世界五分前仮説「この世界は5分前に始まったのかもしれない」
柔らかな日差しの注ぐ、暖かな休日の昼下がり。兄がぽつりとそう口にしたのをよく覚えている。
休日出勤の多い兄、ユリウスが珍しく家にいる日だった。昼食はユリウスの好きなトマトソースパスタ。部屋にはまだかすかにトマトとガーリックの匂いが残っていて、口の中も一度水を流し込みはしたものの食前と同様の状態とは程遠い。
喜んでもらえたのは良かったけどこればかりはなあ、そう思いながら飴玉を口に放るとミントの清涼感が口の中に広がる。換気扇の駆動音は小さく唸っていた。
洗剤とスポンジを手に、空き皿を洗っているルドガーに対しユリウスはひとりごとのように呟いた。あるいは膝に載せた家族、愛猫ルルに話しかけているような。ユリウスのその不思議な言葉に、手を止めずに尋ねる。
「誰かの…名言?そういうのなんて言うんだっけ」
その言葉に聞き覚えはあるような気はする。しかしどこで聞いたか、どんな話であったか詳細が出てこなかった。こちらの質問を予見していたのか、もしくはこれに対する回答が常に頭に入っているのか。すぐにユリウスから返答があった。
「誰かは不明だが……懐疑主義の思考実験だな。今とそっくりの世界が5分前に生まれたのだと主張しても、それを論理的に否定することは出来ないという内容だ。」
皿につく泡をぬるま湯で流しながらユリウスの答えを背中で受け止める。カイギ主義。論理的否定。難しい単語が出てきてしまった。やめておけばよかっただろうか。えっと…と口から言葉が漏れ、少しの沈黙。
「……『過去は存在する』と証明することは出来ない、という話だ。」
こちらが黙った意図を汲んだのか、そう続けた。困ったような笑顔が目に浮かぶ。誰でも知っている常識的な内容ではなかったと思うけど。少しひねた思考がよぎるも、ふと単純な疑問が浮かんだ。
「昨日の出来事を覚えていたとしても、それは証明にはならないのか?」
「人の記憶では証明にはならないな。そもそもそれ自体が間違っているかもしれないし、昨日の記憶を持った状態で世界が生まれたと言われたら、言い返せないだろう?」
お決まりの疑問なのか、返答はすぐに具体例を添えて返ってきた。む……と声がこぼれ、皿を洗う手が止まる。流れる水の音が大きく感じた。
確かに、たとえば昨日の昼食は?と聞かれてもすぐには答えられないし、思い出したと思っても一昨日の記憶と混じっていたりもする。人の記憶を根拠とするのは、形をなさない曖昧さ故に難しいと理解できた。蛇口を捻る。きゅ、と小さな音を立てて水が止まった。食器置き場に皿を立てる。かしゃりと音を立てそれは所定の位置に綺麗におさまった。
「じゃあ、俺が今洗ってるこの昼の空き皿も5分前にこの状態で生まれたのか?」
「さすが、理解が早いな。そういう考え方だ。」
形のない記憶は証明にならない、では今目の前にある物は?そう考えたがその「世界」というものはそんな考えはとうに先回りし、準備を終えている。なるほど、実に意地悪で、周到で、荒唐無稽な証明問題だ。
はは、とルドガーは苦笑する。物証が効かないのであれば証明のしようがない。この手の話は用事の片手間にするくらいが丁度いい雑談なのだろう。残るコップに手をつけた。
「5分前に世界が生まれて、作られた記憶で、作られた感情で生きているのだとしたら。お前はどうする?」
水の流れる音がする。見なくても声色で分かる、ユリウスの真面目な表情。蛇口から流れる水がコップを満たし、溢れていった。
ルドガーにとってこの証明問題は突拍子もない、屁理屈をこねた問だと失笑するものであっても、ユリウスにとってはそうではないらしい。ましてや自分の世界がそうであったら
と。そんなわけないだろと一蹴するにもこの兄の声はひどく真剣に聞こえた。
「そうだとしたら……うん、ショックだけど……」
想像する。コップをひっくり返し水を流す。言葉を紡ぐ。
「でも、俺が『今』思ってることは『本物』だから、世界がいつ始まったかはあまり関係ないかな。」
想像する。空のコップを食器置き場へ。5分前にはなかった思考と向き合う。
「だからきっと、今まで通りふつうに過ごすよ。作られた記憶かもしれないけど、それも含めて俺だと思うから。」
蛇口を締める。少し真面目に答えすぎただろうか、と恥ずかしさが追いついてきたが気にしないことにして振り向いた。
ユリウスはきょとんとした顔でこちらを見つめ、数秒後頬を緩めた。
「ふ、お前らしいな」
そこには先程の緊張した空気はなく、いつも通り穏やかな笑顔があった。その顔を見てルドガーの顔からも笑みが零れる。
「兄さん今、馬鹿にしただろ」
「はは、そんなことないさ」
「じゃあなんで笑うんだよ」
顔を見合わせ、はははと声をあげて笑う。
柔らかな日差しの注ぐ、暖かな休日の昼下がりだった。
◇◇◇
あの日のことはよく覚えている。なぜ今思い出しているのかは分からないが。
カナンの地。
それを目指してここまで来た。
色々なものを犠牲にして。
それまでの日常を、いくつか巡った有り得たかもしれない世界を、そして、大事な約束をした、大事な相棒を。
しかし。かの約束の地は現れなかった。それが意味するところは、誰が見ても明らかった。
この記憶は、5分前に作られたものなのだろうか。分からない。証明ができない。
でも確かに、あの日のひどく弛緩した眠たくなるような薄黄色の空気も、窓から差し込む日差しの匂いも、窓の外から聞こえる子供たちの笑い声、まだ水気の残る自らの手の感覚もすべて、全部!
覚えているというのに!
これらの全て何もかもが偽物で、つくられたものなのだと、言われても何ひとつ証明が出来ないのだ。
「……俺はなにも、何も分かってなかったんじゃないか」
自分が放った綺麗事が返ってくる。
『今思っていることは本物だ』などと。
分かっていることはただひとつ。
今ここにあるもの。記憶、自らが抱えるこの感情すら。
すべては「偽物」であるということだけだった。