親友なんでも可愛い期が終わらんミッタマ 軍務を終えた夜は、往々にしてただ静謐である。帝都の明かりは宵闇に沈むことなく、煌めきながら無言で人々の生活を照らし出すが、その光のひとつひとつに心を預ける者は少ない。疲労に濁った瞳で眺めるには、あまりに人工的で、あまりに均質だからであった。
ミッターマイヤーは、その均質な灯を背に受けて、ロイエンタールの官舎を訪れていた。
飲もう、と誘われたのは彼の方である。さほど珍しいことではなかった。二人が戦場で過ごす時間は長くとも、地上に降りたのちは互いに慰労の一刻を過ごすのが常である。ときに大きな杯で、ときに細やかなグラスで。だが、互いに相手を労わりつつも、必要以上に慰める言葉を交わすことはなかった。
言葉にせずとも通じ合うものがあると信じていたし、実際そうであったからだ。
今日もまた、卓上に並ぶのは大仰な酒器ではなく、上質ながら控えめな硝子のグラスと琥珀色の液体であった。蒸留酒の類で、口当たりは鋭く、後から深い甘みが立ち上る。量を競うような酒ではなく、舌と心を静かに温める類のものだ。
ロイエンタールは、慣れた手つきで瓶を傾け、二人の杯に酒を注いだ。
「戦場では、あれほどの轟音と叫喚に囲まれているのに、こうして杯を重ねる時は……妙に静かに感じるな」
ミッターマイヤーがそう言うと、ロイエンタールは片眉をわずかに上げ、口端をかすかに歪めた。
「静けさを乱すのは無粋というものだろう。卿が軍務を忘れられるのなら、それでいい」
声音は低く、冷ややかな響きを帯びている。だが、それが彼本来のやり方であった。冗談を言うかわりに冷笑を浮かべ、軽口を叩くかわりに皮肉を差し込む。友を突き放すようでいて、しかしその突き放しこそが彼の親愛の証であることを、ミッターマイヤーは誰よりも知っていた。
二人は杯を合わせ、ひと息に喉へ流し込んだ。火が胸中を走り、やがて柔らかい温もりに変わる。
「……悪くないな」
ロイエンタールが呟く。
「悪くない、で済ませるには上等すぎる酒だと思うが」
「称賛は似合わない。物事を軽々に美辞麗句で飾れば、却ってその価値を落とす」
そう言ってロイエンタールは再び瓶を手に取った。
と、その時である。
彼の指先がわずかに滑った。
瓶の底が卓上に小さく当たり、グラスの縁をかすめて鳴らした。中の琥珀が波を立て、縁から数滴こぼれ落ちる。
音は小さい。失敗も些細なものであった。だが、その場にいたのはミッターマイヤーとロイエンタール、二人だけである。その些細さがかえって際立って見えた。
普段のロイエンタールなら、冷ややかな笑みを浮かべて「不器用な夜もある」とでも言って片づけただろう。あるいは平然と注ぎ直し、何事もなかったかのように杯を差し出したに違いない。
しかし、この夜の彼はそうしなかった。
指先は瓶を握ったまま固まり、わずかに強張っている。視線は滴の落ちた卓上を追い、そのまま沈黙した。
長い睫毛の下で、瞳がかすかに揺れる。
ほんの一瞬――しかしミッターマイヤーの目には、確かに映った。彼が取り繕うこともできず、かといって笑い飛ばすこともできず、戸惑いと自責の狭間に立ち尽くしているさまが。
「……すまない」
低く吐き出されるような声だった。
「注意を怠った。愚かな真似を」
そう言ってロイエンタールは、珍しく視線を落としたまま動かない。
ミッターマイヤーはしばし黙していた。
この友を長く見てきたが、こうした姿を目にすることは稀である。戦場で失策を犯したわけでもない。国家の命運を左右する誤りをしたわけでもない。たかが数滴の酒をこぼしたに過ぎない。
それなのに、ロイエンタールは――自らを嘲るように唇を結び、硬い横顔を曇らせている。
彼が抱える矜持の高さを思えば、理解できぬことではなかった。常に冷徹であろうとし、隙を見せまいとする。己を律することでしか存在を許さない男。そのために、かかる小さな失敗すら許せないのだろう。
だが。
ミッターマイヤーは、静かに笑みを浮かべた。
胸の奥から、不意にこみ上げてくるものを抑えられなかった。
――可愛い。
その言葉は、心のうちだけに留めた。口に出すにはあまりに場違いで、あまりに彼の矜持を傷つけるであろう。だが確かにそう思ったのだ。
普段、あれほどまでに冷笑を湛え、全てを見下ろすかのような眼差しをする男が、たった一度の小さな失敗に動揺し、みっともないと己を責めている。その姿は、格好悪いどころか、むしろ人間らしく、そして不意打ちのように愛おしく映った。
「ロイエンタール」
声をかけると、彼はようやく顔を上げた。視線にはわずかな翳りが残っている。
「気にするな。誰だってあることだ」
「だが――」
「卿が大きな戦局を誤ったわけでもない。ただ数滴の酒を零した。それ以上でも、それ以下でもない」
言葉に込めたのは、叱責でも慰めでもない。ただ、事実を述べただけだ。
ロイエンタールはしばし沈黙し、やがてわずかに肩を落とした。
「……お前は、そういう風に、物事を切り分けられる」
「必要以上に悔やんでも、酒は戻らん」
そこでミッターマイヤーは杯を掲げてみせた。
「ならば、残った分を楽しめばいい」
ロイエンタールの唇が、かすかに動いた。
笑ったのか、それとも苦笑したのか。判別できぬほどの微細な表情の変化だった。だが、そのわずかな弛緩をミッターマイヤーは見逃さなかった。
再び酒が注がれる。今度は確かな手つきで、ひと滴も零れなかった。
二人は無言のまま杯を合わせ、琥珀を喉へと流し込んだ。
静けさが戻る。
だが先ほどまでとは違う静けさであった。
卓上にこぼれた数滴の痕跡は、既に布で拭われて跡形もない。それでも、ミッターマイヤーの胸には、あの一瞬のロイエンタールの姿が深く刻み込まれていた。
冷徹で、隙を見せぬ男。その仮面の下に、誰にも見せたがらぬ脆さを抱えていることを知っていたつもりだった。だが、それを目の当たりにするのはやはり新鮮で、そして心を揺さぶられる。
――もし彼が再び己を責めるようなことがあれば、そのたびに笑ってやろう。
その笑いが彼を傷つけぬように、ただ、共に在る者の温もりとして。
杯を置き、ミッターマイヤーは静かに息を吐いた。
ロイエンタールは、何事もなかったかのように新たな話題を切り出している。声は落ち着きを取り戻し、表情もいつもの冷笑を帯びていた――ように見えた。
だが、気づかぬはずがない。
指先の小さな緊張、視線が一瞬だけ泳ぐ癖、言葉の端に宿るわずかなぎこちなさ。普段なら決して外には見せぬ揺らぎが、まだそこに残っている。
ロイエンタールは完全に取り繕ったつもりなのだろう。だが、長年の戦場を共にしたミッターマイヤーには、その隠しきれぬ余韻は余りにも鮮やかに映った。
――やはり可愛い。
ミッターマイヤーは、胸の奥に湧き上がった感情を、もはや内に留めておけなかった。
彼は盃を置いたまま、静かに身を乗り出した。
「ロイエンタール」
「……なんだ?」
怪訝そうに振り向いたその顔へ、ミッターマイヤーは言葉ではなく行動で応じた。
指先を頬へ滑らせ、その線をなぞるようにゆっくりと撫でる。そして離れる直前、唇の端をかすめるように触れた。
わずかな感触に、ロイエンタールの肩がぴくりと動く。
押しとどめた吐息が喉奥に震え、声になる寸前で辛うじて抑え込まれる。
グラスを持つ手が一瞬だけ止まり、指先に力が籠った。
「些細なことで、そこまで気に病む卿を見るのは、珍しいな」
「……っ」
ロイエンタールの表情がわずかに崩れた。鋼の仮面が揺らぎ、耳のあたりに赤みが差す。
「やめろ。からかうのか、お前」
「からかっているわけじゃない」
ミッターマイヤーは穏やかに微笑んだ。
「可愛いと思っただけだ」
沈黙が落ちる。
普段なら冷ややかな皮肉が返るはずだった。だが、今のロイエンタールは、言葉を失ったまま唇を閉ざしている。わずかに視線を逸らし、グラスを弄ぶ手が止まらない。
その仕草が何より雄弁に、彼が照れていることを示していた。
やがて、かすかな声が返ってくる。
「……お前だけだぞ、そんな風に言うのは」
「そうだろうな」
ミッターマイヤーは静かに応じた。
「卿のそういう顔を見られるのも、俺だけでいい」
ロイエンタールはそれ以上返さなかった。だが、視線の端に宿った柔らかな影が、否定ではなく受け入れの証であることを示していた。
ミッターマイヤーは胸の奥に、温かいものが満ちていくのを感じた。
戦場では決して見られぬ姿。誰にも見せぬ脆さと照れ。その全てを、自分だけが知り得るという事実。
それは、血と鉄に彩られた日々の中で得られる、何よりも特別な時間であった。
彼は静かにグラスを掲げ、微笑んだ。
この一瞬を胸に刻み、また次に訪れる同じような夜を、誰よりも大切にしようと思いながら。