フルール・ド・ユヌ・ニュイ―――
19世紀に建てられたコロニアル様式の商家を修築した、政府公認の高級娼館である。
夜から朝方にかけて営業するこのホテルは完全予約制で、数十人いるキャストのなかから必ず一人をパートナーに選ぶ必要がある。
安心・安全・快適な時間を過ごして貰うため、客は身元の明らかな者ばかりで、紹介制である故かこの娼館を一度でも利用すれば自慢できる、そんなホテルとして有名だった。小さな湖にぽつりと浮かぶ島の上に建っており、セキュリティの高さから密談などにも利用される。
アーチャーはそこで働く高級男娼だった。
勿論、指名されれば相手が女でも男でも対応する。このホテルで働く者はすべからく、己の一夜を客のために捧げるのだ。
「アーチャーさん、そろそろお着きになります」
「ああ、いま行く」
扉を開けぬまま告げられた声に返事をして、アーチャーはもう一度姿見のまえへ立つ。
そこに映るのはベルヴェストのテールコートをすっきりと着こなした男で、後ろに立てるように流した白髪に乱れは一つもなく、丁寧に磨き上げられた靴はシャンデリアの明かりを反して美しい光沢を放っている。
このホテルにおいて主役は飽く迄客であり、キャストは一夜の従者であるが、煌びやかな社交界を幾千と渡り歩いた顧客の肥えた目を満足させるには、それなりの身だしなみが求められるのだった。
(今夜も良い出来だ)
鏡のまえで自画自賛して、アーチャーはゆったりと部屋を出る。
支配人とともにエントランスで待っていると、ほどなくして黒塗りのベンツが横付けされた。
運転手に導かれ降りて来たのは上背のあるがっしりとした体つきの男で、目が細い。少壮ということもあって活力の漲った面立ちをしているが、常に微笑を絶やさぬその様子からは、実業家にありがちなギラギラとした鋭さを感じられなかった。
資料にあった特徴と一致しているのを確認し、アーチャーは一歩まえに進み出る。右手を胸に当て緩やかに会釈したあとは、こちらをじっと見つめる睛に笑みを向けた。
「お待ちしておりました、マック・ロイ様。今宵お側に仕えさせていただきます、エミヤと申します。御用の際はどうぞなんなりとお申し付けください」
「おお、君が。こちらこそよろしく頼む……と云いたいところだが、実は世話になるのはオレではなくてな」
「―――は、」
フェルグスの言葉を合図のようにして、ベンツからもう一人、男が降りてくる。
目の前に立ったその姿に、アーチャーは思わず瞠目した。
闇夜に靡く、青く長い髪。
紅玉のように煌めく赤い睛。
真っ白な膚は染み一つなく、その色彩の鮮やかさは見る者の心を一瞬にして惹きつける――。
それは間違いなく数時間前に出逢った男で、予期せぬ事態にアーチャーの鋼色の睛が揺れた。
「君、は」
仕事中であることも忘れてうっかりと問いかけたが、すぐに我に返って口を閉ざした。
そろりと目だけを動かして様子を窺う。
幸いにも、呻くようなアーチャーの声もフェルグスは気にならなかったようで、隣に立つ男の肩を軽く叩くと紹介を始めた。
「クー・フーリン・アルスターという。甥っ子でな。突然訪ねて来ておいて泊めろと云うから、いい機会だと思って連れて来たんだ。勿論、問題があれば帰すつもりだが」
「いえいえ、問題はございません。そうしますと、今宵は二名様でのご利用ということでよろしいでしょうか」
フェルグスの視線を受け、支配人がにこやかな笑みを浮かべる。それは良かったと安堵の息を吐いたフェルグスは、しかし僅かに眉を下げて後の問いを否定した。
「そうしたいのはやまやまなのだが、生憎と急な商談が入ってしまってな。私はこれから帰らねばならん。……君には甥の面倒を頼みたいが、いいかな?」
「ええ、勿論です」
貌ごと視線を向けられて、アーチャーは微笑を浮かべながら快諾する。
その間も青い髪の男は不機嫌そうに口を引き結んでおり、アーチャーはなんとなく、骨の折れる一夜になりそうだと内心で溜息を吐いた。