海より
本当の両親からの愛を知らないから、私たちは不幸だろうか。
例えば私には養父が居て養母も弟も妹もいる。十分すぎるほどに家族だった。きっとそこからあたたかな愛を受け取っているし、私なりに愛を送り出しているつもりだ。
茨には何もなく、それがきっとEdenなのだとおもう。茨の居場所、大切なもの、一生をかけて育みたい愛。
家族を知らないからと言って、茨は不幸ではないのだろう。
それでも茨に、与えたかった。
***
「自分の誕生日としている日は施設に捨てられた日なので正確な出生日は不明ですね。もしかして本当は閣下と同じ日なのかもしれません、アッハッハ」
仕事の休憩時間に来月の誕生日について聞いたら、茨は笑ってそう答えた。
「私は、巴家に預けられた日だよ」
「おやそうなんですね。出生日不明の二人なんてミステリアスでいいですな~~」
適当に答えて茨はコーヒーを飲みながら資料を読んでいる。休む時間に休まないのは悪い習慣だよ茨。資料を取り上げて、海色の瞳を覗く。
「きっとその日、私はまた生まれた」
見つめ合って、茨を知る。過去にも誰にも何にも執着しない茨は、ただ頂点を取るためだけに前を見ている。
その身は軽い、と思っている。
「……別に誕生日に思い入れはありませんよ」
伸びをしながら目を逸らして、話題を終わらせようとする。
「じゃあその日を、私に頂戴」
「はあ」
「ちゃんと、覚えていてね」
「……アイ・アイ! 閣下の仰せのままに~~」
いつもの笑顔を貼り付けて定型のポーズをする。海は静かだった。
***
「茨、起きて」
「んや……あ? おはようございます閣下……え、外暗……」
オフの日なのに閣下に叩き起こされた。情報収集とメール返信と……いつものルーチンをしようと脳が覚醒していくが、そういえば今日は全部の仕事を前倒しにして完全オフにした閣下のための日、だった。
閣下はもう着替えていて、どうやら何処かへ出かける心算(つもり)らしい。
「着替えさせてあげるね」
「自分で出来ます……、でかけるんですか?」
「そうだよ」
「何処へ?」
「ひみつ」
悪戯っぽく笑う。とてもいい絵だ、抜群のオフショットだと思う、この乱凪砂は。
売り方を考えていると閣下の手が伸びてきて、頬を撫でられる。太陽を流し込んだ瞳に自分が映ったと思えば、柔らかくキスをされていた。
「誕生日おめでとう、茨」
ああそういえば今日はその日だった。
「我慢できなくて言っちゃった。一番だね」
「……ありがとう、ございます?」
「ふふ、かわいい」
「かわいくないであります! やめていただきたい」
「やっぱり着替えさせてあげようか」
「閣下が邪魔するから進まないんです、あっち行っててください」
「うん」
少し濡れた唇を拭って、クローゼットから私服を取り出す。今になってほんのちょっと鼓動が早い。かれは遠くからこちらを見ていた。
***
いつのまにか借りられていた駐車場にいつのまにか用意されていたBMWが納車されていていつのまにかキーをもっている閣下が助手席のドアーを開けている。
「どうぞ、茨」
「……ちょっと閣下、聞きたいことが」
「走りながら話そう」
「免許証持ってます?」
「持ってるよ、日本製」
「日本製……」
海外製もあるのかよ。
押し込められてドアーを閉められてシートベルトをさせられて難なく出発していく。突っ込みたいところは山ほどあるけどなにから聞けば良いのか脳が混乱する。
座り心地の好いシートから車窓をぼんやり眺めていると、端末が震えてジュンからのおめでとうが表示されていた。殿下からは零時頃受信していたらしい。そういう日ということが流れていく。白んだ空の先へ車体は進んでいって、閣下の滑らかな運転は高速に組み込まれていった。閣下は柔らかく笑っていて、嬉しそうだった。だったらいいか、なんて思って、聞きたいことを十分の一にしていくつか聞いた。とりあえず違法になることはないので良しとする。
「お腹すいた? サンドイッチ作ったよ」
「作ったんですかいつのまに」
「コーヒーもあるよ」
いつも自分がやることを全て熟されていて、なんだかむずがゆい。閣下は何でもできる人だから、別に自分の世話は必要ない、好きでやっていることだから、と改めて考えてしまうけれど、茨にして欲しいな、という言葉だけで動いていたことを思い出す。
必要とされている、そうなんだと思う。
それだけで動ける程度に、慣れてしまっている。これはビジネスの一部で、もっと無味乾燥で冷たいものの筈なのに、どこか柔らかいものを感じている自分がいる。
サーモスから熱いコーヒーを注いで、飲みながらその意味を考える。
それを所有してしまったら、いままでの生き方をどう解釈すればいいのだろう。わからなかった。苦しかった。認めてしまったら弱くなってしまうのではないか、そう恐れている自分がいる。
それを悟られたくない自分がいる。
「茨、ほら、朝日」
眩しい光が差し込んで、遠くの宇宙から闇を切り開く。それがただ、心地よかった。
***
「茨、海だよ」
「海ですね」
朝の八時に砂浜に立ったことはなかった。漣の音が潮の香りを連れてくる。綺麗だった。人も車もない。海風ばかりがうるさい。
「靴脱ごう」
「車が汚れますよ」
「いいの」
「はあ」
素足になって、砂浜を歩く乱凪砂は多分未公開だ。写真を撮っておこうと思って端末を掲げる。
「茨もおいで」
手を引かれて波打ち際まで連れていかれる。
「今日は私のものだから、ね」
つないだ手が熱くて、何かが始まってしまいそうだった。端末をオフにする。海水が冷たい。
「なんで海、なんですか」
「海は生命が始まったところだよ」
ザンザンと海風が頬を叩いて、こえを霧散させる。だけれど何故だから彼のこえは良く聞こえた。理由は分からない。
「ほら、産まれた」
手を取られ、銀色の輪を見せられる。
リングには今日の日付とN to Iが刻まれていた。
――まるで結婚指輪だ。
「アクセサリーを贈るのは所有欲の現れ、らしいよ」
「普通贈る時にそれいいます?」
「これを見るたびに、茨は私のものって思い出すの、とてもいい」
「……ぞっとしませんね」
ぐるぐると思考が回り、視界が揺らぐ。気まぐれなら、それでいい。――でも、本当にそうだろうか?
「茨、所有されるのは、いいことだよ」
ゆっくりと薬指にリングをはめられて、そうして緩やかになぞられる。そこから毒が回っているみたいだった。所有されていた男が与える、所有。
「前時代的ですよ。自分を規定されるのは嫌です」
「茨は大きく包まれてみてもいいと思う。私に」
「そんなこと、」
泣きそうになった。今日という日は記念日でも何でもない、忌々しい日付なのに。
今日は。十一月十四日は。
「今日は、捨てられた日ですよ、自分が、……」
「茨――」
うまく呼吸ができない。言葉がこぼれていく。
「また、すてられたら、どうするんですか、どうして、くれるんですか……」
何も与えられなかった。
最初から喪っていた。
期待して、手に取ってしまったら、無くなった時にどうしたら良いかわからないじゃないか。
酷い仕打ちだ。
「絶対に離しはしないから」
彼は自分を引き寄せて、強く抱きしめた。触れたところが温かい。海風がばたばたとうるさかった。
「茨は、私のもので、私は、茨のもの。そこから始まって、そうしたら、所有から対等になれる」
顔を覗かれた。酷い顔をしていると思う。それでも彼は笑って、唯一のこえで宣言する。
「今日を、私と結ばれた日にしよう」
渡されたのは同じ銀色のリング。同じ日付が刻まれている。
「そうしたら、特別な日になるでしょう?」
与えられた契約は、自分が持ち得ないもの。
俺は答える代わりに、美しい彼の指へ、銀色を通した。
「茨、大好き、愛してる」
「……聞こえませんよ」
「あ、い、し、て、る」
「うるさい」
今日、産まれる場所で、きっと家族になった。
(201114)