙の輪っかを吐き出した家入がにや、と笑う。それはもはや「テスト勉強全然できなかったよ~」と騒ぐ奴ほど実はものすごく勉強していたりする、中学生あるあるの裏切り行為のようだった。そうなると途端に焦りが湧いてきて、大きな大きな溜息を吐いた夜蛾に「もう部屋に戻っていいから引越しの準備を進めろ」と追い返されてしまった。五条と二人、寮に戻りながら、受け取った紙袋の中にある教員服を夏油はしげしげと眺めている。
    「教員服見てるといよいよだな、って実感湧いてくるね」
    「そう?俺は傑と硝子とまた一緒だし、これからもなーんも変わんねぇーなって思ってるけど」
    五条たちのように教職に就く訳ではないが、家入もまた高専の医療チームとして所属しつつ、研究室を設けさせてもらうことになっている。明日の卒業式の後、引越しを挟んで四月からまた三人は高専に戻ってくる。青春は二十代前半を指すのと同じで、三人の青い春はまだ終わっていない。
    「あ、また」
    「ん?」
    「悟。一人称は『俺』じゃなくて『私』、それか最低でも『僕』にしなって言ってるだろ」
    「え、俺って言ってた?」
    「ずっと言ってたよ。生徒に示しが付かなくなっちゃうでしょ、ね、五条先生」
    まるで悪戯を仕掛けるようにふふっと楽し気に笑う夏油に五条は一瞬だけぐっと息を詰めて、それからほどなくしてからはぁ、と息を吐いた。
    「傑がそう言うとなんかすっげーエロいの、何でなの……?」
    「ん?何か言った?」
    「何でもない。分かってる。僕ね、僕。気を付ける」
    はじめてまともに学校に通った五条にとって夏油ははじめて出来た同じ歳の友達だった。一般家庭出身で呪術界のことには詳しくなくて、だから御三家や高専を牛耳っている上層部の真っ黒でどろどろしている面なんて知りもしなくて、まっすぐすぎる性根と考え方はいつだって正論ばっかりで、だけど五条と並び立つほどの術師だった。御三家次期当主である五条を諫められる者なんて誰もいなかったのに、そんなしがらみなどまるで知らない夏油は最初からずっと五条と対等であり続けた。それどころか同じ歳なのにどこか大人っぽい夏油の言うことはいつの間にか五条の指針となっていた。
    「仕方ないから部屋の片付けするか、夏油先生」
    「そうだね、五条先生。じゃあ、また後でね」
    業者から受け取ったまま、組み立てもされずにドアの横でぺったんこになったままの段ボール箱とガムテープを手にしながら、五条の声にはひどく面倒くさいという色が滲んでいた。夏油もまた同じ気持ちだ。あえて「先生」と呼ぶことでどうにか気持ちを奮い立たせないといけないほどだった。
    それからふはっと二人で笑いながら部屋の前で別れたものの、「何故か私の部屋から悟のものばかり出てくるんだけど!」と夏油が文句を言いながら乗り込んでくるのは数分後の話。




    自らが縫った可愛らしいぬいぐるみを呪骸として操る夜蛾はその術式も相まって手先が器用だ。その夜蛾お手製の花飾りを胸に五条、夏油、そして家入は無事に卒業式を迎えた。
    宗教系の学校を装っているものの、呪術の専門教育機関という特殊な学校で生徒数も少ないこともあり、大々的に卒業証書授与式を行う訳ではない。高専卒業を認定され、最終的な術師等級の確認をして、生徒ではなくひとりの呪術師として改めて登録をし直す。花飾りはそれっぽく見せているだけの飾りで、言うなれば夜蛾なりの心遣いでしかない。
    「傑!硝子!もっと寄って」
    「うまく映るかな?」
    「大丈夫……、卒業おめでとう~、僕たち!」
    「おめでと」
    よく晴れた青い空に、やはり急ぎ足の桜の花びらが風に乗ってはらはらと散っていく様は作り物のように美しい。入学式まで桜はもたないだろう。この瞬間、高専に咲き誇る桜は三人の為だけにあるかのようだった。さらに分厚くなった桃色の絨毯の上を踏みしめながら、三人で身を寄せ合い、五条の伸ばした長い腕の先でぱしゃ、とひとつスマホのカメラがシャッターを切った。その時に僕を名乗れるようになったことに気が付いた夏油がふっと笑った気配がしたけど、気恥ずかしさが勝って「よく撮れてるよ」と手元のスマホを覗き込んだまま、五条は振り返らなかった。
    「じゃあまた」
    「一週間後に高専でね」
    本当にあっという間だった、四年間。たかが四年、されど四年だ。夏油の髪はお団子ひとつにまとまらなくなってハーフアップするようになったし、家入の髪がボブからロングになった。五条の髪はこまめにカットされていて変化はなかったが、入学当初は夏油よりも低かった身長がすくすくと伸びて百九十センチを超えた。三人の間でそれだけの月日が確実に流れていた。
    卒業式が終われば今度は引越しだ。本来ならこれで一年間のバカンスを迎え、引越しと共に早々に海外に高飛びする者も少なくないのだが、三人はそうはいかない。荷物を運んで、また荷解きをする合間に諸々の手続きを済ませて、それからひと息つく間もなく一週間後、またこの高専に戻ってくる。今度は校章のついた生徒の制服ではなく、教員服を着て――。
    「――先生、夏油先生、大丈夫?」
    名前を呼ばれてハッとした。
    「ん……、あー、ごめん。もしかして寝てた?」
    「目の下が隈になってますよ。大丈夫ですか?実はすっごい疲れてます?」
    気が付いたら目の前に虎杖のドアップがあって、ぎょっとしたものの、そんなことおくびにも出さない。これまで培われてきた夏油のポーカーフェイスはこれぐらいじゃ崩れない。すぐさま状況を把握した夏油はふるふると頭を横に振って、いまだに圧し掛かっている眠気を払った。
    訓練の為に先にグラウンドに出ていた夏油だったが、生徒が来るまで座って待っていようとしてどうやら呑気に寝こけたらしい。なんせ春の日差しはぽかぽかと温かくて、山に囲まれた高専はのどかで、ぴぴぴぴぴ、と鳥がさえずる声すら聞こえてくるほどなので、お茶があれば最高だろうなというシチュエーションだ。縁側で茶を啜るじいさんの気持ちが今ならよく分かる。
    襲い掛かってきた眠気に抗うこともできずに夢の世界に片足を突っ込んでしまった夏油は、最近のことなのにもはや懐かしい気持ちになる夢を見ていた。
    「そうだ、これ、お土産」
    「そんな疲れているのに、わざわざ買ってこなくてもいいのに……あ、これ釘崎好きそう」
    「悪くないわね。私より五条が好きそうなやつじゃない」
    「いつも五条先生が夏油先生にお土産ねだってるから、俺らのはついでだろ」
    でも、ありがとうございまーす!と厚意は素直に受け取る虎杖が元気な声で釘崎を呼ぶ。最近人気があるというクリームたっぷりの甘いご当地土産は見た目もパステルピンク色で可愛らしく、子どもや女の子、それに甘党の五条が好きそうなものだった。伏黒の言う通り、お土産は五条に頼まれたものを生徒の分まで買っているに過ぎない。しかし、その五条にはまだ会えていない。というのも五条が今朝から任務に出ているからだ。
    「傑、呪具の準備は終わったぞー」
    「しゃけ!」
    大荷物を背負った真希たちが後からやって来て、槍に三節棍、短剣と大小さまざまな武具がまるで野外のフリーマーケットのように広げられる。夏油が本来担当しているのは真希たち二年生である。しかし五条がいない、ということは五条が担当している虎杖たち一年生の面倒を誰かが見ないといけない訳で、呪術師不足の高専に教員の余裕がある筈がなく、かといって一日すべて座学に回すのも勿体ない。結局夏油が一年生の訓練も買って出たのだ。
    「ありがとう。じゃあ、今日は一年生と二年生合同で呪具の訓練をしよう」
    どんなに疲れていようがこの国のどこかで呪いは大暴れしているし、呪術師は祓除に追われるし、仕事は山積みで可愛い生徒たちは待ってくれない。疲れた顔を押し隠して、やけくそのように腕まくりをした夏油は生徒相手に大暴れした。
    「ごめん、硝子。三十分でいいから寝かせて」
    「あぁ?私の研究室は休憩所じゃないんだぞ」
    ふらふらっと部屋に入ってくるなり、持っていた紙袋を机に放り出したかと思えば、家入の返事も待たずに夏油は糊のきいた真白いシーツのかかったベッドの中にもぞもぞと潜り込んでいった。平均よりも大きな体は今にもベッドからはみ出そうで、夏油は仕方なく足を少し折り曲げる。まるで子どものような姿勢だが、寝不足が過ぎてすっかり過敏になっていた神経がゆっくりと落ち着いていくのが分かる。窓の外の空は夕焼けのオレンジ色に染まっていて、カァカァ、とカラスが鳴く声が聞こえてくる。そんな時分にぬくぬくと布団の中に入るのは病人かニートか赤ん坊だけだろう。少し背徳感があった。
    「夏油、目の下にひっどい隈が出来てるぞ。もう授業もないなら帰って寝たらどうだ?」
    「でもどうしてもあと一枚、今日中に報告書を仕上げて出しておきたいんだ」
    「無理して体を壊したら元も子もないぞ」
    「そういう硝子もね。大丈夫、私は体だけは丈夫なんだ。ただ昨日まで地方への出張任務に行ってたものだから、帰ってから報告書と溜まっていた書類の山を片付けてさ、家事をちょっとやって、そしたら寝るのが遅くなっちゃって……」
    教師になってから書類の数が断トツに増えた。なんせ忌庫にある呪具を借りて授業をするのもいちいち申請書類が必要なのだ。政府が進めているDX化はどこへ行った。いまだに紙文化が根強く残っているものだから面倒くさいったらない。
    諸々の書類を片付けて家に帰った時にはもう日付は変わっていた。買っておいたカップラーメンで簡単に食事を済ませ、シャワーを浴びる。できればお湯に浸かりたかったが、もしかすると居眠りをして死ぬかもな、と妙な確信を覚えるほど体は限界だった。
    生きる為に必要なことは家にいてもいなくても変わらなくて、やらなくてはいけないことが減る訳ではない。洗濯、掃除、風呂、食事、歯磨き、ゴミ捨て、毎日その繰り返し。出張の日数がかかればかかるほど使用する衣類は増えて、帰宅後の洗濯物の山が大きくなる。今使ったバスタオルによってさらに嵩増しされると思わずげんなりしてしまう。
    「寮はランドリールームが部屋から離れた場所にあるからいいよね。いつでも洗濯機回せたし、自分の部屋だけ掃除すればよかったもん。大体、私まだトイレ掃除の道具を買いに行けてないんだよね」
    寮では一応の消灯時間は決められていたが、守らなくても文句は言われない。深夜に洗濯機を回そうがランドリールームが離れているお陰で誰にも迷惑はかからないようになっていたし、常設のゴミ置き場は分別さえしておけばいつ出してもよいようになっていた。なんせ深夜に緊急の任務が入ることがままある特殊な世界だったので、最初からそう考慮されていたのだ。
    「ひとり暮らしってもっと気楽なものかと思ってたけど、家を綺麗にするって意外と大変なことなんだね」
    「いつの間にか主婦みたいなこと言うようになったな。なんでそんな広い部屋借りたんだよ。ワンルームにしときゃいいのに」
    「だって私が足を延ばして入れるお風呂なんてファミリー向け物件しかなかったんだよ」
    「あぁ、なるほど……」
    高専の寮を出た夏油が今住んでいるのはすでに子どもを産んで育てている人に打ってつけのファミリー向けの集合住宅である。高専の専用物件という訳ではないので一般人が多く住んでいる。そこを選んだ決め手になったのは、夏油の平均よりも大きく育った体躯であってもゆったりと風呂に浸かれる広い浴槽だった。ひとり暮らし用のワンルームでは部屋に合わせて浴槽も小さくなりがちで、それではどうしても満足に足が伸ばせないのだ。
    住人が寝静まっている深夜の物音には気を付けないといけない。がたがたと音がうるさい洗濯機は真夜中には回せないし、もちろん掃除機だってそうだ。不定期で家にいたりいなかったりするのに、ゴミはあらかじめ決められた曜日にしか出せない。少し埃っぽい部屋に眉を顰めながら、ひとりではやたら広く感じる2LDKの床をマジックリン片手にクイックルワイパーで軽く拭き掃除だけして、トイレや玄関の汚れには目を瞑った。早いうちに回収車が来てしまう区域なものだから朝すぐに燃えるゴミを出せる準備まで終えた夏油が疲れた体をようやくベッドに横たえ、眠りにつけたのは深夜三時頃だった。移動の疲れも相まって泥のように眠りについたものの、朝六時に起き出して今度こそ洗濯機をかけた。干す気力はなくて乾燥機だ。ボタン一つでびしょ濡れの洗濯物を乾かしてくれる。なんて便利なものを生み出してくれたのか、家電メーカーには感謝しかない。それでも夏油の疲れが解消された訳ではなかったが。
    「くぁ……っ、疲れているのはお互い様だね。昨日の夜は急患でも入ったのかな……?」
    「二人な。わざわざ深夜に怪我しなくてもいいのにな」
    「ふっ、言えてる、硝子もおつかれ、さ、ま……」
    任務に教職といった労働基準法をガン無視したブラックな過密スケジュールによる疲労、加えて真面目さゆえの寝不足、それに呪具の訓練という肉体労働を終えた体はもうヘロヘロだった。話し途中で噛み殺せなかった大きな欠伸が零れて、途端に夏油の視界が潤む。まるでもう見る必要はないと目隠しをされているかのようで、真っ白なシーツにやさしく包まれた体からゆっくりと力が抜けていく。夏油の重たい瞼はすでに閉じにかかっていた。切れ長の三白眼がちらりちらりと見え隠れしているのと同じで、耳に心地よい低い声が途切れ途切れになっていく。
    「夏油?」
    「………」
    すーすー、と軽やかな寝息が聞こえてきて、家入は目を真ん丸にした。どうやら夏油はもう寝入ってしまったらしい。よほど疲れていたのだろう。教師になったことで高専生の時にはなかった仕事が格段に増えた上に、寮を出て生活が一変したことが大きく負担となっていた。自分も他人のこと言えるほど余裕がある訳ではないが、まだ新しい生活に慣れていないのが丸分かりだった。いっそのこと寮に住んだままであれば一度部屋で休んでから報告書を仕上げる、という選択肢もあっただろうし、五条のように適度に手を抜いて「今日はもう無理」と素直に弱音を吐けたらどんなによかっただろう。それが出来ないのが夏油という男だった。
    「煙草ワンカートンな」
    「吸い過ぎは、よくない、よ……」
    「起きて……は、ないか。寝言でも他人の心配かよ」
    寝ている筈なのに律義に返事をした夏油に家入は小さく笑った。家入の机の上の灰皿は吸い殻が山になっていた。先輩である歌姫に諭され、禁煙しようなんて思っていたのがまるで嘘のようだ。もちろんこのことは秘密にしておく予定だ。
    仕方ないから煙草ワンカートン分は寝かしておいてやろう、としたところで再び家入の研究室のドアがノックもなく開いた。
    「ねぇ!硝子!全っ然傑に会えないんだけど!」
    そんなことをするのはもちろん一人しかいない。思わず大きな溜息を零しながら思いっきり睨み付ける。
    「次から次へと……。うるさい、バカ五条。その夏油は今寝たところなんだから静かにしてろ」
    「へ?傑いんの?てか寝てんの?」
    「そこ」
    やたら眩しい白銀の髪に夏油と同じ教員服を着て、一人称を「僕」に直す努力している真っ最中と並行して、学生時代にかけていた丸いサングラスを止めて黒いバンダナのような目隠しで顔の半分を覆っている五条だった。教師でサングラスはヤクザっぽくてよろしくないのではないか、など珍しく殊勝なことを考えて用意したものだ。「真っ黒な目隠しと真っ白な包帯のぐるぐる巻き、どっちがいい?」と聞かれたのがひと月ほど前のこと。今は眠っている夏油と一緒に「その中学生みたいな痛々しい包帯は止めておけ、普通に黒でいい」と全力で推した結果だった。所謂教師デビューと相成った訳だが、五条の目のことし知らない人間から見れば真っ黒な目隠しも相当異常に見えるだろう。
    顎で患者用のベッドを指し示せば、布団はひと一人分こんもりと盛り上がっていて、怪我人でもないのに夏油が寝転がっている。家入の研究室を仮眠室にするなんて命知らずもいいところだ。それほど夏油は切羽詰まっていたのだろうと推測されて五条は肩を竦めた。
    「うっわ、マジで寝てるよ。すんごい気持ちよさそうな顔しちゃってさー」
    「おい、起こしてやるなよ」
    「分かってるよ。こうなった傑はなかなか起きないから大丈夫でしょ。顔に落書きしてもバレなそう」
    「やめろ。ブチ切れた夏油が研究室の壁に穴を開けるのが目に見える」
    もちろんそんなことをしたら二人ともタコ殴りにして全部直させた上に今後一切出禁にしてやるところだが。
    夏油が寝ているベッドの端に五条が腰を掛けても、五条の長い指が少しかさついた夏油の頬をつんつんっと突いても、夏油の眉間にかすかに皺が寄るばかりで起きる気配はない。実のところ低血圧で寝汚い夏油は一度熟睡してしまうとなかなか起きないことを五条はよく知っている。そのせいで任務先や寮で苦労したことも少なくない。
    普段はしっかり者で、真面目で、頑固で、小言ばかり零すうるさい口は今はとても静かで、疲れているせいでだらしなく開いたまま、今にも涎を垂らしてしまいそうだ。すっと伸びた鼻梁に諭すような優しい口調、落ち着いた雰囲気が大人っぽくて、年齢よりも年上に思われることが多く、敬意を払われがちな夏油だったが、寝ている時ばかりは年相応の、まだ十代の子どもっぽさが垣間見えた。
    「もしかして傑、痩せた?」
    「ひとり暮らしは大変とか言ってたぞ」
    「えー、そんなのハウスキーパーでも出前でも呼べばいいのに、ちゃんと食べてんのかな」
    「五条と違って頑固で生真面目だから他人には頼らんだろ。それに夏油は自分のことになると雑だからな。ちゃんと食ってるのかさえ謎だな」
    「うわ、確かにありえる……。人にはいろいろ注意する癖に、自分のことは後回しだからなぁ………」
    「そういう奴だから放っておくと一番危ないのはコイツ」
    「そうそう、ちゃんとしてる風に装うのが人一倍うまいから余計に厄介」
    高専生の制服を脱ぎ、今度は揃いの教員服を着て教師として再スタートを切った五条と夏油が高専でにこにこと笑ってまともに顔を合わせていられたのは最初の一週間だけだった。次から次へと入ってくる任務をこなし、報告書を上げ、生徒に訓練をつけ、時折腐ったみかんたちのくだらない集会なぞに呼びつけられ、なおかつはじめてのひとり暮らしをする、というのはなかなか大変なことで二人の生活は多忙を極めた。空いた時間を合わせることも難しく、久しぶりに見た親友の顔はすっきりしたというより陰影が濃くなって少しやつれたように見える。
    任務は通常、窓から報告された呪霊の等級に合わせて術師の等級別に配分される。最近の呪霊ときたらやたら元気で、あっちこっち日本各地が大盛り上がりだ。おそらく理由はこの春、伏黒を庇った虎杖が宿儺の受肉体として爆誕したことにある。全部で二十本ある宿儺の指のうち、一本が受肉に成功したことによりこれまで眠っていた他の指の呪いも共振して呪いを強めている。三本はすでに虎杖の体に取り込まれ、五本は高専が所有しているが残りはどこにあるか把握していないものもある。あまりにも強力すぎる特級呪物はそこにあるだけで呪いを引き寄せてしまう。なんせ千年前の封印の札は絆創膏レベルにしか役に立っていない。これまで特級呪霊の動きは確認されていないが、宿儺の指を取り込んだ呪霊が一級、またはそれ以上になることは時間の問題に思われた。
    だというのに規格外の特級の他、一級から四級まで等級があるのだが、最近の術師のほとんどが準一級で頭打ちになっていた。たとえ一級になっても自分の家の損得でしか動けない御三家は論外だし、夜蛾は学長として多忙で、冥冥は地獄の沙汰も金次第だ。灰原や七海、乙骨に東堂といった優秀な後輩も育ってきていたが、まだ経験の浅い学生たちにはあまり無理はさせられない。となれば、ここ最近の一級呪霊の案件は自然と五条と夏油に集中して、任務から任務へ赴くなんてこともざらだった。圧倒的に一級術師が足りていないのだ。
    教職の傍ら、祓除の任務へ赴く。少しでも多くの呪いを祓うことが他の術師の負担を減らす。でも五条と夏油の二本ずつしかない腕で守れるものには限界があった。「聡くて強い仲間を作るしかないね」と夏油と話してからまだひと月も経っていない。若い仲間たちを守る為には少しでも早い呪術師の育成が必要不可欠で、教職もおざなりにしていられないのは五条もよく理解していたが、それ以外はそこそこに手を抜ける自分と違って根が真面目な夏油が無理をしすぎてしまうのは想像に難くない。
    「これ、傑のお土産?二つあるけど」
    「知らん。部屋に来るなり、何も言わずにそこに置いてった」
    「あー、やっぱり。僕が食べたがってた地方銘菓だ。傑ならここに持ってきてくれるんじゃないかと思ってたんだよね」
    「おい、オマエら、ここを集会所かなにかと勘違いしてるんじゃないだろうな」
    「分かってるよ~。寮だったら部屋が隣だったし、こんなことしなくても簡単にすぐ渡せたんだけどね~」
    机の上にあからさまにどんっと置いてある紙袋が二つ。中を覗き込んで見るとひとつは透明な液体に満たされた瓶で、ひょいっと出してラベルを見せると途端に家入の目が輝いた。五条はもちろん知らないが地方の有名な酒だ。限定生産品でほとんどが地元で消費されてしまう、都内では早々お目にかかれない逸品である。もうひとつの袋にはクリームたっぷりの菓子の写真がでかでかと貼られた箱が入っている。甘ったるそうな菓子はどう見ても家入が食べられるような代物じゃない、ひとり分にしては明らかに多いだろうその菓子の箱は五条の為だけにあった。
    「最近、気付いたんだけどさー、先生やって、任務行って、また戻ってきて先生やってって前よりすんごい頑張って働いてるのに、家に帰っても誰もいないんだよね」
    夏油が寝ている為、了承はもらっていないがそんなことはお構いなしで、早速とばかり土産の箱を開けてみると子どもの拳ほどの色とりどりの大福が綺麗に並んでいる。それだけでも目を楽しませてくれるが五条はその中から春らしく淡い桃色を選んで摘まみ上げた。
    「寮では部屋が分かれてるっつってもすぐ隣じゃん。遊ぼうと思えばいつでも遊べたし、顔見ようと思えばいつでも会えたし、そうじゃない時だって壁一枚隔てた向こうに傑がいる気配がして、帰ってきたなーなんか飯作ってるなーそろそろ寝るのかなー、じゃあ邪魔しにいこっかなーとかさ、物音で全部わかったんだよ」
    ぺりぺり、と個包装を剥がすとふにゃんっとした柔らかな感触が手にやさしい。ふにふに、もちもち、夏油の厚い耳たぶのようでいつまでも触っていたくなるやつだ。結局食べたい欲が勝ってかぷっと噛り付く。弾力があるが薄く伸ばされた餅の中にはクリームと桜餡がたっぷり入っていて、口の中で甘酸っぱく混ざっていく。仙台銘菓の喜久福にも負けていない。「美味しい~」と頬を綻ばせながらあっという間にひとつ食べ終えた五条は、次はオレンジ色の大福に手を伸ばす。
    「なのに隣の部屋に傑がいないっていうだけで、ゲーム機持って乱入することは出来ないし、クソジジイたちの愚痴だって話せないし、こんなに美味しいお土産だってすぐ食べられないの。つーかマジでちっとも会えないんだけど高専どうなってんの」
    これまでは会おうと努力しなくても寮や教室が一緒だったからいつだって会えた。なんなら喧嘩して顔を合わせにくい時だって会わざるをえなかったぐらいだ。だというのに、ただ寮を追い出され、いるべき教室が異なるだけで、こんなにも夏油に会えなくなるなんて思ってもみなかった。
    「そんな当たり前のことに今さら気付いたのか?」
    「分かってたよ。分かってたけど、こんなにひどいと思わなかった」
    「もうホームシックかよ?」
    「ただの傑ロス」
    「いい加減、乳離れしろよ」
    あんまり当たり前のこと過ぎてお話にならないとばかり肩を竦めてふはっと笑った家入に五条はちっとも笑えなかった。冗談めかして言っているが、実のところそれなりに真剣に悩んでいるのだ。これまで会った同世代の術師はみな弱くて、御三家に取り入りたいだけの奴らばかりで、ずっと辟易としていた五条に同じ歳の友達なんていなかった。夏油だけが友達で、親友で、戦友なのだ。生徒から教師にジョブチェンジしても、これまで通り夏油と一緒にいたいし、食事だって行きたいし、時には遊びたい。いや、むしろなんの用事がなくてもいい。五条はどうにかしてこれまでの心地よい生活を取り戻したいと願っていた。ちら、と寝こけている夏油を見やる。何よりこんな状態の夏油をいつまでも放っておくのも気がかりだった。
    「そんなの、また寮で生活しない限りは無理だろ」
    「!」
    過去に戻ることは出来ない。つまり出来もしないことを今さら大声で嘆くのは無駄だ、と家入は一刀両断したいようだった。ぽろっと答えがまろび出た。目から鱗が落ちるとはまさしくこういう時の心地なのか、と急に合点がいったかのように五条は気が付いた。
    「なるほどね。じゃあ寮で生活してたらいいんだ」
    「あ?なんだって?」
    「硝子、やっぱり天才」
    頭いい、最高、イイ女、と陽気にはやし立てられ、にやっと口角を上げた五条の顔は真っ黒な目隠しで半分隠れているというのにどこからどう見てもご機嫌ないい顔をしているのが手に取るように分かって、家入は思い切り眉を顰めた。こんないい顔をしている五条の思いつきがこれまでよかった試しなどなく、なんだか嫌な予感がした。



    よく晴れた朝だった。春というには太陽はあまりに容赦なさすぎて、温められた地表の温度はぐんぐんと高まりその寒暖差に追いつかない体はじとっと汗をかいて疲労を覚えるほどだった。これから梅雨がやってくるとは思えぬほどだったが、人々の希望に満ちた春はじとっと湿って醸成され、さらに後からやってくる夏に大爆発を起こす。夏は呪いに転じやすい、つまり呪術師にとっての繁忙期である。これからさらに忙しくなるのか、と思うと夏油はげんなりした。
    「よ」
    夏油の姿を見つけて先に声をかけてきたのは先日押し入った研究室で煙草ワンカートン分、ベッドを貸してくれた心やさしい友人だった。
    「相変わらず疲れた顔してんな」
    「硝子のスカート姿久しぶりに見た気がする」
    「何言ってんだよ。ついこの間まで制服着てただろ」
    「そうだったね。なんだかもうひと昔前のことのように思うよ」
    白のロンTにタイトなスカートにリブの入ったレギンスを身に着けた家入が呆れたように肩を竦めるのを夏油は上から下までしげしげと眺めた。卒業してからはもっぱらパンツスタイルのすらりとしたスーツばかり着ているので、家入のスカート姿は高専の制服ぶりに見たのだが、たったひと月前のことがすでにひどく懐かしい心地がした。
    そんな夏油はグレーのサマーニット、よく履いていた黒のサルエルパンツにサンダルで、ラフなスタイルだが、背が高く、体格のいい夏油はそれだけで人目を引く。家入と並んでいると理想の美男美女カップルの出来上がりだ。
    「すっごいいい匂いする」
    「とんかつかな。前に三人で食べに来たよね」
    「私食べきれなかったやつだ」
    「残ったらまた私が食べるよ。飴いるかい?」
    「いらない」
    休日だというのに高専の近くにある定食屋の前をわざわざ待ち合わせ場所に指定されたものだから、辺りは揚げ物の香ばしい匂いと醤油で煮付けたなにかのいい匂いに包まれている。手持ち無沙汰になってついポケットの煙草を探してしまった家入に夏油が声をかける。最近は野外での喫煙にもっぱら厳しい為、高専内ならともかくひと目の多い道路脇で堂々と吸う訳にはいかない。しかも二人は二十歳にはあと数ヶ月足りていないときている。その代わりに、と夏油がポケットから取り出したのは赤や黄色といった原色まぶしいビニール包装紙に包まれたキャンディーだった。どう見ても子ども向けに作られたそれは夏油が食べるには甘ったるすぎる。口寂しくなった五条がわぁわぁと文句を言い出した時用にいつもポケットに常備していたものがいつの間にか習慣になって、教師になった今でも、しかも休日まで持ってるのか、と家入は思わず内心でツッコミを入れてしまう。
    「傑、硝子、お待たせー!」
    「遅い」
    さて、その飴を好んで食べるだろう甘党の男は、いつものように五分ほど遅れてやってきた。急な任務が入った時用に高専所属の呪術師たちのスケジュールはネットワーク上で公開されているのだが、補助監督によって任務を割り振る為にしか使われていないそれを、三人のオフが重なる日をわざわざ確認して呼びつけてきたのは五条だというのに、夜蛾に注意されようと締められようが人の習性というものはなかなかどうして直らない。
    同じく一日オフである五条は今日はアイマスクではなく、真っ黒な四角いレンズのサングラスをかけている。高専生の時には真ん丸の可愛らしいものを愛用していたがどうやら飽きてしまったらしい。寮にいた時のようにロンTに細身のパンツ姿というラフな格好であったが、白銀の髪にサングラス、それに長い手足に恵まれた体躯は隠しきれず、お忍びの芸能人さながら人目を惹いている。しかもるんるんっと効果音が聞こえてきそうなほどご機嫌で、五条の遅刻はいつものことだから夏油も家入ももう大して気にはしていないのだが、誰よりも楽しそうなのは少し腹立たしい心地がする。
    「ごめんごめん、ちょっとレジが混んでてさ」
    「久しぶりの休みだから昼まで寝てたかったんだけど」
    「これでしょうもない用事だったらマジでぶっ飛ばすよ」
    「まぁまぁ、三人にとって超大事なことだから。ちょっと移動するよ」
    「ここで昼ご飯食べるんじゃないの?」
    「え、違うけど?お腹減ってんの?」
    「まだ平気だけど……」
    「じゃあ行こう」
    思わず家入と夏油は少し目を丸くしながら顔を見合わせた。絶対に来て!と呼びつけてきたからとりあえず来てみただけの二人の顔には「どこへ?」と書いてあって、お互い何も知らされていなかったことを改めて実感する。そもそも昼時に定食屋の前が待ち合わせ場所だったものだかr、きっとここで食事をしたいのだろう、と安直に思っていたのだ。
    前に三人で食べに来た時はとんかつを食べたことを思い出し、待っている間に油と醤油とソースと数えきれないほどいい匂いに鼻孔を擽られ続けていた夏油は今日は何を食べようかな、とろとろの卵と出汁醤油がじゅうっとしみ込んだカツ丼もいいし、魚ならアジフライもいいし、贅沢にエビフライと牛ヒレのミックスフライだっていいかも知れない、なんて選択肢を三つにまで絞って準備をしていたのだ。すっかり揚げ物の胃袋になっていたし、久しぶりにちゃんとした食事を取れることを期待していただけに拍子抜けしてしまった。
    「ねぇ、悟、どこ行くの」
    五条の背中について歩いて三分ほど経った頃、雑居ビルなどの姿はなくなり辺りはすっかり閑静な住宅街に入りこんでいた。そろそろ理由を知りたいと呼びかけた夏油に、ぴたり、と足を止めた五条が二人を振り返った。
    「はい、ここです」
    きょろっと辺りを見回すが住宅街のど真ん中で、レストランのひとつもない。仁王立ちでドヤ顔している五条が指示したのはどこからどう見てもただの家だ。いや、ただの、というには非常におこがましい。
    染みひとつない白亜の壁は途中から木目調のサイディングが施され、流行りのツートンカラーは流行りのデザインで洒落ている。一見するとヨーロピアンテイストであるが、庭に植えられた木々に馴染ませるナチュラルさも兼ね備えていて、恐らく名の知れたデザイナーのものだと素人目にもわかるほどだったし、繊細な細工の施された鉄格子と組み合わされた高い塀は夏油たちがいるところから角までぐるりと囲んでいて、この家の大きさをありありと示していた。つまり、見たことがないほどの豪邸である。
    「と、いうわけで、今日紹介したいのはこの家でーす」
    「は?」
    「家?誰の?悟の?」
    芸能人かどこぞの社長の家か、と言わんばかりの大豪邸を紹介する、と言う五条に家入と夏油はきょとんと不思議そうな表情を浮かべた。いや、五条家ならありえなくないのだろうか。呪術界において御三家がいかにすごい存在か、ということは頭では理解していたが、彼らの影響力以外のところ、もっと実質的な一族の人数や資産がいかほどなのか、一般家庭出身の夏油にはいまだよく理解できていない。その長い腕で五条は大きくバツ印を作る。
    「ブブーッ!これは三人で住む為の家です」
    「「はぁ?」」
    思わず夏油と家入の声が綺麗に重なって絶妙なハーモニーを響かせた。しかし、五条の表情は変わらない。もう長い付き合い、いくつもの死線と修羅場を共にくぐり抜けて来た仲なので、二人の反応はお見通しだったのだろう。そして、冗談ではなく、五条が至極本気で言っていることも二人にはよくよく理解できてしまった。
    「やばい。現代のゴッホ来たよ」
    「黄色い家?誰も住んでくれなかったやつじゃないの?」
    「ゴーギャンだけね。それも結局二ヶ月で破綻したっていうけど」
    「破綻しないし、俺は耳なんて切り落としたりしねぇから!」
    はぁ、とひとつ呆れたような溜息を零した家入に痛む頭を抑えながら夏油が応えると五条は瞬時に噛み付いた。
    「とりあえず鍵持ってきたから中入って見てみてよ!」
    すちゃっとポケットから一枚のカードを取り出し、玄関のドアにかざすとぴぴっと軽快な音がしてロックが解除される。偽造がしにくいことで近年人気が高まっているというスマートキーなるものを夏油も家入も初めてお目にかかったのだが、五条と来たら我が物顔で玄関のドアを開け放って早く早くと手招きしてくる。いつまでも家の前の狭い道路で突っ立っている訳にもいかず、気乗りしないものの二人は仕方なしに門をくぐった。
    目隠し用に植えられているシマトネリコの葉の横を通り、淡い橙色のタイルの並んだ洒落た玄関ポーチを渡る。大人が三人、しかもそのうち二人が規格外のデカさを誇っているというのに、全員が並んでもなお余裕がある贅沢な広さの玄関から家の中へと入る。
    「私が知っている家の玄関と違う」
    「はは、もはやホールじゃんね」
    高級感のある艶やかな乳白色の石張りの玄関は、二階へ続く階段に合わせて吹き抜けになっている。上を見上げるとやたら大きな照明が天井から釣り下がっていて、果たしてあれはどうやって電球を入れ替えるのだろう、と夏油は不思議に思った。
    玄関入ってすぐ隣は物置き顔負けの大きなウォークインのシューズクロークになっていて、スリッパを人数分抱えた五条が戻ってくるところだった。ありがたく貸してもらったスリッパは思いの他ふかふかしていて柔らかなクッションがきいている。内見と言えばどこでも必ずスリッパが出てくるが、あのペラペラさで不動産屋の質が問われると思っている。これほどいいものを出しているところを夏油はついぞ見たことがない。
    「ここがリビング」
    「広い」
    「確か四十畳って書いてあったと思う。三人ならソファーセット置いても十分な広さでしょ。そっちのシステムキッチンには二人が喜びそうな簡易のカウンターバー付きね」
    「おぉ」
    「ベッドルームは一階に一部屋、二階に四部屋。それぞれクローゼットが付いているからどこを自分の部屋にしても問題なし。おすすめは一番奥のウォークインクローゼット付きのところね。えーっと、それからトイレとお風呂は一階と二階両方にあるから、どっちかは硝子専用にしたらいいと思う」
    広すぎる家の中を「次はこっちね」と次から次へと紹介していく五条の後ろをついていく様は、まるでコンダクターとツアー客のようである。なんせ設備の行き届きすぎた5LDKの内覧はツアーと言っても申し分ないほど広いのだ。電気、水道、ガスもきちんと通っていて、レンジやトースター、大きな冷蔵庫など、生活するための基本的な家具は揃っている。衣服さえ持ち込めば、なんなら今日からでも住めそうだった。
    「高専までは車で三分、歩いて十分。最寄駅まではちょっと距離があるけど、任務はほぼ車でたまにしか電車に乗らないし、毎日高専に行く硝子の利便性を優先ね。新築じゃないけど築浅だし、ちゃんと清掃業者入ってるから。ちなみに一番近いスーパーは……」
    「あー、うん、大体分かったから大丈夫」
    「ほんと?よかったー」
    どうやら夏油が納得してくれたのだ、と思った五条がサングラスの下でぱっと表情を明るくしたのだが、夏油はストップをかける。違う、そうじゃない。
    「でも、ちょっと待って。この家に三人で住むって急に何の話?私たち、この間、寮から引っ越したばかりだよね?」
    「そうだけど、賃貸なんだし、また引っ越せばいいじゃん。どうせまだ全部荷解きしてないだろ?」
    「それはそうなんだけど……ってそうじゃなくて!」
    「な、硝子」
    「……私が言ったのは『また寮で生活しない限りは無理』であって、こんなアホみたいに大きな家を用意しろということじゃない。というか、私まで巻き込むな」
    「今さら仲間外れにしたら可哀想だろ」
    「迷惑だ」
    「そう言わずに硝子も協力してよ」
    「……はぁ」
    まるで百点満点を取った子どものように「どう?すごいでしょ?」と言わんばかり目を輝かせている五条に反して、夏油の顔をちらっと振り返った後、家入は呆れたような、それでいてどこか諦めたような長い溜息を零した。どうやらそれが家入なりの了承の返事のようで五条はうんうんと楽しそうに頷いた。
    珍しいことにどうやら夏油のあずかり知らぬところで、珍しく家入と五条の間ではなんらかの話し合いがあったらしい。しかし、家入にとってこの提案自体は寝耳に水だったようだ。
    「そもそもこんな大豪邸の家賃っていくらなの?言っておくけど今の家賃以上の金額は払えないよ。無理無理。バカなこと言ってないで……」
    「え、もう買っちゃったよ」
    「え?」
    「キャッシュ一括。この家、一昨日から五条悟名義になってまーす。だから家賃の心配もなーし」
    まるで手品でも披露するかのようにぱっと両の手を広げた五条が楽しそうに笑うのに反して夏油はくらくらと眩暈がした。
    二十三区外、東京の隅っことは言え、腐っても日本の首都東京である。地価最高値を記録するこの土地にこの広さにこの間取り、そして小さな庭付き。洒落ているのは外観だけでなく内装も凝らされていて大きな窓から差し込む採光も完璧。夢のような大豪邸であるが、何千万円、いや億を超えるかも知れない、一体ゼロがいくつ付けばいいのか、夏油には想像すら出来なかった。
    「~~~っ!そういうのって買う前に相手の了承取ったり、間取りとか相談するものじゃない」
    「間取りはさっき説明した通りだけどなんか問題あった?」
    「間取りの問題じゃなくて、悟の問題!仮にもし本当に一緒に住むとして、どういう家がいいかな、こういうのがいいよね、って相談して決めるものでしょ」
    「えー、でも我ながら完璧だと思うし、これ以上のものってなると高専から遠くなるんだよな」
    「完璧どころか過剰なの」
    「ちなみに二階のお風呂も傑でもちゃんと足を伸ばせるぐらい広いよ」
    「それは嬉しいけど、って、そうじゃなくて……っ」
    「やっぱりジャグジーがよかった?リフォームの予約入れる?」
    「それも違う」
    「つーか、マンションどうすんだよ。五条、オマエの今の家、賃貸じゃなくて買ったやつだろ」
    「もう不動産に売りにかけてる。駅十分以内の最上階角部屋の好条件だからすぐ売れるでしょ」
    あっけらかんと爆弾を落とした五条に家入は「わぉ」と外国人のような反応を返す。心の声がそのまま出たのだろう。夏油も同じ気持ちだ。
    「引越し業者にはもう声かけてあるから、あとは二人の引越しの日にち決めてね。いつする?いつできる?俺、じゃなかった、僕、昨日からちょっとずつ荷物持ち込んでて、先に入居しちゃうけどひとりじゃ寂しいから早くして欲しい。なんなら明日でもいいよ」
    高専の寮を出た後、面倒だからと賃貸ではなくマンションの一室を購入していた五条だったが、もう売りにかけているということはすでにこの家に越してくることを前提に動き始めているということだ。くらくらする頭を抑えながら項垂れている夏油の肩にぽんっと小さな手が置かれた。
    「言うだけ無駄だよ」
    「分かってるよ」
    「はい!決まり!」
    虚ろな目をした家入がふるふる、と首を横に振っている。その瞳は「諦めろ」と物語っていて、誰よりも早く匙を投げている。五条がこうと言ったら聞かないことも知っているし、家入の言う通り、春の引越しシーズンはひと段落しているとはいえ、家も業者もしっかり用意周到に準備されては逃げることも出来ない。今さら考えさせてくれ、というのは野暮すぎる。
    「こんなに短期間でまた引越しするなんて思わなかったな」
    「まったくだ。準備も手続きも面倒くさい」
    「硝子は異性だっていうのに、悟は本当にもう……」
    「そもそもオマエがそんな瘦せこけたせいだからな」
    「え、なに、どういうこと」
    「あんまり心配かけさせんなってことだよ、バカ。しょうがないから当面は付き合ってやる」
    言っていることが分からず、え、え、と不思議そうに首を傾げる夏油を一瞥しただけで、家入は丁寧に説明する気はまるでない様子はないらしかった。それどころか「うまいもんしこたま食わせてやるから覚悟しろよ」と啖呵を切られてさらに困惑することになる。
    家自体は高専から近いし、設備も整っているし、広すぎる以外は完璧だ。そう言ったら広いことの何が悪いんだよ、と家主からのツッコミが入りそうだったが、どうせ面倒ぶってハウスキーパーでも頼んでいるに違いなかった。熱心に掃除機をかけたり、風呂のタイルを磨いたりする五条なんて想像すらつかない。広ければ広いほど掃除だって大変になるんだからな、と最近身をもって知ったばかりの夏油は言ってやりたい気持ちだった。
    絵に描いたような軽薄さで、誰にでも平等に興味がない五条は、他人を自分のテリトリーに入れるのを極端に嫌がる癖に、夏油と家入だけは別なのだ。男でも女でもなく、唯一の友達という枠の中に入っている。高専ではじめて同年代の友達が出来た五条にとって、友達は友達であってただの友達ではない。五条悟という唯一無二の存在にそれだけ貴重で特別なものとして扱われる心地はひどくくすぐったい。
    「そういう夏油は大丈夫なのか?」
    話がまとまったところで五条が足取り軽く二階へ上がっていくのを見届けた後、家入が唐突に切り出した。
    「五条と一緒に住むの。だって好きだってこと、隠してんだろ?」
    「もちろん。墓まで持っていくつもりだよ」
    「相変わらず苦労するな」
    「それでも悟と一緒にいたいっていうのは、こういうことなんでしょ」
    元からバイだという自覚のあった夏油にとって、いつからか五条は友達よりももっと特別な意味を持っていた。もちろん自分のことを「親友」だと周囲に言って憚らない五条本人に伝えるつもりは毛頭ない。高専で、寮で、いつでもどこでも遠慮の欠片もなく、やたらと距離感の近い五条に夏油だけが内心ドギマギさせられても、「親友」として隣に居続けるには黙って飲み込み続けなくてはいけないものなのだ。飲み込むことには慣れている。いいか悪いかは別として。
    「ねぇねぇねぇ、いちばん奥の部屋、俺のにしていいー?」
    どたばたと足音がして、階段の上から張り上げた声が降って来る。二人の心のうちなど知りもせず、呑気なのはただひとり五条だけだ。はぁ、と二人分の溜息が重なる。
    「落ち着きなよ、悟」
    「浮かれすぎ」
    「バッカ!そりゃ浮かれるだろ!」
    まるで子供どもがおもちゃを買ってもらった時みたいに、五条の形のいい薄い唇は自然と笑みが溢れて零れているようだった。
    「だって今日からここは三人の家なんだぜ!」
    五条が買った、五条と夏油と家入の為の三人だけの家。
    ただただ当たり前の事実を並べただけなのに、改めて言葉に出してみると夏油と家入の中にも今日からここが自分たちの家になるのだという自覚がふつふつと芽生えてくる。
    そんなの浮かれない方がおかしいだろ、という五条に家入と夏油は顔を見合わせた。
    「私、煙草吸いたいからベランダがある部屋にして」
    「じゃあ硝子が手前の部屋で、私が真ん中だね」
    「家具のサイズ合うかな。この間、新調したばかりなんだけど」
    「うーん、広いし、問題ないんじゃない?それより気が抜けたらなんだかお腹が減ったよ」
    「もちろん五条の奢りね」
    「は?!なんで?!」
    「こんだけ人を驚かせてカロリー使わせたんだから当然だろ。夏油たくさん食えよ」
    「え?うん?頑張るね?」
    「~~~っ、……しょうがねぇな!」
    定食屋の前に呼び出されてから一時間。てっきりランチがしたいが為に呼ばれたと思っていたから朝から何も食べていない。そういえば待たされている間に散々美味しそうな匂いだけ吸い込んだ胃袋はもうずっとぐうぐうと空腹を訴えていた。
    家入の提案にそれはいいアイディアだねと頷いた夏油の笑みを見て、五条はぐぬぬ、と何かを飲み込んだ後、財布をひっ掴んだ。

    さっさとマンションを売り払って先に入居した五条が待つこの家に、家入と夏油が揃って引越してきたのは次の土曜日の話だ。
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