「いってらっしゃい、寛見くん」
「いってくる」
キッチンから顔を出してひらひらと手を振る恋人に向けて後ろ手に軽く手を振り返す。どこか気恥ずかしかったそれが生活に馴染み始めたのはいつからだったろうか。
寝起きと仕事の資料を収納される事にしか消費されてこなかった彩りの欠片も無い2DKの一室は、今や恋人と過ごす為の大切な空間となっていた。
新書と古書の混じったような紙とコーヒーの匂いしか無かった部屋には、いつしか柔らかな花のフレグランスと紅茶の香りが混ざるようになり、殺風景な窓辺には水の張られた一輪挿しが置かれ、季節ごとの花が嫋やかに窓辺を彩るようになった。
学生から社会人となり、忙殺されるがままに三十も過ぎれば「これからも自分は一人で生きていくのだろうか」とぼんやりと未来予想図を描く事もあったが、それが今では多忙ながらも互いを支え合える女性に出会い同棲までしているのだから人生とは不思議な物である。
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