実休光忠の場合「新しいの、買ったんだね」
化粧をしている私の横でその姿をじっと観察していた実休さんが言う。何度恥ずかしいと言っても、彼は顔が変わっていく様子を見るのが楽しいようで、私が出掛ける準備をはじめると、どこから察知するのか必ずやってくるのだった。
どうしても見られなくない作業に関しては、背中を向けてくれるようになったのだけど、
「あ、そうなんですよ。これ!」
鏡台の上に広げていたメイク道具の中から、買ったばかりのそれを取って彼に手渡す。
「どうやって使うのかな?」
彼は、見慣れない形状のそれを見て首を傾げる。
「それ、リップなんで唇に乗せれば良いだけですよ」
「ふぅん……」
興味深そうにしげしげとそれを見ていた彼は、おもむろに蓋を取ると、チップを眺める。
「あ、乾いちゃうから出しっぱなしにしないで――」
かと思えば、それを躊躇いなく自分の唇に塗った。
「へっ?!」
「ん?」
普段から私のメイクする様子を見ているせいだろうか。妙に慣れた手つきで塗り終えた彼は「合っているかな?」と微笑んでみせた。
「いや、あの」
正直、私より似合っているかもしれないのが少々癪だが、そんなに甘い色でも暗い色でもなかったせいか、ほんのりと色付いたそこは妙に色っぽかった。
「どうだい?」
「いや、似合ってますけど」
「けど?」
「……妙に色っぽくて、嫌だなぁ……って」
男性のメイクを否定はしないし、メイクしている男士も多い。それについては「そういうもの」だと思っていたからなんとも思っていなかったのだけど。彼のように、あまり自分の見た目を重視していなさそうなタイプにやられると、意外性やらなにやらで、ほんの少しドキドキしてしまった。
それはそうとして。
「実休さん」
「なんだい?」
「それ、落ちにくいタイプなんですけど」
「?」
こてっと首を傾げる彼に、だから、と彼の唇を指先で拭って見せる。
「ほら、ちょっと触ったくらいじゃ落ちないんです」
「それは、困ったね」
「ちょっと待ってくださいね。えと、クレンジングは洗面所に……」
立ち上がろうとすれば、腕を掴まれて引き寄せられる。
「きゃぁ?!」
「触っても簡単に取れないのだとしても、こういうことをしたら取れると思うのだけれど」
綺麗な硝子玉のような藤色の瞳に覗き込まれて、ドキッとする。美形の真顔の迫力に圧倒されていると、彼はなにも言わずに唇を重ねてきた。
「ぁ……っん……」
「ん……」
いつもよりもゆっくりと味わうようなキスが繰り返される。唇や舌の感覚を確かめるようなそれに、私はすっかりとろとろにされてしまう。
――出掛ける予定だったのに……
このままじゃ、出掛けるのなんて無理だ。
「ん……ぁ……」
実休さんの唇が離れたかと思うと、一呼吸の後またすぐに塞がれる。心臓の鼓動が速まる。理性が飛んでいきそうになる。
「まだ駄目かい?」
「まだ、って……」
続きを私から求めるように言われているのかと思って彼の胸に手を当てれば、彼は私の唇を指でなぞった。
「少し、移っているだけかな」
「…………」
まだ、というのは、自分に塗った口紅が落ちているか、という意味なのだろうか。ひくっと頬を引き攣らせた私に、鏡を覗き込んだ彼は少しだけ難しそうな顔をした。
「落ちたような、落ちてないような」
「落ちてないですよ」
「そう」
がっくりしてしまった私は、メイクを再開させようとする。しかし、激しいキスをされたせいで顔が紅潮していて色がわからなくなる。もう出掛ける気も失せてしまった。
「今日は、出掛けるのやめます」
「止めてしまうのかい?」
それ以上メイクをしないとなったら、彼は立ち上がって部屋を出ていこうとする。
「あっ」
「うん?」
続きは? と言うのも悔しくて、なんでもないです、と言えば彼は微笑んで出ていく。きっと、私が呑み込んだ言葉も全部わかっているのだろうと思うと、彼の掌の上で転がされている事実に頭を抱えそうになる。
「ん? 実休さん、その口どうした?」
廊下から薬研の声がする。まだリップの残っている顔を見て言っているのだろう。自分で化粧した、と言って驚かれるといいんだ、と子供っぽくも少し意地悪な気持ちになった私は「口?」と不思議そうに返した実休の声に、おやぁ? と思いながらそっと廊下を覗いた。
――数歩でリップのことを忘れてしまうほどにはぼうっとしていないはずだけど?
「唇、赤いぜ」
「ああ」
薬研から指摘された彼は、なんてもないことのように言う。
「キスしすぎたのかな」
「ふへ!?」
薬研の口から、今まで聞いたこともないような声が出る。
「は? きす、って接吻のことか?」
「うん」
「うん、って一体誰と――」
そこまで言ったところで、私に気付いたらしい。薬研は私と実休さんを何度か見比べて「あー……」と納得したような声を出した。
「大将、これ落とさせないと、無意識に全員に言って回られるぞ」
「えっ!」
「ここで会ったのが俺で良かったな。黙っておいてやるから、ちゃんと落としてから部屋から出せよ」
ぐいぐいと背中を押されて実休さんが戻ってくる。ぴしゃっと目の前で襖を絞められた彼は、私を見下ろして。
「ちゃんと落とせって言われたね」
「そうですね」
「じゃあ、落とさないと」
そう言ってまた唇を重ねてくる彼に、私はもう抵抗をやめた。だって、彼のキスは甘くて病みつきになるようなもので。私の身体も、さっきから彼を求めてしまってどうしようもなくなっていたのだから。
結局、あれこれ終わったあとでもうっすらとリップは残ったままで。私は、あんなことしても落ちないリップすごい、とただひたすらに感心したのだった。