笹さに書いた。「……忘れさせなければ良い?」
笹貫は酷く悲しそうな目をして言った。彼のこんな表情は初めて見る。
私の手首を床に縫い止める手はかすかに震えているように感じた。
――なにが起きたの?
驚きすぎて、とっさに反応ができない。ただぼーっと彼を見上げるだけだ。私の部屋に来た笹貫の、突然の行動。今、私は彼になにをされているのだろう。そのまま私を見下ろしてきていた彼は少ししてから小さく息を吐いて、憂いた顔のままで「ごめん、ジョーダン」と離れていこうとする。
思わずその手を握る。
「――怒ってる?」
叱責されると思ったのだろうか。彼の顔に笑みは浮かんでいない。どうにも様子のおかしいのが気になって、まだ背を床につけた姿勢で笹貫の手を引っ張れば
「うぉっ……!」
驚いたような声を上げた彼は、私を潰さないように顔の横に手をついてきた。
「ちょ、っと危ないって」
「笹貫は、私に怪我させないって信じてるから」
「いや、そりゃさせないけどさぁ」
困ったように笑った彼は、いつものような笑みを浮かべて。
「別の事故、起きるかもしれないだろ」
そんなことを言いながら顔を近付けようとしてくる。でも、やっぱりその顔にいつもの余裕はないように見えて仕方がない。
「事故、って例えば?」
頬に手を添わせると、一瞬ビクっと身体を強張らせる。でもそのまま誤魔化すようにキスしてこようとするから、ちゃんと答えるようにと言って彼の口に掌を当てる。
「これじゃ喋っても聞こえないんじゃない?」
「聞こえるから大丈夫」
「……そ」
一度目を伏せた笹貫は、また先ほどの悲しそうな色をその瞳に浮かべて静かに話し出す。
「もし怒らせるようなことしたら――オレのこと忘れない? それともやっぱり光でもしたら。気持ち悪いって思ってそれはそれで忘れられない存在になったりする?」
そんなことをしなくても、こんな男のことを忘れられるはずはない、しかし、それを伝えるよりも早く彼は自分から私の手を外すと自嘲めいた笑みを浮かべる。
「こんな風に強引に行ったって心の中にまで踏み込めるもんじゃないって、ホントは知ってるんだ。でもさぁ。オレ、他にやり方知らないから」
――ああそうだ。このひと、器用な方ではないんだ。
見かけやら言動から忘れがちだけれど、光って存在をアピールしようとするだなんて逸話、理解できないものを怖がる人間に対するものとしてはあまり適切とは思えない。人を模して夢枕に立つなんて方が、よほど効果的だろう。
それよりも、だ。
「なんでそんな風に思うの?」
突然だ。突然忘れられないようにすれば――などと言われても、そこに至る思考ルートがわからない。
「だって、すぐ忘れるって言うから」
「何を?」
「オレを」
「……?」
本気でわからずに訝しげな顔になれば、笹貫は数度ぱちぱちと瞬きして「言ってただろ?」確認するように聞いてくる。言っていない、と首を振ればと皮肉めいた笑みを浮かべられる。
「なに? 本刀には言えない?」
そんな顔をされても私には一切の覚えがない。なおも否定すると、笹貫は黙り込み、それからまた小さな溜息を一つ。
「わかった。もういいよ」
こちらとしては何一つわからない状態で、諦めたような顔をしてそんな風に言われるのは気持ちが悪い。説明をするようにいう私に、わざわざ言わせるなんて実は性格悪いの? と乾いた笑いを漏らした笹貫は、またしばしの沈黙の後重い口を開いた。
「さっき、オレのこと、捨てろって言われてたじゃないか」
「誰に?」
そんなこという刀は、うちの本丸にはいない。驚く私に、そんな驚いて見せる必要はないと笹貫は言って。
「誤魔化さなくても、ちゃんと聞いちゃったから大丈夫」
何が大丈夫だというのか。納得いかなくて問いただすと、少しだけイラついた様子の笹貫は私の顔の横にドンと手をついた。
「また笹貫のこと忘れちゃったって言って、一緒にいたのに『面倒見切れないなら元の場所に戻してきたらどうか』って進言されてただろ。なに? オレ、政府の倉庫に戻れって言われてる?」
元の場所に戻せ、の言葉に頭の中で記憶が繋がる。
「あー!」
忘れてたと言った私に、やっぱり、と苦しそうな顔をした彼はもう一度手首を強く握ってきた。掠めるようなキスをして、頭の上で私の両手首を固定した。
「捨てられても、この身体なら戻ってこれちゃうって言ったの、忘れちゃった?」
そう言う顔はとても苦しそうで。
「戻ってきちゃうよ。捨てても、多分無駄だと思うけど」
「ねえ、説明させてもらってもいい?」
彼の言わんとしていた部分を理解した私は、誤解を解くことにする。まさかあの話を聞かれていただなんて思わなかった。失敗したなぁ、と思いながら彼を見る。
「今更弁解する気になったんだ」
「弁解っていうか、説明。見せたいものがあるから、ついてきてほしいところがあるの」
「そう言って、ここの古参に捕まえさせる気? 追いかけっこか。楽しそ」
「とにかく、手を放して、私についてきて。何もしないけど、この発言も信じなくてもいいから。」
この格好ではどうしようもない。強引に、そんなに力のこめられていなかった彼の手を振り解いて起き上がる。おとなしく立ち上がった笹貫に手を差し出すと彼は驚いたような顔をして、でも手を握り返してきた。
笹貫の手を引いて窓際まで行く。そして、そこに置いてある少し萎れかけた鉢植えを指差した。
「これ、ささぬき」
「……は?」
「ささぬき、なの、これ。これのお世話がちゃんとできないなら、庭に戻して来いって言われてたって話で――」
「待って。なんでそれが、『オレ』?」
完全に混乱した様子の笹貫に、私の耳は熱くなる。先日、庭の隅で見つけた花。植物の名前には詳しくないから、名前は知らない。それが、人知れない場所で密かに咲いて誰かに見つけられるのを待っていたように見えて、つい放っておけずに部屋に持ち帰ってしまった。だって、誰かさんにそっくりだったから。
私の説明を聞いてぽかんと口を開けた笹貫は、じわじわと顔を赤くする。
「それ、が、笹貫……?」
「……うん」
「オレ、放っておけないの? 連れて帰ってきちゃうくらいに?」
「……うん」
「その花に、オレの名前つけて、可愛がってくれてたって、コト?」
喘ぐように息をしながら、彼は私の手を強く握り直す。それを握り返せば、眉を下げた笹貫は私を覗き込んでくる。まだその顔は赤い。そして、彼に見られている私の顔も真っ赤だろう。
「勘違い? うわ、恥ずかし……っ、っていうか」
しまったぁぁあ! と普段より高い声を上げた笹貫は片手で顔を覆った。
「勢いでファーストキスしちゃった。しかもあんな雰囲気もなにもない――」
天を仰いだ笹貫は、顔から手を外して横目で私の様子を窺ってくる。その視線の意味がわかってしまった。
「ノーカンで、いい?」
「……うん」
「今から、しなおしても、いい?」
「いい」
――ね、オレのこと好き?
嬉しそうに囁いた笹貫は、私が返事をするよりも早く唇を重ねてきた。ちゃんと気持ちを伝えられたのは、すっかりふたりして息が上がってしまった後だった。