茨が妊娠する話7 エピローグ茨が妊娠する話7
病院の個室でうなされて飛び起きた。ものすごく臨場感がある悪夢を見た気がする。これは痛みのストレスからくる夢なのかな、小さい頃もそういえば体術の訓練の夜はうなされたな、と思い出す。出産した。そうだった。小さな命は今ナースステーションにいて、経過を観察されている。
遠くでなにかのモニター音が規則正しく繰り返されて、だれかの赤ちゃんの泣きごえが少しだけ聴こえる。ここにはいのちが集まっている。
まだ体がだるい。出産後は熱が上がって風邪の症状が出るらしい。処方された薬を飲んで、横になる。
たぶん今、奇跡の中にいる。緩やかに意識が拡張していって、ぼんやりと幸福に揺蕩う。生きていてよかった、とだれかが云った。確かにそうだな、と頷いて、恢復するために目を閉じた。
***
「なぎさのさ、といばらのら、さら。さらくん」
「なるほど、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表すんですね」
いい名前だと思う。
「さらもユニセックスな名前だと思うんだ。みんな一緒の方がいいでしょう?」
「流石は閣下、妙案ですな」
傾斜のついた移動式新生児ベッドで、すやすやと赤ちゃんは寝ている。
「ところで茨、どうして胸触ってるの?」
「いえ……、腫れまして。痛いんです……」
「……母乳が出るの?」
「そのようで。初乳だけみたいですが。授乳指導もありました。持ってきた授乳クッションが役に立ってよかったです」
「……神秘だね」
そうこうしているうちににゃあ、と赤ちゃんが泣いた。おしめをかえて、かかえて、あやす。二時間経った、ミルクの時間だろう。
「吸わせてみますね」
ヘアバンドをして髪をまとめ、前をはだけて、乳首を含ませる。そうするとちゅくちゅくと歯のないくちが吸い付いた。
「……飲んでるね」
「いまいち出てるかわからないんですけれど。男性の場合少量しか出ないらしいので、ミルクを足します。あ、閣下作ってくださいますか?」
「うん。調乳だね」
調乳指導も一緒に受けたから、閣下は新生児用のちいさい哺乳瓶に、粉ミルクを入れてそれからお湯を注いだ。ほんの少し。水で冷やして人肌の温度まで下がったか手の甲に垂らす。大丈夫だと、持ってきた。
「私がやっていい?」
「はい、お願いいたします」
ガーゼを赤ちゃんの顎下に挟んで、ちいさな哺乳瓶を含ませる。こくこくと一生懸命飲んでいった。じっと、その生命を見守る。生きているんだなぁ、と感心してしまう。
飲み終わって、記録をつけて、赤ちゃんにゲップをさせる。胃のあたりを撫でると、けぷりとちいさく空気を吐いた。そうして新生児ベッドに戻すと、満足そうにまた眠ったらしい。
「よく眠る子のようでよかったです。眠るのにも才能があるようで」
「うん。……あのね茨」
「なんでありますか?」
「……母乳、飲んでみたい」
「ええ……」
力が抜ける。何事にも興味感心をもつ閣下が、飲んだことのない母乳が気になるのはおかしくはない。
「……どうします、絞りますか?」
「吸っていい?」
「ええ……」
看護師が来たらやばい図じゃん。
「……しかたないですね……」
閣下はベッドの横の椅子に座って、むねを出している俺に抱きついた。吸う。
「うー、どうですか出てますか」
「……ミルキーの味。甘いよ」
「よかったですね……」
「一週間くらいしか出ないなんて勿体無いね」
「まあおとこですからねえ。初乳には免疫機能が多分に含まれていますから飲ませられるだけ飲ませたいですね」
「……もうちょっと飲んでいい?」
「赤ちゃんの分がなくなるでしょうが!」
その後も閣下は隙を見ては吸いに胸に顔を埋めた。どっちが赤ちゃんかわからない。
***
「ぼくもね! 妊娠してたんだよね!」
「は?」
「四ヶ月!」
「お、おめでとうございます? 大丈夫でしたか?」
病室にきた殿下が得意顔でそう云った。
「……茨は心配するだろうから出産したら教えようってことになってて」
「うんうん! つわりは眠いだけ! 至って元気だね!」
「まあそういうことで茨が先輩ですからアドバイスとかしてやってくださいねぇ」
「……大丈夫ですか、殿下あの痛みに耐え切れます?」
「無痛分娩するから平気だね!」
「無痛でも絶対この人痛いってなきますよぉ……」
「まあ……あ、じゃあなんというか毛の処理とか」
「……私が剃ったよ」
「え! 生えてくるの!? 赤ちゃんの出口に!?」
「人によるんじゃないですかぁ?」
「やだやだ! ぼくはどこでも美しくありたいの! 妊娠しててもサロン行けるのかな!?」
「妊娠中はいけないですよ」
「オレがやってあげますから……」
「えーん!」
毛の処理よりも殿下は医者や看護師の前で勃起を晒してしまうことのほうが耐えられなさそうだけれど悩ませるだけだからいわないでおいた。
「ということは殿下、早生まれですか」
「うん! 三月だね」
「同じ学年でよかったですねぇ」
「……微笑ましいね」
「殿下も赤ちゃんも無事に出産が終わるといいですね」
「大丈夫! だってぼくだからね!」
「そうやっておおぐちたたく……」
そうしたら主役が泣き出した。おしめを変えて、抱いてあやして。
「かわいいね。ほんとうにおめでとう、茨、凪砂くん」
「……ありがとう。とってもうれしい。って、茨もいってる」
「勝手に代弁しないでいただきたい」
「茨の性格も丸くなるんすかねぇ」
「うるさいジュン」
こうして妊娠は終わった。
長くて短いトツキトオカ。新たな命を抱きながら、その奇跡を噛みしめる。これからが本番なのだろうけれど、でも休憩したっていいだろう。そうして三人で生きる。二人より、きっとたくさん、色鮮やかだ。
そんなことを思いながらため息をつく。
奇跡は、今、続いていく。
(210910)