燭台切光忠の場合 ドラックストアの化粧品コーナーをぼうっと見ていた私に、その日一緒に出掛けていた友人は言った。
「これ、今私付けてるんだけどさ」
その指が指しているのは、口紅。
「リップ?」
「全然落ちないのに乾きにくくて、すっごい良いよ」
改めて彼女の顔を見る。意識して見たことはなかったからよくわからないのだけど、確かに新色なのかもしれない。とはいえ、薦められたところで手は伸びない。
「私、あんまりリップ得意じゃないんだよねえ」
「すっごいおススメだから、試してみて」
あなたに似合うのはこれだと思う。と私の肌の色をなんだとか言いながら、友人は新色だと書かれている可愛らしいピンクを手に取る。
「えっそんな可愛い色私には似合わないよ」
「大丈夫だから♪ そういえば誕生日もうすぐだったよね。これ、プレゼントってことで」
「あっいいよ、本当に」
「またまたー。最近彼氏できたって言ってたじゃん」
そう言うと、止める間もなく会計したそれを私の鞄に突っ込んできたのだった。
友人と別れ、本丸に戻ってしばらく。
私は一応貰ったのだから、とパッケージを開けたリップを手にしていた。
目の前の鏡には、難しい顔の私がいる。
「つけて、みる?」
鏡の中の自分に問いかける。当然返事はない。
リップのパッケージの説明を見ながら、唇にそれを乗せてみる。別に、変な匂いや味はしない。
「こんな感じ……?」
以前買ったリップのように肌から浮いている感じはしない。彼女の見立ては間違っていなかったらしい。しかし――
「はずかし……!」
普段化粧っ気がない自分のこんな顔、色気づいているようで木っ端恥ずかしくなる。
――色気づいてもなにも、こいびと、はいるのだけど。
鏡の中の自分の顔を見ているのも照れくさくて、視線を逸らす。するとそこに
「主? 今大丈夫かな?」
ひょい、と顔を出したひとがいた。
「わっ、みっちゃんっ」
たった今思いを馳せていたばかりの燭台切光忠が現れたことに動揺して、私は慌てて唇を拭う。
「どうしてそんなに慌てているの?」
笑いながら、彼は部屋に入ってくる。
「ちょ、待って。待っててね」
ごしごしと拭いてみるのだが、売り文句の通り全然落ちない。口元を押さえて「見た……?」と聞けば、彼は笑って頷く。
「お化粧、したんだね」
「……んっ」
口を隠している手を優しく取られて、顔を覗きこまれる。
「あんなに擦っても落ちないって、すごいね」
「やっぱり、落ちてない?」
「全然」
恥ずかしいから見ないで、と丸くなると「見せて」甘い声で耳元に囁かれた。ぴくっと肩を揺らすと、小さな笑い声が鼓膜に響く。
「大丈夫。可愛いよ」
「も、からかわないで……!」
「からかってなんて、ないよ」
手を離されたと思えば、すぐに彼は私の前に跪いた。なになに? と動揺している私の手を再び取った彼は、そこにそっと口付けて。
「本当に、可愛い。似合ってる」
そう言いながら顔を近付けてくる。いい? と囁くように尋ねてきて、そっと唇を重ねてきた。
「ん……」
何度か軽く触れ合った後、舌が唇をつついた。促されるまま小さく口を開けば、熱い舌が入ってきた。
「っ……ふ」
相変わらず慣れなくて、逃げる舌を絡め取られる。あったかくてぬるっとしたそれがあまりに気持ち良くて、舌から全身とろけてしまいそうになる。いい加減息が苦しくなってきたところで彼はゆっくりと離れていく。すっかり力が抜けている私は、彼の腕にしがみついていた。
「も、限界」
「ふふっ」
そんな私を優しく抱き留めて、燭台切は微笑む。そして私の唇に触れて言った。
「こんなことしても、まだ落ちてないってすごいね」
「そういう問題じゃないよ」
ぐったりしてしまった私に、何事もなかったかのように夕食についての話をした彼は部屋を出ていこうとして、振り返る。
「あ、リップ少し薄くなってるみたいだけど、僕に移ったりはしてないよね?」
「……」
「え、移ってる?」
慌てたような彼は、さっきの私のように慌てた様子で唇を拭う。その姿が可愛く見えて、私はぷっと吹き出した。