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    ウタマロ石鹸

    表では出せないやつや絵の練習の備忘録、進捗などを上げたりします

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    ウタマロ石鹸

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    犬臼習作

    LET SLEEPING DOGS LIEプロのサッカー選手というのは、全国に散らばるクラブチームと試合をするために日本中を飛び回り、一年間の三割くらいをホテルで過ごす。臼井と犬童のホームは札幌にあるため、その移動距離は他のどのクラブチームより長いだろう。チームは選手以外のスタッフも含めると大所帯になるため、どのクラブも概ね、空港や主要駅からの移動は専用バスを使って行われる。
    Jリーグが始まる二月。ホーム練習場の雪は深く、あたり一面は真っ白だが、試合で本州を訪れるたびにこの景色が当たり前ではないことを思い知る。
    アウェーでの試合を終え、いつものようにバスで移動をしていたそのときだった。

    耳をつん裂くようなブレーキ音。タイヤがアスファルトを削る音がしたと思ったら大きく車体が揺れ、ガクンと身体が浮いた。昨日本州では珍しい大雪が降り、路面が一部凍結していたのだった。チェーンをつけていなかったバスはカーブでタイヤを滑らせ、あわやガードレールに激突という寸前で急停車したのだった。
    クラブの選手全員を乗せたバスであわやの大事故。幸い誰も怪我はなく、ニュースに取り上げられる程のことでもなかったが、もしものことを考えると肝が冷えた出来事だった。

    こういう時に真っ先に声をかけてくる、隣に座る男が静かなのが気になった。
    「ちょっと肝が冷えたな。犬童……おい、犬童?」
    一点を見つめるように微動だにしない犬童の顔は白く、額からは脂汗が滲んでいる。いつも飄々として明るく、表情豊かな彼から全ての感情を奪ったかのような、見たことのない顔をしている。
    「おい……大丈夫か?」
    「お、おー? いやービビってちょっとちびっちゃったぜ。これだから本州の奴らは。雪をナメてんだよな、ほとんど雪が溶けてても地面は凍ってんだからよぉ」
    は、と我に返った犬童は堰を切ったように話し始めた。それを見て、なんだいつもの犬童か、と安心したものだった。
    柏のグラウンドを出て、ヒヤリとした一件もあったが無事一行はホテルに到着した。今日一泊して、明日札幌に帰れば次の試合までは後三週間以上ある。プロ入り後一年経つか経たないかの臼井と犬童はまだベンチスタートで、犬童に出場機会があるかないかといった状況だった。臼井は雪に囲まれたホームグラウンドで練習の日々を思い、刺すような寒さの北海道に比べると柔らかな夜の冷気を吸い込むと、ふうと吐き出した。

    異変はすぐに感じられた。
    飛行機で移動後、半日のオフを経てホームに戻ってから翌日の練習再開日。朝食の時間に姿を見せなかった犬童のことが気になっていた。寝過ごして食いっぱぐれたのだろうか、あの、人の定食のオカズに勝手に手を付けるほど食に貪欲な犬童が?とにわかに信じがたい。
    練習始めのランニングが始まる直前にふらりと姿を現して「いやー寝坊しちゃったぜ」とへらへらした顔を他のチームメイトに向けていた。何かを言ってやろうとした気がしたが、まあいいかと飲み込んだ。
    その後いつもの調整メニューをこなしている犬童の様子に、普段と変わったところはなかった……ように思う。いつもなら気にかけることもない(というかあちらから執拗に絡んでくるから極力距離をとってイーブンくらいの距離感なのだ)間柄なのだが、一昨日バスで見せた犬童の表情が、どうにも気になって仕方なかった。それに、いつもことあるごとに声をかけてくる臼井へのコンタクトがほとんどない。それははっきりとした違和感だった。

    「……あ」
    「おー?雄太じゃん」
    風呂の後に歯磨きをしていた犬童と鉢合わせをした。気を遣う間柄でもないし、なんとなく感じていた疑問を率直にぶつけてみることにする。
    「おまえ、どっか調子でも悪いのか?」
    「えっ」
    口の中の泡を喉に詰まらせたのか、犬童は急にゲホゲホと咳き込んだ。口の周りを泡だらけにしながら、驚いて目を丸くしている。
    「げほっげほっ……おまえ、よく見てんな」
    「別に、おまえのことを気にしてるわけじゃない。ただいつもみたいに絡んでこないから、熱でもあるのかと思って」
    「あっ、なに、おまえ構ってほしかったのか!?」
    「はあ、そんなわけないだろう」
    確かになんだかそう取れるような言い方になってしまったことを臼井は心の中で少し悔やむ。犬童は照れたようににかりと笑った。
    「いやーちょっと、昨日あんま眠れなくて寝不足でよ。寝てねーとなんだか食欲も元気もなくてダメだな」
    そのまま口を濯ぎ、顔を上げないまま答える。やっぱりいつもの溌剌さがないのは気のせいではなかった。
    「おまえにそんな繊細さがあったとは驚きだな」
    「失礼だな! でもプレーには支障なかっただろ? 雄太じゃなきゃ気づかねーよ」
    「それは、まあ」
    「さすが俺だな! まあ一日二日くらいなら寝てなくても目瞑っててもボール蹴れる自信はあるぜ」
    「寝てない自慢はいいから。まあ今日はその分ぐっすり眠れるだろう。そのまま永遠に起きてこなくてもいいからな」
    「辛辣!」
    犬童は一通りわめいてみせて、すぐにふわあと欠伸を一つ。やはりもう眠いのだろう。時計はまだ二十一時を回ったところ。これから寝るまで自由時間で、寮でそれぞれに与えられた自室で読書をしたりゲームをしたりと各々の時間を過ごすのだが、臼井は頻繁に犬童に押し入られてはひとりの時間を潰されていた。これで今日はきっと静かに過ごせるな、と臼井はすこし良い気分ですらあった。

    その次の日も、犬童は朝食に姿を見せなかった。ふらふらとランニングに合流してきたその顔を見れば、目の下には酷い隈ができている。もしかして、と背筋に嫌な予感が走る。
    「犬童、おまえまさか今日も眠れてないのか?」
    「んー…、いやー…」
    まるで酩酊しているように返答の声はムニャムニャと的を射ない。臼井は予感を確信に変えた。
    「おまえ……」
    「たのむ、黙ってて」
    「……」
    犬童は臼井の耳元に口元を寄せて小声で囁く。すぐに離れていって見せたその笑顔は、ひどい隈を作った目元をへにゃりとさせて、悪いことをした子供が親に悪さがバレないように懇願するような、そんな顔だった。
    二、三日寝なくても身体がプレーを覚えている、と犬童は言ったが、人間の身体を動かす脳は休ませないと的確な信号を身体に送れない。スポーツ選手がマットレスにこだわるように、睡眠とパフォーマンスは強い相関関係にある、ということを知らないはずはなかっただろう。丸二日眠れていないという犬童のパスは精彩を欠き、コーチに呼ばれて別メニューを命じられていた。話し声は聞こえないが、犬童はちゃんと体調不良の理由を話したのだろうか。「黙ってて」と言って悲壮に笑った顔を思い出す。そもそも、理由なんてあるのだろうか。
    犬童はなんで眠れないんだろう。

    夕食後、風呂を済ませた後の自由時間。ベッドに横たわりスマホで小説を読んでいたら、コンコンとドアをノックする音で現実に引き戻された。
    「よお」
    「犬童」
    来訪者は予想通りの男だった。スタッフに呼ばれていたのか、夕飯の時間はすれ違いだったので、顔を合わせるのは昼間の練習以来だった。
    「何しに来た?」
    「いやあ、暇でさー」
    「……聞いてほしいなら聞くけど。何かあったのか?」
    「……」
    「おまえみたいな図太くて無神経な男が丸二日も眠れないなんて、俺じゃなくても変だと思うぞ」
    「はは、ひでー。いや俺もそう思うわ」
    「今日もダメそうなのか?」
    「……何も聞かずに、一緒に寝てくれる、ってのは駄目?」
    「は?」
    「今日は雄太んちの子になろうかなって……」
    「何を言ってるんだおまえは」
    「はは、だよなぁ……」

    「俺の両親、事故で死んだって言ったよな? なんの事故だったかって言ったっけ?俺」

    臼井はヒュッと息を呑む。頭の片隅にあった記憶から、ぱちっとピースがハマる音がした。もしかして、とは思っていたが、意図的に考えないようにしていたのに。

    「自動車の事故だったんだわ」

    「まさか……こないだの」
    「そのときの記憶、俺全くないんだぜ? だから今まで車移動も全然なんとも思わなかったし。でもこないだのバスで事故りかけたとき、あの時もこんな感じだったのかなって思ったら……夜、一人で眠れなくなった」
    「犬童……」
     
    「一瞬でさ、大事な人を奪って行くんだよな。で、俺はさ運が良いから、俺だけまた生き残っちゃったりして。また俺は一人になるんだなって」

    「目を閉じたら寂しかった幼少期のこととか思い出したりしてさ。トラウマっていうの? 無縁だと思ってたんだけどよ、そういうのとは」

    「一人が駄目なら、誰かと寝たら平気なんじゃ? と思って仲の良いおまえんとこ来たんだけど。メーワクだよな、帰るわ」


    「……俺はそんなに鬼じゃない」
    「マジで!」
    犬童はパッと顔を輝かせた。結局、この男はわかってやっているのだろうと思う。ただ今回ばかりは冷たく突っぱねることはできなかった。一年間共にサッカーをやってきて、犬童がサッカー以外の部分で参っているところなんて一度も見たことがなかった。ここにいる者はほとんどそうだが、特に犬童にとって、サッカーは生きる全てだ。望む形でなくそれが彼から奪われてはならないと思う。それになんだか、早く元の犬童になってくれないと調子が狂うのだ。
    「といってもベッドは一つだし、どうするんだ。シングルに二人は寝れないぞ」
    「俺、床でいいぜ。ストレッチ用のマットレスあるから持ってくる!」
    「ほんとにそれで眠れるのか……?」
    かつて、大事な試合に遅れないように前日はバスに寝泊まりさせていた同級生がいたのでそこまで不思議なことではなかったが、自分なら布団以外で寝た次の日は万全のコンディションは保てないだろう。とにかく一人寝が解消されて再び犬童が眠りにつけることが先決なので、臼井はそのあたりは深く考えないことにした。

    時計は二十三時を回ったところだ。朝から練習のある日は大体日付が変わる前に就寝することにしている。
    「睡眠薬でも貰えばよかっただろう、コーチには何て言ったんだ?」
    何となく犬童の思い通りにことが運んでいることが癪で、意地悪なことを言ってみる。
    「心配させたくねーから食当たりっつっといた」
    『黙ってて』と人差し指を立てた顔を思い出す。プロのスポーツ選手としてはあまりよろしくない行動だと思うが、犬童の生い立ちからして色んなことを自然に抑え込む癖ができてしまっているのかなと思った。あけすけで図々しいタイプに見えて、基本的にあまり人に要求することがないのも、きっと無関係ではないだろう。
    「あと俺、基本的に薬効かないんだよ」
    「えっ……風邪とかひいたらどうするんだ」
    「風邪薬も全然効かなくてよー。だから医者に行くのやめた。大体一晩寝れば治るだろ? そもそも、四年に一度くらいしか風邪ひかねーけど」
    「……オリンピックか?」
    およそ人間とは思えない。犬童は野生児じみたところがあると思っていたが、臼井にとってにわかに信じがたい事実が、一年弱四六時中一緒にいてもまだ出てくる。
     
    「なあ、雄太は好きな子とかいる?」
    呆れと心配とで気がそぞろな臼井の気持ちを無視するかように、初めてのお泊まり会のようなうかれた声で犬童が話しかけてくる。
    「修学旅行じゃないんだぞ」
    「いやあ〜なんだか楽しくなっちゃって」
    臼井はベッドから、床に転がっている犬童をチラリと見た。電気を落とした暗闇の中で、雰囲気が楽しげに揺れているのがわかる。
    「別に高校時代、合宿とかでこういうのは珍しくなかっただろう。流石にプロでは大部屋で雑魚寝ってことはなくなったが」
    「だからだよ。なんかこうしてると、雄太と同じ高校になったみたいじゃん」
    「おまえと同じ高校だったら同じクラブには来ていない」
    「あー!? 何それ、ひでぇ!」
    「おまえと三年間同じチームで更にプロでも一緒なんて、耐えられないな」
    「またまた〜〜」
    「いいから寝ろよ。おまえ、なにしに来たんだ?」
    変にテンションが上がって眠る気配のない犬童をピシャリと制する。このまま夜中までお喋りに付き合ったら、自分の睡眠時間も減ってしまうと。多少強めに突き放しても、全く動じないところが犬童の良いところでもあり、悪いところでもある。
    「ちぇー。おやすみ」
    「おやすみ」
    ふわあ、とあくびが聞こえる。昼間もあくびをしていたし、眠いには眠いのだろう。ただ、それなのに目を瞑っても眠れないというのは何故なのか。やはり、トラウマというのは精神力の強い犬童をも飲み込んでしまうのか。

    カチ、コチ、と時計の秒針が音をたてる。あれから何分経っただろうか。臼井は眠りに落ちかけていたが、一応無事に犬童が眠ったところを確認しておくかと上半身を起こした。
    「寝た、か……?」
    「……」
    小声で問いかけ、返事がないのでどうやら眠ったようだった。なんとなく役割を果たした気になって安心し、自分も寝るかと犬童の方向から背を向けて壁向きに横たわった。
    「……起きてる」
    「!」
    まさかとは思った悪い予感は当たっていた。
    「人がいてもだめなのか」
    「ん……わかんねーけど……」
    「なんでだろうな」
    「目瞑ったら真っ暗だろ、真っ暗の中で俺はひとりだって、潜在的にあのときのこと思い出しちまうのかもな」
    「それは……どうしたもんかな。俺にできることはもう……」
     臼井は言葉を詰まらせた。犬童の口調は淡々としてまるで他人事のようだったが、目を瞑るたびに襲いくる暗闇の恐怖はきっと自分には想像もできない。

    「手でも繋いで寝るか!」
    「は?」
    「いや、どっか人に触りながら寝たら寂しくなくていいんじゃないかって」
    「……仕方ないな」
    「だよなー。流石にないかー。って、え?」
    「早くしろ、俺も眠い」

    臼井は半ば投げやりに、仰向けのまま身体をベッドの淵ギリギリまで移動させると腕を床に向かってだらりと垂らした。ベッドにそれほどの高さはなく、真下で眠る犬童とはちょうど腕一本分の距離だ。
    「えっ。えー、マジ? マジで?」
    犬童の方から言い出したくせに、なぜか本人は慌てている。眠かったのと犬童を憐れんでいたのもあってか、柄にもなくいつもの冗談に乗ってしまったのを臼井は反省した。
    「要らないなら、」
    「いる!」
    手を引っ込めようとした瞬間、自分より幾分か大きな手が臼井の手を握り込む感触があった。体格の良い犬童の手はゴツゴツとして大きい。なんとなく体温の高そうな暑苦しい見た目をしているのに、末端は驚くほど冷たく、その温度のない風景が犬童の瞼の裏にも広がっているのかと思うと早く温めたくて、きゅ、と感触を確かめるように握り直した。
    「……良かったよ俺、雄太がいて」
    声色は上擦り、ともすれば震えているように聴こえた。大人びた部分と子供じみたところのアンバランスさを併せ持つ犬童のバックボーンを垣間見た気がした。何より、人に底を見せない犬童が、自分に対して弱味を曝け出してくれたことが少しだけ嬉しかった。
    「……別に、俺がいなくても他の寮生に頼むだけだろ」
    「いや、きびしーだろ、男と手を繋いで寝るのは。雄太はなんか……お母さんみたいだし」
    「はあ、そう……」
    高校時代も寮で代表して部員のために料理をしていたし、大所帯の後輩たちの面倒をみる役割だったので、そう形容されることに今更物珍しさはないが。
    「いやちょっと違うか、一緒にいて安心するんだよな。もともと見知った顔だってのももちろんあるが……おまえからはそういう、寄りかかっても受け止めてくれそうなオーラが出てる」
    「よくわからないけど……まあ、慣れてはいるかな。聖蹟には危なっかしいやつが多かったから」
    「はは、でもそんな聖蹟の奴らが大好きだったんだろ」
    暗闇と段差で、犬童の顔は見えない。ただ口調がいつもより柔らかい気がする。たまにこういう、なんでもないように人のことを何もかも見透かしたような発言をするからこの男は油断がならない。
    「まあそれは。気のいいやつらだったよ」
    「羨ましいな、おまえとチームメイトだったやつらが」
    「今まさにチームメイトだろう」
    「まあそうだけどよ、違うじゃんやっぱ。特別だよ、高校サッカーは」
    まるで自分の宝箱を少しだけ開けて見せてくれた子供のような響きで、犬童は『とくべつ』だと言った。最高の仲間たちと全国優勝という経験をした。プロになって、これからも続く限りはサッカー人生を送るわけだけれど、あの瞬間に勝る体験はもう二度とできないだろうと思う。たった1年前の出来事がもう遠い昔のように感じる。確かに聖蹟での日々は、かけがえのない青春だった。
    大の男ふたりが上と下で手を繋いで寝転んでいるというおかしな光景だが、不思議と気恥ずかしさなどはなかった。ぽつぽつと高校時代を懐かしみながら体温を分け合うそれは、まるで戦友との長い握手のようだった。
    「あー、眠くなってきた気がする」
    「俺にここまでさせといて眠れなかったら怒るよ」
    「こええー。夢に出そう」
    くっと笑った雰囲気があって、それから犬童は喋らなくなった。すうすうとした寝息が聞こえてきて、臼井はホッと胸を撫で下ろした。
    「おやすみ、犬童」
    聴こえるか聴こえないかの声で呟いて、ほどなくして臼井も深い眠りに落ちていった。
    眠りに落ちる瞬間、結んだ手がほどけた感触が確かにあった。それは赤子の手が母親の手から離れてしまったような心許なさに似ていた気がした。

    ベッドから落ちそうなほど端っこにいたはずが、目が覚めるとちゃんと真ん中にいた。そう言えば昨日この部屋に居座ってそのまま寝た男はどうしただろうと、身体を起こしてベッドから下を見る。
    「……よお、起きたか」
    「おはよう。昨日は、」
    そこまで言いかけて、同じく半身を起こしていた犬童の顔を見た瞬間に半分寝ぼけていた頭もはっきりと覚醒した。額に落ちる髪をぐしゃりと握っている腕のあいだから見えたこちらを見る目は充血していて、目元には酷い隈。とても長時間熟睡してすっきり目覚められた人間の顔立ちではない。
    「ダメだったのか……?寝息を立ててたのは確認したんだが」
    「オマエの手を握って確かに眠った気がしたんだけどよ、しばらくして手が離れて……すぐ起きちまって、そのあとはもう、ダメ」
    「そんなん、叩き起こしてでももう一度握れば良かっただろ」
    「いや、悪いじゃん! ていうかここからじゃ顔も見えないし、再トライにも手だけってのじゃ多分駄目だったと思うわ」
    「いや、全く基準がわからないが……」
    お手上げになってしまった。やはりもう睡眠薬か、犬童という人物とはもっとも遠いところにあるように見える精神科を薦めるしか術はないように思えた。犬童を自室に返し、とりあえず身支度をして今日の練習に向かう。犬童はまた体調不良で別メニューとなっていた。

    「コーチと監督には本当のことを言った方がいい。身体と心の問題なんだから」
    「まあそうなんだけどよ……」
    風呂を終えた後の寝るまでの自由時間、今日も犬童は臼井の部屋に居座り、それどころかベッドを陣取ってダルそうに横になっている。もうまともに眠れてなくて三日目になるだろうか、いくら若さと体力に自信があっても、精神的にも限界にきているのではないか。ましてや身体が資本のプロサッカー選手では、ベストなパフォーマンスを発揮するためにコンディションを整えられないのは致命的だ。
    「おおごとにしたくないっつーか、自分で克服しなきゃいけない気がするんだわ」
    「……医療の手を借りるのは、別に逃げじゃないぞ」
    「このまま夜どころか車すら怖くなったら俺、どこにも行けねーのかな」
    「犬童……」
    寝不足で頭が働かないのか会話らしい会話にならず、犬童はボーッと天井を見ている。と思えば笑って「まあそんときは俺だけ自転車移動だな」などとおちゃらけたことを言ってみせるが、余計に痛々しさが募る。
    「なあ、やっぱり睡眠薬をもらってーー」
    そう提案して、なんだったら犬童の代わりに自分がスタッフに貰ってこようと床に座っていた臼井が立ち上がった瞬間。強く腕を引っ張られて体勢が崩れる。ベッドに半分乗り上げる形で、横たわる犬童の顔の横にかろうじて手をついた。
    「っな、」
    急に、目と鼻の先に犬童の顔が現れる。目の下の隈は深く濃く刻まれている。瞳は、いつもの生命力に溢れた光を失い、ひたすらに充血して虚だった。
    「昨日床で寝たのが寒くていけなかったのかもしんねー。今日はここで寝かせて」
    「いいけど、俺も一緒にってことか? 狭い、嫌だ」
    「俺小さくなるからよ。大丈夫大丈夫」
    「え、うわっ」
    そう言って犬童は臼井の腕を布団の中に引っ張り込むと、臼井を背中から抱きすくめるような姿勢で壁に背を向けて丸まった。成人男性の平均よりはるかに体格の良い、百八十五センチもある男はどうやっても小さくなることはできないから、狭いシングルベッドの中で並ぶなら身体を絡ませる羽目になる。
    「何、考えてんだ……!」
    「雄太ならむさくるしくないし、いい匂いだし? ひっついてよく眠れそうかなって」
    「嗅ぐな……っ!」
    頭上にいる犬童はちょうど臼井のつむじのあたりをすんすんと吸い込んでいる。風呂上がりに遭遇すると近寄ってきて匂いを嗅がれるが、こんなに至近距離で捕まったことはほとんどない……と言いたいところだがそこそこ何度かはある。ごそごそと体勢を落ち着ける場所を探していた犬童は、抱きしめるのはさすがにないと思ったのだろう、上に来ている方の手をだらんと臼井の腰に覆いかぶせるくらいで、身体は微妙に触れるか触れないかの距離でなんとか男二人を横向きに横たわらせた。
    「あー、やっぱ人の体温があると布団、あったけぇな」
    「俺は湯たんぽか?」
    蹴り落とそうにも相手は今絶不調の手負いの虎で、良心の呵責によりなんとか暴力に訴えかけるのを踏み留まった。不意に、足先と足先が触れる。暖房のかかった部屋、先に布団の中にいたのは犬童なのに、犬童の足は昨日握った手と同じようにひんやりと冷たかった。すり、と犬童のつま先が臼井の足の裏に擦るようにくっついた。不思議と嫌な感じはせず、自分の熱が犬童に移っていくのをじっと丸まりながら感じていた。
    「北海道の冬は寒いよな」
    「……」
    すべてをあきらめた臼井が瞼を閉じたのと同時くらいに、犬童がぽつりと溢す。なぜか雪原の中にひとりぼっちで佇む犬童の姿が思い浮かんだ。一見すると真夏の太陽のような男なのに、雪の中に立つ姿が似合う男だと、そのとき初めて思った。

    「おまえがいてよかったよ」
    昨日と似た台詞は、湯たんぽとしての意味だろうか、それとも。どのみち寝不足で回っていない頭から発せられた言葉だ。それでも、瞼の裏の犬童がぬくもりにより独りぼっちではなくなったのならば、それだけで良かった。本人には絶対に言わないが、同じことを思った場面がこの一年間何度もあった。底抜けの明るさにも、課題を言語化できる賢さにも、時には何も言わずに寄り添ってくれる思慮深さにも随分と助けられた。見知らぬ土地ですぐに友人や知り合いと呼べる交友関係もできた。目的を見失いそうになったときも、居残りで二人っきり犬童とボールを蹴るだけで、自分がここにいる理由を思い出すことができた。犬童はまるでサッカーそのものみたいな男だった。雄弁で、自由で、人と人を繋いで、一筋縄ではいかなくて、どこまでも楽しい。だから犬童に元気がないと自分の心がざわつくのだろう。だから破茶滅茶な申し出も受け入れてしまうのだろう。そうでなければ自分の行動に自分で説明がつかない。きっとそうだ。
    「犬童」
    「ん?」
    「おまえは、」
    一人じゃない、そう言おうとして、なんだか陳腐な台詞みたいで飲み込んだ。それでもなんとか、犬童に寄り添ってあげたい気持ちが口を動かした。
    「大丈夫だ」

    犬童が、ぐ、と息を呑む。鼻を啜ったような音がしたのは、たぶん気のせい。
    「……ああ、そうだな。おやすみ、雄太」
    いつからか勝手に呼ばれるようになったファーストネーム。ベッドの上で囁かれるには似合いだが、そういう相手とシチュエーションでない今の状況がちぐはぐで戸惑う。吐息がかかったからではなく、体の底から湧き上がるくすぐったさに身を捩り振り返ると、瞬きがゆっくりになっていった犬童の瞼がやがて完全に閉じられた。何度か見たことはあっても、自分で暖をとりながら安心しきったように眠るあどけない寝顔を見て心臓の奥があたたかな気分になった。まるで小さな炎が灯ったような。役割を果たせて安堵したのにも関わらず、胸の火が回ってしまったかのように背中が熱い気がして、臼井はその晩、なかなか寝付くことができなかった。

    次の日もその次の日も、犬童は臼井と一緒に寝た。結果から言うと同衾は大正解だったらしく、3日ぶりに深い眠りにつけた犬童は大袈裟に涙を流して喜んだ。困ったのは臼井の方。『臼井と一緒ならよく眠れる』ということに味を占めた犬童にベッドを占領され、ときには犬童の部屋に連れ込まれ、お気に入りの毛布のように抱き抱えられて眠りにつく始末。「もう一人で眠れるんじゃないか?」という遠回しな拒絶にも「もうちょい、慣れるまで」と謎の言い訳をする犬童にずるずると根負けして今に至る。狭いベッドで二人で寝て、練習に支障が出るかと思われたが身体が若いからか影響はさほどなかった。何よりも臼井の方も、人の体温に包まれて眠ることに慣れてしまうと寝返りを打ち辛いストレスよりもむしろリラックスして安眠できてしまうようになった。犬童と眠るようになって一週間。そろそろ寮監にバレかねないし、なんだかおかしな関係になってきてるような気がしている。臼井は練習後ストレッチをしながら、すっかり元気になった犬童を横目にひとりため息をついた。
    今日は犬童の部屋の番だった。あまりに犬童が住み着くので臼井のベッドが犬童の匂いになって嫌だ、と臼井が言ったのが発端で、じゃあ俺の部屋に来いよと犬童に引っ張って連れて行かれた。犬童の部屋は角部屋で、私物こそ多くはないが食べかけのスナック菓子や脱いだジャージが散乱しているのを毎度訪れるたびに臼井が片付けてやっていた。自分の部屋なら押しかけられたら不可抗力ということでともかく、人の部屋にわざわざ添い寝をしに行ってやってる現状はもう言い訳できない気がして、臼井は過去の自らの発言を少し悔やんだ。そんなのは一言で断ればいいのに、同情でもなくカウンセリングでもなく、同僚と仲良く同衾している事実がほかの人間に知れ渡ったら絶対おかしな関係だと思われる。実際おかしな関係なような気がしているが、犬童の考えていることはさっぱりわからない。

    「んじゃ寝るかあ」
    別のチームの試合を一緒に動画で見て他愛もない会話を交わした後、犬童はごろりと横になってチョイチョイと手招きをした。
    「……」
    返事をしたことはない。ため息をついて一応不満の意志を示しつつ渋々と手招きされた布団の中に入る。「もう添い寝は不要だろう」「いつまでこんなおかしなことを続けるんだ」という何回も心の中で復唱した台詞は犬童のあくびとあたたかな体温にかき消される。
    「はあ、雄太あったけー。おやすみ」
    「……おやすみ」
    犬童に背中を向けて横たわった臼井の腰にがっちりと太い腕が回された。どうしても狭いベッドで男二人が寝ようとすると、身長の低い臼井が頭一つ分犬童より下にくることになる。同じ向きを向いた方がスペースに無駄がないので、寝始める体勢はいつも同じだ。同衾も四、五日目になると臼井を抱き込む手にも遠慮がない。本当に毛布か何かだと思われているんだなと、その意味を考えることは早々に諦めていた。電気を落として数分後、犬童のすうすうとした寝息が聴こえてきた。デカくて声が大きくてうるさい男だが意外にも寝ているときは静かなんだということを寝床を共にして初めて知った。臼井は今日何度目かの、自分は一体何をやっているのだろうかという自問自答のため息をつくと、ふと思いつきでその身を捻じり、犬童の方に向き直った。
    回された腕を枕にしたら、顔が心臓の目の前あたりにきた。アナログ時計の置いていない犬童の部屋で、とくんとくんという心臓の音がやけに響いて感じられる。胸に耳を付けて心音を聴いていたら、モヤモヤといろんなことを考えていた頭も落ち着き、やっと眠くなって来たような気がした。そこそこ距離感がマヒしてしまった頭でも、向かい合う姿勢は密着しすぎでやはりおかしいと体勢を戻そうとしたその瞬間、眠っているはずの犬童が頭上でごそりと動いた。

    「……っ、犬童、起きて……」
    「おまえがこっち向いた気配がして、起きた」
    頬を胸に当てていたことがバレたのが恥ずかしくなり、それをごまかすように何事もなかったかのような会話を続けた。
    「やっぱり眠りはまだ浅いんだな」
    「いや、まあ……それより、マズイことが」
    「?」
    「眠れるようになって健康になったらよ、下の方も健康になってきちゃって」
    「…………は?」
    腹の底から低い声が出た。

    「昨日? 一昨日? あたりからおまえのうなじ見ながらやべえなー、って思ってて、まあ我慢したんだけど。顔、見るとちょっとヤバい……」
    「何を、言って……」
    ギッとベッドのスプリングが軋んだ音を聞いたときには、臼井は犬童に覆い被さられていた。細められた瞳は暗闇の中でも欲望を湛えた光を放ちながら臼井の目を焼きそうなほど熱を持っている。臼井の脚を割って犬童の太腿がそこを跨いだと思ったら、ぐ、と固くて熱いものを押し付けられた。
    「なあどうしよう、これ」
    「っ……!」
    「ここんとこおまえ優しいし、あったかくていい匂いだし、そう思ったら急にすげぇ可愛く見えてきて……おかしいのかな、俺?」
    犬童は戸惑いながらも瞳はギラギラと、はっきりと欲望を臼井にぶつけたいという意思を持って光っていた。
    ここ数日間のどこか異常な状況の中で、きっとおかしくなってるだけだ。犬童も、そして自分も。
    吊り橋効果かなにかだろうか? 精神的に不安定な状況で取り合った手。分け与えたぬくもり。おまけにそこから性欲が発生するなんて、おかしい。おかしい。流されそうになるくらい、嫌じゃないのがおかしい。
    「おまえの頭がおかしいのは今に始まったことじゃないが。まだ寝不足の頭でいつもに増して正常な判断ができなくなってるんだろう」
    今にも頭から食われそうな雰囲気を断ち切るように、極めて冷静に、気が動転していない素振りをしながら諭すように言う。
    「んな……」
    「でなかったら近づきすぎて、絆されただけだ」
    思ってたよりピシャリとした語気になった。ほとんど自分自身へ言い聞かせるような口調だった。心臓がやけにうるさいのは、押し倒されて捕まっているような体勢による防衛本能からなのか、それとも。体格的に、本気でのし掛かられたらきっと敵わない。男同士だから忘れていたけれど、ここに来たのは自分の選択で、シチュエーションからもそういうことになってもきっと文句は言えまい。おまけに自分は恐らく“下”だ。何かを期待していたとしたら、急に自分が浅ましい生き物になった気がして。
    「よく考えろ。俺は男だ。おまえが元々好きなのは女だろう? 手近なところで性欲を発散させようとするなんて最低だぞ」
    「さ……」
    「寝床に引き摺り込んだのも、こうする口実だったのか」
    「ち、違うって! それは!」
    「どうだかな。俺は自分の部屋に戻る。もう添い寝もいらないよな」
    逸る鼓動を落ち着けるように胸元を押さえつけ、犬童の腕を押しのけた。回された腕が離れていく瞬間に少しの名残惜しさを感じたことには気づかないふりをした。


    犬童のトラウマに端を発した、短い同衾生活はこうして幕を閉じた。翌日犬童は謝ってきたが、昨日の件は別に謝ることでもないと念押ししたうえで、この一件に関しては生涯をかけて埋め合わせをしろと脅しておいた。何も感じてないと装わなければ。自分で突き放しておきながら、ひっそりと心が傷付いたなんてことは当の本人には絶対に知られたくなかった。

    久しぶりの試合はまたアウェーで、クラブ一行は広島へ飛んだ。スタジアムへのバス移動があり、犬童のことが少し心配になったがどうやら大丈夫そうだった。あれ以来約三週間弱、犬童と一緒に寝るどころか互いの部屋の行き来もゼロだった。こんなのは入寮以来初めてのことだ。「頭おかしい」「最低」「口実だ」と捲し立てたのは確かにこちらだ。そこまで言っても堪えないのが犬童という男だと思っていたが、改めて弁解されるでもなくこのところどことなく避けられている様子を見るに、頭が冷えたらやっぱりあのときの衝動は間違いだったと気付いたのだろう。まさか一緒にいて気まずくなるほど嫌われてしまったのかと、そんなことを夜に考えれば考えるほど寝付きが悪くなってしまった。布団に残っていた犬童の残り香も、シーツを洗濯したらあっけなく跡形も消えてなくなった。
    決して『絆された』のではなく、本当の意味で自分を求めてくれたらのならと、心のどこかで期待していた。けれども、どうやらそれは叶わなかったらしい。

    デーゲームの試合を終えて広島泊の夜。ホテルの部屋の前でバッタリとコンビニか何かのビニール袋を下げた犬童に遭遇した。夕食は別々だったので、隣の部屋だということに気付かなかったのだ。
    「よう、雄太」
    「ああ、犬童も今帰り?」
    犬童は先輩に連れられて、女性もいるという食事に出かけていったと別の同期に聞いた。臼井は若手では一番顔が良いので、いつもなら女性を呼ぶ餌にされることもあったが、今回はお呼びがかからなかった。本気で狙いたい子がいる場合には臼井は逆にいない方がいい、とは年頃の近い先輩からかつて聞いたことがあった。
    「ちょうど良かった、部屋で今日の反省会しようぜ」
    今日は珍しく臼井も出場機会を得て、久しぶりに同じピッチに立った。犬童のことがあり、精神と肉体面で揺さぶられたコンディションを取り戻すかように練習に打ち込んだのが功を奏したのかもしれないと思うと皮肉だった。犬童とは遠征先でもよく一緒に食事をしていたので、女の子とどうこうという場面に出くわしたことはなかった。今日、もしかしたら連れ込むチャンスをふいにして、その穴埋めに自分が誘われたのかと思うと胸がチクチクとした。これまで一緒に過ごしていた濃密な時間が失われたことに喪失感を感じていたのは、きっと自分だけなのだ。そんな臼井のモヤモヤとした胸の内を察してか察せずか、犬童は少し目線を下げて臼井の顔を覗き込んだ。じっと臼井の顔を見つめる目からは感情を読み取ることはできない。人の心を読むのが得意、とは一体なんだったのか。犬童の本心はわからないばっかりだ。
    「遅いしもうやめとくか?」
    「……いや、お邪魔するよ」
    犬童はフッと笑って、臼井の髪の毛をくしゃりと撫でた。

    「で、あそこで吹っ飛ばされて、やっぱりもう少し身体を作った方が良いと思ったよ」
    高校時代はポジション取りの巧さで優位を取れていたが、プロではそもそもの身体のぶつかり合いで攻め切られてしまう場面が出てくる。高卒2年目で試合に出られるだけでもかなり優秀ではあるのだろうが(それだけ現クラブの層が薄いとも言える)今後二十代に突入するにあたって何よりも優先すべき課題だろうと臼井は感じていた。
    「まあ雄太はデカくはない上に細いからなあ」
    「細くはないだろ。人並みにはガッチリしてる」
    「いーや、俺から言わせればひょろひょろだね! こう、抱いたときの感触も腰とか細っこくて……って、あっ」
    「……」
    犬童はしまったという顔になった。
    「おまえは無駄にデカく育って良かったな。親に感謝しろよ」
    「おう、もういねーけどな」
    「……」
    気まずい沈黙が二人の間を流れる。もうどうしたって、あのときの話をせざるを得ない状況になっていた。

    犬童はベッドの真ん中に寝転び、臼井は端に腰掛けている。つけっぱなしのテレビはスポーツニュースも終わり、深夜のバラエティが始まるところだった。臼井がテレビから流れる笑い声にちらりと目をやった瞬間、ベッドがギッと音をたて、臼井は瞬間的に身構えた。
    「なんもしねーよ……悪かったって、あの日は」
    体勢を変えただけの犬童の、気配に敏感になりすぎていたことに気付く。犬童はぽりぽりと頭をかき、バツが悪そうに目線を落とす。
    「……別に、もういいって。俺もちょっと……言いすぎた」
    「うそ、どれのこと?」
    「いや、いろいろと……覚えてないならいい」
    「気にしてくれてたんだ?」
    「そりゃあの日以来全然部屋に来なくなった、し……」
    そこまで言って臼井は、犬童にわからないように目を泳がせた。しまった、墓穴を堀った。これではまるで犬童に構ってもらいたい人間みたいじゃないか。それを受けたかのように、犬童の瞳がぎらりと光る。
    「……前言撤回するわ」
    ギッ、ギッと今度は二度、ベッドのスプリングが軋む音を立てた。身構える間もなく、気がついたときには犬童が距離を詰めてきていて、隣に片膝を立てて腰を下ろす。犬童は正面から臼井の瞳を覗き込んだ。今度ははっきりと、意思を持った視線を寄越して。
    「絆されたとか気の迷いとかじゃねーよ」
    「え……」
    「確かにあんときは気持ちが引っ張られてたみたいなところはあって、微妙な言い方になったのは認める。そんで口実だったのかと言われると、完全にそうじゃないとは言えねー。だって俺、おまえのこと多分最初から結構好きだったから」
    臼井は目を見開いた。犬童は言ってしまったという顔をして、照れたように視線を一度外す。嘘を言ってるようには思えなかった。急にぎゅうと心臓を掴まれたような感覚になり、意に反して心拍数が上がっていくのがわかる。
    「……へえ、それは光栄」
    「綺麗な顔でサッカーも上手いやつと一緒のチームでやれるのが嬉しくないやつなんていないだろ? 二十四時間一緒にいるようになって知った、そのめんどくさい性格も跳ねっ返りの強いところも気に入ってる」
    「跳ねっ返りって……今まで言われたことない」
    「俺だけが知ってんだ? ラッキーじゃん」
    犬童は首を傾げたかと思うと口元をニッとさせ、下から見上げるようにして子供のように笑った。そして膝の上にだらりと乗せていた右手をふいに浮かせると、臼井の側頭部のあたりの髪の毛をそっと撫でた。ゴツゴツとした大きな手が臼井の柔らかい髪の毛を鋤く。親指が耳上を掠めると、甘いむず痒さに首をすくめそうになった。まるで指先で口説いてるようなその手つきに、臼井はいつものように取り繕うこともできず固まった。
    「……っ」
    「溜まってたからとか男だとか女だとかそんなの関係なくて、おまえだから触りたいっての思うのはもう、そういうことだろ」
    おそらく、心の奥底に押し込めていたけれど、欲しかった言葉を与えられ、きゅうきゅうと締め付けられる胸の奥。抑えていた感情が溢れ出てくるのを混ぜっ返されるように髪を撫でられて、顔に熱が集まってくる。ただ感情を顔に出さないことは昔から得意だった。不安そうに、確かめられるように、犬童の指の腹が頬に触れる。
    「嫌か?」
    「……断りを入れる前に触るなんて無礼なやつだな」
    「断りを入れたらいいんだな?」
    「内容による……」
    「体中触って、キスして、おまえを抱きたい」
    そのまま犬童の親指が唇に触れる。ごまかしようのないくらい、犬童の瞳は欲望に濡れている。
    「……」
    「沈黙は合意とみなすぜ」
    顎を取られて上を向かされ、臼井はじろりと犬童を睨みつけた。顔が赤いのは隠し切れているだろうか、でももうバレてしまっていてもよかった。それを見て犬童は愉しそうに目を細める。どれだけ言い訳をして優位に立とうとしても、この部屋に入ってきた時点でこいつには全てお見通しだったのかもしれない。つくづく相性の悪い相手だと臼井は観念して、顔を寄せてくる犬童の唇が触れる瞬間に目を閉じた。

    掠めるような、触れるだけのようなキス。唇を離して、至近距離で目線がかち合った。探るような犬童の視線に、同じく視線で応える。まるで試合中の攻防のようだと思ったらおかしくて、つい微笑んでしまう。
    「おい、なんか余裕じゃねーか」
    「別に……そっちこそ」
    「ねーよ、余裕なんて! 拒絶されなくてホッとしてるっつの……どういう風の吹き回しだよ」
    「おしゃべりはもういいって」
    「……っ、!」
    するりと犬童の首に腕を巻き付け、その先を強請る。一度突き放して試すようなことをしておきながら、犬童の気持ちが自分と同じだとわかった途端に大胆になれる、つくづく面の皮の厚い生き物だと自嘲する。犬童は熱に浮かされたような顔をして、応えるように臼井を抱き寄せた。
    「っ、ん」
    片腕で抱き込まれ、もう反対の手はうなじを掴んで荒っぽく引き寄せられる。始めはぶつかるように唇が触れ、あとは欲のままに何度も何度も、感触を確かめるようにお互いの唇を貪った。唇の端からは息継ぎのたび、ひたすら熱い吐息が漏れるだけ。犬童の薄い唇は思っていたよりも柔らかく、擦り合わせると自分の肌によく馴染んだ。尾てい骨がむず痒く震えるほど、ただのキスがこんなにも気持ちが良いなんて思わなかった。

    歯列を犬童の舌にノックされ、口を開けるよう促される。侵入を許したらもうあとは求め合うだけだった。湿った粘膜が擦れ合い、淫靡な水音は耳からも欲望を刺激して、下腹に熱が溜まっていくのを感じる。
    「……っふ……ぁ、……」
    舌と舌を執拗に絡ませ、唾液を交換するようなキス。激しく求められることに身体の奥が震え、また自分も求めていたのだと改めて実感する。腰を掻き抱く腕は一層強くなり、いつのまにか掌がシャツの下に侵入していた。
    「邪魔だな」
    犬童は臼井のTシャツを剥ぎ取ると、自身のタンクトップも脱ぎ捨てた。そのままもつれるように、布団の中に二人して潜り込んだ。
    押し倒すような形で、臼井に覆い被さった犬童はちゅっと音を立てて額に短いキスを落とす。
    「……俺がこっち側なのか」
    「え!? 抱きたいって言ったろ!?」
    臼井は形式的に不満を表してみせた。犬童を抱く気はさらさらないが、同性にマウントを取られているように見えるこの状況は、男としてなんとなく不服だった。
    「俺がこの数日、お前無しでどうやって眠れてたか、教えてやろうか」
    「え……うん?」
    「毎晩雄太で抜いてた」
    「…………うわ」
    「くたくたになるまで居残りでボール蹴って一発抜いたら眠れた。最初からそうすればよかったのかもしんね」
    「俺の苦労を返してくれ……」
    「いやー、オカズが雄太じゃなかったら多分駄目だったと思うんだよな、あの一緒に寝てくれた日々がなきゃそもそも」
    「意味がわからな……」
    「心配かけといてすまねーが、俺は途中からそういう目で見てた」
    「それに関してはもうわかった」
    「おまえとしたい。抱きたい。雄太じゃなきゃだめなんだって、もう、おれ」
    「……、」
    もう一度深く口付けられると同時に、その手が鳩尾あたりに触れ、薄い皮膚をなぞり始める。
    「っ、あっ」
    快楽よりも先に、犬童にそんな風に身体を触られる戸惑いで臼井は声を上げた。過剰なスキンシップやらマッサージで無遠慮に触れてくるどの手つきとも違う優しい指先に、どうすればいいかわからなくなってしまい思わず犬童の首に縋りついた。
    掌はそのまま胸元へと到達し、指先が先端を弾く。
    「、! ……っ」
    そこに反応してしまうのはなんとなく男としてのプライドが許せず、臼井は必死に声を噛み殺した。ぐにぐにと指の腹で押し潰したり軽く引っ掻いたり、犬童は乳首への愛撫を繰り返す。反応が薄いのを見てか、顔にキスを散らしていた犬童の頭がふっと消え、胸元に降りた。湿った粘膜が先端へ触れると腰骨のあたりに切なさが走り、臼井は思わず声を漏らした。
    「……っ、はぁ……あっ」
    「……」
    いつもうるさすぎるくらいに口数の多い男だというのに、黙ってことを進めるのですっかり調子が狂ってしまう。この間はいかにも無遠慮に突っ込まれそうな性急な衝動を感じたし、そういう男なのだと疑っていなかった。でも今目の前にいる男は男を相手に器用に高めていく前戯ができる男なのかと思うと、隠されていた知らない一面を見てしまったようでなぜか顔が熱くなる。
    「……っあ!」
    急に身体の中心をゆるく握り込まれ、意図せず上ずった声が出てしまった。そこは身体への愛撫だけではまだ完全に勃ち上がっていなかったが、直接扱かれて男として無反応でいられる者はいないだろう。犬童の手の中であっという間にそこは硬く膨張し、どくどくと脈打って興奮を伝えている。
    「んっ……ああっ、……!」
    完全に溶かされている身体とは裏腹に、他人に主導権を握られて攻め立てられることに臼井は不慣れで、身体を委ねて暴かれることに抵抗感は未だ消えなかった。受け入れる側特有の、例えるなら、自らの立つ足場が不安定な心許なさ。今だったら女の子を相手にもっと優しくできるだろう。ただ視界を塞ぐ男のせいで、その機会を得ることはしばらくないだろうとなんとなく思った。しかし犬童は臼井の思考が少しでも逸れるのを許さず、絶妙に臼井が達しない程度のゆるい愛撫を続ける。もどかしい快楽による先走りが犬童の手を汚すほど感じているのに、素直に声をあげられなくて口を覆っている腕を噛んだ。それを見てか犬童がふっと笑い、腕の上から短いキスを落とす。
    「可愛いな、雄太は」
    「な……」
    何をもってしてか、犬童は聞き捨てならないことを言う。そう思われないように、女みたいな声を出すのを必死に噛み殺しているというのに。
    「いいぜ無理しなくて。俺は、おまえが触らせてくれるだけで充分だから」
    「……」
    わかってるのかわかっていないのか、いまいち判別しかねる台詞に臼井はむうと口を紡ぐしかなかった。愛情をもってしても簡単には崩し難い臼井の高すぎるプライドを尊重しようとしてくれているのだろうか、甘やかされることに慣れていない臼井にとって犬童の手つきや言葉は、体の内側から羽根でくすぐられるようなむずがゆい気持ちにさせた。同い年なのに、ただの同僚だったはずなのに、こんなにも心乱される存在になるなんて、札幌行きを決めたときには全く想定していなかった。
    「でもよー、こっちはそろそろ限界、なんだけどよ」
    犬童はバツが悪そうに顔を逸らすとおもむろに、声が出ないよう口元を抑えていた臼井の右手をそっと下腹部に導いた。
    「……うわっ」 
    思っていたよりも重量感のある固いものを急に握らされ、臼井は感嘆のような驚愕のような声を上げた。
    触れてもいないのにガチガチの興奮状態にある自身を、臼井に知らしめるためだけの挙動だった。カッと顔が熱くなり、ぶわぶわと、この雄に貫かれて抱かれるのだという事実が質感をもって感じさせられてしまった。犬童は腰の位置をズラすと、臼井の陰茎と自分のものをまとめて握り、再び上下に手を動かし始めた。
    「あ……っや……嫌、だ……っ!」
    「きもちい、の、間違いだろ……っ?」
    興奮に比例して犬童の腰を揺らす速度が段々と上がっていく。熱い塊同士がにちにちと音を立て、先走り液はどちらのものかわからないくらいに交じり合い、絶頂に向けてどんどん硬さを増していく。犬童の汗がぽたりと臼井の顔に落ちた。ふと見上げると熱い吐息がかかる中で、今日何度めかわからないくらい視線がぶつかる。これまで見たことのない、欲望がむきだしになった表情に心臓が捕まれてしまった。この瞳に捕らえられたらもう逃げられないだろうと、サッカーをしているときからそう思わせられてしまう何かがこの男にはある。わかっていたから、深入りしてはダメだと、せっかく本能が教えてくれていたのに。
    「あっ……! あ、ああ……っ!」
    「……っ」
    絶頂が近づき意識がふわふわ遠のく中、上ずった嬌声だけが勝手に喉から零れ出る。あ、と思った瞬間、気付いたら熱いものが弾けていた。臼井の腹筋の上に、ほぼ同時に達した二人分の精液が飛び散ったのにも構わず、冷めない余熱の中で二人はもう一度唇を重ねた。

    そのあとのことはほとんど記憶にない。やけに丁寧に慣らされたことと、痛みは最初だけで初めての性交だというのに快楽を拾ってしまい激しく喘いでしまった気がして、自らの脳から記憶を打ち消そうとしていたのかもしれない。
    諸々の後処理を終えて、疲労に横たわる臼井を見ると犬童はぎゅっとその身体強く抱き込んだ。
    「ちょ……おい?」
    「……」
    「痛いんだけど」
    「好きなやつとこうするのって、幸せなことなんだな。俺は一人じゃねえんだ、って、そう思える」
    「犬童……」
    顔を押し付けられた肩口に濡れたような感触を感じた。多くの人に囲まれて笑っている犬童は孤独とは無縁だと思っていた。特定の相手を作らないのも、そういう性分だと思っていた。誰にも見せないよう巧妙に隠されてきた犬童の心の柔らかい部分に触れた気がして、胸の奥に切ないような温かいような感情が流れる。ぎゅ、と優しく抱きしめ返そうとしてなんとか思い止まった。
    「いてっ!」
    もじゃもじゃの頭をはたいたら、まるで脳に何も入っていないような良い音がした。身体を起こして、ベッドサイドにあった水を一口、枯れた喉に流し込む。犬童も涙目で起き上がり、むくれたような顔をして頭を押さえている。
    「そんな大きなナリで寂しがり屋なんて、気色が悪いだけだぞ」
    「キショ……ひどくない!?」
    「おまえの周りには大勢の仲間がいるだろう。これまで出会った人も、これから出会う人も、みんな大切な繋がりだ」
    「それは……そうだ、そうだな」
    犬童は赤くなった目尻を隠そうともせずに、顔を上げていつものような屈託のない顔で笑った。臼井は認めるしかなかった。このまっすぐな笑顔に弱いのだと、札幌で改めて出会ったときからずっと、なんだかんだこの男には弱いのだと。本人には絶対、一生、言わないけれど。
    「あ、でも、一緒にサッカーやった仲でこういうことしたいと思ったのはお前だけだからな!?」
    「別に俺は構わないけど、他でどうこうしてくれても」
    「は!? いやいやいや! 俺絶対浮気しないって! 信じてくれよ!」
    「どうぞご自由に」
    「雄太ぁ〜〜!」
    わあわあと喚きながら首に抱きついてきた犬童の体重を受け止めきれずに、背中からベッドに再び倒れ込んで臼井は顔を顰めた。この大きい身体に簡単に押し倒されないような強靭な肉体を作り込まなければ、と改めて心に誓った。
    攻め込まれっぱなしは性に合わないので、押し返した犬童の首根っこを再び引き寄せて噛み付くようなキスをした。犬童は一瞬驚いた顔をして、すぐにふっと不敵な笑みを寄越す。明日はちょうどオフだ。寝ていた犬を起こしてしまったのは自分であり、きっと朝まで眠れない長い夜の始まりの予感に、臼井は犬童にもわかるようにわざとらしいため息を吐いた。




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